うこは雨の降っている間だけ、人間の少女の姿になる不思議な猫だ。
猫の姿の時、背中は黒く、お腹と足は白い毛というごく普通の猫だ。飼われてはいない筈だけど、やせ細ってはいない。きっとあちこちで餌を分けてもらっているのだろう。
「かつお節食べるか?」
『食べる!』
猫なのに、俺の耳にはちゃんと言葉が聞こえる。これは家系の影響だろう。
祖父は古くは陰陽師の家系だとかで、祈祷師のような事をしていた。
本業は和菓子屋で、それも昭和の時代には繁盛していたようだが、コンビニがあちこちにでき、大型商業施設ができると、売れ行きはさっぱりになった。
その店が建っているのは、文化遺産になりそうな古い土塀の家が立ち並ぶ通りで、それなりに風情がある。所々に土産物屋があり、江戸時代には城下町として盛えていたようだが、その名残りは卯建の付いた建物以外にはない。
「うだつ」というのは古い家の境界に付いている土の防火壁のことだ。小さな瓦屋根も付いていて、裕福な家にしか設けられなかったことから「うだつが上がらない」なんて言葉ができたらしい。
そんなうだつの付いた家が多く立ち並ぶこの界隈は、ちょっとした観光地になっている。
数年前までは、どこも店主は高齢で、人を雇えるほどの売り上げは見込めず、寂れていくだけかに思われた。
それでも観光開発でこの古い街並みが見直され始めると、和菓子屋は観光客目当ての甘味処になり。また少し活気が戻ってきた。
俺は祖父の家が気に入っていた。
両親は古い家が気に入らないのか、祖父母と同居するのが嫌なのか、ここに来ることはほとんどない。
祖母は俺が高校生の時に他界し、祖父も去年亡くなった。
今この家に住んでいるのは、俺とうこだけだ。
少し前までは妹の亜子がいた。
亜子は祈祷師だった祖父の血を濃く受け継いだのか、霊感とか霊能力と呼ばれるような力が俺以上にあった。
亜子は喋れるようになったくらいから、いろんなものと話をしていた。近所の猫や犬はもちろん、ぬいぐるみや木や花とも喋る。亜子にとって生きている人も死んでいる人も大差なく、人間も動物も植物も等しく魂と会話する。そんな子だった。
「亜子、人前で人間以外のものと話すなよ。いじめられるぞ」
俺は再三そう言って注意したが、亜子は気にせず、時には話している相手を通り越して守護霊と喋ることもあった。
当然気味悪がられる。亜子を知っている人は亜子に近付かなくなった。日増しに元気をなくしていく亜子を見るのが嫌で俺は見て見ぬふりをしていた。
俺は高校生になったばかりで、妹のことをかまってやる余裕がなかった。亜子は中学になると学校にはほとんど通わなくなっていた。
学校に行かない亜子を母さんが叱る。亜子は部屋に閉じこもる。そんな状況に母さんの心も壊れかけた。一緒にいてもお互いに傷付け合うばかりで、みかねた祖父母の提案によって、亜子はこの家で暮らすことになった。
離れて住むことによって亜子も落ち着きを取り戻し、高校生になるころには学校に行きたいと言うようになった。
祖父が亡くなったのはそんな矢先のことだった。
亜子を誰より可愛がり、亜子の霊能力にも理解のあった祖父が居なくなったことで、亜子はまたこの世とあの世の境界が分からなくなってしまった。
俺はその頃大学で絵を描いていた。美大に行きたかったが、それほどの実力があるわけでなく、理工学部に通う傍ら、サークルで作品を描いていた。
大学を卒業して、祖父のやっていた甘味処はカフェに改装した。
ゴールデンウイークに入るころ、観光シーズンで店が少し忙しくなった。
メニューも少しづつ増やしている。
殺風景な店を変えようと、壁には絵を飾った。
そうして忙しくすごしているうちに、亜子の影が薄れていくのを、俺はまた見て見ぬふりをしていた。
「お兄ちゃん、この子は人間になりたいんだって。私は猫になりたいのに」
餌をもらいにくる猫を撫でながら亜子が言う。
亜子がその時どんな気持ちだったのか今となっては分からない。
唯一の理解者だった祖父を亡くし、母親に厭われ、亡くなった者たちの悲痛な声に曝され。
俺はそれを見ていただけだった。
『次は節ではなく生が食いたいな』
