雨の日は好きだ。
コウイチロウのカフェでクリームソーダを飲む。長いストローですぅっと吸い込めば、冷たくて甘いメロンソーダが喉で弾ける。
ガラスに伝う雨粒越しに、色とりどりの傘が揺れている。
晴れの日よりも鮮明に見える世界を、コウイチロウの買ってくれた色鉛筆で描く。
窓に面したカウンター席がわたしの定位置。
スケッチブックを広げると、幸せな気分になる。コウイチロウのお仕事が終わっても雨が降っていたらいいな。
そしたらまた絵しりとりをするんだ。
それまでは描きかけの絵を完成させよう。わたしが絵を描けるのは雨が降っている間だけ。その幸せで特別な時間は、いつだってこのカフェで過ごす。ここにいればあのお兄さんに会えるから。
今描いているのはそのお兄さんの顔。時々カフェの前を通る。よく中を覗いているんだ。
白いシャツに紺のズボン、臙脂のネクタイは近くの高校の制服だってコウイチロウが言ってた。
黒い縁の眼鏡をかけてる。グレーのおっきなリュックを背負ってて、髪の毛はアヒルのお尻みたいにきゅっと前があがってる。
「それ、もしかして、僕?」
急に耳元で声がして、びっくりして振り返ると、そのお兄さんが立ってた。
わたしは慌ててスケッチブックの上に覆い被さった。
「ごめん、でも、すごく上手だね」
褒めてくれた。眼鏡の奥の目が優しく笑っている。
嬉しかったから、そっとスケッチブックから体を起こした。
お兄さんが「見てもいい?」と聞くから頷いた。
「う、こ? 名前うこちゃんっていうの?」
お兄さんの指が絵の下に書いたサインをなぞる。
コウイチロウに教えてもらった二つだけの文字。わたしの名前。
「僕ははると。晴れる人で晴人」
「わたしと反対だね。わたしは雨の子のうこ」
はるとがわたしを見ていた。お互いの名前を初めて知った。
少し前からはるとを見ていた。あの雨の日にわたしに傘をくれた人はこの人なんじゃないかなって。
今のわたしを見てもはるとは分からないだろう。
わたしたち、前に会ってるよ! わたし、はるとに助けてもらったんだよ。そう言いたいけど、言えない。
だってあの時のわたしは今の姿じゃなかったから。
とにかく、話をするのは初めてで、どうしていいか分からず、カウンターの奥でグラスを拭いているコウイチロウを見た。
肩をすくめるコウイチロウ。自分で考えろと言っているみたい。
はるとに目を戻す。
「絵しりとりやりたい」
わたしはスケッチブックを一枚めくり、白紙のページの左上に水色の傘の絵を描いた。
「え? 絵しりとりって、僕と? 僕、絵はあんまり得意じゃないっていうか」
「ちょっとだけ。お願い」
はるとは手に持っていたアイスティーの乗ったトレイをテーブルに置き、リュックを足下に下ろすと、わたしの描いた傘の横に魚を描いた。記号みたいな簡単な絵。でも魚だってすぐ分かる。
わたしはその横に赤い色鉛筆で長靴を描く。はるとがさらにその横につくしの絵を描いた。
しまりす、すいか、からす、すいとう、うぐいす、スニーカー、カンヅメ
「やっとすから抜けた」
気付けば、はるとの番は3回連続『す』で始まっていた。
「うこちゃん、意外と意地悪?」
ってはるとが笑う。
コウイチロウはこれが面白いんだよって言ってたから、意地悪じゃないよ。
「あ、しかもうこちゃんの負けだよ」
はるとの長い指がわたしの描いた大好物のまぐろの缶詰の絵を指してる。
「負けてないよ。次『め』だよ」
「え? あー、カンじゃなくてカンヅメか」
はるとはまた真剣に絵を描く。メガネ、ネコ、コップ。
真剣にスケッチブックに目を落とす横顔が、ちょっとかわいい。
あのくいっと上がった前髪はどうなってるんだろう。ツヤツヤしてて、崩れないのが不思議。ちょっと触ってみたい気がする。
じっと見ていたらはるとがこっちを見た。レンズの奥の瞳が澄んでいてとてもキレイ。
「なんか付いてる?」
あの日見た顔は朧げで、はるとがあの時の人かどうか分からない。でも優しそうな目。きっとはるとだよね?
