伊織が来た日から一カ月は何事もなく過ぎ去った。
 都からの横槍は、あるにはあるがそれほど頻繁ではなくなったと紅は言う。
 その言葉を裏付けるように彼があやかし園にいる時間は徐々に増えだしたから、あやかしたちの間には、もはや大神は諦めたのではないかという楽観的なムードが漂い始めた。
『今のうちに夫婦になってしまわれては? 子ができれば、大神さまも諦めるじゃろう』
 わざわざそんなことを言いにくる年寄りもいるくらいだった。
『そ、そういうわけにはいきません』
 もちろんのぞみは真っ赤になって否定した。
 だが肝心の紅が隣で『それは名案』となどと言ってカラカラ笑うものだから、膨れっ面になってしまった。
 そうやってしばらくの間はあやかし園に穏やかな時間が流れた。だがやはり、そのままめでたしめでたしとはいかなかった。
 季節は夏にさしかかり、少し蒸し暑くなってきたある日のこと。
「おはようございます、紅さま、先生」
「せんせー、おはよう!」
「おはよう! 今日も元気だねぇ」
 子どもたちの声が元気に響くあやかし園の玄関先で、のぞみは紅とふたり登園する子どもたちを迎えている。
 親と手を繋いでいる子どもたちはのぞみと紅を見つけるとその手を離し一目散に飛びついてくる。
 のぞみの大好きな時間だ。
「のぞみ先生、紅さま、今日も一日よろしくお願いします」
 親たちは安心したように頭を下げて、仕事へ行く。
 それを見送るのぞみの視線の先、青白い月がぷかりと浮かぶ夜の空に、突如としてもくもくと雲が現れ始めた。
 なんだか嫌な予感がして、のぞみは紅の袖を引く。
「紅さま、あれ」
 紅が空に視線を送り、「やっぱりきた」と呟いた。
 その言葉の通り、雲の中から現れたのは狐の行列。今日は水色の籠を担いでいる。クリスタルみたいな飾りがたくさんついた籠は、キラキラと月明かりに輝いていた。
 シャンシャーンと鈴が鳴って一行は、降り立った。
 先頭はやはりあの伊織だった。
「ごきげんよう、紅さま」
 にっこり笑って頭を下げる彼は、今日も燕尾服が決まっている。
 紅がうんざりしたようにため息をついた。
「本当にしつこいね、大神は。それだけ私ののぞみが可愛いということなんだけど、それにしたって粘着質だ。どうしようもない主人に仕えると召使いは大変だな」
 だがその紅の嫌味を、伊織はまったく意に介さずにニマニマと笑っている。
 そして少し意外なことを口にした。
「ご安心下さいませ。今日はその件で来たのではございません」
 紅が腕を組んで、ではなぜ来たのだと言わんばかりに彼を睨む。
 すると伊織はおもむろに後ろの籠を振り返り、「姫さま、保育園につきましてございます」と声をかけた。
 これまた意外な彼の行動に皆が唖然として見守る中、籠の御簾がするする上がる。中から、五歳くらいの女の子が下りてきた。
 背中まで伸びた真っ直ぐな水色の髪はクリスタルのように透き通り、ぷくぷくのほっぺは真っ白で、髪と同じ水色の瞳の上にちょこんと丸い眉が乗っている。服装は十二単衣だった。
 まるで平安時代の絵巻物から抜け出てきたようなその女の子は、目をパチパチさせて辺りを見回している。
 伊織が紅とのぞみに向き直りニヤリと笑って口を開いた。
「明日からあやかし園に入園いたします。内親王ふぶきさまにございます」
「ええ⁉︎」
 のぞみと紅はふたり一緒に声をあげる。本当に意外すぎる展開だった。
 紅が苦々しい表情で口を開いた。
「内親王ということは大神の子だろう? そんなの預かれるわけないじゃないか」
「どうしてです?」
 伊織がどこかわざとらしい仕草で首を傾げて紅を見た。
「だって、うちは保育園なんだ。保育の必要がある子どものための場所だからね。大神の子にその必要があるとは思えない」
 のぞみは少し驚いて紅を見る。珍しく園長らしいことを言っている……。
 だがそれに伊織が余裕の表情で言葉を返した。
「大神さまは、毎日執務で忙しくしていらっしゃいます。ふぶきさまの母君、おゆきの方さまはただ今遠方へ出張中。ふぶきさまは間違いなく、"保育の必要がある子ども"でございますよ」
 そして右手をさっと上げると、折り畳まれた白い紙がふわふわと彼の隣にやってくる。
「勅命だ……」
「まただ……」
 事態を見守るあやかしたちからヒソヒソとささやき合う声が聞こえた。
 紅がうんざりしたような声を出す。
「御殿には召使いがたくさんいるだろう。いくら勅命でも決まりは決まりなんだから……」
 と、紅がそこまで言った時、伊織がニヤリと笑って手を下ろす。すると折り畳まれた紙がパッと皆の前に広がった。
 あやかしたちがしーんと静まり返る。紙に書いてある文字が全然読めないからだ。
 目を凝らしその紙をジッと見つめて、のぞみは思わず声をあげた。
「……あ! 役場からの通知書」
「え? 役場?」
 紅が意外そうに呟いた。
 伊織が満足そうに頷くと、紙はふわふわとのぞみの手元にやってくる。
 受け取り目を通すと、たしかに"大神ふぶきを山神保育園に入園させる"と書いてある。
 のぞみは首を傾げた。
「でも園の方には役場からはなにも言われていないのに……」
 紅が「あ」と声を漏らし、口元に手をあてた。
「紅さま?」
 のぞみが彼を追及すると、気まずそうに袖の中から茶色い封筒を取り出した。
「……忘れてた」
「もう!」
 茶封筒を奪い取って、のぞみは中身を確認する。確かにふぶきの入園に関する通知だった。
「入園開始は明日からでございます。本日は姫さまのご紹介と見学に参りました。ささ、姫さま、あちらが保育園でございます。明日から通うところですよ」
 伊織はふぶきに歩み寄り、勝手に保育園を紹介する。
 ふぶきが不満そうに保育園を睨んだ。
「なんと汚い建物じゃ」
「待て待て待て」
 それを紅が止めた。
「まだ預かるとは言っていないよ。うちはあやかし園なんだから、いくら役場が決めたことでも……」
「では役場に苦情を入れます。山神保育園が正当な理由なく姫さまの入園を拒否したと」
 間髪入れず伊織が言う。
 それにのぞみが反応した。紅の袖を引き、彼に囁く。
「紅さま、ダメです。うちは認可保育園なんですから、入園する園児は自由には選べません」
「え? ……そうなの?」
「そうです。認可を取り消されたりしたら、運営費もらえなくなっちゃいますよ」
「……」
 あやかしに本来お金は必要ない。
 でも園の設備を維持するために紅は役場から運営費をもらうことにしているのだ。毎日子どもたちが楽しみにしているお弁当や、のぞみの給料も運営費から出ている。
「ふふふ、決まりですね。さすがは大神さまのお妃候補のぞみさま。力が強いだけの天狗より賢明でいらっしゃる」
 伊織が嬉しそうにそう言って、ふぶきを籠の中へ促した。
「また明日参りましょう。ささ、姫さま中へ……」
「わらわ、こんな汚いところへもう来とうない」
 ふぶきはぶつぶつ言いながら籠に乗り込んだ。
「ではまた明日参ります」
 有無を言わせずそう言って、一行はまた夜の空へ帰っていった。
 残されたあやかし園の一同は唖然として、小さくなっていくその影を見送るしかなかった。