亜子が可愛がっていた猫は一片も残さずにかつお節を平らげ、顔を洗いながらそう言う。
「贅沢だな」
俺がそう言えば、『生きているうちにいろんなものを味わうのがいい』ともっともらしく答えた。
「苦いものや辛いものは嫌だろう?」
『嫌だな。だが、それが時には命を助けてくれる』
猫は顔を洗い終えると、椅子の上で丸くなった。大きな口を開けて欠伸をするとそのまま眠ってしまう。
亜子がいなくなっても猫には関係ない。餌をくれる人が代わるだけだ。
外は曇りだ。
あの日、亜子の葬式を終えて帰ってきた俺の前に猫は少女の姿で現れた。
亜子と同じ歳くらいの人間の姿で。
猫は嬉しそうだった。
亜子が可愛がっていた猫は亜子が逝くと、後を追うように亡くなった。
雨に濡れた体はまだ温かかったけど、もう息はしていなかった。同じ年月を生きたとしても猫と人間では違う。猫にとったら大往生だ。そう思ったのに、どこか悔しい気持ちがあった。
数時間後、店に現れた少女はあの猫の気配をまとっていた。
人間の姿で現れても猫は猫なのだろう。
猫は長く伸びた指をしげしげと眺め、開いたり閉じたりする。
メニューにあったクリームソーダを食い入るように見つめる。
そうやって店の中をはしゃいで飛び回り、雨が上がるとまた猫の姿に戻ってしまう。
店の壁に貼ってあった絵を珍しそうにみているので、描いてみるかと聞いてみれば、大きな目をさらに大きくして首をブンブンと縦に振った。
最初は簡単な絵を。
次に名前を。
猫には名前が無かった。
雨の日にだけ人間の姿になるから雨子と名付けた。
うこは絵を描くことに夢中になった。何度教えても鉛筆の持ち方は独特で、握り込むようにして持っているが、最近ではかなりそれと分かる絵を描くようになってきた。
このままいけば、数年後には猫画伯の誕生だ。
うこが猫だと、しかも人間に化ける妖怪猫又だと知っているのは俺だけだ。
人間になると色が良く見えるらしい。
猫又だけど、鼻歌も歌うし、クリームソーダが好きだし、ただのかわいい女の子だ。
普通猫又って人間を喰ったりするんじゃなかったっけ?
とにかく俺は、その奇妙な猫の保護者になった。
猫の姿の時、背中は黒く、お腹と足は白い毛というごく普通の猫だ。飼われてはいない筈だけど、やせ細ってはいない。きっとあちこちで餌を分けてもらっているのだろう。
「かつお節食べるか?」
『食べる!』
猫なのに、俺の耳にはちゃんと言葉が聞こえる。これは家系の影響だろう。
祖父は古くは陰陽師の家系だとかで、祈祷師のような事をしていた。
本業は和菓子屋で、それも昭和の時代には繁盛していたようだが、コンビニがあちこちにでき、大型商業施設ができると、売れ行きはさっぱりになった。
その店が建っているのは、文化遺産になりそうな古い土塀の家が立ち並ぶ通りで、それなりに風情がある。所々に土産物屋があり、江戸時代には城下町として盛えていたようだが、その名残りは卯建の付いた建物以外にはない。
「うだつ」というのは古い家の境界に付いている土の防火壁のことだ。小さな瓦屋根も付いていて、裕福な家にしか設けられなかったことから「うだつが上がらない」なんて言葉ができたらしい。
そんなうだつの付いた家が多く立ち並ぶこの界隈は、ちょっとした観光地になっている。
数年前までは、どこも店主は高齢で、人を雇えるほどの売り上げは見込めず、寂れていくだけかに思われた。
それでも観光開発でこの古い街並みが見直され始めると、和菓子屋は観光客目当ての甘味処になり。また少し活気が戻ってきた。
俺は祖父の家が気に入っていた。
両親は古い家が気に入らないのか、祖父母と同居するのが嫌なのか、ここに来ることはほとんどない。
祖母は俺が高校生の時に他界し、祖父も去年亡くなった。
今この家に住んでいるのは、俺とうこだけだ。
少し前までは妹の亜子がいた。
亜子は祈祷師だった祖父の血を濃く受け継いだのか、霊感とか霊能力と呼ばれるような力が俺以上にあった。
亜子は喋れるようになったくらいから、いろんなものと話をしていた。近所の猫や犬はもちろん、ぬいぐるみや木や花とも喋る。亜子にとって生きている人も死んでいる人も大差なく、人間も動物も植物も等しく魂と会話する。そんな子だった。
