アパートの窓枠をガタガタと風が揺らしている。ざざざという木々の音を聞きながら、紅は窓際に立ち鋭い視線で夜の森を睨んでいる。
風呂から戻ってきたのぞみは、どこか近寄りがたい空気をまとう彼の横顔を、黙って見つめていた。
いつもは穏やかな彼がこんな目をしている時は、縄張りの中にあやしいものがいないどうか、全神経を集中させて感じとっている時なのだ。
のぞみは首にかけたタオルをギュッと握りしめた。
「……なにか、よくないことがあるんですか」
邪魔をしてはいけないと思いつつ、思わずのぞみは問いかける。
少し前の夜にサケ子が言っていた通り、最近の彼は以前よりも念入りに見回りをするようになった。
まるで、なにかを特別に警戒するかのように。
「ああ、のぞみ。お風呂は気持ちよかった?」
そう言って、振り返った彼はもういつもの彼だった。
のぞみはこくんと頷いて、窓際の彼の隣に立ち、窓の外を見つめた。
けれど夜の森にのぞみ自身はなにも特別なものは感じなかった。
「……最近、風が強いですね」
呟くと、大きな手が優しく頭を撫でてくれる。そして彼はのぞみを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、のぞみが心配するようなことはなにもないからね」
いつもの軽い調子でそう言って紅は肩をすくめる。それをどこかわざとらしく感じるのは、のぞみの気のせいではないはずだ。
「でも……」
なおものぞみ言いかける。するとひょいと抱き上げられて、すぐそばに敷いてある布団の上に寝かされた。
大きな手が、のぞみの頭を優しく撫でた。
「皆、私がもう紅さまのお嫁さまだと思っています。……なんだか騙しているみたいで、心苦しいんです」
ここのところずっと思っていたことを、のぞみはついに口にする。
紅がにっこりと微笑んだ。
「それは今すぐにでも本当の夫婦になりたいという誘いかい? 案外大胆なんだね、のぞみは」
わざとらしくそう言って、紅はのぞみの上に覆い被さる。
でもそのいつもの軽口に、今は応じる気になれなくて、のぞみは眉を下げて首を振った。
「……お許し、出てないじゃないですか」
その言葉に、至近距離にある彼の赤い目が瞬きを二回、三回。額と額をコツンと合わせて、小さくため息をつくとコロンと隣に寝そべった。
アパートの天井から下がるオレンジ色の古い電球を見つめたまま、ふたりはしばらくの間黙り込む。
先に口を開いたのは、紅だった。
「大神の許しなんて、本当にいらないよ」
うそだ、とのぞみは思う。
本当にそうなら、彼はもうとっくにそれを実行してるはず。
なのにそれをしないのは、やはりなにか不都合があるのだろう。
のぞみにはわからないなにかが。
「……もしもこのまま、結婚を許してもらえなかったら、紅さまはどうしますか。ずっとお許しが出なかったら……」
「……のぞみ?」
紅が眉を寄せて咎めるようにのぞみを見る。でも一度口にしてしまったら、もう止めることはできなかった。
「大神さま、すごく……すごく恐ろしい方でした。力で敵うとは思いません。本当に怒らせてしまったら、縄張りの皆も危険なんじゃないですか? それでも……皆を危険に晒しても結婚する必要があるんでしょうか。そもそも紅さまには人間の私なんかよりももっとふさわしい相手が……ん」
不安な思いが止めどなく溢れ出るその口を、紅の唇が少し強引に塞ぐ。温かい大きな腕が、のぞみをギュッと抱きしめた。
目を閉じて、彼の温もりだけを感じると、胸の中をぐるぐると吹き荒れていた不安の風が、少しだけ落ち着いてゆく。
「……いくらのぞみでも」
囁くように紅が言う。
その言葉に、のぞみはいつのまにか唇が離れていたことに気が付いた。
「いくらのぞみでも、その先を口にするのは許さない。……絶対に。のぞみはなにも心配しないで、私に任せていればいい。必ず私たちは夫婦になる。約束するよ」
彼にしては珍しい有無を言わせぬ強い言葉に安心して、のぞみはゆっくりと頷いた。
その一方で、小さな小さな疑問の芽が胸の中に芽生えるのを感じていた。
夫婦が、互いに互いを必要としてともに歩んでいくものならば、のぞみにとっては、相手は彼しかいないだろう。
彼はいつものぞみを守り大切にしてくれる。
……ではその逆はどうだろう。
彼にとって、のぞみでなくてはいけない理由。そんなもの、はたして存在するのだろうか。
「もうおやすみ」
優しく触れる彼の手がのぞみを夢の世界へと誘う。そこへ落ちる瞬間にのぞみの脳裏に浮かんだのは、大神に言われたあの言葉だった。
『おぬし、あやかし使いの血だな』
……彼は、のぞみがそうでなかったとしても、結婚したいと思うのだろうか。
必ず私たちは夫婦になると断言した紅の言葉を疑うわけではないけれど、のぞみの心は完全には晴れなかった。どこか掴みどころのない彼だけれど、いざという時は頼りになるのは確かなのに。
もし彼が、のぞみの中のあやかし使いの血のみに惹かれて夫婦になるというならば、本当にそれでいいのだろうかと、のぞみは思いはじめていた。
天気は相変わらず不安定で、紅の見回りの時間は日に日に増えていく。子を迎えに来る親たちからも不安を訴える声を漏れ聞くようになっていた。
そしてある日とうとう異変は起きた。
降園時間のことだった。
その日は昼間からずっと曇り空が続いていた。もくもくとした灰色の厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうなのに、夜になっても雨は降らない、変な天気だった。
「太一くん、今日も楽しかったね。さようなら」
狐の子太一に向かってのぞみはにっこりと笑いかける。
太一が白い尻尾をフリフリとした。
「うん楽しかった。のぞ先生バイバイ!」
太一と手を繋いでいる彼の母親志津が上品な仕草で頭を下げた。
「先生、今日もありがとうございました」
そして親しげに微笑んで、紫色の風呂敷で包まれたお弁当箱を差し出した。
「これ、また颯太が作ったんです。よかったら……」
「わあ、ありがとうございます」
のぞみはそれをいそいそと受け取る。
彼女の夫はのぞみの実の兄。駅前の商店街で寿司職人をしている彼は、時々こんな風にして、のぞみにいなり寿司を届けてくれるのだ。
狐のあやかしである妻の好物だというそのいなり寿司は、ほんのり甘い優しい味で、毎日食べても全然飽きない。
のぞみもこのいなり寿司が大好きだ。
「のぞ先生、またうちに遊びにきてくれよな」
ニカッと笑って太一が言う。
のぞみはにっこりして頷いた。
