山神様のあやかし保育園~妖こどもに囲まれて誓いの口づけいたします~

「それにしても、紅さまがお見えになるとは。昨夜より巷の女子(おなご)たちが騒いでいたわけがわかりましたわ。うふふ、お元気そうでなによりです。また一段と男ぶりをあげられましたこと」
 ぴかぴかに磨き上げられた長い長い廊下を、十二単衣を着た美しい女性について、紅とのぞみは歩いている。
 大神が住むという御殿である。
 紅と手を繋いでくぐった鳥居の先に、あやかしの都は広がっていた。
 直前まで鳥居を囲んでいた原生林はどこへやら、うずまき模様の雲が浮かぶ薄紫色の空の下、広大な池が広がっていて、その池の真ん中に大きくてド派手な屋敷があった。
『りゅ、竜宮城みたい……』というのが、のぞみの素直な感想だった。
『……いつ見ても趣味の悪い御殿だ』
 紅がうんざりしたような声を出した。
『でものぞみ、正解だ。大神の正体は龍なんだよ』
『龍……?』
 なにはともあれ御殿に到着したふたりは、大神がいるという御殿の湯殿(ゆどの)に向かっている。
 大神が普段いるのは玉座の間だが、今は執務を終えて湯殿にいるという話だった。
 だが御殿は相当広いようで、さっきから歩いても歩いても一向に辿り着く気配がない。
 一方で、案内役のあやかしは嬉しそうに話し続ける。
「紅さまが来られるなら、私もっと綺麗にして参りましたのに。うふふ、いつか私も、お相手願いたいですわ。ね、紅さま?」
 そう言ってあろうことか紅に流し目を使うしまつだ。
 紅が彼女をチラリと見て首を振った。
「蛇はごめんだよ」
 え? 蛇?
 のぞみは目を剥いて彼女を見る。どこからどう見ても、綺麗な女性にしか見えない目の前の彼女を。
 でもそういえばさっき伊織が『案内役の蛇娘に気を付けて』と言っていた。
 ……言われてみれば、スルスルとまるで滑るように進む彼女は足音がまったくしない。まさかあの十二単衣の下は……。
 そんなことが頭に浮かんで、すっかり青ざめてしまったのぞみをあざ笑うかのように蛇娘はチロチロと長い舌を出した。
「ひっ……!」
「のぞみを驚かすのはやめてくれ」
 紅がため息をついて彼女を睨んだ。
「あら、それは失礼いたしました。紅さまが蛇だから嫌だなどとおっしゃるから、ちょっと意地悪をしたくなっただけですわ」
「蛇の一族は、執念深いので有名じゃないか。一度でも関係を持ったら、絶対に逃れられない。嫌がるあやかしは私だけではないはずだよ」
 紅のその言葉に、蛇娘がまるで褒められたかのように嬉しそうに微笑んだ。
「でも蛇に手を出してこそ、本物のプレイボーイとも言いますよ。昔から来るもの拒まずの紅さまですもの、蛇以外のあやかしはもうほとんど……」
 だがその言葉を、ゴホゴホゴホというわざとらしい紅の咳払いが遮った。
 蛇娘が「あらまぁ」と笑って口を閉じた。
 のぞみは彼をじろりと睨む。
 昨日ここに到着した時からうすうす感じていたけれど、もしや彼は昔……。
 のぞみの視線から逃れるように、紅があさっての方を向いた。
「そ、それより湯殿はまだかい? ……御殿ってこんなに広かったっけ」
「もう間も無くですわ」
 そう言って蛇娘は相変わらず音も立てずにスルスル進む。そしてのぞみに向かって微笑んだ。
「うふふ、かわいらしい婚約者さまですこと。殿方というのは都合の悪いことは女子に言わないものですよ。よーく見張っていませんと」
「都合の悪いこと……」
 のぞみは呟いて紅を見る。
 紅が慌てたように口を開いた。
「ほ、ほんの少し、少しだけ付き合ったことがあるだけさ。若い頃に……それに全部のぞみと会う前のことだったし……」
「おほほほほほ! 慌てる紅さまも素敵ですこと。それが本当かどうかは婚約者さまご自身の目でお確かめくださいませ。……さあさ、湯殿でございます」
 そう言って蛇娘は金色の龍が描かれた観音開きの扉の前で立ち止まる。
 そして彼女が合図を送ると、扉はゆっくりと開いた。
 開いた扉の向こうには、もうもうと湯気が立ち込める巨大な檜の風呂があった。
 その中で、楽しそうに湯に浸かるたくさんの裸のあやかしたち。
 ど真ん中を陣取るのは、筋肉隆々の男性だった。
 ギョロリとした緑色の大きな目、太い眉、ぐねぐねした髪からは天まで届くと見紛うほどのツノが二本生えている。
 おそらくは彼がこの御殿の主大神なのだろう。
 だが髪やツノはともかくとして、姿は人間とそう変わらない、マッチョなイケメンだった。
 その周りをたくさんの女性が取り囲んでいる。
 きゃあきゃあと湯をかけ合いながら、実に楽しそうだ。
「まったく……、女と湯に浸かるのがどうしてそんなに嬉しいんだ。相変わらず女好きだな、大神は」
 うんざりしたように言う紅に、のぞみは呆れ返ってしまう。
 自分だって昨夜勝手に風呂に入ってきたくせに、どの口がそんなことを言う。
 やがて風呂の中のあやかしたちが、のぞみたちふたりに気が付いた。
「あれ? あの方、紅さまじゃない?」
「あ、本当! 紅さまだわ」
 その途端、きゃー‼︎という黄色い歓声に、のぞみと紅は包まれた。
「紅さまぁ~! お久しぶりでぇ~す!」
「相変わらず素敵~!」
「また、お相手してくださーい!」
 手を振ったり、投げキスをしたり、色めき立つあやかしたちに、のぞみはびっくり仰天してしまう。
 昨日からの疑念が、確信に変わった瞬間だった。
「ふふふ、それでは私はこれにて……」
 蛇娘がチロチロと舌を出して、満足そうに下がって行った。
「……紅さま、嫁を迎えることには興味がなかったって言ってたのに」
 いつかの日の彼自身の言葉を持ち出して、のぞみは膨れっ面になってしまう。
 紅があやかしの女性たちにモテモテなのは気付いていたが、これほどまでとは思わなかった。
 しかもどうやらモテるだけではないみたいだし……。
「む、昔、縄張りを持つ前のことなんだ。若いあやかしとしては結構普通のことなんだよ。それに今はのぞみだけだから……!」
 紅がのぞみの手を取って、あわあわと言い訳をする。
 その時。
「ええい! うるさいわ!」
 大神が口を開いた。
 地鳴りがするかのようなその声に、のぞみはびくりと肩を揺らす。この広い湯殿の一番遠くにいるとは思えないほど、身体に響く声だった。
 のぞみは紅が大神の正体は龍だと言っていたのを思い出した。
「お前が来ると女子が騒ぐからうっとおしいんだ‼︎ 決して辿りつかぬように蛇娘に言うておったのに、なぜここまで来れた!」
 だからさっき、なかなか辿りつかなかったのかと、のぞみはあの長い長い廊下を思い出す。
 紅が肩をすくめた。
「あらかじめ伝えてあったじゃないか。結婚の許しをもらいにきただけだよ。許しをもらえたらすぐに帰る」
 大神が眉を寄せた。
「紅よ、おぬしほどの力があればもっと広い縄張りが持てるだろうに、それをせんどころか人間を嫁に迎えたいなど、意味不明な奴だ。……好きにせい」
 そしてあっちへいけというように、しっしと手を振った。
「決まりだね」
 紅が嬉しそうに微笑んで、のぞみの手を握る。
 一方で風呂のあやかしたちに、なんとも言えない空気が広がった。
 皆ヒソヒソと囁き合い、ジロジロとのぞみを見ている。
「紅さまのお嫁さまが人間だなんて、もったいない……」
「絶対に私の方が魅力的なのに……」
「長さまなのに……」
 そんな言葉まで聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと鳴る。
 大神が声を張り上げた。
「ええい、うるさい! わかったら、さっさと往ね! おい蛇娘、天狗が帰るぞ案内してやれ!」
 その言葉と同時に、また観音扉がギギギと開く。
 他のあやかしたちの反応はともかくとして、昨夜紅が言った通り結婚の許しはあっさり下りた。
 そのことに安堵して、のぞみはホッと息を吐く。早く縄張りの皆のところへ帰りたかった。
 そしてふたりして、湯殿を去ろうとしたその時。
「おめでとうございます~」
 足元から聞こえる恨めしそうな誰かの声。
 見るとのぞみの脚に、さっきの蛇娘がにょろ~と絡み付いていた。
「ひっ……!」
