「それも心配ない。お母さんはこの一族の当主だ。お前が言えないことも、お母さんならガツンと言ってくれる。お母さんが守ってくれるから、安心していい」
「うん……」
母は経営者でこそないものの、この篠沢家本家の当主である。その権力は絶大だし、他の親族をも黙らせられるだけの発言権と決定権を持っているのが強みだ。
「絢乃、サイドテーブルの抽斗を開けてごらん」
「はい。――これって……」
わたしは抽斗から取り出した封筒を凝視した。父が書いたと思われる、遺言状だった。
「それは、弁護士立ち合いのもとで作成した公正証書遺言だ。もちろん、法的に有効なもので、お父さんと弁護士の先生とで同じものを一通ずつ持ってる。それを見せれば、反対勢力も何も言えんさ」
「パパ……」
彼らだって、いくらわたしの会長就任に反対でも法律まで敵に回したりしないだろう。そう父は言って笑った。
「そこに書いてある内容は、さっきお前に話したこととほぼ同じだ。グループの経営に関することは、一切を絢乃に一任する。グループ企業の土地や建物、株式はすべてお前に譲渡する。あと、お父さん個人の貯金などの財産は、お母さんと半分ずつ相続させる……とかな」
「ママは……、経営には関わらないってこと? お金だけ相続して?」
「お母さんは、それでいいって言ってるよ。この家や土地は元々お母さんの持ちものだし、お母さんがお前のお祖父さんから相続した財産もあるから、って。お父さんの財産だって、半分だけでも何億もあるからな」
「そう……」
父の遺言は、わたしの想像を遥かに超える内容だった。そして、〝財閥会長の後継者〟というわたしの立場を改めて強調する内容でもあった。十代の女の子が託されるには重すぎる重責を、わたしは託されたのだ。
「お前には責任が重すぎるかもしれないが、お前はひとりじゃない。ちゃんと助けてくれる人がいる。……どうだ? できそうか?」
父はわたしの目をまっすぐ見つめて問いかけた。
本当は自信なんてなかったし、わたしには荷が重すぎると思った。けれど、父の跡を継げるのはわたししかいないということも、また事実だった。
「……うん、自信はないけど。わたし、精一杯やってみる」
「そうか! よかった。それを聞けて、お父さんは安心したよ。これで心置きなく旅立てる」
「…………」
わたしの返事を聞いて、満足そうに顔を綻ばせた父。それまでこらえていた涙が、わたしの両目からポロッと零れ落ちた。
「絢乃。……お父さん、ちょっと疲れたな。もう寝るよ。おやすみ」
「……うん。パパ、おやすみ……」
泣きじゃくりながら挨拶を返し、わたしは両親の寝室を出た。もしかしたら、父はこのまま目覚めないのではないかと、本気で覚悟した。
母と史子さんにも「おやすみ」を言うため、わたしは慌てて涙を拭い、階下に下りた。
それでも、涙は次から次と頬を伝い落ちた。リビングに着いた頃には、もう二人に「おやすみ」すら言えないくらい泣いていた。
「――絢乃!? どうしたの一体! そんなに泣いて……」
わたしの泣き顔を目の当たりにした母は、血相を変えてリビングの入り口にいたわたしのところへ飛んできた。
史子さんも何が起きているのか理解できずにオロオロしていた。
「お……っ、お嬢さま!? どうなさったんです!?」
「ぱ……パパが……、ゆいご……遺言じょ……っ! わた、わたしに遺言状書いたって……っ! わたしに……、後のことは任せたって……」
わたしはしゃくりあげながら、父との間に起こったことを一生懸命母に伝えた。
「パパ、もう寝るって言ってたけど……。もう二度と目覚めないかも……。もうダメなのかも……。だから、わたしにあんなこと……!」
そのままわたしは母の胸に飛び込み、堰を切ったようにわぁっと泣き出してしまった。
「ちょっと落ち着いて、絢乃! パパは大丈夫! 大丈夫だから……」
