平安妻問ひ三番勝負!〜男装少女は帝の寵愛から逃れられない〜

 一羽の(すずめ)が、しうしうと快活に鳴いた。
 小鳥は堂の中をくるりと旋回して、袈裟(けさ)姿の若い入道の手に止まる。隣で見ていた尼削(あまそ)ぎの子供が「わぁあ」と歓声を上げた。

「お堂の扉も窓も開け放たれているのに、外へ逃げていかないなんて。その鳥は宮さまのことがよほど好きなのですね!」

 宮と呼ばれた入道は、美しい顔を少しだけ傾けて「いいや」と笑った。

「この雀は逃げぬよう風切羽根を切ってしまったから、遠くまでいくことができないだけだよ」
「逃げてしまうのが心配なら、(かご)の中で飼われてはいかがですか?」

 童は宝石のように輝く瞳でじっと見上げてくる。無邪気な問いに、入道の宮は困った様子で眉尻を下げた。

「――(セイ)。私はね」

 (セイ)、というのはこの童女の名である。宮はそっとしゃがみ、斎の肩に雀を乗せた。

「狭い籠に押し込められた小鳥より、限られた自由でも懸命に羽ばたきさえずる鳥が好きなんだ」

 その時の宮の言葉が、今も斎の心に焼き付いて離れない。



 先帝が流行り病でお隠れになり、次代の花琉帝(かりゅうてい)の御世となってから五年。京全体で猛威を振るっていた病は終息を迎え、帝の善政により世はふたたび平穏と繁栄を取り戻していた。

「主上ーーーー!」

 帝のおわしどころである清涼殿に、鈴のような声が響いた。
 声の主はひとりの年若い蔵人(くろうど)(※天皇の秘書的役割を担う職)。深緋(こきあけ)の束帯に金鞘の太刀を()いた武官であるが、張り上げた声は凜と澄んで、顔だちは少女のように愛らしい。

「蔵人から報告の時刻にございます! 御座所にお戻りくださいませ!」

 帝を呼びつけるなど不埒千万(ふらちせんばん)であるが、この若者にはそれが許されていた。
 呼ばれるまま奥の御帳台から帷子(からびら)をめくってひょっこり現れたのは、二藍の御引直衣(おひきのうし)の紫が鮮やかな花琉帝である。光り輝くような美貌と言われているが、御簾(みす)が半ばまで下がっており臣下から顔は見えない。帝は優雅に紗の袖を返すと(しとね)へ腰を下ろす。

「やあ、(いつき)。ご苦労だね」

 いつき、と呼ばれた先程の蔵人が顔を上げる。「報告を聞こうか」と帝に促されると満面の笑みを見せた。

「はい! 本日は蔵人所(くろうどどころ)から鷹が逃げました!」

 開口一番、屈託のない調子で報告される不祥事。斎の遠慮も忖度(そんたく)もない口ぶりに、後ろに控えていた他の蔵人二名はのっけから心臓が止まりそうになった。

「へえ。それで私の鷹はどうなったんだい?」

 内裏で飼われている鷹は帝の持ち物である。御簾の下から覗く帝の口元から一瞬笑みが消えたので、後ろの蔵人達は恐れおののいた。しかし当の斎は萎縮するどころかドーンと胸を張る。

「ご安心召されませ。この(いつき)が! 左近の桜によじ登って無事捕まえましてございます!」

 内裏の正殿である紫宸殿(ししんでん)、その正面に植えられている左近の桜。これを折ったり傷つけることは大罪とされている。ましてやよじ登るなど――。
 しかし帝は愉快そうに声を上げて笑うだけだった。

「そうか、それは偉いね。では働き者の斎に褒美を取らせよう。――ほら、お前の好きな梅枝(ばいし)だよ。こちらへ来なさい」

 高坏(たかつき)に盛られていた唐菓子をひとつつまむと、手招きして御座へ呼び寄せる。斎は「ははーっ!」とおおげさに平伏してから膝行でにじり寄った。そして帝の手から直接、ぱくりとひとつ梅の枝を模した揚げ菓子を頬張る。