 のぞみの喉から引き攣った声が出る。同時に繋いでいたはずの紅の手が離れた。
「あ」
「のぞみ!」
「紅さま!」
 のぞみは蛇娘に引っ張られて、ずるずると紅から引き離される。
 それを追いかけようとする紅にもまたたくさんの蛇がぐるぐると巻きついていた。
 十二単を着たその蛇たちは、皆嬉しそうに舌を出しながら、紅に絡み付いている。
 あやかしとしての力は紅の方が上だとしても、束になってかかられては簡単に振り払うことができないようだ。
 蛇娘はふふふと笑いながら、のぞみを湯船まで引っ張っていく。
 そして、湯に浸かる大神が見つめる中、のぞみの耳に囁いた。
「かわいいかわいい婚約者さま、私は幸せな夫婦というものがなにより大嫌いなのでございます」
 そう言って長い舌で、のぞみのうなじをペロリと舐めた。
 黄緑色に輝くぞぞぞが湯気の中に浮かび上がる。
 蛇娘はにっこり微笑んだ。
「あらまぁ、美味しそうなぞぞぞですこと」
 それに大神が反応した。
「……ぞぞぞか」
 そう呟いて、ゆっくりと立ち上がる。身体からはもうもうと湯気が立っていた。
「のぞみ!」
 紅の声が鋭く湯殿に響き渡る。
 なんとか蛇を振り解き、のぞみに駆け寄ろうとするけれど、それは大神によって阻止された。
「いでよ、伊織」
 地を這うような声とともにたくさんの狐たちが現れる。そしてそれらは一目散に紅目がけて襲いかかった。
 指揮を取っているのは燕尾服姿の狐だった。
「伊織……!」
 狐の山の下敷きになって、紅が伊織を睨みつける。
 伊織はしなりと頭を下げた。
「手荒な真似をいたしまして申し訳ございません、紅さま。ですがこちら、大神さまの御前であることをお忘れなく」
「……!」
 大神が頷いて、のぞみの方に向き直る。
 その目を見た瞬間に、のぞみの身体は石のように動かなくなった。声を出すことすらままならない。
 足元の蛇娘が満足そうに微笑んで、スルスルと離れていった。
「美味そうなぞぞぞだ」
 大神がゆっくりと歩み寄り、震えるのぞみのアゴを掴む。
「のぞみに触るな!」
 紅が叫ぶ。
 その声を聞きながら、のぞみは大神の瞳から目が離せなくなっていた。深い深いその緑は恐ろしいくらいに美しく、妖しくのぞみを誘っている。
 自分の意思などは捨て去って、彼に従ってしまいたくなる。
 ……その時。
「ほぅ」
 大神が、なにかに気が付いた。
「お前、あやかし使いだな」
 耳慣れないその言葉。
 風呂の中のあやかしたちにざわめきが広がった。
「あやかし使い……」
「そういうことか……」
 互いに額を寄せ合ってヒソヒソと囁き合っている。
 大神がニヤリと笑って紅を見た。
「いくら変わり者の天狗だとて、人間を嫁にしたいなど酔狂なと思うたが、あやかし使いなら納得だ。あやかし使いのぞぞぞは格別に美味いという話しゆえ……」
 そう言って大神は宙に浮くのぞみのぞぞぞにかぶりつき、むしゃむしゃと食べ始めた。
 のぞみは思わず目を閉じる。
 食べられているのはぞぞぞのはずなのに、まるで自分自身が食べられているかのようだった。
 大神が、満足そうに唇を舐めた。
「なるほど、ふむ、なるほど……」
 そしてまたのぞみを見つめて、ニヤリと妖しい笑みを漏らす。
 もう一度唇を舐めてから、にわかには信じがたい言葉を口にした。
「おい人間の女、お前のぞぞぞが気に入った。ワシの妃にしてやろう」
 おお~‼︎ というどよめきが、湯殿の中に響き渡る。思いがけない大神の言葉に皆度肝を抜かれている。
「大神‼︎ のぞみを離せ」
 狐の下から紅が叫んだ。
 その声を聞きながら、のぞみは相変わらず固まったまま、声をあげることもできないでいた。
 すぐそばにある緑色の瞳が否とは言わせないというようにのぞみの思考を鈍らせる。このまま、なにも考えずに我に身をゆだねよと、得体のしれない声が聞こえる。
 狐とやり合う紅の怒号がだんだんと遠のいてゆく。
 妖しく響く大神の声音がのぞみの脳に語りかける。
「ワシの妃となれば、天狗と夫婦になるよりも極上の暮らしができるのだ。夢の世界を見せてやろう」
 玉のような緑色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
 極上の世界に今すぐに行きたい。
 このまま……。
 ——その時。
「の、ぞ、み、を、は、な、せ‼︎」
 ばりばりばりという凄まじい音。
 赤い風が強く吹いて、アゴを掴む手が離れる。思わず目を閉じて、次に開いた時は赤い竜巻の中で、紅に抱かれていた。
「紅さま‼︎」
 のぞみは紅にしがみつく。
 天まで続く赤い竜巻は御殿の天井を破壊しながらふたりを守るように取り囲んでいる。
 彼にくっついていた狐たちはふっ飛ばされて散り散りになり、床に這いつくばっている。
「大神よ、のぞみは私の嫁だ。妃になどさせん!」
 ごうごうと風の音が鳴り響く中、よく通る声で紅が言う。銀色の髪が逆立って、その瞳は真っ赤だった。
 怒りに満ちたその姿。だが大神も負けてはいなかった。
 ぐねぐねとしたツノからは黄金色の稲妻が竜巻目がけて飛んでくる。そして地響きをともなう声音が紅を罵った。
「忌々しい天狗め! お主はいつも目ざわりなのだ。ワシに歯向かうあやかしなどこの世に存在できぬというのに。その女子を渡せ‼︎ ワシのものだ」
 同時に紅が飛び上がった。
「絶対に逃がしはしない‼︎」
 怒り狂う龍の怒号を背中で聞いて、ふたりは御殿を脱出した。
 びゅーびゅーと聞こえる風の音、頬に感じる冷たい空気にゆっくりと目を開けると、のぞみは紅に抱かれて空を飛んでいた。
 下を見ると、都はもう遥か彼方に、小さくなっている。
「紅さま……!」
 のぞみは紅にしがみつく。
 大好きな彼の香りに包まれて、ようやく少しだけ安心できた。
 紅がのぞみを抱きしめて、苦しげに口を開いた。
「すまなかった。私がそばについていながらのぞみを危ない目に合わせてしまって。大神が女好きなのは知っていたけど、まさか人間ののぞみにまで興味を持つとは思っていなかったんだ」
 彼にしがみついたまま、のぞみはふるふると首を振る。
 もちろん怖かったけれど、あれは彼のせいではない。
 それに彼はのぞみを救い出してくれた。
「……このまま山神神社へ帰ろう」
 紅がそう言った時、ギャアという鳴き声がして、のぞみはびくりと肩を揺らす。
 紅が腕に力を込めて、鳴き声の主に文句を言った。
「のぞみが怖がるからやめてくれ」
「申し訳ありません、紅さま」
 天狗の相棒カラスだった。
 のぞみはホッと息を吐く。
 カラスがギャアギャアと話しはじめた。
「紅さま、女将からの伝言です。結婚のお許しをいただきに、大神さまのところへ参られるなら、蛇娘にはお気をつけて」
「……それ伊織も言ってたな」
 カラスがギャアと頷いた。
「近ごろでは、有名な話です。案内役が蛇娘に代わってから、大神さまの元を訪れたカップルの成婚率は一割を切っております。蛇は他者の幸せがなによりも嫌いですゆえ、きっとなにか紅さまにも嫌がらせを……」
 紅が小さく舌打ちをした。
「……女将の忠告は、少しばかり遅かったよ」
「は⁉︎ え? では、紅さま……」
「女将に伝えてくれ。今夜の予約はキャンセルだ。私たちはこのまま……山神神社に帰る」
 大きなため息をついてから、首を傾げるカラスにそう告げて、紅はさらにスピードを上げる。
 カラスがギャアと頷いて、天狗の山に消えてゆく。
 豆粒みたいに小さくなったあやかしの都をジッと見つめて、のぞみは紅の浴衣を握りしめた。
「あやかし使いってなんですか」
 猛スピードで変わる景色の中、のぞみは紅に問いかける。
 耳慣れない言葉だったが、さっきのぞみの身に起きたことが、それに関係していることは確かだと思う。
 紅が少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「……巫女、陰陽師、それ以外に人間の世界でどう呼ばれていたかは知らないけれど、古来より人間でありながらあやかしと深い関係を築いていた一族だ」
「深い関係を……?」
