桜の下で会いましょう

側にいた綾子も、何とか桜子を落ち着かせようと必死になるが、桜子の苛立ちは、一向に収まらない。

「返せ。」

「あ、あの……」

依楼葉が困った顔をすると、桜子は急に依楼葉に飛びついてきた。

「女御様!?」

慌てて周りが抑えるが、桜子は尚も依楼葉に飛びつく。

「お止め下さい!」

「返せ!私の……私の!」

依楼葉が桜子を見ると、目が血走っている。

「返せ!帝を……帝を返せ!」

桜子の血走っている目が、涙で濡れている。


桜子は、依楼葉と帝が惹かれ合っている事を、知っているのだ。

「藤壺の女御様……」

自分の気持ちを抑えるくらいに、この人には敵わないと思っていた相手が、今度は自分に敵わないと、嫉妬に狂う。

宮中は、何て呪いの場所なのだろうと、依楼葉は改めて思った。

この人と一人の帝を奪い合って、生きていけるのだろうか。

依楼葉が、そう思った時だ。

答えは、もう出ていた。
突然桜子が、依楼葉の首に、手を回したのだ。

「死ね……おまえなど、いなくなればいい……」

依楼葉は、ゾッとした。

きっと今まで入内してきた姫君も、同じような思いをしてきたのだと思うと、体が震えてきた。

だが、依楼葉は入内した姫君ではない。

しかも、帝に仕える尚侍と言う、大事な役目がある。


ここで死ぬ訳には、いかない。

薄れゆく意識の中で、依楼葉は思い切って、桜子を押し飛ばした。

「きゃあっ!」

だが押し飛ばした場所が悪かった。

見境なく飛ばした為、部屋ではなく、廊下の方にやってしまったのだ。

「この……」

髪を振り乱し、立ち上がる桜子の様は、まるで夜叉のようだった。


「ひぃいいい!」

周りの女房達は、恐ろしさのあまり、逃げ惑う。

その中の一人の女房が謝って、自分の衣の裾を踏んでしまった。

「あっ……」

滑った女房は、近くにいた者の、腕にしがみついてしまった。
それが運の悪い事に、桜子の体にしがみついてしまったのだ。

桜子はそのまま、庭へ落ちて行く。

「女御様!」

綾子が手を伸ばした時には、桜子は庭に倒れていた。


「うぅぅん……うぅぅぅ…ん……」

桜子は肩を抑えて、唸っている。

「藤壺の女御様!」

2、3人の女房が庭に降り、他の女房達も、誰か別な物を呼びに行く。

「しっかりしてください、女御様!」

綾子は、お腹の子供が心配になって、桜子のお腹の方を見た。

だが、桜子はお腹を押さえる事しない。

あれだけ派手に転げ落ちれば、お腹の子供が流れても不思議ではないのに、その気配すらない。

「もしや……」

綾子は、息をゴクンと飲み干した。


騒ぎを聞き、駆けつけたのは帝と、夏の右大将であった。

「これは一体……」

帝と共に、庭を見た夏の右大将・橘厚弘は、倒れている妹の姿を見つけた。

「さ、桜子!」

慌てて庭に降り、妹を抱き上げた。
「医師を呼べ!」

そう叫んで、庭から桜子を部屋の中に、運び入れる橘厚弘。

その部屋の傍らには、ぐったりとしている依楼葉がいた。

「尚侍!」

帝が駆け付け抱き上げると、意識は朦朧としていた。

「尚侍!しっかりしろ!」

すると依楼葉は、目を少しだけ開けるが、直ぐにまた目を閉じてしまった。


「どうしたのだ!これは!」

帝は周りの女房を見回したが、誰一人下を向いて、話そうとはしない。

それはそうだろう。

まさか、帝の尚侍である依楼葉に疑いをかけ、藤壺の女御自ら首を締めて殺そうとしたなど、恐ろしくて誰も口にはできない。


「藤壺はどうして、庭に倒れていた?」

すると自分の裾を踏んでしまい、桜子を押し倒してしまった女御はが、震えながら言った。

「も、申し訳ございません!私が……!」

そこで綾子が、その女房を止めた。

「恐れながら、和歌の尚侍様が、藤壺様を庭に押し倒したのでございます。」
帝も夏の右大将・橘厚弘も、目を丸くして驚いた。

「それで和歌の尚侍様は、自分がやってしまった自責の念に堪えかねて、気を失ってしまったのです。」

辺りはシーンとなる。


「そんな……」

夏の右大将・橘厚弘は、尚侍として仕える、依楼葉の中身を知っていたつもりだった。

それが、嫉妬で妹を庭に突き落とすとは!

