桜の下で会いましょう

「隼也は、嫌がらせはないと申すのだが、なんだか胸騒ぎが治まらなくてのう。」

咲哉が亡くなって、依楼葉が咲哉に扮していた時、隼也が左大臣家に現れ、どれだけ家は助かったか。

何事もなければいいと願うのは、姉の依楼葉も同じ事だ。

「分かりました。私も何か耳にしましたら、父上様にご報告いたします。」

「すまぬな、依楼葉。」

こうして父・照明は去って行ったが、父同様、嫌な予感がするのは依楼葉も同じだった。

だが、いろいろ探り回っては、相手の目に触れてしまう。

依楼葉は何かにつけ、歌会の事について伺える相手を、吟味していた。


しばらく経って、その好機がやってきた。

冬の左大将・藤原崇文に会ったのだ。

「おお、和歌の姫君。いや、今は尚侍殿か。」

少し前まで、依楼葉の事を気に入っていた藤原崇文は、久しぶりに依楼葉に会えて、笑顔でいる。

「もしや帝を諦めて、私の元へ来るとでも?」
「冗談は、止して下さい。」

「はははっ!」

相変わらずの軽い感じだなと、依楼葉が思った時だ。

彼なら、何か話してくれるのではないかと、考えたのだ。


「そう言えば、夏の左大将様。」

依楼葉は、藤原崇文を奥の部屋へと、連れて行った。

「何の、お話かな。」

勿論、嬉しそうについて行く、藤原崇文。

二人きりになるのは、容易な事だった。


「今度、若い公達で歌会を行うだとか。」

「噂を聞くのが早いですね。さすが和歌の尚侍。」

「茶化さないで下さい。」

依楼葉は、もっと藤原崇文の元へ寄った。

「弟の秋の中納言の事で、何か聞いておりませんか?」

藤原崇文は、それを聞いてチラッと、依楼葉の方を見た。

「……何か、知ってらっしゃるのですね。」

「まあ、それも噂なのですけどね。」

そう言って顎に手を置いた途端、藤原崇文はその噂を話そうとはしない。

こういう時に限って、口が堅くなるのだ。
「どうか、教えては下さいませんか?」

依楼葉は、尚も藤原崇文に近づいた。

「ねえ、夏の左大将様。」

艶めかしい目で、依楼葉が藤原崇文を見ると、彼は困った顔をした。

「相変わらずですね。ここだけの話ですよ。」

「ええ、ええ。さすがは、夏の左大将様。」

藤原崇文は、周りを見ると扇を広げた。


「尚侍も気に病むかもしれませんが、皆、秋の中納言殿を疑っております。」

「疑っている?」

藤原崇文は、頷いた。

「以前の春の中納言殿がお亡くなりになり、直ぐに左大臣家に入ったと。本当に左大臣家の子か、分からぬ故、何とも不可解だと。」

「そんな……」

前からそんな噂は、耳にしていたが、それが酷くなっていったと言う事なのだろうか。

「秋の中納言殿は、最初は田舎臭かったものの、ここ数年でご立派な公達になられた。加えて才も秀でている故、何かと皆、不満なのでしょう。」

藤原崇文は、気を遣っているようだ。
「お話、聞かせて頂いて、ありがとうございます。」

依楼葉が、立ち上がろうとした時だ。

「待って下さい。」

藤原崇文は、依楼葉の手を掴んだ。


「まだ、お話したい事が……」

その瞳は、まだ依楼葉を追っているようだった。

「夏の左大将様……」

本当は、ここで止めておきたかった。

だが話を聞かせて貰った手前、それだけで帰るのは、依楼葉は気が引けた。

「何でしょう。」

依楼葉は、再び藤原崇文の隣に座った。


その時だ。

藤原崇文が、依楼葉を抱き寄せたのだ。

「さ、左大将様!」

「静かに!」

依楼葉の顔を、藤原崇文が覗き込む。

「他の者に、聞かれてもよいのですか?」

「えっ?」

藤原崇文は、依楼葉を耳元で、囁くように言った。

「……今回の、藤壺の女御様のお話、聞いておりますか?」

「ええ。」

聞いているどころか、依楼葉は、その場面を見た張本人だ。
「そのせいで、藤壺の女御様は、帝のお怒りを買った。おそらくもう、他の入内した姫に、嫌がらせ等はできないでしょう。」