「そう、本来はあやかしは、あやかしが姿を現そうとした時にだけ、人間の目に見えるものなんだ。でもあやかし使いの一族は、はじめからあやかしを見ることができる。それから、不思議な魅力でもってあやかしを思うままにすることができる」
 そう言って紅は少し意味深な目でのぞみを見る。
 のぞみは「あ」と呟いた。
 はじめて山神神社を訪れた日、のぞみにははじめからかの子が見えた。
「あやかし使いの一族は、どんな強力なあやかしも手名づけたと言われている。そして人間の世界でも地位を築き、いつの時代かには帝にまで上り詰めたという話だよ」
 思いがけない紅の話。
 でものぞみには、確かに思いあたるフシがある。
 はじめて保育園へ行ったあの日、子供たちは、はじめから人間であるのぞみを受け入れてくれた。
「でも……、でも私そんなの知らないです。お父さんもお母さんも本当に普通の人で……」
「うん、古い古い言い伝えみたいな話なんだ。あやかし使いの一族はもうとっくの昔に解体したと言われているからね。それでもその子孫は残っていて、日本中に散らばっている。子孫といってももうその血もうっすらとしか流れていないから、私たちもなんとなくそうなのかなと思う程度なんだけど」
「あやかし使いの血……」
 呟いて、のぞみは紅の横顔を見つめる。銀色の髪が風になびいて日の光に輝いていた。
「紅さまは気が付いていたんですか。……私がそうだと……」
「まあね」
「……いつから?」
 紅がうーんと首を傾げた。
「ずっと不思議だとは思っていたんだ。子どもたちがすぐに懐いたからね。それで、もしかしたらと思いはじめて……確信したのは颯太と志津が夫婦になっていると知った時だったんだけど」
「あ、お兄ちゃん」
 のぞみはまたもや声をあげる。
 紅が頷いた。
「狐は特に警戒心が強いんだ。ぞぞぞを稼ぐ必要もないから簡単に人に姿を見せたりはしないはず」
 それなのにふたりが出会ったのは、颯太にもはじめから志津が見えたからだというわけか。志津の方は颯太の中のあやかし使いの血に惹かれていった。
 そしてそれはおそらく……。
「紅さまも」
「ん?」
「い、いえ、……なんでもありません」
 のぞみはゆっくりと首を振る。その先を今確認する気にはなれなかった。
 代わりにもうひとつ、気がかりなことを口にする。
「でも、あんなことをして大丈夫なんですか? 大神さまを怒らせたりして……」
 大神は逃がしはしないと怒り狂っていた。この先いったいどうなってしまうのか、まったく予想がつかなくて不安だった。
「心配はいらないよ」
 紅のその言葉にも納得はできなかった。
「で、でも、すごくお怒りだったじゃないですか……」
「だからって、のぞみを大神の妃になんてできないじゃないか」
 のぞみの言葉を遮るようにそう言って、紅はギュッと腕に力を込める。
 そしてのぞみの耳に囁いた。
「大神の許しなんていらないよ。サケ子は真面目だからああ言うけれど、長の中にだって、好き勝手に結婚してる者は五万といる。……だからのぞみはなにも心配しないで」
 それはきっと、そもそも大神に結婚を反対されていない場合だ。
 のぞみと紅の場合は、それとはまったく違うはず。
 でものぞみはもうなにも言うことはできなかった。
「見えてきた」
 紅の呟きとともに顔を上げると、視線の先にキラキラと輝く青い海、緑の山の頂上に山神神社が見えてきた。
 カモメが飛び交う海辺の街。
 その街を見下ろすような山の頂きに山神神社はある。
 鬱蒼と繁った森に囲まれた少し寂れた本殿、そのすぐ裏にある木造平屋建ての小さな建物が夜間保育園だということを知る街の人は意外と少ない。それはこの保育園があやかしの子供を専門に預かるあやかし保育園だからである。
 今にも崩れそうな建物は中に入れば居心地の良い空間が広がっていて、子供たちの笑い声に満ちている。
 二間続きの畳の部屋、その部屋に面した日の差さない小さな庭を子供たちは元気に駆け回り、遊び、喧嘩をする。
 そこへ新しい命が加わったのは、冬が終わり暖かい風が吹くようになった早春の頃だった。
 ほぎゃほぎゃと赤子の泣く声が園の部屋に響き渡る。ふわふわと宙を漂うぞぞぞの中に包まれたその女の赤子を子供たちが興味深々で見つめていた。
「のぞせんせー、えんちゃんが泣いてるよ~」
 座敷童子の子、かの子が手を伸ばしてのぞみに言う。
 狐の子、太一も白い尻尾をふりふりしながら心底珍しいものを見るように目をパチパチとさせている。
 のぞみは立ち上がって、えんと呼ばれたその赤子を腕に抱いた。
「よしよし」
 涼やかな目元にすっと通った鼻筋のえんは、抱き方が気に食わないとでもいうようにのぞみの腕をキックして大きな声で泣いている。
 のぞみは笑みを浮かべて呟いた。
「ふふふ、かわいい」
 でもすぐにサケ子にじろりと睨まれて、慌てて肩をすくめて口を閉じる。あやかしの赤子に"かわいい"という言葉は誉め言葉にならないからだ。
 いずれは人を驚かせる定めを負ったあやかしは、常に怖い存在でなくてはならない。えんも大きくなれば恐ろしいあやかしになるのだという。
 でもまだ赤子の今は、ふわふわのほっぺがぷくぷくとしてやっぱり可愛らしい。
 だからのぞみはついこんな風に声をかけてしまい、サケ子に睨まれてしまうのだった。
「うひゃー! こえー顔だぁ! さすがサケ子せんせーの赤ちゃんだぜ」
 のぞみの腕を覗き込み鬼の子、六平が声をあげる。
 サケ子は満足そうに目を細めた。
「さすが子沢山の鬼一家の子だ。気の利いたことが言えるじゃないか」
 今六平が言ったとおり、えんはサケ子がついひと月ほど前に産んだ赤子だった。
 のぞみにとって頼りになる先輩保育士サケ子はいつのまにか妊娠していた。
 しかも産んですぐに以前と変わらない様子でしゃきしゃきと働きだしたのだから、のぞみは心底驚いた。随分と心配したりもしたのだが、座敷童子の友人こづえに言わせるとあやかしのお産は皆こんなものだという。
『私がヌエを退けたことで、また新しい家族を迎える気持ちになったのかもしれないね』
 紅はそう感想をもらした。
 長い間、この辺りであやかしの子を好き放題に食らっていた卑しいあやかしヌエに、彼女は子を食われた。
 その傷を負いながら、あやかし園で働いていたのだ。
 彼女の子どもたちに対するやり方は、少し雑で少し冷淡。でもその中に、子どもたちを思う温かい心があるのをのぞみは知っている。
 子を失った悲しみは癒えることはないけれど、少しずつでも前を向いて、一歩ずつ歩き出したのだ。
「ぜーんぜん泣き止まないぜ。ムツキが濡れてるのかなぁ」
 元気よく泣き続けるえんに七平が呆れたような声を出す。
 八平が首を横に振った。
「ちがうよ、さっき代えたばっかじゃないか。お乳だろ」
「それもついさっきせんせーがやってたよ」
 六平がのぞみの腕で泣きながら盛大に暴れるえんを覗き込む。そしてにやりと笑ってぷはっと勢いよく吹き出した。
「ろっくん、なあに?」
「えんはのぞせんせーの抱っこが気に食わないんだ」
 そう言うと六平はそのままコロコロと笑い転げる。七平と、八平もケラケラと笑い始めた。
「ろっくん、ひっくん、はっくん、ひどいじゃない」
 のぞみは眉を下げて三人に抗議をするが、実際彼らの言う通りだった。
 保育士としての資格はあっても新生児と接した経験はほとんどなかったのぞみにとって、産まれたてのえんは未知の存在。身体はふにゃふにゃとして頼りなく、なぜ泣いているのかわからない。
 だから触れる時はいつもどこかおっかなびっくりなのだ。そんなのぞみの抱っこはやはりしっくりとこないのだろう。いつも泣かれてばかりだった。
 腕の中で盛大に暴れるえんを見つめて、のぞみははぁとため息をついた。
「えんちゃんに好かれるにはどうしたらいいのかなぁ」
「そんなものは、慣れだよ」
 布オムツを畳みながらサケ子が言う。
 周りでは子供たちが慣れない手つきで一生懸命に手伝いをしていた。小さな手で畳まれたたくさんのオムツは、畳んでいるのか丸めているのかわからないような物もあるけれど、サケ子はそれほど気にもせず、どんどんカゴに放り込んでいる。
「あんたも自分の子ができれば、嫌というほど抱かなきゃなんないんだから、嫌でも慣れるさ。ま、今のうちにえんで練習しとくんだね」