聞いてみようか。あの時……
突然、足下からペコペコって音が聞こえた。はるとが慌ててリュックからスマホを取り出す。
長い指が画面を滑って、画面が明るくなる。あっという間に時間が経っていた。
「そろそろ帰らなきゃ。またね」
はるとはリュックを持って立ち上がる。
外はまだ雨が降っている。
「雨、止むまでやろうよ」
「ごめん。今から塾なんだ。絵しりとり楽しかった。またね、雨子ちゃん」
はるとは慌ただしく帰ってしまった。
もっと遊びたかったな。
コウイチロウは相変わらずグラスを磨いている。
スケッチブックを閉じて、散らばった色鉛筆を布製のケースに戻してくるくると巻く。
クリームソーダのグラスも返却口に置いた。はると、また来るといいな。
コウイチロウの仕事はまだ終わってない。
コウイチロウのいるカウンターの中へ入っていくと、足元にお水とカリカリの入った器が置かれている。
いつもは気付かなかったけど、器にお魚の絵が描いてあった。はるとが描いた記号みたいな絵に似てる。
コウイチロウの足の下には緑のマット。
そこには猫の絵が付いてる。
雨の日、わたしの目に普段は見えないたくさんの色が見える。
長い手。長い足。そして何でも持てる長い指。
素敵なこの時間はあっという間に過ぎていく。
そうだ。外も見に行ってみよう。もっとたくさんの色があるはず。
雨粒がいっぱい付いたガラス窓を見上げて、わたしは喉を鳴らす。
足取りも軽くカフェを出ていこうとすると、コウイチロウがわたしを腕に抱き上げて言った。
「雨やんでるよ」
わたしは自分の白い毛に覆われた前足に目を落とす。さっきまでは肌色の長い指があったそこには、小さな肉球と尖った爪をしまい込んだ小さな前足。
もう色鉛筆は握れない。次の雨の日までは。
鮮やかに見えていた景色も、すっかりいつもの色褪せた世界に戻っていた。
うこは雨の降っている間だけ、人間の少女の姿になる不思議な猫だ。
猫の姿の時、背中は黒く、お腹と足は白い毛というごく普通の猫だ。飼われてはいない筈だけど、やせ細ってはいない。きっとあちこちで餌を分けてもらっているのだろう。
「かつお節食べるか?」
『食べる!』
猫なのに、俺の耳にはちゃんと言葉が聞こえる。これは家系の影響だろう。
祖父は古くは陰陽師の家系だとかで、祈祷師のような事をしていた。
本業は和菓子屋で、それも昭和の時代には繁盛していたようだが、コンビニがあちこちにでき、大型商業施設ができると、売れ行きはさっぱりになった。
その店が建っているのは、文化遺産になりそうな古い土塀の家が立ち並ぶ通りで、それなりに風情がある。所々に土産物屋があり、江戸時代には城下町として盛えていたようだが、その名残りは卯建の付いた建物以外にはない。
「うだつ」というのは古い家の境界に付いている土の防火壁のことだ。小さな瓦屋根も付いていて、裕福な家にしか設けられなかったことから「うだつが上がらない」なんて言葉ができたらしい。
そんなうだつの付いた家が多く立ち並ぶこの界隈は、ちょっとした観光地になっている。
数年前までは、どこも店主は高齢で、人を雇えるほどの売り上げは見込めず、寂れていくだけかに思われた。
それでも観光開発でこの古い街並みが見直され始めると、和菓子屋は観光客目当ての甘味処になり。また少し活気が戻ってきた。
俺は祖父の家が気に入っていた。
両親は古い家が気に入らないのか、祖父母と同居するのが嫌なのか、ここに来ることはほとんどない。
祖母は俺が高校生の時に他界し、祖父も去年亡くなった。
今この家に住んでいるのは、俺とうこだけだ。
少し前までは妹の亜子がいた。
亜子は祈祷師だった祖父の血を濃く受け継いだのか、霊感とか霊能力と呼ばれるような力が俺以上にあった。
亜子は喋れるようになったくらいから、いろんなものと話をしていた。近所の猫や犬はもちろん、ぬいぐるみや木や花とも喋る。亜子にとって生きている人も死んでいる人も大差なく、人間も動物も植物も等しく魂と会話する。そんな子だった。
「亜子、人前で人間以外のものと話すなよ。いじめられるぞ」