最近は隣町で家族三人で暮らしている兄夫婦とのぞみは頻繁に交流している。
志津のおかげだった。
彼女は、あやかしと夫婦になったことでのぞみと縁を切る決断をした兄を心配し、また家族の絆を結び直してくれた。
美しくて心優しい白い狐は、いつものぞみの憧れだ。
「ふふふ、またのぞみ先生がお休みの日にね」
志津が太一の頭を撫でる。
その姿にのぞみの胸がチクリと痛んだ。
彼女自身も人間と夫婦になったことで自分の家族とは距離ができたままなのだということを図らずものぞみは都で知った。
それが狐の一族の掟ならば、のぞみが口を出す問題ではないだろう。
でも……。
「……のぞみ先生?」
急に黙り込んでしまったのぞみに、志津が小さく首を傾げる。のぞみはハッして首を振った。
「なんでもありません。じゃあ、また次のお休みにでもお邪魔させてもらってもいいですか?」
のぞみの言葉に、志津は微笑んで頷いた。
太一がやったぁと飛び跳ねる。
その時。
次々に親が迎えに来て、少し騒がしいあやかし園に、びゅーと強い風が吹き抜ける。厚い厚い雲の隙間から、月がぼんやりと姿を見せた。
その月に皆、吸い寄せられるように視線を奪われる。
青白い、どこかきみが悪いその光は、まっすぐにあやかし園を照らしている。
「あれは、なんだ……?」
訝しむような誰かの声。
光の中に黒い点が現れた。
それはどんどん近づいて、次第に形を成してゆく。
「あれは……」
狐たちの行列だった。
皆いい服を着て、澄ました顔で歩いている。
黒い漆に金箔の飾りが付いた、豪華な籠を背負っていた。
先頭を行く一際上品な狐は都で出会ったあの伊織だった。
「まさか……」
形のいい眉を寄せて志津が呟いた。
まるで大名行列のようなその一行は、どんどんこちらに近づいてくる。
なにやら不吉な予感がして、のぞみの身体がふるりと震えた。
「のぞみ先生、紅さまは?」
長を求める志津の言葉が、のぞみをまた不安にさせる。
のぞみはふるふると首を振った。
「山へ行かれています。……志津さんあれは?」
志津が行列に視線を送り、低い声で囁いた。
「都からの……大神さまからの使者です。こんなこと滅多にあることじゃないのに……いったいどうしたのでしょう」
大神という言葉に、のぞみは震えあがってしまう。
思わず森を振り返るが、紅はまだ帰ってこない。
「こっちへ来る……」
志津が呟いたその時。
シャンシャーンと大きな鈴の音が響き渡り、辺りはしーんと静まり返る。
皆が固唾を呑んで見守る中、一行はのぞみの前に降り立った。
先頭の伊織が、一歩前に歩み出て、のぞみに向かって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、のぞみさま」
のぞみはそれに応えられない。
都での出来事が頭に浮かんでいたからだ。あんなことがあったのに平然としていられるわけがないだろう。
「伊織、いったいこれは……?」
尋ねる志津に、のぞみは彼女が伊織の親戚だということを思い出す。
だが伊織は彼女からの問いかけを、あっさりと黙殺した。
そして鋭い切れ長の瞳でのぞみをジッと見つめてから、驚くべき言葉を口にした。
「おめでとうございます、のぞみさま。この程、あなたさまを大神さまのお妃さまとしてお迎えするための準備が御殿にて整いましてございます。大神さまが都にてお待ちかねでございますよ。どうぞご準備くださいませ」
静まり返っていたその場に、伊織の声はよく響いた。
だがあまりにも突拍子のないその言葉の内容に、すぐには誰も反応しない。
都での一件を知っているのぞみでさえも飲み込めないのだから、皆はなおさらそうだろう。
志津が「まさか」と呟いた。
伊織だけが、冷静だった。にっこりと微笑んで、のぞみに向かって口を開く。
「のぞみさま、必要なものはすべてこちらで整えさせていただきます。御身ひとつでお越しくだされば結構なのですよ。どうぞこちらにお乗りください」
伊織の言葉に、籠の御簾がふわりと上がり、そこからするりと梯子が下りる。
ふわりと香る高貴な香りは、都の御殿を彷彿とさせた。
「あの……私……」
のぞみは思わず後ずさる。このままでは有無を言わせず籠に乗せられてしまう。
すると志津が歩み出て、籠とのぞみの間に立った。
「伊織、なにかの間違いでありませんか。のぞみさまは、この縄張りの長である紅さまのお嫁さまなのですよ」
伊織が眉を寄せて志津を睨んだ。
「姉さん、間違いなんかじゃありません」
「でも、そんなことありえないわ。とにかく紅さまがお帰りになるまでは……」
「その必要はありません!」
びりりとその場を緊張させる鋭い声で言い放ち、伊織はさっと右手を上げる。するとそれに従うように緑色の巻物がふわふわと伊織の隣までやってきた。
彼は一同を見回して、最後に志津をじろりと睨む。
そしてここが肝心とばかりに大きな声を張り上げた。
「これは、大神さまからの勅命にございます!」
慇懃に頭を下げる彼の隣で、巻物の紐がするりと解けて皆の前に広がった。
晒された白い和紙の上、黒い墨のぐにゃぐにゃ文字に、事態を見守るあやかしたちからおおっ!という声があがる。
「そんな……まさか……」
志津が掠れた声を漏らした。
間髪入れずたくさんの狐たちがのぞみと志津を取り囲む。
「ひっ……!」
喉の奥から引き攣った声が出て、のぞみは志津と手を取り合った。
志津が切羽詰まった声をあげる。
「ま、待って……! 伊織……!」
伊織がスッと目を細め、無情なことを言い放つ。
「捕らえよ!」
周りを取り囲む狐たちが、のぞみ目がけて飛び上がる。
のぞみが思わず目を閉じた。
——その時。
びゅーと風が強く吹いた。
ぎゃ!という叫び声とばたばたとなにかが倒れるような音、恐る恐る目を開けると、紅の背中がそこにあった。
吹き飛ばされた狐たちは、あちらこちらに散らばって、うめき声をあげている。
「紅さま‼︎」
のぞみと志津は声をあげる。紅が振り返って、微笑んだ。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫。志津、ありがとう」
志津が頷いて下がっていった。
パチパチパチと手を叩く音がして皆がそちらに注目する。伊織だった。
「さすがでございます、紅さま。大神さまの術をこの短時間で見破るとは。やはりあなただけは他の長たちとは違いますね」
わざとらしく称賛の言葉を口にして、冷淡な眼差しで紅を睨んでいる。
紅が彼に向き直った。
「以前私はのぞみには触るなと言ったはずだ。いくらお前でも容赦しない。次は命をかける覚悟をしろ」
