煌仁は西の空が赤く染まった頃に現れた。
 今日も篁を伴っている。

「唯泉と話をして何かわかったか?」
「物の怪の仕業ではなさそうだと思いました」
「なぜそう思った?」
「感じたのは、強い愛情だけでしたので」
「愛情も度を過ぎれば」
「愛が憎しみに変われば、それは憎しみです」
 煌仁の言葉を遮ったにべもない言い方である。
「なるほど」

 これ以上報告するものはない。それきり翠子は口を閉ざした。
 煌仁が東宮だとわかった今は、なるべく距離をおきたいと思った。どう接したらいいのかもわからないし、心を開いていい相手ではない。

「そなたは何が好きか? 今度持ってこよう。衣か? 唐果物か? それとも紙が良いか?」
「何もいりません。一日も早く帰していただければそれで」
 深く頭を垂れてから立ち上がった翠子は、奥へ行く。

 とても疲れていた。
 まだ二日しか経っていないのに、三日くらい寝ていないような疲れようだ。まるで老婆にでもなったような気がする。

「姫さま」
 朱依が心配そうに寄り添う。
「温かい麦茶でも持って来てもらいましょう」
「ありがとう」
 そのうち慣れるだろうが、ここは何を触っても翠子に訴えてくる。几帳に触れれば女の悲しみが。柱に手をかければ男の憎悪が。少しも気が休まらない。
 慣れようとしてあえて触れた自分の責任もあるが、これほどまでとは。
 翠子は自分が屋敷を出なくなった理由を思い出した。
 外を見たいと思ってきのこ狩りに出かけ、途中山寺に立ち寄って休憩をした。あの頃はまだ幼かったから避ける知恵もなくて、亡くなった人の怨念まで触れてしまったのである。
 あれきり外に出られなくなった。
 やっぱり自分は邸の奥にいるしかないのかと、悲しくなる。


 一方、廂に取り残された煌仁と篁は顔を見合わせていた。
「なんですか、あの態度は」
 篁はぼやく。
 煌仁は薄く笑うだけで、そのまま立ち上がった。

「無理に連れてきたのだ。仕方あるまい」
「ですが、殿下があれほど心を砕いて優しく聞いているのに、愛嬌のかけらもないじゃないですか」

 鼻息も荒く憤慨するが、篁も彼女の美しさは認めたらしい。
「せっかくの美貌も、あれでは台無しですな」とため息をつく。顔は見ていないが、癖もなくまっすぐで豊かな黒髪の艶めく様には目を奪われたようである。
「篁、姫の前で殿下はやめろ。ますます心を閉ざされてしまう」
「はあ。しかし――」
 それではあの女がますます図に乗りますぞ、とは言えず篁は口ごもった。

「清らかな瞳をしていたのだ」
「え? 祓姫がですか?」
「ああ。ついぞこれまで見たこともないほど、美しい目をしていた。私は姫に希望を託すと決めたのだ」

 そうとまで言われれば受け入れるしかないが、篁とて闇雲に信じるわけにはいかない。
「物の怪の仕業でないと、唯泉と同じ意見でしたね。唯泉から聞いたのでしょうか」
「それはないだろう。唯泉はそれほど親切な男ではない」

 声をかけたのは唯泉や祓姫だけではない。宮中の一大事とあって国中から様々な者が集められた。中には易者や占い師もいて、話を聞く度に唯泉を同席させた。
 彼らは様々なことを言う。紅い衣を着せるとよい、西に向かって米粒を撒くとよいなどわけのわからない話もあった。
 唯泉は何を聞いても目をつぶって全く関心を見せなかったが、ある占い師の『祓姫なら何かわかるかもしれませぬ』という発言だけには反応したのである。
 今日も唯泉は自分から祓姫に会いたいと言ってきた。話し込んでいったからには彼女を気に入ったのだろう。

「それより篁、今の話をどう思う?」
「はあ……。やはり物の怪は関係ないのでしょうか。唯泉は『毒じゃないのか』などと恐ろしいことを言いますが、毒見係も、同じものを召し上がった皇女さま方もなんともないのです。やはり物の怪以外にありませんよ」
 顔をしかめた篁は身振り手振りで力説する。
「いるんじゃないですか? 別の物の怪が。唯泉だって物の怪の全てが見えるわけじゃないですって」

 煌仁は篁をぎろりと一瞥する。
「唯泉の耳に入ったらどうする。他の陰陽師には祓えなかったのだぞ」
「はあ、それはそうですけど」

 今、宮中は混乱の最中にある。祓姫の力がいかほどのものかはわからないが、陰陽師だろうが占い師だろうが、機嫌をとってでも手を貸してもらうしかない。それは篁にもわかっている。わかってはいるが。

「とにかくひとつずつ見ていくしかあるまい。明日にでも麗景殿に行くと姫に伝えておけ」
「一緒に行かれるのですか?」
「行くしかないだろう?」
 いきなりわけのわからぬ女が出てきて、はいそうですかと女御が受け入れると思うのか。
 視線に込めた説教を、渋々ながら篁は受け取った。
「はぁ」
 だったらさっき言えばよかったではないか。とは言えない。篁は肩を落として戻っていく。
 篁は祓姫も朱依という女も、どうも苦手だと思った。美しくはあっても不気味だし態度は尊大だ。かわいげなど一切ない。仮にも東宮に対してあの態度はなんだ。

