カモメが飛び交う海辺の街。
その街を見下ろすような山の頂きに山神神社はある。
鬱蒼と繁った森に囲まれた少し寂れた本殿、そのすぐ裏にある木造平屋建ての小さな建物が夜間保育園だということを知る街の人は意外と少ない。それはこの保育園があやかしの子供を専門に預かるあやかし保育園だからである。
今にも崩れそうな建物は中に入れば居心地の良い空間が広がっていて、子供たちの笑い声に満ちている。
二間続きの畳の部屋、その部屋に面した日の差さない小さな庭を子供たちは元気に駆け回り、遊び、喧嘩をする。
そこへ新しい命が加わったのは、冬が終わり暖かい風が吹くようになった早春の頃だった。
ほぎゃほぎゃと赤子の泣く声が園の部屋に響き渡る。ふわふわと宙を漂うぞぞぞの中に包まれたその女の赤子を子供たちが興味深々で見つめていた。
「のぞせんせー、えんちゃんが泣いてるよ~」
座敷童子の子、かの子が手を伸ばしてのぞみに言う。
狐の子、太一も白い尻尾をふりふりしながら心底珍しいものを見るように目をパチパチとさせている。
のぞみは立ち上がって、えんと呼ばれたその赤子を腕に抱いた。
「よしよし」
涼やかな目元にすっと通った鼻筋のえんは、抱き方が気に食わないとでもいうようにのぞみの腕をキックして大きな声で泣いている。
のぞみは笑みを浮かべて呟いた。
「ふふふ、かわいい」
でもすぐにサケ子にじろりと睨まれて、慌てて肩をすくめて口を閉じる。あやかしの赤子に"かわいい"という言葉は誉め言葉にならないからだ。
いずれは人を驚かせる定めを負ったあやかしは、常に怖い存在でなくてはならない。えんも大きくなれば恐ろしいあやかしになるのだという。
でもまだ赤子の今は、ふわふわのほっぺがぷくぷくとしてやっぱり可愛らしい。
だからのぞみはついこんな風に声をかけてしまい、サケ子に睨まれてしまうのだった。
「うひゃー! こえー顔だぁ! さすがサケ子せんせーの赤ちゃんだぜ」
のぞみの腕を覗き込み鬼の子、六平が声をあげる。
サケ子は満足そうに目を細めた。
「さすが子沢山の鬼一家の子だ。気の利いたことが言えるじゃないか」
今六平が言ったとおり、えんはサケ子がついひと月ほど前に産んだ赤子だった。
のぞみにとって頼りになる先輩保育士サケ子はいつのまにか妊娠していた。
しかも産んですぐに以前と変わらない様子でしゃきしゃきと働きだしたのだから、のぞみは心底驚いた。随分と心配したりもしたのだが、座敷童子の友人こづえに言わせるとあやかしのお産は皆こんなものだという。
『私がヌエを退けたことで、また新しい家族を迎える気持ちになったのかもしれないね』
紅はそう感想をもらした。
長い間、この辺りであやかしの子を好き放題に食らっていた卑しいあやかしヌエに、彼女は子を食われた。
その傷を負いながら、あやかし園で働いていたのだ。
彼女の子どもたちに対するやり方は、少し雑で少し冷淡。でもその中に、子どもたちを思う温かい心があるのをのぞみは知っている。
子を失った悲しみは癒えることはないけれど、少しずつでも前を向いて、一歩ずつ歩き出したのだ。
「ぜーんぜん泣き止まないぜ。ムツキが濡れてるのかなぁ」
元気よく泣き続けるえんに七平が呆れたような声を出す。
八平が首を横に振った。
「ちがうよ、さっき代えたばっかじゃないか。お乳だろ」
「それもついさっきせんせーがやってたよ」
六平がのぞみの腕で泣きながら盛大に暴れるえんを覗き込む。そしてにやりと笑ってぷはっと勢いよく吹き出した。
「ろっくん、なあに?」
「えんはのぞせんせーの抱っこが気に食わないんだ」
そう言うと六平はそのままコロコロと笑い転げる。七平と、八平もケラケラと笑い始めた。
「ろっくん、ひっくん、はっくん、ひどいじゃない」
のぞみは眉を下げて三人に抗議をするが、実際彼らの言う通りだった。
保育士としての資格はあっても新生児と接した経験はほとんどなかったのぞみにとって、産まれたてのえんは未知の存在。身体はふにゃふにゃとして頼りなく、なぜ泣いているのかわからない。