静かな怒りを帯びた低い声、目尻が赤く光っている。
だが伊織は怯むことはなかった。
「ですが他でもない大神さまの命にございます」
平然として言葉を返し、よく響く声でとうとうと語り始めた。
「そもそも都にて大神さまはあなた方の結婚をお許しにはならなかった。のぞみさまは大神さまの妃にするとおっしゃったのに、それを無視して都を脱出された。それからも、のぞみさまを引き渡すよう再三要求しておりましたのに、それらもすべて退けておしまいになられた。……大神さまに背くとは、いくら紅さまでも許されることではありませんよ」
「再三の要求……」
のぞみは眉を寄せて頷いた。初耳だが、心当たりがないわけでもない。
都から帰ってきてからずっと天気は不安定で、紅の見回りは頻繁だ。
一方で、都での出来事が暴露されて、周りで事態を見守っているあやかしたちに動揺が広がってゆく。
「そんな、まさか……」
「許しを得られていなかったなんて……」
「知らなかった」
ヒソヒソと囁き合う声が、あちらこちらから聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと痛む。
皆がのぞみをお嫁さまだと思い込んでいるのをのぞみは否定しなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
「あの話は断ったはずだ。のぞみは大神の妃なんかにしない」
きっぱりとした紅の言葉に、あやかしたちがなんともいえない空気になる。
いくら長の決断でも勅命に逆らって大丈夫なのかと不安を感じているのだろう。
「……では、お考えは変わらない、と」
伊織の眼鏡がキラリと光る。
紅が呆れたようにため息をついた。
「どうして私の考えが変わると思うんだ。……もう一度言う。のぞみは私と夫婦になる。誰にも渡さない」
そしてゆっくりと腕を上げて、手のひらを伊織に向ける。銀髪がふわりと浮かび上がり、赤い風が紅とのぞみの周りをぐるぐると回り出した。
「仕方がありませんね」
伊織がため息をついた。
「今この場でやり合ってあなたに勝てる見込みはありませんから、本日はこれにて失礼させていただきます」
だが帰り際に、釘を刺すのも忘れてはいなかった。
「大神さまのお心に背いたこと、くれぐれも後悔なさいませんように……」
「黙っててごめんなさい……」
しょんぼりとして頭を下げるのぞみに、こづえが神妙な表情で首を振った。
「いや、おいそれと口にできる話じゃないからね。仕方がないよ」
いつもの時間のいつもののぞみの部屋である。
昨夜伊織が引き上げた後、集まっていた縄張り中のあやかしたちに、紅はことの経緯を説明した。
その上で、大神の要求には応えないが、縄張りは必ず守ると宣言したのだ。
その彼の話に、納得したあやかしはのぞみが思うに半分ほど。残りの半分は首をひねりながら、どこか釈然としないまま、不安そうに帰っていった。
伊織が言っていた通り大神からの要求は実は頻繁にあったのだという。
少々乱暴な方法で突きつけられる要求から縄張りを守るため、紅はしょっちゅう山へ行っていた。そうして少々疲労が溜まっていたところに術をかけられてしまい、昨夜は駆けつけるのが遅くなったのだという。
伊織が去った後、紅はサケ子とこづえ、それから志津を集めた。そして、今後しばらくは、紅が山へ行っている間は必ず誰かがのぞみのそばにいるようにしてほしいと彼女たちに頭を下げた。園が開く前はこづえが、保育時間中はサケ子が、休みの日は志津が、といった具合だった。
三人はその紅の頼みをふたつ返事で快諾した。
それをありがたいと思いつつ、のぞみの胸は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
大神うんぬんは関係なく、今までだってのぞみの生活は大体そんな感じだったのだから特別になにかが変わるというわけではない。
それでも、誰かに守られていなければ紅のそばにもいられない弱い存在である自分がもどかしくて、悔しかった。
「それに、紅さまのやり方は正しかったと思う」
うつむいたままの顔を上げられないでいるのぞみに、こづえが難しい表情で口を開いた。
「のぞみを渡せない以上、大神さまが諦めるまでのらりくらりするしかないだろう。小競り合いはともかくとして、龍と天狗が本気で戦ったりしたら、大変なことになっちまう」
「大変なことに……?」
のぞみは顔を上げた。
「そう、天変地異が起きるんだ。他のあやかしたちも無傷ではいられないはずだよ。まさかのぞみを妃に欲しいからってそこまでなさらないとは思うけど……。でも、紅さまとしては慎重に、のらりくらりするしかないのさ。大神さまが諦めてくださるまで」
天変地異という恐ろしい言葉にのぞみはぶるりと身体を震わせた。
「……大神さま、諦めてくださるでしょうか」
こづえがうーんと唸って首を傾げた。
「紅さまがおっしゃった通りはじめはほんの気まぐれだったと思うんだ。大神さまはあらゆる種類のあやかしを妃に迎えておられるけど、そういえば人間はいなかったからね。でもあっさり断られたから、メンツを潰されて意地になっていらっしゃるのかも……」
都でのふたりのやり取りを見ているのぞみにはどこか納得のいく話だった。
「もともと大神さまは特別力が強い紅さまを疎ましく思っていらっしゃったから、なおさら許せないんだろう。近ごろ紅さまの縄張りの評判がいいのも気に食わなかったのかもしれない」
少し意外なこづえの話にのぞみは首を傾げて問いかける。
「紅さまの縄張りって評判がいいんですか?」
こづえは深く頷いた。
「うんいいよ。紅さま自身は縄張りのあやかしたちに対しては来るもの拒まず去る者追わずなんだけど、ここは田舎なのに、あやかしたちがたくさん集まる縄張りさ。なにせ居心地がいいからね」
ずずずと茶をすすってから、こづえはまた話し始めた。
「紅さまは他の長に比べても圧倒的に力が強いんだ。強い長の縄張りでは揉め事は起きにくい。安全だ。しかも保育園がある」
「保育園が?」
「そう、子育てするには最適さ」
こづえがにっこり笑って頷いた。
「普通のあやかしはぞぞぞ稼ぎの時間は子はほったらかしにするより他にないからね。ヌエ以外にも危険なことはたくさんある。長さまが預かってくださるなら、こんなにありがたいことはないんだよ。私がかの子の父親と夫婦別れをした後ここへやってきたのは、保育園があったからなんだ」
そう言ってこづえは隣で金平糖をカリコリかじるかの子のおかっぱ頭を撫でた。