母はそんなわたしの背中をあやすようにさすりながら、「大丈夫、大丈夫」と何度もわたしに言い聞かせてくれた。
「絢乃……、今日までよくガマンしたわね、偉い偉い! つらかったわね。もうガマンしなくていいから、思いっきり泣きなさい」
母は分かってくれていたのだ。わたしがそれまでずっと泣くのをガマンして、努めて明るく振舞っていたことを。その裏に、抱えきれないくらいの悲しみが潜んでいたことも。
「――もう、落ち着いた?」
数分後、目を真っ赤に泣き腫らしたわたしに、母が訊いた。
「うん……。ゴメンねママ、もう覚悟はできてたはずなのに。いざ現実を突きつけられたらもう、緊張の糸がプツンと切れちゃって……」
「ええ、分かるわ。ショックよね。『遺言状』なんてリアルな話を聞かされたら」
「ママもホントに知ってるの? 遺言状の内容」
「もちろん知ってるわよ。私とも相談したうえで、あの遺言状は作成されたんだもの」
父の言っていたことは本当だった。母もあの内容に納得していたのだ。
「だから大丈夫よ、絢乃。ママはあなたの味方だから。里歩ちゃんも、桐島くんもね」
「桐島さんも?」
なぜそこで彼の名前が出てくるのか、わたしは首を捻るばかりだった。
けれど、わたしには心強い味方が三人もついているのだと思うと、何だか気が楽になった。
だからこそその時、本気で覚悟を決めようと思えたのかもしれない。
――父が息を引き取ったのは、新年を迎えてすぐのことだった。
クリスマスイブのあの夜から容態は一度持ち直したけれど、年の瀬も押し迫った十二月二十九日あたりからまた悪化し、最期は家のベッドに横たわったままで眠るように旅立っていった。
「――加奈子さん、絢乃ちゃん。この度はご愁傷さまでした。私もショックですよ。まさか井上が、こんなに早く逝ってしまうなんてね……」
父を婿入り前の旧姓で呼んだ主治医の後藤先生も、ショックを隠し切れない様子だった。
「私の力不足でこんなことになってしまって、お二人にはどうお詫びしていいのか……。本当に申し訳ありません」
「後藤先生、頭を上げて下さい! 夫が亡くなったのは誰のせいでもないんですから」
憔悴しきってわたしたちに頭を下げた彼を見かねたらしい母は、慌てて彼を慰めた。
「そうですよ、先生。父は幸せだったと思います。だって、お友達の後藤先生や、わたしたち家族にちゃんと最期を看取ってもらえたんだもん。きっと……、これでよかったんです」
わたしも、涙声になってそう言った。もしかしたら、「これでよかったんだ」と自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
悲しくなかったわけじゃない。でも、悲しんでいたって父はもう戻ってはこないのだ。だからたとえカラ元気でも、前に進むしかないのだと。
「……そうですね。もしあなた方に恨まれたらどうしようかと心配で。でも、絢乃ちゃんの言葉で僕は救われました。ありがとう」
「……はい」
後藤先生は、わたしにしきりに感謝していた。でも、彼に感謝していたのはむしろわたしたちの方だった。恨むなんてとんでもないと思っていた。
「――パパ、今まで楽しい思い出をいっぱいありがとう。もう疲れたよね……。後のことはわたしやママに任せて、天国でゆっくり休んでね……」
わたしは永遠の眠りについた父に、泣きながらそう語りかけた。「さよなら」なんて悲しすぎるので、それだけは決して言わなかった。
****
父の葬儀は、都内の斎場の一番大きな一室でしめやかに営まれた。〈篠沢グループ〉には結婚式場はあるけれど、葬儀社だけはないのだ。
葬儀は一応〝社葬〟という形を取っていたけれど、会社の関係者ではない――むしろわたし個人の関係者である里歩も参列してくれた。