「はい。」

「そこでなのだが……あなたはまだ、春の君の妹背なのだろうか。」

依楼葉は困りながら、顔を上げた。

「もしそうなら、今入内しても、あなたを邪魔する者はいない。」

「夏の左大将様?」

藤原崇文は、依楼葉の頬にそっと触れた。

「……友の妹背でなければ、このままそなたを奪いたかった。」

その寂しげな瞳の奥に、依楼葉はドキッとした。


今まで、半分からかっていたように、『和歌の君が恋しい。』と言っていた夏の君。

いくつか貰った文にも、浮いた言葉ばかりで、本当に気持ちがあるのか分からなかった。

春の祝宴の時にも、自ら春の君の元へ、誘ってくれたと言うのに。


依楼葉はこの時初めて、夏の君が自分を恋しく思ってくれている事を知ったのだった。
「さて、あまり長い間一緒にいると、春の君の妹背である事を、忘れてしまう。」

そう言って藤原崇文は、依楼葉の体を放して、立ち上がった。

「夏の君様!」

依楼葉の呼びかけに、藤原崇文は背中を向けて止まった。

「申し訳……ありません……」

その気持ちも知らずに近づいた自分を、依楼葉は責めた。

そして藤原崇文は、その気持ちを無言で受け止めた後、静かに去って行った。


依楼葉はしばらく、その部屋から外を眺めていた。

ゆく水に 数かくよりもはかなきは
思はぬ人を 思ふなりけり

(流れてゆく水に数を書くことより無益なのは、自分を思ってくれない人を恋い慕うことだ。)

空にはいつの間にか、月が出ていて、そんな時でも依楼葉は、帝である春の君を、思い出す。

そんな自分を、はかないと分かっていながら、見守るように恋しく思ってくれる夏の君を思うと、依楼葉は切なくなるのだった。
するとどこからか、足音が聞こえてきた。

「はて。誰も想うて詠んだ歌なのだろうか。」

足音の主は、春の君だった。

「……主上。」

依楼葉は慌てて、座り直した。

「ああ、そのままで。」

春の君は、依楼葉の側に片足をついて座った。


「まさか、私ではあるまいな。これ程までに、あなたと想い合うていると言うのに。」

「……はい。」

素直に返事をする依楼葉に、反って驚いたのは春の君だった。


「……昔、恋人になってくれないかと、仰った方です。」

「ほう。それは私に、妬けと申しているのかな。」

春の君が依楼葉の顔を覗くと、はにかみながら依楼葉は、下を向いた。

「その方が教えてくれたのですが、弟の隼也に、危険が迫っているかもしれないのです。」

「秋の中納言に?」

依楼葉は少しずつ、春の君に近づいた。

「主上、教えて下さい。藤壺の女御様の力が無くなった今、一番憂いているのは、どなたですか?」
「一番憂いている者?そうだな……藤壺の父、太政大臣殿だろうなぁ。」

「太政大臣殿……」

依楼葉の頭の中に、あの冷ややかな目が思い浮かぶ。

「太政大臣殿は、藤壺の懐妊を誰よりも喜んでいた。それが、本人の嘘だと分かり、行き場のない思いに、駆られているであろう。」

背中にヒヤッとした、空気を感じた依楼葉。

それだけではない、嫌な予感がしたのだ。

「太政大臣殿は……政を狙っていたと言う事は、ありませんか?」

「政?太政大臣殿が?」

春の君は、考え込んだ。


「まさか太政大臣では足りずに、摂政関白まで狙っているのか?」

「摂政関白を!?」

依楼葉と春の君は、顔を見合わせた。

「藤壺に皇子が産まれ、皇太子になれば、太政大臣殿はその叔父。陰で政を操る事もできる。」

「そんな……」


依楼葉は、弟の隼也の身の回りだけではない、大きな黒い渦を感じた。

「放っておけません。」
「尚侍?」

「今は隼也だけ狙っていたとしても、将来主上を狙うかもしれません。そんな事があれば、私は……私は!」

春の君は、依楼葉を抱きしめた。

「私は、大丈夫だ。」

「主上……」

「それよりも、そなたが心配だ。あまりいろいろ考えて、手を出すのではないかと。」

「そのような事は……」

「現に、家の為に公達に扮して、怪我までしたではないか。」


依楼葉は男の成りをして、帝の側にいた時の事を思い出した。

「あの時は……あの時です。」

「そうか?ならば、よいが。」

春の君はそっと、依楼葉から離れた。

「ですが、もう一度だけ、目を瞑って頂けませんか?」

「何をする気だ?」

「弟の隼也を、救ってやりたいのです。」

「秋の中納言を?」

春の君は、渋い顔をした。

「隼也は、本当に左大臣家の者なのか、周りから疑われております。それを父に伝えてきたのが、太政大臣殿なのです。」