俺は再三そう言って注意したが、亜子は気にせず、時には話している相手を通り越して守護霊と喋ることもあった。
当然気味悪がられる。亜子を知っている人は亜子に近付かなくなった。日増しに元気をなくしていく亜子を見るのが嫌で俺は見て見ぬふりをしていた。
俺は高校生になったばかりで、妹のことをかまってやる余裕がなかった。亜子は中学になると学校にはほとんど通わなくなっていた。
学校に行かない亜子を母さんが叱る。亜子は部屋に閉じこもる。そんな状況に母さんの心も壊れかけた。一緒にいてもお互いに傷付け合うばかりで、みかねた祖父母の提案によって、亜子はこの家で暮らすことになった。
離れて住むことによって亜子も落ち着きを取り戻し、高校生になるころには学校に行きたいと言うようになった。
祖父が亡くなったのはそんな矢先のことだった。
亜子を誰より可愛がり、亜子の霊能力にも理解のあった祖父が居なくなったことで、亜子はまたこの世とあの世の境界が分からなくなってしまった。
俺はその頃大学で絵を描いていた。美大に行きたかったが、それほどの実力があるわけでなく、理工学部に通う傍ら、サークルで作品を描いていた。
大学を卒業して、祖父のやっていた甘味処はカフェに改装した。
ゴールデンウイークに入るころ、観光シーズンで店が少し忙しくなった。
メニューも少しづつ増やしている。
殺風景な店を変えようと、壁には絵を飾った。
そうして忙しくすごしているうちに、亜子の影が薄れていくのを、俺はまた見て見ぬふりをしていた。
「お兄ちゃん、この子は人間になりたいんだって。私は猫になりたいのに」
餌をもらいにくる猫を撫でながら亜子が言う。
亜子がその時どんな気持ちだったのか今となっては分からない。
唯一の理解者だった祖父を亡くし、母親に厭われ、亡くなった者たちの悲痛な声に曝され。
俺はそれを見ていただけだった。
『次は節ではなく生が食いたいな』
亜子が可愛がっていた猫は一片も残さずにかつお節を平らげ、顔を洗いながらそう言う。
「贅沢だな」
俺がそう言えば、『生きているうちにいろんなものを味わうのがいい』ともっともらしく答えた。
「苦いものや辛いものは嫌だろう?」
『嫌だな。だが、それが時には命を助けてくれる』
猫は顔を洗い終えると、椅子の上で丸くなった。大きな口を開けて欠伸をするとそのまま眠ってしまう。
亜子がいなくなっても猫には関係ない。餌をくれる人が代わるだけだ。
外は曇りだ。
あの日、亜子の葬式を終えて帰ってきた俺の前に猫は少女の姿で現れた。
亜子と同じ歳くらいの人間の姿で。
猫は嬉しそうだった。
亜子が可愛がっていた猫は亜子が逝くと、後を追うように亡くなった。
雨に濡れた体はまだ温かかったけど、もう息はしていなかった。同じ年月を生きたとしても猫と人間では違う。猫にとったら大往生だ。そう思ったのに、どこか悔しい気持ちがあった。
数時間後、店に現れた少女はあの猫の気配をまとっていた。
人間の姿で現れても猫は猫なのだろう。
猫は長く伸びた指をしげしげと眺め、開いたり閉じたりする。
メニューにあったクリームソーダを食い入るように見つめる。
そうやって店の中をはしゃいで飛び回り、雨が上がるとまた猫の姿に戻ってしまう。
店の壁に貼ってあった絵を珍しそうにみているので、描いてみるかと聞いてみれば、大きな目をさらに大きくして首をブンブンと縦に振った。
最初は簡単な絵を。
次に名前を。
猫には名前が無かった。
雨の日にだけ人間の姿になるから雨子と名付けた。
うこは絵を描くことに夢中になった。何度教えても鉛筆の持ち方は独特で、握り込むようにして持っているが、最近ではかなりそれと分かる絵を描くようになってきた。
このままいけば、数年後には猫画伯の誕生だ。
うこが猫だと、しかも人間に化ける妖怪猫又だと知っているのは俺だけだ。
人間になると色が良く見えるらしい。
猫又だけど、鼻歌も歌うし、クリームソーダが好きだし、ただのかわいい女の子だ。
普通猫又って人間を喰ったりするんじゃなかったっけ?