だから触れる時はいつもどこかおっかなびっくりなのだ。そんなのぞみの抱っこはやはりしっくりとこないのだろう。いつも泣かれてばかりだった。
腕の中で盛大に暴れるえんを見つめて、のぞみははぁとため息をついた。
「えんちゃんに好かれるにはどうしたらいいのかなぁ」
「そんなものは、慣れだよ」
布オムツを畳みながらサケ子が言う。
周りでは子供たちが慣れない手つきで一生懸命に手伝いをしていた。小さな手で畳まれたたくさんのオムツは、畳んでいるのか丸めているのかわからないような物もあるけれど、サケ子はそれほど気にもせず、どんどんカゴに放り込んでいる。
「あんたも自分の子ができれば、嫌というほど抱かなきゃなんないんだから、嫌でも慣れるさ。ま、今のうちにえんで練習しとくんだね」
「じ、自分の子……」
サケ子の言葉にのぞみは頬を染めて絶句する。同時に胸が罪悪感にズキンと痛んだ。
御殿から逃げるように山神神社へ戻った後、都で起きたことをのぞみは誰にも言わなかった。他でもない、紅がなにも言わなかったからだ。
『大神は熱しやすく冷めやすいんだ。放っておけばそのうちに忘れるよ』
それを待とうということだ。それまでは、皆には余計な心配をかけないように黙っていようというのだろう。
そして本当にそのままいつも通りに過ごしている。
一方でのぞみと紅が結婚の許しをもらいに都へ行ったことは皆知っているのだから、無事に帰ってきた今、皆はふたりを夫婦だと思っている。
「れ、練習だなんて、えんちゃんに失礼です。……でも、いつかは私の抱っこで寝てほしいなぁ」
胸の中の罪悪感を誤魔化すようにのぞみは言う。
すると六平の小さな手がえんめがけて伸びてきた。
「おいらが抱いてやるよ」
子沢山の鬼一家の六男だから、赤子の扱いには慣れたものだ。案外しっかりと抱いてやるので、のぞみより六平の腕の中の方が機嫌よくしているくらいだった。
「じゃあ、お願いしようかな」
ちょっと悔しいけれどえんにとってはその方がいい。
だがそれをかの子が止めた。
「ろっくんダメよ。次はかの子の番だよ。お約束したじゃない」
六平の袖を引っ張って、不満そうに口を尖らせる。その様子にのぞみは思わずふふふと笑った。
かの子は、のぞみがここへ来たばかりの頃は保育園に馴染めずに泣いてばかりだったというのに、今ではすっかりあやかし園の一員だ。
リーダー格の鬼三兄弟にもこんな風に遠慮なく文句を言う。そんな様子はどこか母親のこづえを彷彿とさせる貫禄があった。座敷童子は古くから存在する格式の高いあやかしだ。
でも今は、六平も負けてはいなかった。
「かの子には無理だって。まだチビなんだから。えんはおもちゃじゃないんだぞ」
自分だって散々おもちゃにしているくせに、そう言って六平はかの子の手を払い除ける。そしてちょっと乱暴にのぞみの腕からえんを奪おうとした。
「あ、ろっくん待って」
のぞみが声をあげた時。
「人気者はつらいねぇ」
大きな手がえんを掬い上げた。
「あ」
背の高い紅に抱き上げられて、景色が変わったことに驚いたのかえんが一旦泣き止んで目をパチクリさせている。
「紅さま‼︎」
子供たちが一斉に紅に飛びついた。
「おかえりなさい‼︎」
「ただいま。ふふふ、皆私が帰ったことにも気がつかないなんて、こんなことははじめてだよ。えんは皆を虜にしてしまうあやしい術を使うようだ」
そう言って紅はえんの頬を人差し指で優しくくすぐる。
えんが可愛らしいあくびをした。
「紅さま、早かったじゃないですか」
サケ子が驚いたように声をあげる。
今日紅は地元山神町町内会の寄り合いに顔を出していた。立地的には少々離れている山神神社もくくりとしては町内会に入っていて少しは関わりがある。紅は山神神社の宮司さんとして街では知られている存在だ。
紅は普段はあまり寄り合いには参加しないのだが、今夜はどうしてもと請われて顔を出していた。
「うんまぁ、寄り合いといっても大した話をするわけでもないから……」
サケ子の指摘に紅は頬をぽりぽりとかいている。
のぞみはぷっと吹き出した。
「紅さま、早くえんちゃんに会いたかったんでしょう」
とにかくえんが生まれてからは、大人も子どもも皆彼女に夢中なのだ。