「左近の桜から見た景色はどうだった?」
「はっ、ちょうど葉桜が盛り……でございましたので、視界すべてが……もぐもぐ。青々として、むぐ。それはそれは良き心地にございました」
「そうか」
「はい! 主上にも、青葉の合間から日が差し込んできらきらと輝くところをお見せしたかったです」

 帝は梅枝をもうひとつつまんで、斎の小さな口に押し込む。

「お前は昔から木登りが得意だったね。だが身体が羽根のように軽いから、そのうちいずこかへ吹き飛んで消えてしまうのではないかと心配になるよ」
「まさかそのような! いつでも誰よりも主上のお側におりますのが、この斎めにございますれば!」

 次から次へと手づから菓子を与える様はまるで餌付けだ。斎がぽりぽりと栗鼠(りす)のごとく口に放り込んでゆく様を飽きもせず眺めている帝だったが、ややあってからようやく、あっけにとられている残りの蔵人達に声をかけた。

「他に報告がないのなら、お前達は下がって良いよ。――あ、鷹を逃がした鷹飼は始末書を出すように」
 花琉帝は即位前、長らく「入道の宮」と呼ばれていた。立太子をめぐるいざこざから、元服してすぐ寺に封じられていたためだ。半ば世間から忘れられていた彼は、流行り病で先帝や春宮(とうぐう)らが相次いで亡くなったことで思いがけず即位することとなる。――御年二十四の時であった。
 その際、彼はあっさり仏縁を捨て還俗(げんぞく)している。

 結果として彼を(まつりごと)から遠ざけた者は流行り病に倒れ、世俗から離れのんびり暮らしていた入道の宮だけが病を逃れたのは皮肉である。

 五年前、京の外れの寺から(れん)に乗ってやって来た新帝を内裏(だいり)に迎えた時、宮中の人々は一様に驚いた。花琉帝となった彼の人は、着替えの衣も、身を護る太刀の一本すら持たず、文字通り身ひとつだけで現れたからだ。
 長い隠遁生活で世の無常を嫌と言うほど味わった花琉帝は、若くして今世のあらゆる未練や執着を手放してしまっていた。

 そんな彼が唯一寺から持ち帰ったもの――それが、(いつき)という少年だった。
「『面倒になりそうなことは斎の口から報告させておけば良い』っていう頭弁(とうのべん)さまの助言は本当だったな」

 清涼殿から退出し、蔵人所への報告を終えた帰り道。出仕を終えたふたりの蔵人は、ひそひそと話し合っていた。

「女房達は(あいつ)のことを“枸橘(からたち)の君”だなんて呼んでもてはやしているけど、枸橘ってあの垣根とかに使われる(とげ)のある木だろ? ――ふにゃふにゃしてて棘って感じじゃないよなぁ」
「いやあいつの場合……主上が棘そのものだろ……」

 不敬極まりない台詞は、先輩蔵人の方から漏れた。

「実は以前、斎を『帝のお気に入りだからって調子に乗るな』って殴った奴がいたんだけど……」

 ちらちらと周囲を見渡し、声を潜める。

「そいつ、翌日から宮中で見なくなったからな」

 迫真めいた言葉に、後輩蔵人は「ひぇ」と悲鳴を上げた。

「まあ、たしかに即位前からの知り合いとはいえ、少し御愛着が過ぎるなぁとは思うけど」
「でも……なんか憎めないよな、あいつ」

 たしかに斎は特別だ。通常、五位蔵人は良家の子弟の中でも特に器量よしの者が選ばれる。斎はさる中流貴族の姓を名乗っているが、その一族は既に没落して久しい。昇殿資格のある蔵人への抜擢は異例中の異例である。

 だが、斎の出世は決して帝の贔屓(ひいき)とは言い切れない。共にはたらく蔵人達にはそれがよくわかっていた。

 斎の性格は素直で、勤務態度は真面目そのもの。加えて誰にでも親切だ。和歌や漢文の素養はいまいちだが、ああ見えて身のこなしは軽く、武芸はなかなかの実力である。
 そもそも今日だって、斎が身を張って左近の桜に登らなければ鷹を捕まえられなかっただろう。もしも帝の鷹を内裏の外へ逃がしてしまっていたら――鷹飼の処罰は始末書どころでは済まなかったはずだ。