「私と同じように子育てのためにここに移ってきた奴らは結構いるはずだ。保育園も随分園児の数が増えたんじゃないかい?」
そういえばそうだった。
のぞみが入った時は二十人ほどだった子どもたちは徐々に増えて今や二十五人。新しく入った子たちすべてが別の場所から来た子たちだった。
「知らなかった……」
「今回の騒動でこの縄張りを離れるあやかしもいるだろう。この先どうなるかはわからないけど、保育園があるのはここだけだから、少なくともあやかし園の親子は簡単によそへは行かないだろう」
こづえの言葉にのぞみはホッと息を吐く。なんだか少し嬉しかった。
あやかし園があるから紅の縄張りに住みたいと思うあやかしたちがいる。
もちろんあやかし園を始めたのは紅だ。紅が園長先生だから、皆安心して子を預けに来るのだろう。
それでもそこで働く自分も少しは役に立っているはず。
思いがけないこづえの話にのぞみは口を綻ばせる。
こづえが頬杖をついてにっこりとした。
「危なくないように預かってくれるだけでも十分なのに、子どもたちが楽しんで行ってくれるんだ。簡単には離れられない。紅さまも思った以上にしっかりとここを守ってくださっていることだしね。正直言ってここまで紅さまの力が強いとは思わなかったけど」
大神からあったという再三の要求にはのぞみだけでなくあやかしたちも気が付かなかったという。
だったら、彼は完璧に縄張りを守ってくれていたということになる。
「このまま、引き下がってくれるといいんですけど……」
のぞみの言葉にこづえはまた難しい表情になった、
「正攻法でいっても難しいのは向こうはよくわかったはずだ。でもこのまま諦めるとも思えない。……次は伊織らしい姑息な手を使ってくるのかも」
「伊織さんらしい……」
丸い眼鏡の奥の鋭い目が脳裏に浮かび、のぞみはぶるりと身体を震わせた。
伊織が来た日から一カ月は何事もなく過ぎ去った。
都からの横槍は、あるにはあるがそれほど頻繁ではなくなったと紅は言う。
その言葉を裏付けるように彼があやかし園にいる時間は徐々に増えだしたから、あやかしたちの間には、もはや大神は諦めたのではないかという楽観的なムードが漂い始めた。
『今のうちに夫婦になってしまわれては? 子ができれば、大神さまも諦めるじゃろう』
わざわざそんなことを言いにくる年寄りもいるくらいだった。
『そ、そういうわけにはいきません』
もちろんのぞみは真っ赤になって否定した。
だが肝心の紅が隣で『それは名案』となどと言ってカラカラ笑うものだから、膨れっ面になってしまった。
そうやってしばらくの間はあやかし園に穏やかな時間が流れた。だがやはり、そのままめでたしめでたしとはいかなかった。
季節は夏にさしかかり、少し蒸し暑くなってきたある日のこと。
「おはようございます、紅さま、先生」
「せんせー、おはよう!」
「おはよう! 今日も元気だねぇ」
子どもたちの声が元気に響くあやかし園の玄関先で、のぞみは紅とふたり登園する子どもたちを迎えている。
親と手を繋いでいる子どもたちはのぞみと紅を見つけるとその手を離し一目散に飛びついてくる。
のぞみの大好きな時間だ。
「のぞみ先生、紅さま、今日も一日よろしくお願いします」
親たちは安心したように頭を下げて、仕事へ行く。
それを見送るのぞみの視線の先、青白い月がぷかりと浮かぶ夜の空に、突如としてもくもくと雲が現れ始めた。
なんだか嫌な予感がして、のぞみは紅の袖を引く。
「紅さま、あれ」
紅が空に視線を送り、「やっぱりきた」と呟いた。
その言葉の通り、雲の中から現れたのは狐の行列。今日は水色の籠を担いでいる。クリスタルみたいな飾りがたくさんついた籠は、キラキラと月明かりに輝いていた。
シャンシャーンと鈴が鳴って一行は、降り立った。
先頭はやはりあの伊織だった。
「ごきげんよう、紅さま」
にっこり笑って頭を下げる彼は、今日も燕尾服が決まっている。
紅がうんざりしたようにため息をついた。
「本当にしつこいね、大神は。それだけ私ののぞみが可愛いということなんだけど、それにしたって粘着質だ。どうしようもない主人に仕えると召使いは大変だな」
だがその紅の嫌味を、伊織はまったく意に介さずにニマニマと笑っている。
そして少し意外なことを口にした。
「ご安心下さいませ。今日はその件で来たのではございません」
紅が腕を組んで、ではなぜ来たのだと言わんばかりに彼を睨む。
すると伊織はおもむろに後ろの籠を振り返り、「姫さま、保育園につきましてございます」と声をかけた。
これまた意外な彼の行動に皆が唖然として見守る中、籠の御簾がするする上がる。中から、五歳くらいの女の子が下りてきた。
背中まで伸びた真っ直ぐな水色の髪はクリスタルのように透き通り、ぷくぷくのほっぺは真っ白で、髪と同じ水色の瞳の上にちょこんと丸い眉が乗っている。服装は十二単衣だった。
まるで平安時代の絵巻物から抜け出てきたようなその女の子は、目をパチパチさせて辺りを見回している。
伊織が紅とのぞみに向き直りニヤリと笑って口を開いた。
「明日からあやかし園に入園いたします。内親王ふぶきさまにございます」
「ええ⁉︎」
のぞみと紅はふたり一緒に声をあげる。本当に意外すぎる展開だった。
紅が苦々しい表情で口を開いた。
「内親王ということは大神の子だろう? そんなの預かれるわけないじゃないか」
「どうしてです?」
伊織がどこかわざとらしい仕草で首を傾げて紅を見た。
「だって、うちは保育園なんだ。保育の必要がある子どものための場所だからね。大神の子にその必要があるとは思えない」
のぞみは少し驚いて紅を見る。珍しく園長らしいことを言っている……。
だがそれに伊織が余裕の表情で言葉を返した。
「大神さまは、毎日執務で忙しくしていらっしゃいます。ふぶきさまの母君、おゆきの方さまはただ今遠方へ出張中。ふぶきさまは間違いなく、"保育の必要がある子ども"でございますよ」
そして右手をさっと上げると、折り畳まれた白い紙がふわふわと彼の隣にやってくる。
「勅命だ……」
「まただ……」
事態を見守るあやかしたちからヒソヒソとささやき合う声が聞こえた。
紅がうんざりしたような声を出す。
「御殿には召使いがたくさんいるだろう。いくら勅命でも決まりは決まりなんだから……」
と、紅がそこまで言った時、伊織がニヤリと笑って手を下ろす。すると折り畳まれた紙がパッと皆の前に広がった。
あやかしたちがしーんと静まり返る。紙に書いてある文字が全然読めないからだ。
