結局その後、ふぶきは襖で隔てられた部屋にこもったままだった。
 しかも機嫌はますます悪くなる一方で、隣の部屋で少しでも子どもたちが騒ぐと、伊織がいちいち叱りにくる。
 子どもたちを静かにさせるのはかわいそうだとのぞみがいくら言ってもダメだった。
「あやかし園の子どもたちに礼儀作法をおしえるいい機会です。感謝していただかなくては」
 普段御殿では大神の側近を務めているという伊織にはサケ子も迂闊には口出しできないようだった。
 一方で見回りから帰ってきた紅は、隔てられた襖を見てもさほど驚きはしなかった。
「まぁ、はじめはこんなもんだろう。そう急くことはない」
 その言葉に無言で頷きながら、のぞみの胸は暗澹たる思いでいっぱいになった。
 彼の反対を押しきってふぶきを預かることにしたくせに、それみたことかと思われているに違いない。そんな卑屈な考えが頭に浮かんだ。
「ではまた明日。明日こそは、ふぶきさまに失礼のないようにお願いしますよ。ささ、姫さま。帰りましょう」
 午前一時半を過ぎたあやかし園の玄関に都からの迎えが来た。
 伊織が嫌味な言葉を口にして、ふぶきを水色の籠へ促す。
 ふぶきがぶつぶつと言いながらその籠へ乗り込んだ。
「伊織、わらわはもう来とうない」
「ダメですよ、姫さま。あやかし園へ通うのは姫さまの大事なお役目です」
 籠の御簾が下りたと同時にのぞみは伊織に呼びかけた。
「あの……!」
 伊織が振り返った。
「あの……、御殿でのふぶきちゃんに対するルールが園のものと随分違うのはわかりました。不慣れな点はお詫びします。でもここは保育園です。お預かりした子どもたちが皆健やかに安全にご両親の帰りを待つ場所です。ふぶきちゃんもここにいる間は、他の子どもたちと同じように過ごすというわけにはいきませんか。そうでないと、ふぶきちゃん、いつまで経っても園にお友だちができな……」
「その必要はございません」
 のぞみの言葉を遮って、伊織がピシャリと言い切った。
「ふぶきさまに一般のあやかしの友人など必要ありません。そのような目的であやかし園にお連れしているわけではございませんから」
 にべもなく言う彼の言葉に、のぞみは口を噤んで黙り込む。じゃあいったいなにが目的なんだとは聞けなかった。
 志津が言っていたように、伊織の目的はおそらく大神にとって目障りなあやかし園を排除して、のぞみを妃として連れ帰ることなのだろう。
 それ以外のことはなにも望んでいないのだ。
 でも……。
 のぞみの胸が締めつけられる。
 だとしたら、そんなのあんまりだ。
 大人同士のいざこざに、小さな子どもたちを巻き込むなんて。
 今日一日は、のぞみとあやかし園の子どもたちにとって、少し窮屈なつらい一日だった。
 でもそれはきっとふぶきだって同じはず。
 知らないところに連れてこられて知らないあやかしたちに囲まれて。
 ただでさえ両親がそばにいなくて不安なはずなのに、友だちも必要ないだなんて……。
「あやかし園に通い続けたいなら、園のルールを守ってもらう。内親王だろうとなんだろうと」
 穏やかに、でも有無を言わせない口調で、紅がふたりの間に割って入る。
 伊織はぴくりと眉を上げて、それでも考えを曲げなかった。
「内親王さまに対する振る舞いは、場所や相手を選ばないあやかし界の常識です。あやかし園だけが特別というわけには参りません」
 そして丸いメガネの奥から、のぞみを睨みつけた。
「もちろんそれはたとえ人間であろうとも。そもそも人間であるにも関わらず大神さまの妃に上がれるなど大変名誉なことなのですよ。ありがたくお受けする以外選択肢はないはずなのに、……これだから人間は」
「伊織‼︎」
「伊織!」