とにかく俺は、その奇妙な猫の保護者になった。
そのカフェには、時々可愛い女の子がいる。
通りに面した窓際のカウンターで、色鉛筆を握って百面相している。前を通るたびに、目が合いそうになると慌てて逸らしながら通り過ぎていた。
カフェに入ったのはまだ一度だけだけど、その時は彼女はいなかった。
代わりに、壁に貼られた絵を見た。
彼女が描いたものだろうか。
いつもスケッチブックになにか描いているから。
どれも色鮮やかに色鉛筆で描かれた、優しい絵だった。
カエル、紫陽花、傘、水たまり。
梅雨に合わせて選んだのだろう。
何故かどの絵も、猫の足型がスタンプされている。サイン、かな?
猫好きなのかも。
カフェの前を通るたび、彼女の姿を探してしまう。
彼女がいるのは、決まって雨の降っている日だった。
楽しそうに絵を描いている姿が可愛い。
その日は雨だった。雨宿りも兼ねて、あのカフェに入った。やっぱり窓際の席にはあの子がいる。
背の高い、赤いエプロンをつけた店員さんにアイスティを注文する。
トレーに置かれたグラスは自分で席まで持っていくセルフスタイルだ。
店内にはテーブル席の女性二人組の他には彼女しかいない。
控えめなボリュームで流れるボサノバ。
微かに香る紅茶の香り。
古い家屋を改装した風の店内は優しい雰囲気だ。
広めにとった窓の外の景色に、小さな後姿が楽し気に揺れる。
ポニーテールに結ばれた赤いリボンがちょっとレトロな雰囲気で、店に合ってる。
カウンターテーブルに散らばる色鉛筆が、窓の水滴に映り込む。そこだけがカラフルで。
彼女の描いてる絵が気になって、さりげなく後ろを通ってみた。ちらっと見えた絵に僕の目はくぎ付けになる。そこに描かれているのは、僕だ。
制服も眼鏡も、このヘアスタイルも間違いなく、彼女の描いているのは僕の絵だ。
恥ずかしいような嬉しいような変な気分だ。
「それ、もしかして、僕?」
気が付けば声をかけていた。最初は恥ずかしそうにスケッチブックを隠してしまったけど、上手だねと言うと、嬉しそうに絵を見せてくれた。
名前を知った。雨子ちゃん。可愛い。
しかも絵しりとりに誘われた。か、可愛い。
やり始めると意外に面白くて、あっという間に時間が経ってしまった。
クラスの女子たちとは全然違う。なんだか猫に懐かれたみたいな気分。
それに、入学式で見た女の子に少し似ている。
桜の木に話しかけてた、ちょっと変わった女の子。
石に躓いて派手に転んだ僕に、不思議な話をしてくれた彼女にはあれ以来会えていない。
不登校、なのか。たまたま僕が出会わないだけ、なのか。
あの子もきっと笑ったら可愛いのに。
雨子ちゃんの楽しそうな横顔が、なぜかあの子に重なって見えた。
雨子ちゃんの描いた絵を名残惜しく見つめて僕は席を立つ。
「その絵、僕にくれない?」って言いたかったけど、さすがに図々しいかと思ってやめた。
もう少し仲良くなったら、頼んでみようかな。
また会えるよね?