のぞみも紅も子どもたちも園に着いて真っ先に行くのはえんのところだった。
「えんちゃん、いくら見ていても飽きないですもんね」
くすくすと笑いが止まらないのぞみの頬に紅の手が伸びてくる。そしてえんにしたと同じように優しくそこをくすぐった。
「……⁉︎」
のぞみは頬を染めて口をつぐむ。
紅が思い出したように口を開いた。
「そういえばサケ子、商店街で藤吉に会ったんだ。真面目にぞぞぞ稼ぎに勤しんでたよ」
藤吉というのはサケ子の夫のことだ。えんという新しい命を授かって、たくさんのぞぞぞを稼ぐために張り切っているという。
「ちゃあんと真面目に働いていた。あいつのおかげでサケ子には保育園にいてもらえるんだ。私も感謝しなくちゃいけないね」
突然夫を褒められて、サケ子は珍しく照れたように頬を染めた。
「た、大したことはありませんよ」
「ふふふ、……私はえんに会うために早く帰るよと言ったら渋い顔をしていたな。心底羨ましそうだった」
そう言って紅はからからと笑う。
サケ子が形のいい眉を寄せた。
「からかわないでくださいな。うちの人は真面目なんですから」
親でも兄弟でもないのぞみたちがえんにこれほど夢中なのだから、それこそ実の父親である藤吉は本当に彼女にメロメロなのだ。
できるなら一日中べったりとえんに寄り添っていたいに違いない。その気持ちにムチ打って毎夜ぞぞぞ稼ぎに出ているというのに、子どもみたいな自慢をして……。
この人は本当に皆に尊敬されているあやかしの長なのかしらと、のぞみは心の中でため息をつく。
紅がそっとえんの頬を撫でた。
「赤子が乳を飲む頃は父親の出番は少ないからね。一番可愛い時に側にいられず稼ぎに行かなきゃならないなんて、父親なんてつまらないものだ」
えんは紅に抱かれてすやすやと可愛い寝息を立てている。大きな腕にしっかりと抱かれて、心の底から安心して。
「やれやれ」
サケ子がため息をつく。
「この分じゃのぞみが赤子を産んだりしたら、まったく仕事なんかしなさそうだよ」
その言葉に、のぞみはそっと唇を噛んだ。
その街を見下ろすような山の頂きに山神神社はある。
鬱蒼と繁った森に囲まれた少し寂れた本殿、そのすぐ裏にある木造平屋建ての小さな建物が夜間保育園だということを知る街の人は意外と少ない。それはこの保育園があやかしの子供を専門に預かるあやかし保育園だからである。
今にも崩れそうな建物は中に入れば居心地の良い空間が広がっていて、子供たちの笑い声に満ちている。
二間続きの畳の部屋、その部屋に面した日の差さない小さな庭を子供たちは元気に駆け回り、遊び、喧嘩をする。
そこへ新しい命が加わったのは、冬が終わり暖かい風が吹くようになった早春の頃だった。
ほぎゃほぎゃと赤子の泣く声が園の部屋に響き渡る。ふわふわと宙を漂うぞぞぞの中に包まれたその女の赤子を子供たちが興味深々で見つめていた。
「のぞせんせー、えんちゃんが泣いてるよ~」
座敷童子の子、かの子が手を伸ばしてのぞみに言う。
狐の子、太一も白い尻尾をふりふりしながら心底珍しいものを見るように目をパチパチとさせている。
のぞみは立ち上がって、えんと呼ばれたその赤子を腕に抱いた。
「よしよし」
涼やかな目元にすっと通った鼻筋のえんは、抱き方が気に食わないとでもいうようにのぞみの腕をキックして大きな声で泣いている。
のぞみは笑みを浮かべて呟いた。
「ふふふ、かわいい」
でもすぐにサケ子にじろりと睨まれて、慌てて肩をすくめて口を閉じる。あやかしの赤子に"かわいい"という言葉は誉め言葉にならないからだ。
いずれは人を驚かせる定めを負ったあやかしは、常に怖い存在でなくてはならない。えんも大きくなれば恐ろしいあやかしになるのだという。
でもまだ赤子の今は、ふわふわのほっぺがぷくぷくとしてやっぱり可愛らしい。
だからのぞみはついこんな風に声をかけてしまい、サケ子に睨まれてしまうのだった。
「うひゃー! こえー顔だぁ! さすがサケ子せんせーの赤ちゃんだぜ」
のぞみの腕を覗き込み鬼の子、六平が声をあげる。
サケ子は満足そうに目を細めた。