 忌々しさに顔をしかめながら妻戸の前に立つ。
(なんだ、もう閉めたのか)
 まだ明るいというのに扉は閉じている。軽く叩き「話がある」と声を掛けると、「なんだ」と朱依の声がした。
 なんだとはなんだ。
 ぷちっとこめかみの血の道が切れそうになったが、ひと呼吸おいて「明日一緒に麗景殿に行ってもらう」と告げた。

「時刻は?」
 うっかりして時刻は聞いていない。
「何時であろうとよかろう。どうせお主らに他の用事はないのだ」
「ふん。(ひつじ)の刻ならよいが、それ以外はだめだ」
「おい!」
 朱依の衣擦れの音が遠くなっていく。

(――くそっ。あの女)
 やり場のない怒りに思い切り妻戸を蹴り上げようとしたが、扉では音が響き過ぎる。振り返りざまに柱を蹴りつけたが、あまりの痛さに片足を抱えてぴょんぴょんと飛び跳ねた。


≪ 麗景殿 ≫

 未の刻になり煌仁が現れた。
 翠子の前に衣、料紙、唐菓子、冊子と並べていく。

 扇をずらした翠子はそれらを見、束の間、冊子で目を止めた。思わず細めた目が弓なりになる。
 その様子を見ていた煌仁は満足げに唇を歪め、口火を切った。

「先に宮中の事情を説明しておこう。帝には心の臓に持病があり過剰な心配事はお体に障る。であるのに弘徽殿と麗景殿は常に対立している」

 いったい何の話が始まるのかと、翠子は怪訝そうに眉をひそめて耳を傾けた。

「物の怪でないとなれば、麗景殿は弘徽殿の仕業だと騒ぎ立てるだろう。逆もしかり。混乱を避けるため、何としても皇子の不調の原因を突き止めたい。というわけもあり、姫に力を貸してほしいのだ」

 ふっと笑った朱依が、「東宮が疑われますものね」と言ったのと篁が立ち上がったのは同時だった。
「きさまっ!」
「朱依」と翠子も止めたが、煌仁も右手で篁を抑えた。

「篁、構わぬ。それも本当だ」
「違うではありませんか! 煌仁さまは麗景殿の皇子が成人されたら東宮の座をお譲りすると宣言されているのですから」

 なるほど、そういうことなのか。
 顔を赤くして怒る篁と、憮然として横を向く朱依を交互に見つめながら、厄介なものだなと翠子は思う。
 彼の考えはどうあれ、朱依が言った通り彼を疑う人はいるだろう。自身も十分にそれを承知している。
 東宮でいるばかりに、彼はずっと去就を探られるのだ。

「ひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
「ん? なんだ」
「邸にお持ちになったあの扇は、あなたさまの母君の扇だったのですか」
 煌仁は静かに「そうだ」と頷いた。


「では麗景殿へ参ろうか」
「はい」
 ちりんと鈴を揺らし、あくびをしたまゆ玉が後を付いてくる。


 既に話がついているのだろう。麗景殿では人払いがされていた。
 通された奥には皇子が寝ていて、両脇から女房が心配そうに皇子を見つめている。御簾の奥に女御がいるようだ。他には年かさの女房がひとり、煌仁や翠子の斜向かいで控えている。

 煌仁が声を掛けた。
「祓姫を連れて参りました」
 翠子は神妙に頭を垂れる。
 麗景殿に足を踏み入れた時から、深い悲しみを感じていた。翠子のような力がなくとも肌でわかるだろう。それほどまでにここは、悲しみに沈んでいる。
 女御は消え入りそうな声で「皇子を助けてたもれ」と言い、その声に促されるように女房が衣を翠子の前に置いた。
「倒れた時にお召しになっていた衣です」
 翠子は衣に触れる。
「いかがじゃ?」
 扇で顔を隠すのも忘れたように、年かさの女房が翠子を覗き込む。
「少なくとも禍々しいものは感じません」
「物の怪ではないのか? それなら何なのじゃ」
「落ち着かれよ。まずは話を聞くがよい」
 煌仁に言われて、我に返ったように女房は俯いた。

「この衣から感じるのはとても深い愛情です」
 女御のすすり泣く声が響く。その声に切なくなりながら、翠子は思った。
 病気か、もしかしたら毒かもしれない?
 とは言え確証もなく、そんな発言をしては大事になるだろう。
 年かさの女房はうな垂れて、目元に袖をあてた。

「姫よ、何か気になることがあるなら言ってみるといい」
「あ、の……。その時の食器はありますか?」
 顔をあげた女房は「あります」と言うや否や立ち上がった。

 御簾の中から出てきた女御は皇子の枕元に行く。
「すっかり食が細くなってしまったのじゃ。医師はどこも悪くはないと言うのだが、食べないので疲れやすく、こうして寝てばかりいる」
 そう言ってまた袖を濡らす。