わたしは名前も家もない、家族もいない一匹猫だった。
もう長いこと生きたし、そろそろ目覚めない眠りにつく日が近いことも分かっていた。
わたしがいた辺りは古い家が立ち並ぶ通りで、中でもコウイチロウの店が一番のお気に入りだった。
コウイチロウはわたしと話しができた。
その店の前の主人もそうだったからそういうものなのだろう。
他の家の人たちにはわたしの声はきこえていないみたいだ。たいていの家では最近は食べ物をくれない。
コウイチロウは行けば食べ物をくれるし、店の中をうろついても追い出したりしない。
ある日、家々の屋根を渡り歩いていると、急に雨が降ってきた。
急いで屋根から降りようとして、古い傷んだ瓦が外れてわたしは地面に落ちた。
しかも上からさらに瓦が降ってくる。
幸い大した怪我はしていない。なのに体が動かない。
おかしいと思いながらも、眠くて目を閉じた。
とてもとても眠かった。雨が毛を濡らすのが冷たくて嫌なのに。
起き上がって屋根の下に入りたい。もう一度瞼を上げて空を見た。鈍色の空から真直ぐに矢のように落ちてくる雨粒。曇ってるのに眩しくて、目を開けていられない。
もう死んじゃうのかな。
もっとおいしいものを食べたかったなぁ。コウイチロウにも鼠でも持っていけば良かった。
そしたらきっと、おいしいマグロの缶詰を仕方ないなぁって言いながら開けてくれるはずだ。
パタパタと雨がビニールを叩く音。薄っすらと見えたのは白いシャツ、黒っぽいズボンとネクタイ。それにメガネ。
誰かが傘を差してくれたみたいだ。
コウイチロウ?
ううん、コウイチロウなら笑ってわたしを抱き上げるはず。
雨粒に混じって温かい雫が一つ落ちてきた。
傘をわたしに置いて行ってくれるの?
優しい手がわたしの頭と背を撫でて、離れて行く。
その温もりが離れていくのが淋しくて。
あぁ、でも雨が当たらない。もう痛くないよ。ありがとう。
お兄さんにもお礼しなきゃ。コウイチロウの鼠はまた今度ね。
目を閉じると傘に当たる雨の音が大きくなった。
そしてまた誰かがやってくる。
あぁ、誰だったかな。
良く知ってるのに思い出せない。
誰だったかな……。
どんどん空に吸い込まれていく意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
どれくらい経っただろう。
やっぱり雨が降ってる。でもなんだか変。
目が痛いくらいに飛び込んでくる景色。
これは何?
全く世界が違って見える。
音や匂いが薄らいだ分、目から世界を感じるよ。
何だろう。
ぶるりと体が震える。
ゆっくりと立ち上がった。少しふらふらする。二本足で立ってる。
水たまりに映る姿を覗き込んだけど、雨粒が作る波紋でよく見えない。
辺りを見回して、ガラスに映る自分の姿を見た。
それから真っ先にコウイチロウのお店に向かった。
コウイチロウは驚いて目を見開いている。
わたしも驚いてるよ。
だって、だってわたし、人間になってる!
女の子だよ!
コウイチロウがふわふわのタオルで髪を拭いてくれる。
長い髪の毛。猫の毛よりもっと太くてさらさらしてて綺麗。
腕まくりした袖から伸びるコウイチロウの腕と同じ毛に覆われていない自分の腕を見てた。ちょっとすーすーするね。
「なんで人間になったんだ?」
そんなこと聞かれてもわからない。
きっと神様がわたしのお願い聞いてくれたんだよ。
せっかく人間になったんだから、やりたいこといっぱいあるんだよ。
コウイチロウ、凄いね。人間て素敵!
これ飲んでみたかったんだよ。しゅわしゅわ泡の出るキレイな飲み物。上に乗ってるのがこんなに甘くて冷たいなんて思わなかったよ。
壁に貼ってあるのは何?
下からだとよく見えなかったんだ。
いろんな色のついた長い棒。それをコウイチロウが白い紙に滑らせると浮かび上がるいろんな形。
不思議でいつまでも見ていたくなる。これが絵を描くってことなんだね。
コウイチロウの描いた絵に、肉球スタンプを押すのもいいけど、わたしも描きたい!
だってわたしにも長い指があるもん!