「絢乃……、大変だったね」
ダークグレーの大人っぽいワンピースが、黒のボブカットで長身の彼女によく似合っていた。
「里歩、来てくれてありがと。パパもきっと喜んでくれてると思う」
黒のフォーマルワンピースで彼女を出迎えたわたしの目に、もう涙はなかった。もう涸れてしまっていたし、泣いている暇なんてなかったから。
そんなわたしの様子に気づいていた彼女は、親友らしい気遣いを見せてくれた。
「アンタさぁ、またムリに突っぱってるでしょ」
「……えっ? そんなことないわよ」
「お父さんのことは何て言うか、ホントに残念だったと思う。アンタ一昨日、お父さんが亡くなった後に大泣きで電話してきたじゃん。肉親失った悲しみっていうか心の穴って、一日二日で埋められるものじゃないでしょ? だったらそんな悟り開いたような顔してないでさ、もっと泣いたらいいんだよ。まだ子供なんだし」
彼女の言ったことはもっともだった。わたしはまだ十代の子供で、父親を亡くしたばかり。もっと周りに甘えて、泣いてもよかったのだと思う。
でも、わたしはそれと同時に、〝財閥の後継者〟――つまりは大きな組織のトップに立つ人間でもあった。一番上がこんなに不安定だと、下の人たち(という言い方はあまり好きじゃないのだけれど)も不安になるから、せめてわたしだけはドッシリ構えていなければ、という気持ちもあったのだ。
「うん、ありがと里歩。気持ちは嬉しいんだけど、ゴメン。わたしがいつまでも泣いてるワケにはいかないの。この先わたしについて来てくれる人たちを、不安にさせたくないから」
わたしが組織のトップとしての覚悟を語ると、里歩も「そっか、そうだよね」と、分からないなりに納得してくれた。
「でも、あんまりムリしちゃダメだよ? あと、気落とさないでね」
「うん、分かった。ありがとね」
「――しっかしまぁ、仰々しいお葬式だぁね。参列者の顔ぶれだけでスゴいんじゃないの?」
彼女は式場の中をぐるりと見回して、目を丸くした。
「……ね、スゴいでしょ? だから、わたしも泣いてるヒマないのよ」
わたしは彼女に肩をすくめて見せた。
〝社葬〟というだけあって、当然ながら〈篠沢商事〉を始めとするグループ企業の社員や役員の人たちは大勢参列していた。その中には彼――桐島貢の姿もあった。
そして、母方の親族である篠沢財閥の人間も来ていた。正確にいえば、母も祖父の一人娘だったので、祖父の弟たちの子供や孫やといった分家の人たちで、この人たちの中にも全国にあるグループ企業や支部の役員を務めている人たちが何人かいるのだ。
ただ、父方の親族である井上家の親戚はアメリカに移住していたため、残念ながらひとりも参列できなかった。
わたしとしては、父のお兄さんである伯父だけでも来てほしかったのだけれど……。
彼は父の死をメールで知らせると、「本当にショックだ。帰国できなくてすまない。加奈子さんにもよろしく伝えてほしい」とすぐ返事をくれた。
要するに、母の天敵ともいえるこの魑魅魍魎……もとい篠沢一族を相手にするのに、わたしの味方はほとんどいない状態だったので、わたしは泣いている場合ではなかったのである。
もちろん、この人たちがみんな母の敵というわけではないのだけれど……。
「……ホント、アンタんとこ大変そうだね。あたしじゃムリ」
「でしょう? 分かってくれる?」
彼女は葬儀の間、わたしの隣に座ってくれていた。わたしには、それが何より心強かった。
彼は葬儀を取り仕切る総務課の人間だったので、残念ながらわたしと二人きりで話し込む時間はなく、式前にわたしに目礼しただけだった。
でも、まだ交際しているわけでもない相手にしがみついて泣きわめくわけにもいかなかったので、わたしは彼に寄りかかりたい気持ちを何とか押し殺していた。
