断片的な記憶の中で、彼女の顔にはいつも靄がかかっていた。まるで、目が覚めたらおぼろげになっている、夢の中の記憶のように。
彼女がいない。ある日、そのことに気がついた。彼女がいないのに、まるで彼女など最初からいなかったかのように進んでいく日々に吐き気がした。せめて僕だけは忘れないように、僕の中の彼女だけは死なせないように、と、僕は彼女を思い出すことにした。けれど、いくらあの夏のかけらを取り戻そうと、彼女が僕のもとへ帰ってくることはなかった。
彼女の細い手首を憶えてる。彼女の柔らかな髪を憶えてる。彼女の首筋を憶えてる。彼女の声を憶えてる。彼女の熱を憶えてる。それなのに。
あんなにも焦がれた彼女の、顔が思い出せない。
『どうせみんな忘れちゃうんだよ』
「──っ!」
耳元で声がした。パッと振り向くと、そこには彼女がいた。相変わらず、顔がおぼろげな彼女が。
『どれだけ大切にしていても、時間が経ったら忘れちゃう。それなら、今忘れることの何がいけないの?』
彼女は、心底おかしそうに、けらけらと笑い出した。割れるような痛みが僕を襲う。心地よかったはずの彼女の声が、今はなぜだかひどく気味が悪かった。
『今さら遅いよ』
彼女のしなやかな指が、僕の頬をなまめかしく撫でた。冷や汗が、だらりと首を伝う。鼓膜にこびりついた彼女の言葉が、ぐるぐると頭の中で反響して消えない。
「……違う。お前はあいつじゃない」
『え?何が違うの?私は私だよ?凪ってば、変なのー』
「あいつじゃないと意味がないんだ」
僕は彼女のほうへと手を伸ばした。重なる彼女の手には温度がなく、僕の手は音もなくすり抜けた。わかりきっていたはずのその感覚に、胸が締めつけられた。
僕は弱いから、できることなら、この幸せな夢にいつまでも閉じこもっていたい。けれど、幸せな夢が同時に最悪な夢だったと気がついてしまった以上、その選択肢を選ぶ道は僕の中でなくなった。彼女に会えても、それが偽物じゃ意味がない。彼女じゃないと、何も、意味なんて。
──それがたとえ、叶わない夢だとしても。
「醒めない夢なんてないんだった」
「!」
僕がへらりと笑うと、彼女は虚をつかれたように目を見開いた。そして、ピキ、とひびが入り、パリン。まるで硝子が割れるような涼しげな音を最後に、彼女は粉々に砕け散り、空気に溶けて、消えた。窓から差し込んだ光を反射して、硝子の破片はきらきらと輝いていた。
『もう、遅いのに──』
彼女が最後にこぼした、切なげな声が霧散した。僕は、彼女のかけらを抱きしめる。
まだ日の昇らない時間に、財布だけを引っ掴んで家を出た。冷ややかな外の空気は、夏を感じさせなかった。
僕は走っていた。無我夢中で走っていた。こんなに必死で走ったことは今までの人生の中でないんじゃないかというくらい、ただひたすらに足を動かしていた。彼女が待っている。
僕は、財布から三枚の硬貨を取り出して、ぎゅっと握りしめてから、スラックスのポケットにしまった。滑り落ちる瞬間、それは、ちゃりん、と涼やかな音を奏でた。