「じ、自分の子……」
 サケ子の言葉にのぞみは頬を染めて絶句する。同時に胸が罪悪感にズキンと痛んだ。
 御殿から逃げるように山神神社へ戻った後、都で起きたことをのぞみは誰にも言わなかった。他でもない、紅がなにも言わなかったからだ。
『大神は熱しやすく冷めやすいんだ。放っておけばそのうちに忘れるよ』
 それを待とうということだ。それまでは、皆には余計な心配をかけないように黙っていようというのだろう。
 そして本当にそのままいつも通りに過ごしている。
 一方でのぞみと紅が結婚の許しをもらいに都へ行ったことは皆知っているのだから、無事に帰ってきた今、皆はふたりを夫婦だと思っている。
「れ、練習だなんて、えんちゃんに失礼です。……でも、いつかは私の抱っこで寝てほしいなぁ」
 胸の中の罪悪感を誤魔化すようにのぞみは言う。
 すると六平の小さな手がえんめがけて伸びてきた。
「おいらが抱いてやるよ」
 子沢山の鬼一家の六男だから、赤子の扱いには慣れたものだ。案外しっかりと抱いてやるので、のぞみより六平の腕の中の方が機嫌よくしているくらいだった。
「じゃあ、お願いしようかな」
 ちょっと悔しいけれどえんにとってはその方がいい。
 だがそれをかの子が止めた。
「ろっくんダメよ。次はかの子の番だよ。お約束したじゃない」
 六平の袖を引っ張って、不満そうに口を尖らせる。その様子にのぞみは思わずふふふと笑った。
 かの子は、のぞみがここへ来たばかりの頃は保育園に馴染めずに泣いてばかりだったというのに、今ではすっかりあやかし園の一員だ。
 リーダー格の鬼三兄弟にもこんな風に遠慮なく文句を言う。そんな様子はどこか母親のこづえを彷彿とさせる貫禄があった。座敷童子は古くから存在する格式の高いあやかしだ。
 でも今は、六平も負けてはいなかった。
「かの子には無理だって。まだチビなんだから。えんはおもちゃじゃないんだぞ」
 自分だって散々おもちゃにしているくせに、そう言って六平はかの子の手を払い除ける。そしてちょっと乱暴にのぞみの腕からえんを奪おうとした。
「あ、ろっくん待って」
 のぞみが声をあげた時。
「人気者はつらいねぇ」
 大きな手がえんを掬い上げた。
「あ」
 背の高い紅に抱き上げられて、景色が変わったことに驚いたのかえんが一旦泣き止んで目をパチクリさせている。
「紅さま‼︎」
 子供たちが一斉に紅に飛びついた。
「おかえりなさい‼︎」
「ただいま。ふふふ、皆私が帰ったことにも気がつかないなんて、こんなことははじめてだよ。えんは皆を虜にしてしまうあやしい術を使うようだ」
 そう言って紅はえんの頬を人差し指で優しくくすぐる。
 えんが可愛らしいあくびをした。
「紅さま、早かったじゃないですか」
 サケ子が驚いたように声をあげる。
 今日紅は地元山神町町内会の寄り合いに顔を出していた。立地的には少々離れている山神神社もくくりとしては町内会に入っていて少しは関わりがある。紅は山神神社の宮司さんとして街では知られている存在だ。
 紅は普段はあまり寄り合いには参加しないのだが、今夜はどうしてもと請われて顔を出していた。
「うんまぁ、寄り合いといっても大した話をするわけでもないから……」
 サケ子の指摘に紅は頬をぽりぽりとかいている。
 のぞみはぷっと吹き出した。
「紅さま、早くえんちゃんに会いたかったんでしょう」
 とにかくえんが生まれてからは、大人も子どもも皆彼女に夢中なのだ。
 のぞみも紅も子どもたちも園に着いて真っ先に行くのはえんのところだった。
「えんちゃん、いくら見ていても飽きないですもんね」
 くすくすと笑いが止まらないのぞみの頬に紅の手が伸びてくる。そしてえんにしたと同じように優しくそこをくすぐった。
「……⁉︎」
 のぞみは頬を染めて口をつぐむ。
 紅が思い出したように口を開いた。
「そういえばサケ子、商店街で藤吉に会ったんだ。真面目にぞぞぞ稼ぎに勤しんでたよ」
 藤吉というのはサケ子の夫のことだ。えんという新しい命を授かって、たくさんのぞぞぞを稼ぐために張り切っているという。
「ちゃあんと真面目に働いていた。あいつのおかげでサケ子には保育園にいてもらえるんだ。私も感謝しなくちゃいけないね」
 突然夫を褒められて、サケ子は珍しく照れたように頬を染めた。
「た、大したことはありませんよ」
「ふふふ、……私はえんに会うために早く帰るよと言ったら渋い顔をしていたな。心底羨ましそうだった」
 そう言って紅はからからと笑う。
 サケ子が形のいい眉を寄せた。
「からかわないでくださいな。うちの人は真面目なんですから」
 親でも兄弟でもないのぞみたちがえんにこれほど夢中なのだから、それこそ実の父親である藤吉は本当に彼女にメロメロなのだ。
 できるなら一日中べったりとえんに寄り添っていたいに違いない。その気持ちにムチ打って毎夜ぞぞぞ稼ぎに出ているというのに、子どもみたいな自慢をして……。
 この人は本当に皆に尊敬されているあやかしの長なのかしらと、のぞみは心の中でため息をつく。
 紅がそっとえんの頬を撫でた。
「赤子が乳を飲む頃は父親の出番は少ないからね。一番可愛い時に側にいられず稼ぎに行かなきゃならないなんて、父親なんてつまらないものだ」
 えんは紅に抱かれてすやすやと可愛い寝息を立てている。大きな腕にしっかりと抱かれて、心の底から安心して。 
「やれやれ」
 サケ子がため息をつく。
「この分じゃのぞみが赤子を産んだりしたら、まったく仕事なんかしなさそうだよ」
 その言葉に、のぞみはそっと唇を噛んだ。
「おかえりなさい、今日も皆いい子にしてましたよ」
 子どもたちのお迎え時間、鬼三兄弟を迎えにきた彼らの母親に、にっこり笑ってのぞみは言う。
 鬼の母親が「あらまぁ」と声をあげた。
「うちの子らがいい子にしてたとは、びっくりですよ。でも先生はいつもそう言ってくださる。チビたちも楽しく通っているし、どうやら保育園は子を安全に預かってくれるだけじゃないみたいですね」
 その言葉に、のぞみは嬉しくなって頷いた。
 あやかしとしての力が強い鬼の彼らは、のぞみが来たばかりの頃はどこか他の子どもたちを馬鹿にして威張っているようなところがあった。半分人間のあやかしの子、太一が入園した時は、それで一悶着あったのだ。
 でもその出来事を乗り越えて、太一と仲間になってからは彼らと他の子どもたちとの関係は少し変わったとのぞみは思う。
 相変わらずリーダー格であることには変わりないが、かの子に注意されてもべつに怒ったりはしないし、さりげなく他の子どもたちの手助けをしていることもあった。
「ひと昔前は、鬼は鬼らしく人間や他のあやかしたちから舐められないようになんて言って育てていましたけど、うちは家業が家業ですから、人間との関わりも多いのです。案外気遣いなんかも必要なんですわ」
 鬼一家の家業は、人間の親が子を叱る時に使うスマホのアプリの配信だ。
 正体を隠しているとはいえ、人間とうまく付き合っていくためには社会性も必要だということだろう。
「保育園ができる前に産んだ子らは随分とそれで失敗しました。でもこの分だと、チビたちは大丈夫そうですね」
 そう言って母親は艶やかに微笑んだ。
 縞模様の和服がよく似合う、どこかアダっぽい感じがする彼女は、すでにたくさんの子どもがいる母親だとは思えないくらいに若々しい。
 あやかし園に来てもうすぐ一年になるのぞみだが、あやかしの年齢だけは、未だに見当がつけられないままだった。
「三人とも、えんちゃんの面倒をよくみてくれますよ。本当にいいお兄ちゃんで……」
 母親が満足そうに頷いた。
「ならこれで赤子が産まれても安心だね」
 そう言って着物の帯の下あたりをそっと撫でる。
「え⁉︎」
 その仕草に、のぞみはピンときた。
「じゃあ、赤ちゃんが……?」
 母親がまた嬉しそうに頷いた。
「ふふふ、産まれるのは秋ですわ。そしたらまたお願いいたします」
「も、もちろんです……」
 唖然としながらも、のぞみはなんとか相槌を打つ。
 保育園に通う子らは六平を筆頭に三人だから、……えーと、次はなに平になるんだろう?