 年かさの女房が食器を盆に載せて戻ってきた。
 銀の器が並ぶが、(さじ)だけは木製である。

「匙は銀ではないのですか?」
「皇子が熱いのを嫌がるのだ」

 翠子の邸でも銀食器を使っているが、熱い粥などは竹の匙を使っている。なので特に不思議に思うわけじゃないが、なぜだか匙から目が離せない。
 真っ先に手に取った。
 途端に顔が強張り、口元が震えた。

「どうした?」
「あ、悪意が、染み込んでいます」
 急いで他の銀食器も触ってみたが、何も感じない。
「匙だけか?」と翠子に確認した煌仁は「このままお待ちください」と言い残してどこかに行った。

 女御の震えた声が「匙が原因なのかえ?」と聞いてくる。
「それはわかりませんが、食器のうち、この匙にだけ禍々しいものを感じます。これは毎日使っているのですか?」
「そうじゃ。匙に彫ってある絵が大層気に入っておられて」
 なるほど猫が彫られている。
 それにしても素掘りなのは何故なのか。
「漆器ではないのは何故なのですか?」
 毒についてはよくわからないが、漆が塗ってあるならそれほど毒が染み込んだりしないような気がした。
「皇子が漆の匂いを嫌がられて」
「――そうでしたか」


 煌仁が(たらい)を抱えて戻ってきた。呼んだのか唯泉も一緒にいた。
 盥には魚が二匹泳いでいる。
 煌仁は盥に匙を入れた。
 最初のうちは元気に泳いでいた魚が、やがて動きを止めぽっかりと浮かんだ。

 やはり毒だった。
 予想をしていたとはいえ、恐怖のあまり翠子は震えた。
 唯泉がしみじみと「匙に毒とはなぁ」と言い、女房は腰を抜かし、麗景殿の女御は目にした光景の衝撃に気を失った。


 次の日の夕暮れ、翠子のまわりはいつになく賑やかだった。

「姫よ、来てそうそう見事な活躍だな。おめでとう」
「はぁ……」

 これが喜ばしい結果なら、手放しで笑えたかもしれない。けれどもわかった原因は毒である。恐ろしいし、新たな火種を生んでしまった。麗景殿は早速、弘徽殿の仕業に違いないと騒ぎ立てているという。
 それが辛い。

「まあそう暗い顔をするな。医師と薬師が喜んでいたぞ。お主のおかけで皇子は助かるのだ」
「そうだ、姫よ、これほどの喜びはない。ありがとう」
 煌仁も重ねて翠子を励ました。

「あの、これでもう、邸に帰れるのでしょうか」
「ははっ。それは無理だろう。なぁ、煌仁」
 煌仁は盃を下ろして苦笑する。
「すまぬがまだ解決はしておらぬ。もう少しだけ辛抱してくれ。そうだ、唯泉、笛をもて」
 立ち上がった煌仁が戻ってきた時には、手に琵琶を持っていた。

 唯泉が横笛を吹き、煌仁が琵琶を弾く。
 琴ならば翠子も弾けなくもないけれど、人前で披露する自信はない。ふたりが奏でる調べに耳を傾けた。

 翠子を慰めるように、まゆ玉がすりすりと体を寄せる。
 まゆ玉を撫でながら翠子は目を閉じた。
 細く伸びゆく音。心の琴線を振るわせる優しく穏やかな調べは、不安に揺れていた心を癒していく。
 うっすらと瞼を開ければ、女御から頂いた菓子が目に留まった。
 今朝、麗景殿の女御は自らここまで足を運び『本当にありがとう』と涙を浮かべ、何度も何度も翠子に礼を言った。女御は弘徽殿の悪口なんてひと言も言っていなかった。

 皇子が助かったのだ。それだけを喜べばいい。
(命以上に大切なものなんて、ないんだもの)
 爽子は自分に言い聞かせた。


 夜も更け、煌仁と唯泉は席を立った。
「まるで駄々っ子ですな」と篁が呆れたようにため息をつく。
「そう言うな、いまだ慣れない環境で不安なのだろう」
「物の怪もまだ宮中のどこかにいるし、姫の協力は不可欠だ」と唯泉が言った。
「篁、姫が言っていたこと。調べておけよ」
 不満げに口元を歪ませた篁は、しぶしぶ「はい」と頷く。

 彼らの励ましで元気を取り戻した彼女が、皇子の衣から感じた違いを指摘した。
 同じ愛情でも一度目と二度目の衣には、違いがあったという。
『唯泉さまが感じていたとおり、物の怪は皇子を守っていたのではないかと思うのです。最初に皇子がお倒れになったとき、何か起きませんでしたか? たとえば匙がどうにかなったとか』

 唯泉が目の端で篁を睨む。
「そもそも、検非違使はなにをしていたのだ。匙くらい最初に調べたのではなかったのか?」
「はっ、申し訳ありませぬ」
「申し訳ないと思うなら、ぶつくさ言わず姫の役に立て」
「はっ」
 唯泉に厳しく指摘され、篁は大きな体を小さくしながら恐縮至極であった。

≪ 東市 ≫