「あ、凪。どこ行くん?」
教室を出ようとしていた足が、反射的にぴたりと止まる。そして、次の瞬間、しまった、と思った。聞こえないふりをして逃げたほうが、僕にとっては圧倒的に楽だったから。そして声に反応してしまった今、その選択肢は消えてしまった。
声の主は顔を確認しなくてもわかった。聞き慣れていたから、というよりも、あまり対人関係が得意ではない僕に話しかけるような奴は限られていたから。僕はゆっくりと振り向いた。変な緊張のせいで、まるでブリキのロボットのようなぎこちない動きを披露してしまう。
「えーっと……ちょっと喉渇いたから飲み物買ってこようと思って」
居心地が悪かったからこっそり逃げ出そうとした、なんて、まさか言えるはずがなかった。過剰に心配されたら困るし、誰からも同情なんてされたくなかったし、それが当てこすりのように聞こえて、暗に「お前のせいだ」と言ったように思われるのも嫌だった。
「ふぅん。そんならさー、ついでに俺のも買ってきてくんね?」
椅子から身を乗り出して僕を呼び止めた男子──世那は、僕の返事を聞く前に、「コーラな、缶のやつ」と、スラックスのポケットをまさぐって財布を出し、百円玉ひとつと十円玉をふたつ、僕の手のひらに撒いた。
「お前……いや、別にいいけどさ」
「さすが俺の親友!じゃ、よろしく!」
世那がご機嫌にひらひらと手を振るので、僕は彼に見送られ、今度こそ歩き出した。
彼女のいない七月のこと。
売店に行く手もあったけれど、昼時だから混んでいるだろうなと思って、あえて避けた。人混みは苦手だし、店員と言えども知らない人と対面するのはどうにも息が詰まる。
世那の人懐っこい性格は、誰も彼もを惹きつけた。僕も、最初はその距離の近さに困惑したけれど、今ではもうすっかり慣れてしまった。
それでも、ときどきこうやって逃げ出したくなる──教室の雑音の中に、どうしても彼女を探してしまうから。そして、そのたびに思い知らされては、息苦しくなって教室を飛び出した。
回り道をして、教室から離れた自動販売機まで向かう。僕の呼吸と上履きの擦れる音が、しんとした廊下で静かに響く。心なしか、上履きがいつもよりも重く感じた。老朽化が進んだ校舎は昼間でもどこか陰気くさく、チカチカと点滅している蛍光灯が不気味な雰囲気を演出している。
物寂しさを紛らわすため、僕は世那から預かった小銭を、左手の中でちゃりんと鳴らした。
昨日まで続いていた雨がやみ、ふと窓の外を覗くと、そこには雲ひとつない晴天が広がっていた。すきまから吹き込んだ、冷えた空気が頬を撫ぜる。差し込んだ光が眩しくて、思わず目を細めた。
「雨、降らねぇかな……」
鼻孔をくすぐった雨の微かな残り香に、淡い期待が胸をよぎる。天気予報は晴れで、絶好の洗濯日和だとテレビで言っていた。それでもたとえば奇跡が起きて、あるいは神様が僕に味方して、今この瞬間に一滴でも雨が降ってくれれば。僕が息を吸って吐くのを躊躇してしまう理由を、思い出せるような気がした。
たったったっ。一段飛ばしで階段を駆け下りて、とんっ。最後は何段か上から飛び降り、着地した。足がビリッとしびれる感覚に、思わず顔をしかめる。足が地面から離れる瞬間、もしもこのまま地面が訪れなかったら、なんて妄想をしては、自分の思考の幼稚さに気づき、くすりと笑った。
自動販売機に小銭を滑り込ませ、人差し指でボタンにふれる。がた、がたがた、ごとん。なんだか不安になるような衝突音がして、少しの不安が脳裏をかすめた。けれど、いやいや、これくらい平気なはずだと首を横に振り、取り出し口に手を伸ばす。
正直舐めていた。寂れた自販機の中で冷え切ったコーラと、容赦のない夏の温度差を。
「わっ」
とっさに僕はそれを手放してしまって、直後、これはまずいと青くなる。落とすまいと手を伸ばすけれど、抵抗も虚しく、それは僕の手をつるりとすり抜けた。
かーん。甲高い音が響いて、それから、からんころん、と、勢いをそのままに転がっていく。突き当たりの壁に衝突してようやく停止した缶を、恐る恐る拾い上げた。
僕は無言で天井を仰ぐ。湿気のせいで空気がじめじめとしていて、髪の毛が肌にべたりと張りついた。ああ、うざったい。
……まぁいいか、僕のじゃないし。世那、お前の犠牲は忘れないよ。