目を凝らしその紙をジッと見つめて、のぞみは思わず声をあげた。
「……あ! 役場からの通知書」
「え? 役場?」
紅が意外そうに呟いた。
伊織が満足そうに頷くと、紙はふわふわとのぞみの手元にやってくる。
受け取り目を通すと、たしかに"大神ふぶきを山神保育園に入園させる"と書いてある。
のぞみは首を傾げた。
「でも園の方には役場からはなにも言われていないのに……」
紅が「あ」と声を漏らし、口元に手をあてた。
「紅さま?」
のぞみが彼を追及すると、気まずそうに袖の中から茶色い封筒を取り出した。
「……忘れてた」
「もう!」
茶封筒を奪い取って、のぞみは中身を確認する。確かにふぶきの入園に関する通知だった。
「入園開始は明日からでございます。本日は姫さまのご紹介と見学に参りました。ささ、姫さま、あちらが保育園でございます。明日から通うところですよ」
伊織はふぶきに歩み寄り、勝手に保育園を紹介する。
ふぶきが不満そうに保育園を睨んだ。
「なんと汚い建物じゃ」
「待て待て待て」
それを紅が止めた。
「まだ預かるとは言っていないよ。うちはあやかし園なんだから、いくら役場が決めたことでも……」
「では役場に苦情を入れます。山神保育園が正当な理由なく姫さまの入園を拒否したと」
間髪入れず伊織が言う。
それにのぞみが反応した。紅の袖を引き、彼に囁く。
「紅さま、ダメです。うちは認可保育園なんですから、入園する園児は自由には選べません」
「え? ……そうなの?」
「そうです。認可を取り消されたりしたら、運営費もらえなくなっちゃいますよ」
「……」
あやかしに本来お金は必要ない。
でも園の設備を維持するために紅は役場から運営費をもらうことにしているのだ。毎日子どもたちが楽しみにしているお弁当や、のぞみの給料も運営費から出ている。
「ふふふ、決まりですね。さすがは大神さまのお妃候補のぞみさま。力が強いだけの天狗より賢明でいらっしゃる」
伊織が嬉しそうにそう言って、ふぶきを籠の中へ促した。
「また明日参りましょう。ささ、姫さま中へ……」
「わらわ、こんな汚いところへもう来とうない」
ふぶきはぶつぶつ言いながら籠に乗り込んだ。
「ではまた明日参ります」
有無を言わせずそう言って、一行はまた夜の空へ帰っていった。
残されたあやかし園の一同は唖然として、小さくなっていくその影を見送るしかなかった。
「伊織は昔から一族の中でもずば抜けて頭がよかったんです。だから、御殿でも他の者たちよりも早く出世した。役場の手続きなんて朝飯前ですわ」
ぷりぷりしながらそう言って、志津は持参したいなり寿司を食べている。
その隣でこづえが茶をずずずとすすった。
心なしかいつもより小さくなって座っているようにも思えるその姿に、のぞみは以前彼女が『狐は怖い』と言っていたのを思い出してくすりと笑った。
午後三時ののぞみのアパートの部屋である。
いつものように、かの子を連れてこづえが来たそのすぐ後に、志津も太一を連れてやって来たのである。
今日から来る新入園児について話しておきたいことがあるという。
志津の主張はこうだった。
「大神さまは、あやかし園のおかげで紅さまの縄張りの評判がいいことを前々から苦々しく思ってらしたんです。きっとのぞみ先生があやかし園で働いていると知って、一石二鳥だから、つぶしてしまおうと思われたんですわ。伊織は頭がいいですから、園が拒否できないような手段を考えたのでしょう。ふぶき内親王がどのような方か私は存じ上げませんけれど、ただ預けるだけが目的ではないはずです」
綺麗な眉を寄せて、志津はいなり寿司を食べ続ける。白い尻尾がピンと立っていた。
隣でこづえが頷いた。
「まぁ、そんなところだろうね」
「まったく、やっかいなことになってしまったよ」
声がして三人が振り返ると、ドアのところに紅がいて、やれやれとため息をついている。
「紅さま‼︎」
子どもふたりが嬉しそうに彼に飛びつくと、紅はふたりをひょいと抱き上げて、のぞみたちの方へやってきた。
「だいたいどう考えても、ふぶきに保育の必要があるとは思えない。おゆきが、出張中だなんて嘘っぱちさ。あのおゆきが仕事なんかするわけがないだろう」
ぶつぶつ言いながら紅はちゃぶ台の前に座り、いなり寿司を口に放り込む。
その言葉に、のぞみは彼に問いかけた。
「紅さま、ふぶきちゃんのお母さんのこと知ってるんですか」
「……え?」
紅が不意を突かれたように言葉に詰まり、目をパチパチとさせた。そしてそのまま皆をぐるりと見回した。
「そりゃあ……もちろん知ってるよ。大神の妃だからさ。妃のことはだいたいのあやかしは知ってるものだ。それに妃が働く必要なんてない。そうだろう? ……志津?」
「……えぇ、まぁ」
志津が曖昧に頷いて、こづえが胡散くさそうに彼を見ている。
のぞみはまた口を開いた。
「でもさっき、おゆきって……」
「と、とにかく、なにか企んでるのには間違いないんだから。来たとしても追い返そう!」
遮るようにそう言って、彼にしては珍しく少し早急に結論を出そうとする。
その言葉に、のぞみは慌てて首を振った。
「そんな! ダメです!」
「どうして? 役場への苦情なんか怖くないよ。向こうだって役場を騙してるんだからこっちだって……」
「でもその大人の事情と、ふぶきちゃん自身は関係ないじゃないですか」
のぞみはきっぱりと言い切った。
「伊織さんがなにか企んでるという話は理解できました。でもお預かりした子は皆平等です。どんな理由であれお母さんが遠方へ行かれていて、お父さんも仕事で忙しいなら、その時間を園で楽しく過ごしてもらいたいと思います」
「でも大神の子だよ?」
紅が確認するように言う。
のぞみは頷いた。
「誰の子でも関係ありません」
「のぞみらしいね」
こづえが苦笑した。
「本当に」
志津が微笑む。
のぞみは少し前に聞いたこづえの話を思い出していた。
子育て世代のあやかしたちにとって、あやかし園はありがたい場所なのだという。あやかし園があるからここに住もうと思うくらいに。
子を大切に思う気持ちはあやかしも人間も同じなのだ。
だったらあやかし園をなんとしても守りたい。
もちろん紅の言うようにふぶきを門前払いにして、力で守るという方法もあるだろう。彼女の入園は皆が言うように、伊織の作戦のうちなのだろうから。
でもあやかし園は保育園なのだ。園児を拒否するという行為はできればしたくないとのぞみは思う。
どんな理由があるにせよ、簡単にそれをしてしまったら本末転倒だ。
一方で、ふぶきという子自体にものぞみは興味を引かれていた。