「そうだ!お腹の子は……」

橘厚弘は、桜子の顔に耳を近づけた。

「桜子、お腹は大事ないか?お子は、お子は無事なのか!」

だが桜子は、肩ばかりを痛がって、一向に答えようとしない。


そして、女房に呼ばれた医師がやってきた。

「これは、打撲ですな。」

桜子の肩に、直ぐに薬が塗られる事になった。

「お子は!?大事ないのか?」

橘厚弘は、桜子の手を取り医師に尋ねた。

「えっ?お子!?」

医師は慌てる。

「お子がいる中で、庭に転倒したとなれば一大事。詳しく調べる故、皆、部屋から出て行って下さるか。」
その一声で、皆は藤壺から離れた。

帝はその隙に、依楼葉を抱き上げ、清涼殿まで連れてきた。

依楼葉を横たわらせ、水で濡らした布を彼女の頬に当てると、依楼葉はゆっくりと目を開けた。

「……気がついたか。」

「主上……」

依楼葉は、急に起き上がろうとした。

「もう少し、休め。」

帝は依楼葉をもう一度、横たわらせた。


「さて。一体何が起こったのだ。」

依楼葉は、反対側を向いて、何も答えない。

「私が聞いているのに、答えられないのか?」

「……お許しください。」

他の者なら強引に聞くと言うのに、相手が依楼葉では、帝は一歩踏み出せないでいた。


そんな時だ。

依楼葉の元に仕えている橘の君が、側に来た。

「主上。私がお話致します。」

依楼葉は、ハッとした。

「橘の君、黙っているのです。」

「でも!」

橘の君は、依楼葉の手を握った。


「どうするかは、主上が決める事。私はありのままを、お伝えするだけです。」
そして橘の君は、嫉妬に狂った桜子が、依楼葉の首を絞め殺そうとした事。

桜子が庭に落ちたのは、女房が裾を踏み、桜子に間違ってしがみついてしまった為だと言うこと。

桜子は懐妊したと聞いていたが、庭から落ちたのに、全く流産の兆しがなかったことを、帝に告げた。

それを聞いた帝は立ち上がると、直ぐに藤壺へと向かった。


藤壺では、戻って来てくれた帝に、安堵の声が上がった。

だがそれも、ほんの少しばかりの時で、終わってしまった。


「医師よ。藤壺は、懐妊していたのか?」

医師は答えない。

「はっきり申せ。」

医師は、重い口を開いた。

「庭に落ちる前の事が分かりませんので、何とも言えませんが、女御様が懐妊されていた可能性は、低いように思われます。」

「なに!?」

一番驚いたのは、兄の橘厚弘だった。


「やっぱりな。」

帝は、桜子を冷たい目で見降ろした。

「帝の尚侍を、首を絞め殺そうとしたばかりか、懐妊も嘘だったとは。藤壺の女御。しばらくはここで謹慎していなさい。」

「主上!」

桜子が呼び止めようとも、帝は戻って来る事はなかった。
「桜子が、偽りの懐妊だと!?」

父・橘文弘は、扇を床に激しく打ち付けた。

「余計な事をしおって!」

橘文弘は、もう少しで手に入りそうな、外戚政治の希望を断たれた事に、怒りを顕わにした。

「どうにか、ならないのか!」

側で聞いていた厚弘も、こればかりは何ともできない。


「桜子は、偽りの懐妊を申すばかりか、帝お気に入りの尚侍を、陥れようとしたのです。それは、帝のお怒りを買うばかりか、この太政大臣家の信頼も、失いかねているやもしれません。」

「ああ、何て事なのだ。」

一つ一つ積み上げてきた信頼が、こうも簡単に崩れ落ちていくとは。

「おのれ……左大臣家め……」

橘の厚弘の怒りの矛先は、左大臣家に向けられた。
ある日。

関白左大臣の藤原照明と、その息子・藤原隼也が歩いていた時だ。

そこへ、太政大臣・橘文弘がやってきた。

「これはこれは、太政大臣殿。」

父・照明と息子・隼也が頭を下げる。

「これは、関白左大臣殿。」

文弘は、ちらっと隼也を見る。

「……秋の中納言殿は、しばらく見ぬ間に、成長あそばされましたな。」


隼也が『母から、父は藤原照明殿だと聞いて、参りました。』と、言って左大臣家に来てから、数年経った。

今では立派な、公達の一人だ。


「ところで秋の中納言殿は、今度の歌会には、ご出席されますかな。」

「歌会……ですか?」

父・藤原照明と、息子の隼也が、顔を合わせた。

歌会があるなど、左大臣である照明も、聞いてはいない事だ。

「ああ、失礼。若い公達ばかりの歌会にて、我々親世代は、呼ばれてはいないのですよ。」

橘文弘は、扇で微笑みを隠した。