「それにしても斎……あいつってさ……」
「ああ……」

 どちらともなくふたりは立ち止まった。言いかけた言葉を一旦呑み込んで、互いに目配せし頷き合う。
 そしてふたりは揃ってひとつの結論を口にした。


「「あいつ、ぜったい女だよな?」」

 帝に連れられて宮中へやって来た当時から、斎は「少女のような顔立ちの童だ」と周囲の大人達を和ませていた。

 花琉帝は即位してまず、斎を童殿上(わらわてんじょう)(※元服前の子供を昇殿させ仕えさせること)させ常に手元に置いた。三年前の元服の儀では、帝が自らの手で冠を被せてやるなどその扱いは格別であった。さらに斎が近衛府(このえふ)の武官となった際には、唐伝来の美しい宝剣を下賜するという寵愛ぶりである。

 いつしか武官と蔵人を兼ねるようになった斎は、“帝から授けられた唐太刀(からたち)を帯びた君”と呼ばれ――それが転じて柑子(みかん)の一種である“からたち”になぞらえ、「枸橘(からたち)の君」と呼ばれるようになっていた。

 だが――

 その“女子(おなご)のような枸橘の君”が、実は本当に“女”である、という事実は、今や宮中では公然の秘密となっていた。

 斎は元服して正式に出仕する齢になっても、相変わらず背は伸びず声変わりもしなかった。それでも当初、女房達は「可愛らしいこと」などと言ってちやほやしていたのだが。
 それから更に三年経った現在、もはや彼女が男だと信じている者はひとりもいない。唐太刀を帯びた男の姿をしていても、彼女の伸びやかな新芽のような美しさは少しも隠れるところがなかった。

 ところが斎本人はあくまで男子として振る舞い、真面目に職務に励んでいる。実はとっくに周囲に女だと看破されているなどと思ってもいない様子である。
 その姿があんまりまっすぐでひたむきだから――何より帝がそれを良しとしているものだから、誰もその事実を指摘できずにいる。


 ある日、斎は七殿五舎のひとつ麗景殿(れいけいでん)へ向かっていた。漆の盆の上に、琵琶をひとまわり大きくしたような珍しい果物をいくつも乗せて運んでいる。後宮に住まう女御達に果物を下賜したい、と帝から遣いを頼まれたのだ。

「ごめんください。麗景殿の女御さまに、帝より下され物でございます」
「まあ、枸橘(からたち)の君だわ」
「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、近くにお寄りになって」
「はい。失礼します」

 女房達に大歓迎されて、御簾を巻き上げて内へ招かれる。斎はその下をくぐり、麗景殿の部屋の中へ半身ほど入った。
 これは本来ならあり得ないことだ。女御自身はさすがに几帳(きちょう)の奥であるものの、帝の妃がいっぱしの武官と同じ空間にいるなどと。
 しかし斎は童殿上の頃から後宮に出入りしており、女房達にかわいがられていたのだ。その上斎が女であろうことは誰から見ても明らかだったので――この特別待遇が許されていた。

「こちらはいつ訪れても良い香りがしますね」
「ふふ、これは女御さまが特別に作らせた薫物(たきもの)なのですよ」

 女房が香炉の前を扇いで香りを送ってやると、斎はくんくんとうれしそうにそれを嗅ぐ。

「わぁ……。美しい薔薇(そうび)がまさに今(ほころ)んだみたいな、みずみずしい匂いがいたします」

 本来ならばここは一首詠んで表現するのがたしなみとされているが、女房達は斎の飾らない言葉を好ましいと思っていた。すると几帳の奥の女御が、女房のひとりに耳打ちする。

「枸橘の君にもこの薫物を分けてさしあげましょうか?」

 女御からの提案を、斎はあわてて固辞した。

「い、いえ! 私は男の身ですので……。あの、このような華やかな香りは不似合いかと……」
 
 あくまで男だと取り繕う様子が可愛らしくも滑稽(こっけい)で、女房達はくすくすと扇の下で笑った。麗景殿の女御はその様子を几帳の隙間から覗き見て、小さなため息をつく。

(あの殿上童の頃から可愛がっていた斎――枸橘の君が、実は女で。帝からの寵愛も深く、いずれ女御である自分の立場を脅かす存在になるかもしれないなんてこと、当時は想像もしなかったわ)