「あーあ、また赤ん坊の世話かぁ、まったく嫌になっちまうぜ」
 六平が一丁前な口をきく。後のふたりも、そうだそうだと口々に言った。
「あらあんたたちはべつになにもしないじゃないか。せいぜいおもちゃにするだけで」
 母親の言葉にも彼らは納得しなかった。
「家でも赤ん坊の世話、保育園でもえんの世話だ。おいら気が休まる暇がないぜ」
 そう言ってため息をつく六平に、のぞみはぷっと吹き出した。結局彼は世話をする気満々なのだ。
「ろっくん、抱っこ上手だもんね。先生もサケ子先生もすっごく助かってるんだよ」
「それはそうだけど」
 六平は照れ臭そうに頭をかいた。
「でもこうぽんぽん産まれるんじゃ、手が回らないや」
「ふふふ、いいじゃない。たくさん赤ちゃんが産まれるのは、ろっくんのところのお父さんとお母さんが仲よしだからじゃ……」
 と、そこまで言いかけて、のぞみははたと口を閉じる。この表現は、聞く人によっては別のなにかを想像されてしまうような……。
「あらぁ、のぞみ先生」
 案の定、鬼の母親が着物の袖で口元を隠して意味深な笑みを浮かべた。
「先生はうぶな方と思っていましたけれど、考えてみればもう紅さまと夫婦になられたんですもの。今や立派なあやかし妻。さすが、おっしゃることが違いますわね」
「そ、そういう意味で言ったわけじゃ……! あ、でもすみません。変な言い方したりして……」
 のぞみは慌てて言い訳をする。意図せずに変なことを口走ってしまったのが恥ずかしい。
 母親がふふふと笑って首を振った。
「あら謝らないで下さいな、先生。本当のことなんですから。先生がおっしゃる通り、赤子がたくさん産まれるのは、私と連れ合いの相性がいいからでございます」
「そ、そうですか……」
 きっぱりと言い切られてしまいのぞみはうつむいてごにょごにょ言う。
 子どもたちの前では明らかに相応しくない話の内容だ。
 気まずい思いで兄弟を見ると彼らは首を傾げて、のぞみたちの話を聞いている。
 母親が訳知り顔で頷いた。
「のぞみ先生。これは、夫婦の間で一番大事なことでございますのよ」
「……一番?」
 思わずのぞみは聞き返してしまう。
「そうです、一番です。ふふふ、新婚さんならまだ試行錯誤の途中かしら。でもお相手が紅さまなら、そう心配いりませんよ。経験は山ほどおありでしょうから」
 まったく聞き捨てならないアドバイスをして、鬼たちは帰っていった。
 のぞみは唖然としながらも鬼三兄弟に手を振った。
"夫婦の間で一番大事なこと"
 なぜかその言葉が頭から離れなかった。
「まだお戻りじゃないのかい?」
 最後に迎えにきたこづえとかの子を見送って、建物の中に戻ったのぞみに、サケ子から声がかかる。
 のぞみは黙って頷いた。
 寄り合いから帰ってきた紅は、縄張りの見回りに行くと言って再び園を出て行った。
 そしてまだ帰ってこない。
 少し強い風が日本家屋の古い窓枠をカタカタと揺らしている。
「最近熱心に見回っておられるけど、どうしてだろう。ヌエはもういないのに」
 そう言ってサケ子は物言いたげな目でのぞみを見る。のぞみはそれに気が付かないフリをした。
「サ、サケ子さん。先にあがって下さい。えんちゃんも待っているでしょうし」
 えんはさっき、仕事帰りの藤吉が嬉しそうに連れて帰った。
 サケ子は後片付けをしてから帰るとふたりに告げていたが、子どもたちが皆帰った今は、もうやることはなにもない。
 でも彼女は首を振った。
「いや、紅さまが戻られるまでは、のぞみのそばにいることにしよう。……そうした方がよさそうだ」
 そう言って窓の外の黒い森に視線を送る。
 のぞみの胸がツキンと鳴った。
 いつもはあまり意識することはないけれど、彼女も立派なあやかしなのだ。
 のぞみにとってはいつもと変わらない夜の森に、なにかを感じて取ってるのだろうか。
「でもえんちゃんは……」
「乳はさっきやったばかりだし、藤吉がいるから大丈夫さ」
 そう言ってサケ子は、よいしょと縁側に腰を下ろす。
 のぞみも彼女の隣に座った。
 夜の森がざざざと鳴った。
「……サケ子さんは、どうして藤吉さんと夫婦になろうと思ったんですか」
 子どもたちがいなくなった園庭を見つめながら、のぞみはなんとなく口を開く。
 さっき鬼の母親が言っていた言葉が耳から離れなかった。
"夫婦の間で一番大事なこと"
 まさか彼女が鬼の母親と同じようなことを言うとは思わないけれど、だったらなおさら、話を聞いてみたかった。
 サケ子が少し意外そうにのぞみを見た。
 彼女とはよく話をするけれど、大抵は子どもたちに関係することだ。こんな風に、彼女自身について話をするのははじめてだった。
 彼女はしばらく逡巡して、でも余計なことはなにも言わず話しはじめた。
「藤吉とは昔なじみなんだけど、真面目でよく働くところが気に入っているよ」
 なぜそんなことを聞くのかと言われなかったことにホッとして、のぞみは彼女の話に耳を傾けた。
「口裂け男は大抵は人間の女を相手に稼ぐんだ。色男を装ってついてきたところで口を見せて、ぞぞぞとさせる。怪我をさせることもないし、ぞぞぞをいただいた後は、ちゃんと元のところまで送り届ける。でも女ばかりを相手にするから、あやかしの中でも、卑怯だなんだと言われることが多いんだよ」
「そうなんですか……」
 少し意外な話だった。
「うん、口裂け女の方はべつにそうでもないんだけど。だから仲間の中には腐っちまって、ろくに稼がない奴もいるんだよ。もちろんそういう奴は所帯を持てないし、消えてしまったりするんだけど」
「藤吉さんは、腕のいいぞぞぞ稼ぎだって紅さまが言っていましたよね」
 だからこそ、サケ子は安心してあやかし園にいられるのだ。
 藤吉が、サケ子の分もぞぞぞを稼いでくれるから。
 サケ子が頷いた。
「そうだよ。私にとっては真面目に働いてくれる。これが一番大事なことだ」
「一番……」
「ちゃんと働いて、ちゃんと稼ぐ……真面目にね」
 そう言ってサケ子は、なにかに気が付いたようにのぞみを見た。
「のぞみ、もしかしてさっきのことを気にしてるのかい?」
「……え?」
 サケ子がのぞみを安心させるように優しい言葉を口にする。
「紅さまも大丈夫さ。つかみどころない方だけど、ちゃんと仕事はするだろう。今だって、見回りに行かれているじゃないか。きっと赤子ができたら働かなくなるなんて、さっき私が言ったことを心配してるなら……」
「そ、そうじゃありません」
 のぞみは慌てて首を振った。
「それは心配していません。ただ、なんとなく聞きたくなっただけです。サケ子さんと藤吉さん、本当に素敵な夫婦だから……」
「……ならいいけど」
 サケ子が安心したように息を吐いた。
 そう、そんなことを心配しているわけではないけれど……。
 のぞみはそのまま黙り込む。風は少し落ち着いて、フクロウがホーホーと鳴いている。
「遅くなって悪かったね」
 声をかけられて振り返ると子どもたちが帰った後の部屋に、紅が立っていた。
「あ、おかえりなさい」
「一緒に待っていてくれたんだね。ありがとう、サケ子」
 サケが頷いて立ち上がる。
「さあさ、店じまいだ」
 呟いて、帰って行った。
「私たちも帰ろう」
 そう言って建物の出口へ向かう紅の背中をのぞみはジッと見つめた。
 自分がある重要なことを見落としていたのではないかと思い始めていた。
 夫婦とは、一緒になっただけで終わりではない。ずっと寄り添い、ともに歩んでいくものなのだ。