それに人間になると、世界がすごく色鮮やかだってわかった。
特に好きなのは赤。
コウイチロウのエプロンも赤。
わたしの傘も赤。
赤は素敵。女の子たちが唇に塗ってるリップも赤。
はるとのリュックも赤なら素敵なのにね。
コウイチロウがわたしにくれた色鉛筆は、虹よりもっと素敵。
クリームソーダはもっともっと素敵。
「うこ、ちゃんと片付けろよ」
コウイチロウは時々口うるさい。でも好き。
ずっと雨が降ってたらいいのに。
前は雨なんか嫌いだったけど、今は雨が大好き。
あれ? 今日はメガネかけてる。
「コウイチロウ、メガネなの?」
「悪いか? コンタクト切らしたんだよ。なかなか店空けらんないからなぁ」
「うこ、店番してるよ? 行ってきたら?」
コウイチロウはメガネの奥の目でわたしをじっと見て首を振った。
「いつ雨止むか分からん」
ふー、わたしを信用していないだけでしょ。でも、コウイチロウのメガネも好き。
たまにはコウイチロウの絵描こうかな。
そう思ってスケッチブックをめくれば、それが最後のページで、茶色の硬い裏表紙に行き当たった。
「コウイチロウ大変! スケッチブックが終わっちゃった! 雨止んじゃうよっ。新しいのちょうだい!」
スケッチブックを抱いてコウイチロウの所に走る。
「今は無い。今度買っとくから」
「今描きたいのに……」
「しゃぁねぇなぁ」と言いながらコウイチロウが棚をゴソゴソとあさっている。
「これまだ何枚か白紙残ってるから、これ使え」
コウイチロウは使いかけのスケッチブックを出してくれた。
「ありがとう!お礼にコウイチロウ描いてあげるよ」
「いらねー」
わたしはご機嫌でスケッチブックをめくった。
あ、コウイチロウの絵だ。建物とか、猫とか、手だけいっぱい描いてあったりとかする。一つ一つ隅っこに描いた日付があった。たぶんコウイチロウが高校生の時に使ってたスケッチブックだね。
コウイチロウの絵は優しくて好き。
その中に女の子の絵があった。
なんだかわたしに似てる。
でもわたしじゃない。
「コウイチロウ、これ誰? 」
その絵を見せながら聞いてみると、一瞬コウイチロウの動きが止まった。
「勝手に人の絵見るなよ。貸してやんねーぞ」
「……うこじゃないよね?」
「あ、雨止んだな」
コウイチロウがわたしの手からスケッチブックを取り上げるのと、わたしが猫に戻るのが同時だった。
コウイチロウがスケッチブックの中の女の子を見てる。メガネのガラスが反射して、どんな顔してるのか分からなかったけど、なんだか淋しそう?
また今度聞いてみよう。
あー、もう色鉛筆も元どおりに並べられない。猫って不便ね。
最近はよく雨が降る。梅雨大好き。
今日こそコウイチロウの絵を描く!
「コウイチロウ、この間のスケッチブック貸して!」
「あぁ、新しいの買ったからこっち使え」
「この間のスケッチブックまだ使えるよ」
「いいからこっち使えよ」
コウイチロウはオレンジ色の真新しいスケッチブックでわたしの頭をコツンと打つ。
今日はカフェが珍しく混んでる。コウイチロウも忙しそうだから、仕方なく新しいスケッチブックを抱えて、店内を見回した。
わたしの定位置には既に別のお客さんがいる。
しかたなく他の席を探したけど、どこも空いてなかった。
外に行こうか。
ふと見ると、はるとが窓越しに手を振っていた。
わたしも手を振り返して店を出た。
コウイチロウの買ってくれた赤い傘を持っていく。
「うこちゃん。お店混んでるね」
「うん、どこか絵描けるとこ探さなきゃ」
「それなら良いところがあるよ」
はるとは紺色の傘をさしてる。
あの時は透明の傘だった。
はるとは少し歩いた所にある図書館に連れて行ってくれた。
「ここの中庭の方の読書スペース、外が見えて静かだよ」
初めて入った図書館。
色んな絵があって素敵。
ここも古い蔵を改装して作った建物だ。
懐かしい香りと新しい香りが混ざってる。
「今日は何描くの?」
「コウイチロウだよ」
「コウイチロウって?あぁ、あのカフェの店員さんだね」
「あのカフェに飾ってあるのも、うこちゃんの絵だよね?」
「あれはコウイチロウの絵。わたしは手型押しただけ」
「え?あ、そうなんだ……」
はるとは首を傾げながら手型、とか肉球とかぶつぶつ言ってる。
「はると、ありがとう。助けてくれて」
ずっと言いたかったんだ。やっと言えたよ。
「え? 何が? 図書館?」
「ずっと前に助けてくれたんだよ。傘貸してくれた」
「そんなことあったかなぁ。ごめん覚えてないや」
猫のわたしに貸してくれたんだよ。
「はると!あれ、おまえ絵なんか描くの?」
「いや、これは僕のじゃ、……って、あれ? うこちゃん?」
同級生の真也に声をかけられて、振り返るとうこちゃんが消えていた。
スケッチブックは残したままだ。
トイレかな?