母親は遠方にいて父親は仕事で忙しいなら、たとえ面倒をみてくれる大人がそばにいたとしても寂しくないはずがない。だったらせめて少しの時間だけでも、あやかし園で楽しく過ごしてはどうだろう。
子ども同士で遊ぶ時間は、大人が思うよりも子どもにとっては楽しい時間だ。
もしかしたらのぞみがこう思うことさえも伊織の思惑通りなのかもしれないけれど……。
「まぁ、仕方がないね」
紅がにっこりと微笑んでグイッとのぞみの肩を抱き寄せる。そしてそのまま嬉しそうに頬ずりをした。
「私ののぞみは誰よりも子どもたちを思う優しい先生だから」
「ちょっ……! こ、紅さま! かの子ちゃんと太一君がいるのに……!」
のぞみは真っ赤になって声をあげる。
かの子と太一が喜んで、「らぶらぶだー! らぶらぶだー!」と言いながら、畳の上をぴょんぴょんと飛び跳ねた。
のぞみは両手で紅を押して、頬を膨らませて彼を睨んだ。
「もう、紅さまはいつもふざけて邪魔ばかり」
「え? 邪魔?」
「そうです! この前だって、せっかく私の抱っこでえんちゃんが寝てくれそうになってたのに、紅さまが後ろから抱きついてきたから泣いちゃったじゃないですか!」
とぼけたように首を傾げるのが憎らしくて、のぞみはつい最近の出来事を口にする。
その言葉に紅が口を尖らせた。
「赤子は泣くのが仕事じゃないか。それにあの時は仕方がなかったんだよ。のぞみが……」
「私が?」
のぞみが眉を上げて聞き返すと、紅がしれっとして支離滅裂な言葉を口にした。
「あの日はのぞみがかわいいお団子頭だったから、どうしても抱きつかずにはいられなかったんだ。ぴょこんと出た後毛がたまらなくかわいくて……」
「もう!」
意味不明な理由をあげる紅に、のぞみは目を釣り上げて立ち上がった。
彼がこうやってふざけるのはいつものこと。
決して悪気はないとわかっていてもなんだか無性に腹立たしかった。
のぞみは所詮人間で、あやかしの世界ではいつも誰かに守られていなくてはならない弱い存在だ。それはとても歯がゆいけれど、どうすることもできない。
それでもあやかし園の保育士としてなら少しは誰かの役に立てるのだとそう思っていたかった。
だから頑張っているのに……!
「とにかくこれからは私がえんちゃんを抱っこしている時は、私に触らないでくださいね!」
のぞみはそう言い放ち、紅を睨む。
紅が愕然として、「そんな……のぞみここのところしょっちゅうえんを抱いているじゃないか……」と呟いた。
「紅さま、かわいそう。でもえんちゃんのためですから、こらえてくださいね」
うなだれる紅の頭を小さい手でよしよしとして、かの子が彼を慰める。
「のぞみは毎日えんと過ごしているから、もうすっかり母親の気持ちなんだろう。母親になれば女は強くなって、時に旦那がうっとおしく感じるもんなんだよ」
訳知り顔でそう言って、こづえが忍笑いを漏らした。
のぞみは困り果てていた。
あやかし園のいつもの部屋、普段は子どもたちが走り回りおもちゃを好きに広げて遊んでいる二間続きの和室のひと部屋を、ふぶきとふぶきのお目付役としてついてきた伊織が占領してしまっているからである。
ふぶきは、前日と同じようにたくさんの狐を連れて籠に乗ってやってきた。そして部屋に入るなり御殿から持参した立派な屏風を背に、これまた御殿から持ってきた親王台の上に座り、脇息にもたれかかっている。
鮮やかな十二単衣を着て、唇にうっすらと紅をさしている彼女は、雛人形のようにかわいらしい。でも表情はすこぶるさえなかった。
眉を寄せて不満そうにしている。
「伊織、わらわはもう帰りたい」
「姫さま、そういうわけにはまいりません。保育園へ通うようにというのはお父さまのお言いつけでございますから」
伊織は丁寧に、でもきっぱりと首を振る。
ふぶきがあやかし園に登園してから一時間とちょっと、ふたりは同じやりとりを数分ごとに繰り返していた。
他の子どもたちは、おっかなびっくり、空いている方の部屋からそのやり取りを見つめている。
それもこれもいつものように部屋で子どもらが遊ぶのを伊織がやめるように言ったからだ。
『ふぶき内親王の御前にございますよ』
内親王の意味を子どもたちが理解したがどうかは不明だが、鋭い目つきの伊織にぴしゃりと言われて皆大人しくなってしまった。
庭で遊ぶ子たちもやはり気になるのか、どことなくいつもより静かだった。
そのふぶきが真っ白なほっぺをぼた餅みたいに膨らませて、伊織を睨んだ。
「お父上は、保育園は楽しいところだとおっしゃったのじゃ。だからわらわは、行くと言った。それなのに全然楽しゅうないではないか」
「あのー、ふぶきちゃん?」
とうとうのぞみはふたりの会話に割って入った。
紅は見回りに行っていて、サケ子はえんに乳をやっている。
この状況を打開するのは自分しかいない。
ふぶきが首を傾げてのぞみを見た。
「ぬしは、誰じゃ」
ふぶきはさっき登園した際に自己紹介はしたはずなのに、まるで初めて見るように目をパチクリとさせている。
のぞみはもう一度にっこり笑って自己紹介をした。
「のぞみです。この保育園の先生よ。ここにはふぶきちゃんと同じくらいの子たちがたくさんいるの。一緒に遊ばない?」
ふぶきはまた目をパチパチさせて、首を振った。
「嫌じゃ、ここは汚い。この親王台から出とうない」
その言葉に、のぞみは彼女が持参した親王台とあやかし園の畳を見比べた。
たしかにまだ井草の香りが漂ってきそうなくらい青々とした親王台の畳に比べて、あやかし園の方の畳はあちこちささくれ立っているし、なにやらシミのようなものもある。
控えめに言ってボロボロだった。
「そ、掃除はちゃんとしてるのよ。古いだけで不潔ってわけじゃないと思うけど。だったらそこからふぶきちゃんが動かないでもできるような遊びをしよう。なにがあるかな?」
のぞみは興味深々でふぶきを見つめている他の子どもたちに問いかけてみる。
すぐにたくさんの声があがった。
「トランプ!」
「ぬりえ!」
「パズル!」
のぞみは期待を込めてふぶきを見る。
だが彼女は眉を寄せただけだった。
「なんじゃ、それは」
「姫さまはそのような低俗な遊びはなさいませぬ。内親王さまであられますゆえ」
隣で伊織が嫌味に捕捉する。
ぬりえやパズルのいったいどこか低俗なのか、のぞみは少しムッとするが、一人の子が言った言葉にふぶきが反応した。
「すごろく!」
「おお、すごろくなら知っておる」
子どもらしく目を輝かせるのがかわいらしい。
のぞみはさっそくやりたいという子たちを集めてすごろくで遊ぶことにした。