「さすが子沢山の鬼一家の子だ。気の利いたことが言えるじゃないか」
今六平が言ったとおり、えんはサケ子がついひと月ほど前に産んだ赤子だった。
のぞみにとって頼りになる先輩保育士サケ子はいつのまにか妊娠していた。
しかも産んですぐに以前と変わらない様子でしゃきしゃきと働きだしたのだから、のぞみは心底驚いた。随分と心配したりもしたのだが、座敷童子の友人こづえに言わせるとあやかしのお産は皆こんなものだという。
『私がヌエを退けたことで、また新しい家族を迎える気持ちになったのかもしれないね』
紅はそう感想をもらした。
長い間、この辺りであやかしの子を好き放題に食らっていた卑しいあやかしヌエに、彼女は子を食われた。
その傷を負いながら、あやかし園で働いていたのだ。
彼女の子どもたちに対するやり方は、少し雑で少し冷淡。でもその中に、子どもたちを思う温かい心があるのをのぞみは知っている。
子を失った悲しみは癒えることはないけれど、少しずつでも前を向いて、一歩ずつ歩き出したのだ。
「ぜーんぜん泣き止まないぜ。ムツキが濡れてるのかなぁ」
元気よく泣き続けるえんに七平が呆れたような声を出す。
八平が首を横に振った。
「ちがうよ、さっき代えたばっかじゃないか。お乳だろ」
「それもついさっきせんせーがやってたよ」
六平がのぞみの腕で泣きながら盛大に暴れるえんを覗き込む。そしてにやりと笑ってぷはっと勢いよく吹き出した。
「ろっくん、なあに?」
「えんはのぞせんせーの抱っこが気に食わないんだ」
そう言うと六平はそのままコロコロと笑い転げる。七平と、八平もケラケラと笑い始めた。
「ろっくん、ひっくん、はっくん、ひどいじゃない」
のぞみは眉を下げて三人に抗議をするが、実際彼らの言う通りだった。
保育士としての資格はあっても新生児と接した経験はほとんどなかったのぞみにとって、産まれたてのえんは未知の存在。身体はふにゃふにゃとして頼りなく、なぜ泣いているのかわからない。
だから触れる時はいつもどこかおっかなびっくりなのだ。そんなのぞみの抱っこはやはりしっくりとこないのだろう。いつも泣かれてばかりだった。
腕の中で盛大に暴れるえんを見つめて、のぞみははぁとため息をついた。
「えんちゃんに好かれるにはどうしたらいいのかなぁ」
「そんなものは、慣れだよ」
布オムツを畳みながらサケ子が言う。
周りでは子供たちが慣れない手つきで一生懸命に手伝いをしていた。小さな手で畳まれたたくさんのオムツは、畳んでいるのか丸めているのかわからないような物もあるけれど、サケ子はそれほど気にもせず、どんどんカゴに放り込んでいる。
「あんたも自分の子ができれば、嫌というほど抱かなきゃなんないんだから、嫌でも慣れるさ。ま、今のうちにえんで練習しとくんだね」
「じ、自分の子……」
サケ子の言葉にのぞみは頬を染めて絶句する。同時に胸が罪悪感にズキンと痛んだ。
御殿から逃げるように山神神社へ戻った後、都で起きたことをのぞみは誰にも言わなかった。他でもない、紅がなにも言わなかったからだ。
『大神は熱しやすく冷めやすいんだ。放っておけばそのうちに忘れるよ』
それを待とうということだ。それまでは、皆には余計な心配をかけないように黙っていようというのだろう。
そして本当にそのままいつも通りに過ごしている。
一方でのぞみと紅が結婚の許しをもらいに都へ行ったことは皆知っているのだから、無事に帰ってきた今、皆はふたりを夫婦だと思っている。
「れ、練習だなんて、えんちゃんに失礼です。……でも、いつかは私の抱っこで寝てほしいなぁ」
胸の中の罪悪感を誤魔化すようにのぞみは言う。
すると六平の小さな手がえんめがけて伸びてきた。
「おいらが抱いてやるよ」
子沢山の鬼一家の六男だから、赤子の扱いには慣れたものだ。案外しっかりと抱いてやるので、のぞみより六平の腕の中の方が機嫌よくしているくらいだった。
「じゃあ、お願いしようかな」
ちょっと悔しいけれどえんにとってはその方がいい。
だがそれをかの子が止めた。
「ろっくんダメよ。次はかの子の番だよ。お約束したじゃない」