 のぞみに向かって最後は吐き捨てるように言った伊織の言葉を、紅とともに止めた人物がもうひとりいた。
 志津だった。
 たまたま太一を迎えに来ていて事態を見守っていたようだ。
 伊織ののぞみに対する物言いには、紅よりも彼女の方が怒り心頭だった。
「なんてことを言うんです! のぞみ先生に対する失礼な言葉はこの私が許しません!」
「姉さん……」
 伊織が驚いたように志津を見る。
 そして気の強いこづえにさえ怖いと言わしめる彼女の怒りに、のぞみが彼と出会ってからはじめて怯んだ様子を見せた。
「で、ですが、姉さん。ほ、本当のことです。のぞみさまは人間なのに、大神さまの妃になれるのですから……」
「人間なのにとはなんですか! 私たち狐の一族は、人間の信仰に支えられているのです! そのような物言いは絶対にしてはならないと小さい頃に何度も何度もおそわったでしょう⁉︎」
 志津のその剣幕に、伊織の顔色が変わる。
 一方で、狐の一族が人間をそのように思っていることにのぞみは驚いていた。
 でも思い返してみれば初対面の時から志津はのぞみに対して丁寧だった。
「伊織!」
 尻尾をピンと立てた志津に、切れ長の目で睨まれて伊織はあたふたとする。
「と、とにかく、明日からもこちらの要求は変わりません。それでは!」
 そして長居は無用とばかりに籠とたくさんの狐を連れて夜の空に帰っていった。
 志津が深いため息をついた。
「どうしてあんな融通がきかない男になったのかしら。昔は無邪気で可愛らしかったのに……」
「志津さんは伊織さんと親戚なんですよね」
 夜の空の狐の行列を見つめながらのぞみは彼女に問いかけた。
 志津が眉を寄せたまま、頷いた。
「又従兄弟にあたります。でも狐の一族は親戚一同が集まって子育てをしますから、私にとっては弟みたいなものですわ。小さい頃は本当にかわいくて、私の後ろをちょこちょこついてまわっていたのに……」
 あの伊織にそんな時があったなんて、とても信じられなかった。
 志津が昔を懐かしむように目を細めた。
「なに対しても興味深々で、勉強熱心で、本当に小さな頃から優秀だったんです」
 その親しみのこもった声音に、のぞみは彼女が本当に伊織をかわいがっていたのだと思う。
「そうなんですね」と呟いて、でもそこでわずかな違和感を覚えて、首を傾げた。
「志津さん」
「はい」
「……伊織さんって、志津さんよりも年下なんですか。もしかして、まだお若い……?」
 今さらだ。
 はじめから伊織は、志津のことを"姉さん"と呼んでいるではないか。
 でも、あの厳しい話し言葉になんとなく相当年上なのだと勝手に思い込んでしまっていた。
 志津がくすくす笑い出した。
「そうですよ、人間で言えばのぞみ先生と同い年くらいかしら」
「え⁉︎」
 のぞみは声をあげたまま絶句した。
 まさかあの伊織が自分と同い年くらいだなんて……!
 ……やっぱりあやかしの年齢の見当をつけるのはいつまで経ってもできそうにない。
 がくりと落ちるのぞみの肩に、温かい紅の手が乗った。
「あのじじいみたいな言葉使いも御殿のルールなんだろうか」
「紅さま」
 のぞみは振り返って彼を見る。
 紅が優しい笑みを浮かべた。
「のぞみ、奴を怖がって萎縮する必要なんてないんだよ。奴は御殿では出世したかもしれないけど、あやかし園では新参者なんだから。そうだな……せいぜい保育士の後輩がきたとでも思っていれば。うちも子どもたちが増えて忙しいんだ。せいぜいこき使ってやろう」
「こ、こき使う……」
 のぞみはそれに頷くこともできないままに、ただ呟くしかなかった。
 あの厳しいことばかりに言う丸いメガネの狐をこき使うなんて、そんなこと天と地がひっくり返ってもできそうにないと思いながら。