――父の葬儀は仏前式ではなく、もちろんキリスト教式でもなく、いわゆる一般的な献花式だった。
父の棺の前に献花台が設けられ、参列者一人一人が白い花を一本ずつ手向けていった。
最後に喪主である母が花を手向け、参列者に丁寧なお礼を述べ、いよいよ出棺の時が来た。
「――ゴメン、絢乃。あたしはここで退散するよ」
「えっ!? 里歩、火葬場までついて来てくれないの?」
もう帰る、と言った彼女に、わたしは困惑した。――どうせなら、最後の最後までついていてほしかったのに。
「うん……。だってあたし、この中でははっきり言って思いっきり部外者じゃん。さすがに火葬場までついていくのは申し訳ないっていうか。……もう香典も渡したし、あたしの務めはここまでってことで」
「……そっか。分かった。ありがとね」
もしかしたら彼女は、この後に起こるドロドロの骨肉の争いを見たくなかったのかもしれない。
セレブ一族にとってこれは切っても切り離せないものであり、わが一族も例外ではなかった。……ただ、幸いにも父は婿養子だったので、争いの種になったのは経営にまつわることのみで収まったのだけれど。
「――絢乃さん、加奈子さん。火葬場までは、僕が責任をもって送迎いたします」
「桐島さん……。よろしくお願いします」
わたしたち母娘が火葬場まで向かうための黒塗り社用車の運転を担当したのは、なんと彼だった。
わたしと母は後部座席に乗り込み、彼が外側からドアを閉めてくれて、社用車は父の棺を乗せた霊柩車の後ろについて火葬場へと向かっていった。
ふと後ろを振り返ると、同じような社用車や黒塗りのリムジン、ハイヤーがズラズラ連なって走っており、その光景は何だか異様だった。
あれだけの規模の葬儀であれば、マイクロバスをチャーターすれば済む話だったと思うのだけれど。一人一人がプライドの高い我が一族はそれをよしとしなかったのだ。
〝社葬〟といいながら、火葬場までついてきたのは一族を除けば彼と父の秘書を務めていた小川さんだけだった。
彼女はわたしたち母娘と別の車に乗っていたけれど、火葬場に着くと母に驚くべき事実を打ち明けた。
「私、村上社長の秘書を務めることになりました。本来なら新会長……多分、絢乃さんにそのまま付くはずだったんですが。ちゃんと後任者が決まってますので、業務はそちらにすべて引き継いでおりますので」
「あらそうなの……、お疲れさま。残念だわ。あなたはこれまで夫によく尽くしてくれてたものね」
小川さんは父といい関係で働いてくれていた。でも、そこに恋愛感情があったということはなくて、彼女は父のことを、あくまで自身が仕えるべきボスとして尊敬していただけだった。
そのため、母とも親しくしてくれていたし、わたしにも優しかった。
「奥さま、ありがとうございます。まあ、配置換えになるというだけで、会社を辞めるわけではないので、またお目にかかることもあると思います。その時はまた、お気軽にお声をかけて下さい。――では、私はこれで失礼します」
「あら、もう帰るの? 火葬されてる間、お座敷で精進落としの仕出し料理を振る舞うことになってるんだけど」
「はい、私の分はご辞退申し上げます。私は部外者ですので、ご一族のお話に入れて頂くわけにもいきませんから」
実はこの後、仕出し料理を頂きながら、グループの今後の経営について一族で話し合うことになっていたのだ。
母はきっと、話し合いが紛糾した時のストッパー役かレフェリー役が欲しかったのだと思う。
「そう……、じゃあ、気をつけてね」
「はい。絢乃さん、またお会いしましょうね。お母さまのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「ええ。小川さん、今日まで父を支えてくれてありがとう」
