片側三車線の大きな通りを走る車、その両側にひしめき合うように飲食店やブランドショップが立ち並んでいる。ゆったりと幅が取られた歩道は、行き交う人でごった返している。
 山神神社がある海辺の街とは比べ物にならないくらい賑やかな通りを、のぞみは紅に手を引かれ歩いていた。
 互いに肩が触れ合うほどの人混みを、紅は器用にすいすい進む。
 その背中に、のぞみは遠慮がちに声をかけた。
「紅さま、あの……」
 紅が軽やかな動きで振り返る。そしてにっこり微笑んだ。
「なんだい、のぞみ。なにか欲しいものでもあった? なんでも買ってあげるよ」
 のぞみは慌てて首を振った。
「そうじゃなくて。あの、こんな……こんなに人がたくさんいるところに都があるんですか?」
 普段のどかな田舎街にいるのぞみにとってはこの人の多さだけでも目が回りそうだというのに、こんなところにあやかしの都があるだなんてとても信じられなかった。
「もちろんあるよ」
 紅が答えた。
「人がいなけりゃ、ぞぞぞを稼ぐことができないじゃないか」
 それもそうか、とのぞみは思う。
 昼間寝床で眠っているあやかしたちは夜になると街へ出てきて人間の生活に紛れ込む。
 そしてそれぞれのやり方で人間たちを驚かし、その恐る気持ちを奪ってゆく。"ぞぞぞ"と呼ばれるそれは、あやかしたちの大好物で、彼らがこの世に在るために、なくてはならないものなのだ。
「でもこんなところに……」
 呟きながら、のぞみはまた歩き出す紅の背中についてゆく。
 途中脇道に入り、少し静かな通りを行くと大きな川へ突きあたる。その川を流れと逆方向へ進むと、うっそうとした原生林に囲まれた赤い鳥居が見えてきた。
 紅が振り返って微笑んだ。
「ほら、あれが目印だ」
 なるほど、とのぞみは思う。
 のぞみが住む海辺のあの街で山神神社にあやかしたちが集まるように、やはりここでも神社があやかしのよりどころとなっているようだ。
 人がたくさんいる中心部からそう離れていないこの神社が、都への目印だというのは納得だった。
 ただこの神社は山神神社とは少し様子が違っている。
 鳥居の前には広い駐車場があって、たくさんのバスが停まっている。どうやらここは観光客もたくさん訪れる有名な神社のようだ。
 そのうちのひとつ、今まさに到着したばかりのバスに視線を送り、のぞみはギョッと目を剥いた。
 なんとバス自体が、ふわぁ~と大あくびをしたのである。さらにいうと、ヘッドライトがギョロリとこちらを睨んでいる。
 のぞみは思わず声をあげる。
「ここここうさま、ああああれ……!」
 紅がそれに気が付いて「ああ」と言って微笑んだ。
「都詣でのバスツアーだね」
 その言葉の通り、バスからは続々とあやかしたちが下りてくる。
 のぞみは慌てて紅の背中に隠れた。
 のぞみの怖がりは少しずつ克服されつつある。
 あの海辺の街にいるあやかしたちとはもうほとんど知り合いで、怖いとは思わない。
 でも見ず知らずのあやかしとなると、まったく話は別だった。今バスから下りてきたあやかしの中には、まだのぞみが見たことがないような奇妙な姿のあやかしもいる。
 やっぱり少し……いや、すごく怖い。
 のぞみは背中にしがみついて、ギュッと目を閉じた。
 紅がくすりと笑みを漏らして、のぞみのうなじにそっと触れる。
 するとそこから黄緑色に輝くぞぞぞが、ぽわんと宙に浮かびあがった。
 のぞみはふーと息を吐く。怖い気持ちが落ち着いた。
 紅が再びくすりと笑い、バスのあやかしたちに視線を送る。
「あやかしはどこにでもいるものだけど、都が故郷みたいなものだからね、ああやって時々やってくるんだよ。昔はそれぞれ、好き勝手に来てたんだけど。最近はバスに乗って来るんだよ。……時代だよね」