 愛し愛されて一緒になることはたしかに幸せなことだろう。でもその先には愛し合った時間の何倍もの長い道のりが待っている。
 さっきサケ子が言ったような心配をのぞみはしているわけではない。
 紅はいつも子どもたちを思い、縄張りの皆を守るという役割をまっとうしている。それはきっとこの先もなにも変わらないだろう。
 あやかしの長、天狗と夫婦になる。
 彼を愛おしいと思うからそう決めた。
 でもその彼の隣で、自分はどうあるべきなのだろう。
 そして彼にとって、人間であるのぞみと結婚する意味はいったいどこにあるのだろう。
「どうも天気が不安定だ」
 アパートののぞみの部屋でこづえがお茶を飲みながら窓の外を見た。
 時刻は午後三時を回った頃。
 のぞみの友人で座敷童子のこづえは毎日これくらいの時間に娘のかの子と一緒に部屋へ来て、おしゃべりをしてから仕事へゆく。
 座敷童子は人間の子供に混ざって遊び、ぞぞぞを稼ぐあやかしだから、皆より早く出勤する。でも保育園は午後四時まで開かないから、こうやって少し早くかの子をのぞみに預けにくるのだ。
 のぞみはかの子と四時までの時間を部屋で過ごし、一緒に保育園へ行く。
 のぞみがこづえと友人になってから、ずっと変わらない習慣だった。
「本当に、そうですね」
 のぞみも窓の外に視線を移して呟いた。そして胸のところでギュッと拳を作る。
 ただ天気が悪いというだけでどうしてこんなに不安になるのだろう。
 こづえが、時計をチラリと見て舌打ちをした。
「あぁもうしばらくしたら、仕事に行かなきゃならない。口裂け女め、ちょっとは早く起きられないもんなのか」
 サケ子は午後四時まで起きられないあやかしなのだという。
 だからこそかの子はのぞみが預かっているわけだが、今こづえはそれについて文句を言っているわけではない。
 のぞみはぷっと吹き出して、くすくす笑った。
「ふふふこづえさん、えんちゃんに会いたいんでしょう」
 こづえもまたえんに夢中なのである。
 仕事に行く前にちょっとでも腕に抱きたいのだろう。
 サケ子が畳んでいたえんの大量の布オムツのほとんどはこづえが縫ったのだという。さすがもうすぐ百歳のベテランママは頼りになると紅に褒められて照れくさそうにしていたのが記憶に新しい。
 こづえとサケ子は日頃は喧嘩をしているみたいに言い合いをしているが、本当のところは互いを信頼し合う友人だ。
「お母さん、文句言わないでお仕事いってね。えんちゃんは私がちゃあんとみてるから」
 まるでこづえを叱るみたいに言うかの子に、のぞみはふふふと笑みを漏らす。
 保育園で六平と争うようにして、えんの面倒をみてくれるかの子は、すっかりお姉さん気分なのだろう。
 そのすました言い方がなんとも可愛らしかった。
 こづえが、かの子のつやつやのおかっぱ頭を撫でてため息をついた。
「子供なんてすぐに大きくなっちまうから寂しいねぇ。かの子も、ついこの前まではお母さん行かないでって泣いてばかりだったのに。時々、かの子が赤ん坊に戻ってくれたらいいのにと思うこともあるくらいだよ」
 そういうものなのかとのぞみは思う。
 保育士として見ている限り子供たちの成長はただただ喜ばしいことのように思えるが、母親の気持ちはもっと複雑なものらしい。
 子供の成長は、嬉しいけれど同時にちょっと寂しくもあるような……。
「そういえば、鬼がまた産むみたいだね」
 お茶を啜りながら思い出したようにこづえが言う。
 のぞみはこくんと頷いた。
「秋ごろに産まれるっておっしゃっていました」
「よくもまぁ、ぽんぽんと!」
 六平と同じようなことを言って、こづえは呆れたようにため息をつく。
「私には考えられないよ。……よっぽど相性がいいんだなあの夫婦は。ここまでくると尊敬するよ……」
 ぶつぶつと言うこづえにのぞみは少し考えて迷いながら口を開いた。
「本当に、羨ましいです」
 心の底から出た言葉だった。
 鬼の母親にしろ、サケ子にしろ夫婦してしっかりと生活をしている。
 お互いにお互いを必要として。
「どうだかねぇ」
 こづえが苦笑する。
「夫婦でいることでの気苦労もあるだろうよ。ま、それぞれだとは思うけど」
「こづえさんには、理想の旦那さんみたいなのはあるんですか?」
 のぞみは思わず問いかけて、でもすぐにしまったと思い口を閉じた。
 五回夫婦別れをしているという彼女に対する質問として少し無神経だったかもしれないと思ったからだ。
「理想ねぇ‼︎」
 こづえが弾かれたように笑い出した。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いやいいよ‼︎ ただ少しばかり難しい質問だと思っただけだ。こんな旦那はごめんだ!っていうのは山ほどおしえてあげられるんだけど。でも全部話してたら今夜は仕事に行けなくなりそうだ! ……それでも聞きたい?」
「え、遠慮しておきます……」
 のぞみは慌てて首を振った。
 こづえが意味深な表情でのぞみを見た。
「なにのぞみ、新婚早々紅さまに不満でもあるのかい? どんなに完璧を装っている男でもアラがあるのが当たり前だ。しかも大抵は夫婦になってからわかるもんなんだよ」
 半分心配そうにでも半分はどこか嬉しそうに、こづえの口は止まらない。
「紅さまも長さまとしていい方なのは間違いはないんだけどさ。あぁいう気が利かない能天気なタイプは夫にするとイライラするよ。夫なんてもんは、常に妻の顔色を伺って妻が快適に過ごせるように気を配るのが義務なんだから……」
「そんなんだから夫婦別ればかりなんだよ。こづえは」
 こづえの言葉を遮るような声がして、ふたりは驚いて振り返る。
 いつのまにかドアのところに紅が腕を組んで立っていた。
「紅さま、戻られたんですか」
 のぞみは驚いて声をあげる。
 紅は朝早くから山へ見回りに行っていた。
 駆け寄るかの子を抱き上げながら、紅が口を尖らせた。
「本当に長なんてつまらない役目だよ。見回りに行っている間に、かわいいのぞみに悪口を吹き込む輩はいるし……」
 そう言ってこづえをじろりと睨む。
 こづえが咳払いをして立ち上がった。
 紅がにっこりとしてのぞみを見た。
「のぞみ、できたら不満はこづえではなく私に言ってくれ。どんなことでも遠慮なくはっきり言ってくれていいんだよ。なにせ私は能天気で気が利かないから……」
「さぁて、今日も稼ぎにいかなきゃねぇ」
 わざとらしくそう言ってかの子の頭を撫でてから、こづえはパッと消えた。
「いつものことながら逃げ足の速い……」
 紅が呆れたように言うと、かの子が頬を膨らませた。
「紅さま、お母さんをいじめないでください」
 紅が、はははと声をあげた。
「私がおっかさんをいじめているのではない。おっかさんが私をいじめているのだよ」
 アパートの窓枠をガタガタと風が揺らしている。ざざざという木々の音を聞きながら、紅は窓際に立ち鋭い視線で夜の森を睨んでいる。
 風呂から戻ってきたのぞみは、どこか近寄りがたい空気をまとう彼の横顔を、黙って見つめていた。
 いつもは穏やかな彼がこんな目をしている時は、縄張りの中にあやしいものがいないどうか、全神経を集中させて感じとっている時なのだ。
 のぞみは首にかけたタオルをギュッと握りしめた。
「……なにか、よくないことがあるんですか」
 邪魔をしてはいけないと思いつつ、思わずのぞみは問いかける。
 少し前の夜にサケ子が言っていた通り、最近の彼は以前よりも念入りに見回りをするようになった。
 まるで、なにかを特別に警戒するかのように。