「そういやさ、あそこのカフェ出るらしいぜ」
「で、出るって何が? 」
「死んだ女の子の幽霊」
「え?」
「あそこの店長の妹がさ、うちの高校の生徒だったらしいんだけど、先月亡くなったんだって。その子にそっくりな女の子が、雨の日に店に現れるって話。知らね? 今日あたり、何人かカフェに行ったらしいぞ」
あぁ、それであんなに混んでたのか。
真也はそれだけ言ってマンガコーナーに向かった。
それにしても、うこちゃん遅いなぁ。
30分ほど待っても帰ってこない。もしかしてトイレで倒れたのか?
僕は図書館の人に事情を説明して女子トイレを確認してもらったが、うこちゃんはいなかった。
何か急用ができて帰っちゃったのかな。
スケッチブックどうしよう。
僕はもう30分ほど待ってから、うこちゃんのスケッチブックと色鉛筆を持ってカフェに向かった。
いつのまにか雨は上がっていた。
カフェに向かう途中の道の真ん中に、ポコッと飛び出た石がある。
前日の入学式を経て、二日目の登校日。まだその辺りに馴染んでいなかった僕は、うっかり道に迷った。
古い町並みの向こうに、小高い丘の上に建つ校舎が見えている。
見えているのに、入り組んだ狭い路地は所々行止まりで、思うように進めない。
塀の上の猫が大きな欠伸《あくび》をして尻尾を揺らす。
いっそ猫のように塀を越えて行ければな、なんてよそ見したのがいけなかった。
息を切らせて走る僕の真新しいスニーカーが、ほんの小さな出っ張りに引っかかって。
僕は一瞬、……宙に浮いた。
次の瞬間には乾いた土の上に
けど掌は擦れて血が滲んだ。
反転して体勢を立て直し、両手を擦って土を落とす。
勢いで飛んでった鞄を探して目を上げると、同じ学校の制服を着た女の子がいた。
僕の鞄を拾ってくれたみたいだ。
「あなたでちょうど2万2千人目ですって。何かいいことがあるわよ」
彼女はそう言って笑った。
「2万2千人目……?」
「そう。その石で転んだ人」
「数えてるの?」
「ええ、その石がね」
「石が?」
あまりにも突拍子もないことを言うから、いろんなことが頭から飛んでった。
それに彼女にはそのセリフがなんだか妙に似合っていた。
青白い頬には大人びた表情。何処を見てるのか分からない目は少し色素が薄くて。
風に靡く長い髪からは林檎のような匂いがした。
だから、彼女が次に何を言うのか気になって、僕は咄嗟に思いついた疑問を声に出していた。
「でもさ、そんなに人が転ぶなら、なんで退けないんだろう」
彼女はすいと横に向き、真っ直ぐに腕を伸ばして、一点を指差した。
僕もつられてその指の先に目をやる。
「無理よ。ほらあそこ。この石とあの石は一つの石なの。この石を退ければここに大きな穴が開くでしょ?」
彼女が指差した先、小さな鳥居の向こうに鎮座する大きな岩には注連縄が巻かれている。
小さく出っ張った石と大きな石の間には数メートルの距離がある。
この二つが一つの大きな岩だというなら、少なくとも直径数メートルある巨大な岩が、足元に埋まっていることになる。
「その石はね、人が好きなの。人になりたくてずっとそこで人を見てる」
彼女の指先が大きな石から道の上をなぞって、僕の足を引っ掛けた小さな石に戻ってくる。
道の真ん中にも関わらず、その石は見ようと思わなければ意識されないような小さな石コロで。
でも決して簡単には動かせない。
地面の下に巨大な体を隠した鬼のツノの一部みたいだ。