六平の袖を引っ張って、不満そうに口を尖らせる。その様子にのぞみは思わずふふふと笑った。
かの子は、のぞみがここへ来たばかりの頃は保育園に馴染めずに泣いてばかりだったというのに、今ではすっかりあやかし園の一員だ。
リーダー格の鬼三兄弟にもこんな風に遠慮なく文句を言う。そんな様子はどこか母親のこづえを彷彿とさせる貫禄があった。座敷童子は古くから存在する格式の高いあやかしだ。
でも今は、六平も負けてはいなかった。
「かの子には無理だって。まだチビなんだから。えんはおもちゃじゃないんだぞ」
自分だって散々おもちゃにしているくせに、そう言って六平はかの子の手を払い除ける。そしてちょっと乱暴にのぞみの腕からえんを奪おうとした。
「あ、ろっくん待って」
のぞみが声をあげた時。
「人気者はつらいねぇ」
大きな手がえんを掬い上げた。
「あ」
背の高い紅に抱き上げられて、景色が変わったことに驚いたのかえんが一旦泣き止んで目をパチクリさせている。
「紅さま‼︎」
子供たちが一斉に紅に飛びついた。
「おかえりなさい‼︎」
「ただいま。ふふふ、皆私が帰ったことにも気がつかないなんて、こんなことははじめてだよ。えんは皆を虜にしてしまうあやしい術を使うようだ」
そう言って紅はえんの頬を人差し指で優しくくすぐる。
えんが可愛らしいあくびをした。
「紅さま、早かったじゃないですか」
サケ子が驚いたように声をあげる。
今日紅は地元山神町町内会の寄り合いに顔を出していた。立地的には少々離れている山神神社もくくりとしては町内会に入っていて少しは関わりがある。紅は山神神社の宮司さんとして街では知られている存在だ。
紅は普段はあまり寄り合いには参加しないのだが、今夜はどうしてもと請われて顔を出していた。
「うんまぁ、寄り合いといっても大した話をするわけでもないから……」
サケ子の指摘に紅は頬をぽりぽりとかいている。
のぞみはぷっと吹き出した。
「紅さま、早くえんちゃんに会いたかったんでしょう」
とにかくえんが生まれてからは、大人も子どもも皆彼女に夢中なのだ。
のぞみも紅も子どもたちも園に着いて真っ先に行くのはえんのところだった。
「えんちゃん、いくら見ていても飽きないですもんね」
くすくすと笑いが止まらないのぞみの頬に紅の手が伸びてくる。そしてえんにしたと同じように優しくそこをくすぐった。
「……⁉︎」
のぞみは頬を染めて口をつぐむ。
紅が思い出したように口を開いた。
「そういえばサケ子、商店街で藤吉に会ったんだ。真面目にぞぞぞ稼ぎに勤しんでたよ」
藤吉というのはサケ子の夫のことだ。えんという新しい命を授かって、たくさんのぞぞぞを稼ぐために張り切っているという。
「ちゃあんと真面目に働いていた。あいつのおかげでサケ子には保育園にいてもらえるんだ。私も感謝しなくちゃいけないね」
突然夫を褒められて、サケ子は珍しく照れたように頬を染めた。
「た、大したことはありませんよ」
「ふふふ、……私はえんに会うために早く帰るよと言ったら渋い顔をしていたな。心底羨ましそうだった」
そう言って紅はからからと笑う。
サケ子が形のいい眉を寄せた。
「からかわないでくださいな。うちの人は真面目なんですから」
親でも兄弟でもないのぞみたちがえんにこれほど夢中なのだから、それこそ実の父親である藤吉は本当に彼女にメロメロなのだ。
できるなら一日中べったりとえんに寄り添っていたいに違いない。その気持ちにムチ打って毎夜ぞぞぞ稼ぎに出ているというのに、子どもみたいな自慢をして……。
この人は本当に皆に尊敬されているあやかしの長なのかしらと、のぞみは心の中でため息をつく。
紅がそっとえんの頬を撫でた。
「赤子が乳を飲む頃は父親の出番は少ないからね。一番可愛い時に側にいられず稼ぎに行かなきゃならないなんて、父親なんてつまらないものだ」
えんは紅に抱かれてすやすやと可愛い寝息を立てている。大きな腕にしっかりと抱かれて、心の底から安心して。
「やれやれ」
サケ子がため息をつく。
「この分じゃのぞみが赤子を産んだりしたら、まったく仕事なんかしなさそうだよ」
その言葉に、のぞみはそっと唇を噛んだ。