「ああ、のぞみ。お風呂は気持ちよかった?」
 そう言って、振り返った彼はもういつもの彼だった。
 のぞみはこくんと頷いて、窓際の彼の隣に立ち、窓の外を見つめた。
 けれど夜の森にのぞみ自身はなにも特別なものは感じなかった。
「……最近、風が強いですね」
 呟くと、大きな手が優しく頭を撫でてくれる。そして彼はのぞみを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、のぞみが心配するようなことはなにもないからね」
 いつもの軽い調子でそう言って紅は肩をすくめる。それをどこかわざとらしく感じるのは、のぞみの気のせいではないはずだ。
「でも……」
 なおものぞみ言いかける。するとひょいと抱き上げられて、すぐそばに敷いてある布団の上に寝かされた。
 大きな手が、のぞみの頭を優しく撫でた。
「皆、私がもう紅さまのお嫁さまだと思っています。……なんだか騙しているみたいで、心苦しいんです」
 ここのところずっと思っていたことを、のぞみはついに口にする。
 紅がにっこりと微笑んだ。
「それは今すぐにでも本当の夫婦になりたいという誘いかい? 案外大胆なんだね、のぞみは」
 わざとらしくそう言って、紅はのぞみの上に覆い被さる。
 でもそのいつもの軽口に、今は応じる気になれなくて、のぞみは眉を下げて首を振った。
「……お許し、出てないじゃないですか」
 その言葉に、至近距離にある彼の赤い目が瞬きを二回、三回。額と額をコツンと合わせて、小さくため息をつくとコロンと隣に寝そべった。
 アパートの天井から下がるオレンジ色の古い電球を見つめたまま、ふたりはしばらくの間黙り込む。
 先に口を開いたのは、紅だった。
「大神の許しなんて、本当にいらないよ」
 うそだ、とのぞみは思う。
 本当にそうなら、彼はもうとっくにそれを実行してるはず。
 なのにそれをしないのは、やはりなにか不都合があるのだろう。
 のぞみにはわからないなにかが。
「……もしもこのまま、結婚を許してもらえなかったら、紅さまはどうしますか。ずっとお許しが出なかったら……」
「……のぞみ?」
 紅が眉を寄せて咎めるようにのぞみを見る。でも一度口にしてしまったら、もう止めることはできなかった。
「大神さま、すごく……すごく恐ろしい方でした。力で敵うとは思いません。本当に怒らせてしまったら、縄張りの皆も危険なんじゃないですか? それでも……皆を危険に晒しても結婚する必要があるんでしょうか。そもそも紅さまには人間の私なんかよりももっとふさわしい相手が……ん」
 不安な思いが止めどなく溢れ出るその口を、紅の唇が少し強引に塞ぐ。温かい大きな腕が、のぞみをギュッと抱きしめた。
 目を閉じて、彼の温もりだけを感じると、胸の中をぐるぐると吹き荒れていた不安の風が、少しだけ落ち着いてゆく。
「……いくらのぞみでも」
 囁くように紅が言う。
 その言葉に、のぞみはいつのまにか唇が離れていたことに気が付いた。
「いくらのぞみでも、その先を口にするのは許さない。……絶対に。のぞみはなにも心配しないで、私に任せていればいい。必ず私たちは夫婦になる。約束するよ」
 彼にしては珍しい有無を言わせぬ強い言葉に安心して、のぞみはゆっくりと頷いた。
 その一方で、小さな小さな疑問の芽が胸の中に芽生えるのを感じていた。
 夫婦が、互いに互いを必要としてともに歩んでいくものならば、のぞみにとっては、相手は彼しかいないだろう。
 彼はいつものぞみを守り大切にしてくれる。
 ……ではその逆はどうだろう。
 彼にとって、のぞみでなくてはいけない理由。そんなもの、はたして存在するのだろうか。
「もうおやすみ」
 優しく触れる彼の手がのぞみを夢の世界へと誘う。そこへ落ちる瞬間にのぞみの脳裏に浮かんだのは、大神に言われたあの言葉だった。
『おぬし、あやかし使いの血だな』
 ……彼は、のぞみがそうでなかったとしても、結婚したいと思うのだろうか。
 必ず私たちは夫婦になると断言した紅の言葉を疑うわけではないけれど、のぞみの心は完全には晴れなかった。どこか掴みどころのない彼だけれど、いざという時は頼りになるのは確かなのに。
 もし彼が、のぞみの中のあやかし使いの血のみに惹かれて夫婦になるというならば、本当にそれでいいのだろうかと、のぞみは思いはじめていた。
 天気は相変わらず不安定で、紅の見回りの時間は日に日に増えていく。子を迎えに来る親たちからも不安を訴える声を漏れ聞くようになっていた。
 そしてある日とうとう異変は起きた。
 降園時間のことだった。
 その日は昼間からずっと曇り空が続いていた。もくもくとした灰色の厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうなのに、夜になっても雨は降らない、変な天気だった。
「太一くん、今日も楽しかったね。さようなら」
 狐の子太一に向かってのぞみはにっこりと笑いかける。
 太一が白い尻尾をフリフリとした。
「うん楽しかった。のぞ先生バイバイ!」
 太一と手を繋いでいる彼の母親志津が上品な仕草で頭を下げた。
「先生、今日もありがとうございました」
 そして親しげに微笑んで、紫色の風呂敷で包まれたお弁当箱を差し出した。
「これ、また颯太が作ったんです。よかったら……」
「わあ、ありがとうございます」
 のぞみはそれをいそいそと受け取る。
 彼女の夫はのぞみの実の兄。駅前の商店街で寿司職人をしている彼は、時々こんな風にして、のぞみにいなり寿司を届けてくれるのだ。
 狐のあやかしである妻の好物だというそのいなり寿司は、ほんのり甘い優しい味で、毎日食べても全然飽きない。
 のぞみもこのいなり寿司が大好きだ。
「のぞ先生、またうちに遊びにきてくれよな」
 ニカッと笑って太一が言う。
 のぞみはにっこりして頷いた。
 最近は隣町で家族三人で暮らしている兄夫婦とのぞみは頻繁に交流している。
 志津のおかげだった。
 彼女は、あやかしと夫婦になったことでのぞみと縁を切る決断をした兄を心配し、また家族の絆を結び直してくれた。
 美しくて心優しい白い狐は、いつものぞみの憧れだ。
「ふふふ、またのぞみ先生がお休みの日にね」
 志津が太一の頭を撫でる。
 その姿にのぞみの胸がチクリと痛んだ。
 彼女自身も人間と夫婦になったことで自分の家族とは距離ができたままなのだということを図らずものぞみは都で知った。
 それが狐の一族の掟ならば、のぞみが口を出す問題ではないだろう。
 でも……。
「……のぞみ先生?」
 急に黙り込んでしまったのぞみに、志津が小さく首を傾げる。のぞみはハッして首を振った。
「なんでもありません。じゃあ、また次のお休みにでもお邪魔させてもらってもいいですか?」
 のぞみの言葉に、志津は微笑んで頷いた。
 太一がやったぁと飛び跳ねる。
 その時。
 次々に親が迎えに来て、少し騒がしいあやかし園に、びゅーと強い風が吹き抜ける。厚い厚い雲の隙間から、月がぼんやりと姿を見せた。
 その月に皆、吸い寄せられるように視線を奪われる。
 青白い、どこかきみが悪いその光は、まっすぐにあやかし園を照らしている。
「あれは、なんだ……?」
 訝しむような誰かの声。
 光の中に黒い点が現れた。
 それはどんどん近づいて、次第に形を成してゆく。
「あれは……」
 狐たちの行列だった。
 皆いい服を着て、澄ました顔で歩いている。