そういえば、さっき良いことがあるって言ってたけど、
「転んだのにいいことがあるって?」
「そうよ。だって世の中はいいことと悪いことが半々で出来てるんですもの」
「そうかな」
「そうよ。気付かないだけ」
「暑い寒い。明るい暗い。生きる死ぬ。表と裏。半分ずつ……って石が言ってる」
「……半分、ずつ」
「そうでもないんじゃない? 良くも悪くもないことが大半さ」
僕は彼女が拾ってくれた鞄を受け取って、土埃を払う。
彼女の足元にはいつの間にか、さっき塀の上にいた猫がいる。
彼女の足に尻尾を絡ませるように擦り寄る。彼女に随分懐いている。もしかして彼女の家で飼ってる猫なんだろうか。
「その猫は……」
僕の声を遮るように彼女は言う。
「私は猫になりたいわ。きっと私の半分は猫で出来てる」
「猫は……かわいいよね」
「そうでしょ?」
そう言って笑った顔は、僕をドキッとさせるほど可愛くて。
昨日の入学式で、彼女を見たことをお思い出した。
「入学式の時、桜の木に話しかけてたよね?」
「…………」
困ったような、悲しいような、複雑な目で僕を見つめたあと。
彼女はゆっくりと後退り、踵を返して走り去った。
それ以来彼女は見ていない。すごく変な子だった。でもなんだか少しうこちゃんに似ている。
もしかして姉妹とか?
うこちゃんの色鉛筆は布のケースにくるくると巻かれたずっしりと重みのあるもので、横から覗くとまるで虹の螺旋階段のようだ。
真新しいスケッチブックはまだ何も描かれていない。ちょっと残念。うこちゃんの絵を見たかったな。
カフェのお客さんはもうほとんどいない。みんな雨が上がって帰ってしまったのだろう。
「あの、これうこちゃんの忘れ物なんですけど、こちらで預かってもらえますか?」
僕が持っているより、カフェに預けた方が早くうこちゃんに届けられるだろうと思った。
「ありがとう、助かるよ」
店員さんの足元で猫がにゃぁと鳴いた。
しばらく雨は降らなかった。わたしはほとんど寝て過ごした。
眠りながら夢を見ていた。
お店はまだカフェじゃなくて古いお菓子屋さん。おじいちゃんとおばあちゃん、それに亜子ちゃんの3人が住んでた。
その日は亜子ちゃんのお兄さんが遊びに来てて、亜子ちゃんはとても嬉しそうだった。
「お兄ちゃん、クリームソーダ!」
コウイチロウの隣で笑う亜子ちゃん。
あぁ、そうだ。亜子ちゃんはコウイチロウの妹だ。
コウイチロウがカウンターの奥にいるおじいちゃんに、クリームソーダとアイスコーヒーを注文してる。
二人は仲良く並んで飲み物を飲み、時々笑い声をあげて楽しそうにしている。
わたしは散歩の途中にそれを見てる。
いつのまにか、コウイチロウの隣にいるのはわたしになってた。
コウイチロウは遠くを見てる。もう会えない亜子ちゃんを思ってる。
亜子ちゃん、寂しそうに猫になりたいって言ってたのは何故?
わたしはずっと人間の女の子に憧れてたよ。亜子ちゃんが急にいなくなって、わたしは人間になって亜子ちゃんのこと忘れてた。
もしかして亜子ちゃんがわたしの願いを叶えてくれたの?
亜子ちゃんは猫になったの?
はるとの友だちが言ってた、コウイチロウの妹が死んだって。わたし今まで忘れてた。人間になれたのが嬉しくて、夢中で、コウイチロウのなくしたものに気付かなかった。
死ぬって、もう二度と会えなくなるってことなんだね。
ごめんね、コウイチロウ。
あんな風に笑わせてあげられない。でも好きだよ。