「亜子、人前で人間以外のものと話すなよ。いじめられるぞ」
俺は再三そう言って注意したが、亜子は気にせず、時には話している相手を通り越して守護霊と喋ることもあった。
当然気味悪がられる。亜子を知っている人は亜子に近付かなくなった。日増しに元気をなくしていく亜子を見るのが嫌で俺は見て見ぬふりをしていた。
俺は高校生になったばかりで、妹のことをかまってやる余裕がなかった。亜子は中学になると学校にはほとんど通わなくなっていた。
学校に行かない亜子を母さんが叱る。亜子は部屋に閉じこもる。そんな状況に母さんの心も壊れかけた。一緒にいてもお互いに傷付け合うばかりで、みかねた祖父母の提案によって、亜子はこの家で暮らすことになった。
離れて住むことによって亜子も落ち着きを取り戻し、高校生になるころには学校に行きたいと言うようになった。
祖父が亡くなったのはそんな矢先のことだった。
亜子を誰より可愛がり、亜子の霊能力にも理解のあった祖父が居なくなったことで、亜子はまたこの世とあの世の境界が分からなくなってしまった。
俺はその頃大学で絵を描いていた。美大に行きたかったが、それほどの実力があるわけでなく、理工学部に通う傍ら、サークルで作品を描いていた。
大学を卒業して、祖父のやっていた甘味処はカフェに改装した。
ゴールデンウイークに入るころ、観光シーズンで店が少し忙しくなった。
メニューも少しづつ増やしている。
殺風景な店を変えようと、壁には絵を飾った。
そうして忙しくすごしているうちに、亜子の影が薄れていくのを、俺はまた見て見ぬふりをしていた。
「お兄ちゃん、この子は人間になりたいんだって。私は猫になりたいのに」
餌をもらいにくる猫を撫でながら亜子が言う。
亜子がその時どんな気持ちだったのか今となっては分からない。
唯一の理解者だった祖父を亡くし、母親に厭われ、亡くなった者たちの悲痛な声に曝され。
俺はそれを見ていただけだった。
『次は節ではなく生が食いたいな』
亜子が可愛がっていた猫は一片も残さずにかつお節を平らげ、顔を洗いながらそう言う。
「贅沢だな」
俺がそう言えば、『生きているうちにいろんなものを味わうのがいい』ともっともらしく答えた。
「苦いものや辛いものは嫌だろう?」
『嫌だな。だが、それが時には命を助けてくれる』
猫は顔を洗い終えると、椅子の上で丸くなった。大きな口を開けて欠伸をするとそのまま眠ってしまう。
亜子がいなくなっても猫には関係ない。餌をくれる人が代わるだけだ。
外は曇りだ。
あの日、亜子の葬式を終えて帰ってきた俺の前に猫は少女の姿で現れた。
亜子と同じ歳くらいの人間の姿で。
猫は嬉しそうだった。
亜子が可愛がっていた猫は亜子が逝くと、後を追うように亡くなった。
雨に濡れた体はまだ温かかったけど、もう息はしていなかった。同じ年月を生きたとしても猫と人間では違う。猫にとったら大往生だ。そう思ったのに、どこか悔しい気持ちがあった。
数時間後、店に現れた少女はあの猫の気配をまとっていた。
人間の姿で現れても猫は猫なのだろう。
猫は長く伸びた指をしげしげと眺め、開いたり閉じたりする。
メニューにあったクリームソーダを食い入るように見つめる。
そうやって店の中をはしゃいで飛び回り、雨が上がるとまた猫の姿に戻ってしまう。
店の壁に貼ってあった絵を珍しそうにみているので、描いてみるかと聞いてみれば、大きな目をさらに大きくして首をブンブンと縦に振った。
最初は簡単な絵を。
次に名前を。
猫には名前が無かった。
雨の日にだけ人間の姿になるから雨子と名付けた。
うこは絵を描くことに夢中になった。何度教えても鉛筆の持ち方は独特で、握り込むようにして持っているが、最近ではかなりそれと分かる絵を描くようになってきた。
このままいけば、数年後には猫画伯の誕生だ。
うこが猫だと、しかも人間に化ける妖怪猫又だと知っているのは俺だけだ。
人間になると色が良く見えるらしい。
猫又だけど、鼻歌も歌うし、クリームソーダが好きだし、ただのかわいい女の子だ。
普通猫又って人間を喰ったりするんじゃなかったっけ?
とにかく俺は、その奇妙な猫の保護者になった。