 その時。
「ようこそおこしくださいました」という声がする。
 振り返ると、白い狐が鳥居の下に立っていた。
 丁寧に手入れされているつやつやの毛並みに、燕尾服を着て、丸い眼鏡をかけている。まるで執事のようないでたちのその狐は、バスから下りてくるガヤガヤと騒がしいあやかしに向かって声を張り上げた。
「都はこちらでございます。どうぞ、どうぞ」
 狐の案内に従って、あやかしたちは続々と赤い鳥居をくぐってゆく。
 それを見送る狐が、のぞみたちふたりに気が付いた。
「おや? 紅さまではありませんか」
「ああ、伊織(いおり)、久しぶり」
 紅が機嫌よく答えた。
 伊織と呼ばれたその狐は長い尻尾をふわりと揺らして丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりでございます」
 そしてのぞみを見て小さく首を傾げた。
「……こちらさまは?」
「のぞみっていうんだ。私の婚約者だよ」
 紅の言葉に、伊織は丸い眼鏡の奥の切れ長の目を瞬かせる。
「ではこの方が……」
 その視線に、なぜかのぞみの背筋がぞぞぞとする。
 でも彼はすぐに気を取り直したように微笑んで、のぞみにも頭を下げた。
「大神さまのもとで召使いとして働いております、伊織と申します。以後お見知りおきを」
 のぞみもぺこりと頭を下げた。
「のぞみです。よろしくお願いします」
 伊織は、今度は紅に向かって口を開いた。
「婚約者の方をお連れになられたということは、大神さまに婚姻の許しをもらいに来られたということですね」
「そうだよ」
 すると伊織はふたりを交互に見て、意味ありげな笑みを浮かべる。そしてこれまた意味深な言葉を口にした。
「では、検討をお祈りしております。……案内役の蛇娘(へびむすめ)にはお気を付けて」
 そう言って尻尾を大きく振って、鳥居の中に消えていった。
 のぞみは少し驚いて、もう誰もいなくなった鳥居の先の森を見つめた。
 初対面にしてはどこか好意的ではない言葉をかけられた、そんな気がして。
「気にすることはないよ」と、紅が肩をすくめた。
「伊織は志津の従兄弟なんだ。……いや、又従兄弟だったかな?」
「志津さんの……?」
 意外な事実に、のぞみは目を見開いて呟いた。
 でもそう言われてみれば彼の上品な出立ちは、どこか志津に通じるものがあるような。
「そう。だから志津が私の嫁入りに失敗したと思って、よく思っていないんだよ。なにしろ狐の一族は出世欲が強くてね。男は伊織みたいに大神のもとで出世して、女は各地の長に嫁入りすることを一族の使命だと思っている」
「そうなんですね……」
 これまたはじめて聞く話に、のぞみはため息をつく。まだまだあやかしの世界の事情は知らないことがたくさんありそうだ。
 でもそういえばとのぞみは、かつて志津が紅の嫁のためのアパートにいたという話を思い出していた。
 紅は"志津が紅ではない別の狐の子を身ごもって実家に帰ったらいじめられる"と言っていた。
 なるほど、狐の一族がそういう考え方なら、彼が志津を実家へ帰すことに躊躇したのは納得だった。
「まぁ、結局は彼女は颯太と夫婦になったわけだから、一族からはよく思われていないみたいだね。勘当とまではいかないだろうけど……」
「そうなんですね」とのぞみは眉を下げた。
 颯太の妹であり、志津と息子の太一のことが大好きなのぞみにとっては、残念な話だった。
「まあ、以前の彼女ならそれを気に病んだかもしれないけれど、颯太と夫婦になった今は、そんなことはないだろう。のぞみというかわいい義妹もできたことだし」
 そう言って紅はのぞみの頭を優しく撫でる。そして気を取り直したように手を繋いだ。
「さあ、都はあの鳥居の向こうだよ。私たちも行こう」