【恋 慕】



 目の前に佇む廃太子……揚締(ようてい)殿下は、こちらをチラリと見てもなにも発しなかった。
 名乗らないままにひざまずいたわたしは、
「殿下……」
と、繰り返すしかない。
 牢というのは名だけで、鍵もない。
 定期的に巡回衛士たちが行進しているだけである。
 それは、油断してるのではなく、殿下が〈剣〉を奪われていたからだろう。なにも当人を捕縛監禁せずとも、“一体〈剣〉”のみを別所に保管しておけばいいのだ。
 だからこそ、あの老僧や琿兄弟も廃太子だけを連れ出すことを避けたのだろう。むやみに当人を〈剣〉から遠ざけることは廃人化を促すことにもなりかねない。剣と、剣に選ばれた個人との間には、それほどの絆がある。


 わたしは吐息すら出なかった。
 六年余の歳月というものが、わたしと殿下の間に横たわっている……。
 しかも、相手はわたしの正体を知らない、気づくはずもなかった。

 ……しゃくれた顎先には、無精髭がまばらに散っていた。頬はさほど()けているようにはみえない。冠をつけないため髪は総髪で流し、(もとどり)はない。
 ハッと胸を()かれたのは、殿下の腹回りがぽっこりと膨らんでいたのを見たからだった。〈剣〉を取り上げられて鍛錬の機会を(いっ)したのであろう。
 このとき、六年前にわたしのからだを貫いたあの衝撃的な()らぎが襲ってきた。
 おもわず目頭が熱くなる……。

揚締(ようてい)様……」

 わたしは偽装をはずし、身にまとったさまざまな余計な無意味な装飾を()ぎ取り去って、揚締殿下のまえにわが(もと)(さら)し、殿下の胸に飛び込んでいきたかった。
 ああ。
 一瞬なりとも、そのような(みだ)らなことを想像するだけで、わたしの芯は濡れそぼってきているように感じた。胸押さえの薄鋼(うすはがね)腹巻を取り去り、わが乳房を、わが(もと)のすべてを見てほしいとすらおもった。願った。哀願した……。

 ごくん。
 生唾を呑んだとき、殿下はようやく口を開いた。

「おまえの剣……みせてくれぬか」 

 なんとも間の抜けた問いかけ、というしかない。わたしの心より、背負っている剣に目がいくとは……。
 ごくん。
 もう一度、空唾を呑んで、わたしは、ゆったりとした口調で答えた。

(おそ)れながら、殿下……この剣は……すでにわたしを選びしもの……殿下が触れられますと、御手が、炎に焼かれるほどの痛みを……」

 最後まで言わなかった。言えなかった。
 まことにそうなるかなど、わたしは知らない、分からない。

「おまえは誰ぞ……牢番士には見えぬが……」
青曹司(せいぞうし)……と申します」
「新しき護衛の者か?」
「はっ、さようにございます」
「ならば、(せい)よ、渢妃(ふうき)()せ」
「は? ふ、渢妃様は……」
()よう、召せと申すに……」
「……………」

 困り果てたわたしは返答に(きゅう)したまま身じろぎもできない。
 このまま殿下を気絶させ、背負って外に出ようかとも考えたけれど、それは無謀というものだろう。いや気絶させるのはいともたやすいことだった。
 ただ背負うのは難がある。
 琿季を待つべきか……それとも……。
 迷っていると、給餌(きゅうじ)の準備をしているらしい女官らがばたばたとやってきた。わたしを見て、一様に表情を強張(こわば)らせた。
 ゆっくりと立ち上がり、女官らをみて、口を開いた。威圧感のある声色(こわいろ)で、
「……殿下が、渢妃様をお召しじゃ。早く告げよ」
と、言ってみた。

 すると、慌てて奥へ戻っていった。残った女官は、わたしを避けるように配膳をしている。いつもの繰り返しなのだろう、あらかじめ決められた位置に膳と器を並べ……ていた。
 さて、どうしたものか……ここは、新任の侍衛かなにかに扮し続けねばならないだろう。
 ざわざわとした気が舞うと、奥からしずしずと近寄ってきた女人を見て、
「や!」
と、声を立ててしまった。
 渢姫……わたしの長姉が目の前に佇んでいた。
 いや、そんなことはないだろう……これも傀儡姫かと察したが、すばやく拝礼した。

「剣……剣の師となるよう、帝都の丞相に命ぜられました……(せい)と申します」
「なに? 丞相とな?」
 つぶやいたのは、渢姫あるいはその傀儡(くぐつ)である。

「はっ」
「それは異なことを聴いたぞよ……わが父は、丞相の任を解かれ、いまは空席ぞ」

 渢姫が答えた。
 ……初耳であった。
 まさかいまそんな情況下にあるとは、露ほども知らなかった……。