 黒い漆に金箔の飾りが付いた、豪華な籠を背負っていた。
 先頭を行く一際上品な狐は都で出会ったあの伊織だった。
「まさか……」
 形のいい眉を寄せて志津が呟いた。 
 まるで大名行列のようなその一行は、どんどんこちらに近づいてくる。
 なにやら不吉な予感がして、のぞみの身体がふるりと震えた。
「のぞみ先生、紅さまは?」
 長を求める志津の言葉が、のぞみをまた不安にさせる。
 のぞみはふるふると首を振った。
「山へ行かれています。……志津さんあれは?」
 志津が行列に視線を送り、低い声で囁いた。
「都からの……大神さまからの使者です。こんなこと滅多にあることじゃないのに……いったいどうしたのでしょう」
 大神という言葉に、のぞみは震えあがってしまう。
 思わず森を振り返るが、紅はまだ帰ってこない。
「こっちへ来る……」
 志津が呟いたその時。
 シャンシャーンと大きな鈴の音が響き渡り、辺りはしーんと静まり返る。
 皆が固唾を呑んで見守る中、一行はのぞみの前に降り立った。
 先頭の伊織が、一歩前に歩み出て、のぞみに向かって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、のぞみさま」
 のぞみはそれに応えられない。
 都での出来事が頭に浮かんでいたからだ。あんなことがあったのに平然としていられるわけがないだろう。
「伊織、いったいこれは……?」
 尋ねる志津に、のぞみは彼女が伊織の親戚だということを思い出す。
 だが伊織は彼女からの問いかけを、あっさりと黙殺した。
 そして鋭い切れ長の瞳でのぞみをジッと見つめてから、驚くべき言葉を口にした。
「おめでとうございます、のぞみさま。この程、あなたさまを大神さまのお妃さまとしてお迎えするための準備が御殿にて整いましてございます。大神さまが都にてお待ちかねでございますよ。どうぞご準備くださいませ」
 静まり返っていたその場に、伊織の声はよく響いた。
 だがあまりにも突拍子のないその言葉の内容に、すぐには誰も反応しない。
 都での一件を知っているのぞみでさえも飲み込めないのだから、皆はなおさらそうだろう。
 志津が「まさか」と呟いた。
 伊織だけが、冷静だった。にっこりと微笑んで、のぞみに向かって口を開く。
「のぞみさま、必要なものはすべてこちらで整えさせていただきます。御身ひとつでお越しくだされば結構なのですよ。どうぞこちらにお乗りください」
 伊織の言葉に、籠の御簾がふわりと上がり、そこからするりと梯子が下りる。
 ふわりと香る高貴な香りは、都の御殿を彷彿とさせた。
「あの……私……」
 のぞみは思わず後ずさる。このままでは有無を言わせず籠に乗せられてしまう。
 すると志津が歩み出て、籠とのぞみの間に立った。
「伊織、なにかの間違いでありませんか。のぞみさまは、この縄張りの長である紅さまのお嫁さまなのですよ」
 伊織が眉を寄せて志津を睨んだ。
「姉さん、間違いなんかじゃありません」
「でも、そんなことありえないわ。とにかく紅さまがお帰りになるまでは……」
「その必要はありません!」
 びりりとその場を緊張させる鋭い声で言い放ち、伊織はさっと右手を上げる。するとそれに従うように緑色の巻物がふわふわと伊織の隣までやってきた。
 彼は一同を見回して、最後に志津をじろりと睨む。
 そしてここが肝心とばかりに大きな声を張り上げた。
「これは、大神さまからの勅命にございます!」
 慇懃に頭を下げる彼の隣で、巻物の紐がするりと解けて皆の前に広がった。
 晒された白い和紙の上、黒い墨のぐにゃぐにゃ文字に、事態を見守るあやかしたちからおおっ!という声があがる。
「そんな……まさか……」
 志津が掠れた声を漏らした。
 間髪入れずたくさんの狐たちがのぞみと志津を取り囲む。
「ひっ……!」
 喉の奥から引き攣った声が出て、のぞみは志津と手を取り合った。
 志津が切羽詰まった声をあげる。
「ま、待って……! 伊織……!」
 伊織がスッと目を細め、無情なことを言い放つ。
「捕らえよ!」
 周りを取り囲む狐たちが、のぞみ目がけて飛び上がる。
 のぞみが思わず目を閉じた。
 ——その時。
 びゅーと風が強く吹いた。
 ぎゃ!という叫び声とばたばたとなにかが倒れるような音、恐る恐る目を開けると、紅の背中がそこにあった。
 吹き飛ばされた狐たちは、あちらこちらに散らばって、うめき声をあげている。
「紅さま‼︎」
 のぞみと志津は声をあげる。紅が振り返って、微笑んだ。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫。志津、ありがとう」
 志津が頷いて下がっていった。
 パチパチパチと手を叩く音がして皆がそちらに注目する。伊織だった。
「さすがでございます、紅さま。大神さまの術をこの短時間で見破るとは。やはりあなただけは他の長たちとは違いますね」
 わざとらしく称賛の言葉を口にして、冷淡な眼差しで紅を睨んでいる。
 紅が彼に向き直った。
「以前私はのぞみには触るなと言ったはずだ。いくらお前でも容赦しない。次は命をかける覚悟をしろ」
 静かな怒りを帯びた低い声、目尻が赤く光っている。
 だが伊織は怯むことはなかった。
「ですが他でもない大神さまの命にございます」
 平然として言葉を返し、よく響く声でとうとうと語り始めた。
「そもそも都にて大神さまはあなた方の結婚をお許しにはならなかった。のぞみさまは大神さまの妃にするとおっしゃったのに、それを無視して都を脱出された。それからも、のぞみさまを引き渡すよう再三要求しておりましたのに、それらもすべて退けておしまいになられた。……大神さまに背くとは、いくら紅さまでも許されることではありませんよ」
「再三の要求……」
 のぞみは眉を寄せて頷いた。初耳だが、心当たりがないわけでもない。
 都から帰ってきてからずっと天気は不安定で、紅の見回りは頻繁だ。
 一方で、都での出来事が暴露されて、周りで事態を見守っているあやかしたちに動揺が広がってゆく。
「そんな、まさか……」
「許しを得られていなかったなんて……」
「知らなかった」
 ヒソヒソと囁き合う声が、あちらこちらから聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと痛む。
 皆がのぞみをお嫁さまだと思い込んでいるのをのぞみは否定しなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
「あの話は断ったはずだ。のぞみは大神の妃なんかにしない」
 きっぱりとした紅の言葉に、あやかしたちがなんともいえない空気になる。
 いくら長の決断でも勅命に逆らって大丈夫なのかと不安を感じているのだろう。
「……では、お考えは変わらない、と」
 伊織の眼鏡がキラリと光る。
 紅が呆れたようにため息をついた。
「どうして私の考えが変わると思うんだ。……もう一度言う。のぞみは私と夫婦になる。誰にも渡さない」
 そしてゆっくりと腕を上げて、手のひらを伊織に向ける。銀髪がふわりと浮かび上がり、赤い風が紅とのぞみの周りをぐるぐると回り出した。
「仕方がありませんね」
 伊織がため息をついた。
「今この場でやり合ってあなたに勝てる見込みはありませんから、本日はこれにて失礼させていただきます」
 だが帰り際に、釘を刺すのも忘れてはいなかった。
「大神さまのお心に背いたこと、くれぐれも後悔なさいませんように……」