他の子どもたちもそれぞれ別のおもちゃを持ち出してきて、思い思いに遊び始める。
ふた部屋のうちひと部屋しか自由には使えないという少し窮屈な状況ではあるが、日常の風景が戻ったことに安堵して、のぞみはホッと息を吐いた。
内親王という特殊な立場のふぶきだから、他の子どもたちと違うところはたくさんあるのは仕方がない。
それでもまだ幼い子どもには違いないのだから、少しずつ順応していくだろうとのぞみは思った。
だがことはそう単純ではなかった。
「おいお前、どうしてわらわより先にあがろうとする。ダメじゃ、一回休め」
すごろくの後半、ふぶきが発した言葉に、参加していた子どもたちとのぞみ、皆が首を傾げた。
お前と声をかけられたかの子も、ぽかんと口を開けている。
さっきかの子が振ったサイコロは六、このままいけば一番にあがりのはずだった。
不可解なふぶきの行動を、隣の伊織が説明する。
「ふぶきさまよりも先にあがってはいけません。これは内親王さまとすごろくをするときのルールでございます」
「そんなルール知らない!」
かの子が声をあげる。
のぞみも後に続いた。
「伊織さん、それはちょっと……御殿のルールはともかくとして、ここではお預かりした子どもたちは皆平等ですそういった特別扱いはできません」
「おやおや!」
伊織が大袈裟に驚いて見せる。
少しわざとらしくも思えるその仕草に、のぞみは眉をひそめた。
「内親王ふぶきさまの御前で控えめに舞うべきだということは、あやかしであれば守らなくてはならない最低限の礼儀作法です。場所は関係ありません。保育園ではそんなこともおしえないというのですか? これはこれは」
一方的な伊織の言い草にのぞみは内心で反発を覚えるが、これがあやかし界の共通のルールなのだ言われたらなにも言えなくなってしまう。
子どもたちがあやかしとして生きていくために、必要なことをおしえてあげるのも保育園の役割だからだ。
でも……。
「そんならおもしろくないやい! やーめた! やめた!」
のぞみがどうすればいいか考えあぐねているうちに、子どもたちがそう言ってすごろくをやめてしまう。
そして散り散りに別の遊びに行ってしまった。
かの子だけがその場に残った。
ふぶきはというとなにが起こったのかわからないというように少し驚いて周りを見回している。
のぞみはなるべく優しく彼女に語りかけた。
「ふぶきちゃん、すごろくは誰が一番になるかわからないから面白いのよ。負けたら次こそは勝ってやるって思うでしょう? いつもいつも自分が勝つってわかっていたらおもしろくないでしょう?」
だがおそらくはそもそも負けたことがないであろう彼女にはいまいちピンとこないようだ。
首を傾げて不思議そうにしている。
かの子がのぞみの腕を引っ張った。
「先生、かの子おままごとしたい」
「そうね」
のぞみはかの子が怒りださなかったことに安堵してにっこりと笑いかける。そしてふぶきに問いかけた。
「ふぶきちゃんもやる?」
ふぶきはまた首を傾げた。
「なんじゃ、それは」
のぞみは伊織をチラリと見て、彼がなにも言わないのを確認してから口を開いた。
「皆でお家の人のフリをして遊ぶの。お母さん役、お父さん役、子どもの役。なんでもいいから、役を決めてなりきるの。お母さん役が人気だよ。やってみる?」
ふぶきは少し考えてからこくんと頷いた。
かの子が大きな声で皆に呼びかけた。
「おままごとやる人この指とーまれ!」
「あ、やるやる!」
普段からおままごとが大好きなメンバーが何人か集まってきた。
「ふぶきちゃんはなに役がいい?」
「……なんでもよい」
「じゃあ、私たちが決めるね」
あっという間に配役は決まり、ふぶきは子どもの役に決まる。
のぞみはホッと息を吐いた。
やりたくないと言われるかと思ったが、やっぱり内親王でも子どもは子ども。少しずつでも根気よく働きかければ園に馴染めるはず。
焦らずに……。
のぞみはそう自分自身に言い聞かせた。
「ただいま~! 子どもたち、皆今日もいい子にしてた?」
お母さん役の子がそんな言葉を口にして、おままごとはスタートした。
「おかえり、お母さんお腹すいちゃったよう」
ふぶき以外の子どもたちも皆思い思いにそれぞれの役を演じだす。
「お父さんも、おかえりなさい」
「皆いい子にしてたよう」
「今日はぞぞぞ、たくさん取れた?」
「早く食べたいよう」
「はいはい、ぞぞぞですよ、たくさんお食べなさい。それにしてもうちの人は、あいかわず稼ぎが少ないんだから。これじゃ一家揃って消えちまわなきゃいけないよ。もっと気合を入れて働いとくれ!」
子どもたちの普段の生活が垣間見える言葉の数々に、のぞみは思わず笑みを漏らす。
おままごとに関しては、時々聞くのが申し訳なくなるほどに赤裸々なセリフが飛び出したりすることもある。
聞かないフリをしなくてはと思いつつ、のぞみはいつも微笑ましい気持ちになるのだ。
だが子どもたちのそんな無邪気なやり取りに、ふぶきが唐突にストップをかけた。
「待て待て、それはおかしい。わらわのお母さまはぞぞぞを取りに行ったりはせん。お父さまもじゃ。やり直せ」
その言葉に子どもたちは唖然としている。
また伊織が口を挟んだ。
「ふぶきさまのご両親は、大神さまとおゆきの方さまです。当然、自らぞぞぞを取りに行かれることはございません。ふぶきさまが召し上がられるぞぞぞは各地のあやかしたちから献上されたものにございます」
「ぞぞぞは召使いが運んでくるものじゃ」
ふぶきが満足そうに頷いた。
「そ、そうなんだね」
のぞみは、顔を見合わせて首をひねっている子どもたちに代わって相槌を打つ。
お互いにちょっとしたカルチャーショックを受けている状態だといえるだろう。だが育った環境が違うのだからこれは仕方がない。
のぞみは皆に向かって語りかけた。
「ふぶきちゃんのお家はそうなんだね。びっくりだけど、そういうお家もあるんだね」
子どもたちは素直に頷いた。
のぞみは今度はふぶきに向かって語りかけた。
「この保育園に通う子たちのお父さんやお母さんは、直接自分たちでぞぞぞを取りに行くんだよ」
するとふぶきは目をパチクリさせる。
「ぞぞぞを自分で?」
「そう」
のぞみが頷くと、今度は袖で口元を覆い、眉を寄せた。
「……卑しい」
「……え?」
「ぞぞぞを自分で取りに行くのは卑しいあやかしのすることじゃ。召使いの蛇娘たちが言っておった。伊織、ここは卑しいあやかしたちが集まる場所なのか? なぜわらわをこんなところへ連れてきた」
のぞみは一瞬、彼女の言葉の意味を正確には理解できなかった。
そもそも御殿のあやかしたちが直接ぞぞぞを稼がずに、献上されたものを食べているというのもはじめて聞いた話なのだ。
あやかし界の常識に頭がついていけていない。当然ながらそんな状態では子どもたちに対してうまくフォローすることもできなかった。
そののぞみより先に、子どもたちが反応した。
「なんだよそれ!」
「お母さんは卑しくないもん!」
"卑しい"という言葉に反応して皆、怒り心頭だ。
それは仕方がない話だった。
以前この辺りであやかしの子どもたちを好き放題に食らっていたあやかしヌエを大人たちは"卑しいあやかし"と子どもたちにおしえていた。
その言葉をよりによって自分たちの親に使われて、黙っていられるはずがない。
「ふぶきちゃんのお母さんこそ、ぞぞぞを自分で取りに行かないなんて、怠け者なんじゃないの!」
そんな言葉まで飛び出した。
「ぶ、無礼ではないか! わらわのお母さまは怠け者などではない!」
ふぶきも負けてはいなかった。真っ赤になったほっぺたを盛大に膨らませて皆を睨む。
「わらわの母上さまは、お前たちの親よりも何倍も何百倍も素晴らしい方なのじゃ!」
「なによ!」
場が一気に険悪になる。
そこへ伊織がすまし顔で割って入った。
「これ、子ども。お前たちの親がどうだろうとどうでもよい。そもそも内親王ふぶきさまの御前でそのように騒ぐものではないのだ。そんなことでは卑しいあやかしと言われても仕方がない」
「そんな伊織さん……!」
今度はのぞみが声をあげる。
あやかしの常識はともかくとして子どもたちを貶めるような発言は許せない。それに子どもたちの喧嘩にこのような形で介入されては、どんどんこじれていくばかりだ。
案の定、子どもたちが怒り出した。
「じゃあ、もういい! ふぶきちゃんとおままごなんてしない!」
「私も!」
次々に抜けてゆくのを、ふぶきは当然だというように平然として見ている。
かの子だけがその場に残り、のぞみの腕にくっついたまま呟いた。
「また喧嘩になっちゃった」
焦らずに。
そう思ってはいるものの、これは前途多難すぎるかも。
のぞみは眉を下げて、心の中でため息をついた。
前途多難、のぞみがそう思った通り、ふぶきは次々と他の子どもたちと衝突した。
しかもそれにいちいち伊織が口出す。
これではうまくいくはずがなかった。
困り果てたのぞみは、えんの世話を終えたサケ子に助けを求めた。
そのサケ子が出した結論は、部屋を分けてしまうことだった。
「大神さま一族を敬うのがあやかしの常識だというのは正しいけれど、普通のあやかしはそもそも大神さま一族にお目見えする機会なんてないからね。ましてやまだ小さいあの子たちにそれらしく振る舞えなんて無理な話さ。でも向こうは特別扱いが当たり前、……一緒にしてうまくいくわけがない」
二間続きの部屋の間に襖を入れてしまって分けてしまえばいいという。
「……それじゃあふぶきちゃんがいつまでも園に馴染めそうにないですね」
相談しておきながら、のぞみはその案にあまり賛成できなかった。
空間を分けてしまえば確かにトラブルは減るだろう。
でものぞみはふぶきにあやかし園で楽しくすごしてほしいのだ。とてもそれで解決だとは思えなかった。
「……まぁ、もう少し様子を見ようか」
サケ子の言葉に、頷くしかできなかった。
のぞみはその後何度も、ふぶきが子どもたちの輪に入れるように働きかけたが、うまくいかなかった。
そしてお弁当の時間、またひと騒動あった。
「のぞ先生今日のお弁当はなあに?」
午後九時と少し前、一直線に並べられた座卓の周りで子どもたちがぴょんぴょんと飛び跳ねて、お弁当が並べられるのを今か今かと待っている。
のぞみは座卓を丁寧に拭きながら、くすりと笑みを漏らした。
「なんだったかなー? 楽しみにしててね」
本来あやかしには、ぞぞぞ以外の食べ物は必要ないのだという。
だが人間が作る食べ物も美味しいとは感じるようでおやつのような楽しみとして食べるあやかしも多いのだという。
あやかし園では商店街のお弁当屋から毎日お弁当を届けてもらうことにしていた。
子どもたちの大好きな時間だ。
やがてお弁当が並べられると子どもたちは思い思いの場所に座る。
相変わらずひと部屋をふぶきが陣取っているから、少し狭いが仕方がない。
のぞみはふぶきに向かって声をかけた。
「ふぶきちゃんもお弁当を食べよう。こっちに来れそう? それともそこで食べる?」
するとふぶきは、意味がわからないというように、眉を寄せて首を傾げた。
「……なにを言っておる。いったいなにを食べるのじゃ?」
「お弁当だよ、美味しいよ」
のぞみが彼女に答える後ろで子どもたちが次々に蓋を開ける。途端に歓声があがった。
「わぁ! オムライスだぁ!」
「美味しそう!」
「早く食べたい!」
そんな子どもたちとは対照的に、ふぶきは口元を袖で覆うとみるみるうちに真っ青になり唇をワナワナと震わせた。
「ま、まさか、人間が作ったものを食べると申すのか? ぞぞぞ以外のものをわらわに食べさせようというのか!」
その剣幕にのぞみはしまったと思う。
御殿に住むあやかしはぞぞぞ以外は食べないのか。
「ふぶきさまは内親王さまであられますゆえ……」
そこへ伊織がまた口を挟もうとする。
それをサケ子が遮った。
「失礼いたしました。もちろん内親王さまにおすすめできるようなものではありません。こちらの襖を閉めさせていただきますゆえ、ご容赦を」
そう言ってそそくさと襖を閉めだした。
「え? あ、あの……」
のぞみはそれを静止しかける。完全にシャットダウンしてしまうのではなく、ちゃんと説明した方がいいのでは?と思ったからだ。
でもそののぞみの目に、弁当を前にしょんぼりとしてしまった子どもたちの姿が映り口を噤んだ。
子どもたちはまるで叱られた時のようにバツが悪そうにしている。
のぞみの胸がズキンと痛んだ。
あやかし園のやり方と御殿の常識、どちらが正しいというものでない以上、衝突は避けられない。
そして衝突すれば、どちらも嫌な思いをするのだ。
「オムライス、嬉しいな。先生大好きなんだ。皆は?」
襖が完全にぴちりと閉まるのを確認してから、のぞみは気を取り直して子どもたちに声をかける。
皆少しホッとしたように、小さな手を合わせた。
その子どもたちを見つめながら、のぞみは急速に自信がなくなっていくのを感じていた。
焦らずにやればなんとかなるはず。
……でも果たして、あやかしのしきたりをろくに知らない自分になんとかできるものなのだろうか。