彼女は泣き出しそうな顔でもう一度わたしたちにお辞儀をすると、タクシーを呼ぶために管理事務所までゆっくりと歩いて行った。
****
――さて、その精進落とし兼親族会議の席として設けられた場において、母が望んでいたストッパー役、もしくはレフェリー役は先に帰ってしまった小川さんに代わり、彼が務めることとなった。
でもわたしは、あの親族間の醜い争いを、できることなら彼にだけは見せたくなかった。
父の遺言で後継者に指名されていたわたしは、当然の結果として槍玉に挙げられており、せっかくの仕出し料理も食べた気がしなかった。
「加奈子さん、アンタの婿さんもとんでもないことをしてくれたモンだな。死んだ人のことを悪く言いたかぁないが、篠沢財閥を思いっきり引っ掻き回してくれた挙句、後継者はこんな小娘なんて。ったく、何考えてたんだか」
「絢乃ちゃんはまだ高校生だろう? 会長なんて務まるのかね」
母の従兄弟にあたる人たちは、父の時に続いてまたグループ内で実権を握れなかったことを苦々しく思っていたらしく、口を揃えて父やわたしを非難していた。
「このコはね、あの人のやり方を一番近くで見てきたのよ? 父親の背中を見てきて、『自分が跡を継ぎたい!』って言ってるの。……まぁ、年は確かにまだ若いわ。むしろ幼いと言ってもいい。だからこそ、周りの大人がちゃんと支えてあげないといけないんじゃないの?」
「…………」
母は娘であるわたしのことを精一杯庇ってくれていたけれど、わたしの居心地の悪さは変わらなかった。
わたしのことは、いくらでも悪く言ってくれて構わない。でも、最期まで財閥の行く末を案じて亡くなった父のことを非難されるのは、さすがにガマンならなかった。
「――みなさん、ちょっと失礼します。絢乃さん、席外しましょうか」
その場にいた唯一の他人である彼が、気を利かせてわたしに助け舟を出してくれた。空気の悪いお座敷から連れ出してくれたのである。
「……うん、そうするわ」
「桐島くん、ありがとう。絢乃のことお願いね?」
「はい、お任せ下さい。絢乃さん、行きましょうか」
場の空気を読んだ彼のナイスアシストに、母は小声でお礼を言った。
その後もしばらく母と親族との言い争いは聞こえていて、今度は彼がわたしを退席させたことを非難し始めていた。けれど、母は「桐島くんはただの従業員なんだから関係ないでしょう?」と、彼の味方についてくれていた。
****
――彼がわたしを連れていった先は、待合ロビーだった。
そこは何基かのソファーとローテーブル、自動販売機が数台、そして化粧室があるだけの広いスペースで、お座敷ほどではないけれど暖房も効いていた。
「――絢乃さん、ここに座って待ってて下さいね。飲み物買ってきますから。何かご希望はありますか?」
「ありがとう。じゃあ……、カフェオレをお願い。あったかい方ね」
「分かりました」
彼は頷き、わたしに背を向けて自動販売機の方へ行った。
その日は他に火葬を待つ人々もいなかったので、わたしはひとりロビーのソファーに腰を下ろし、彼が戻るまでの一分にも満たない時間を過ごした。
お座敷を退席した際、コートとバッグも持ってきていたので、何となく手持ち無沙汰になっていたわたしはスマホを開いた。そこには、先に帰宅していた里歩からのメッセージが入っていた。
〈今家に着いたよー。
どんだけ絢乃が親戚から針の筵にされてたとしても、あたしはずっとアンタの味方だからね☆ だから負けるなよ!
学校はしばらく忌引きだよね? 元気になってまた学校おいで('ω')ノ 〉
「ありがと、里歩」
「――お待たせしました。どうぞ」
わたしがスマホの画面に元気づけられ、独りごちていたところに彼が戻ってきて、買ってきてくれた温かいカフェオレの缶を手渡してくれた。彼自身の分も買っていたらしく、もう一本のそれは温かい微糖の缶コーヒーだった。
「ありがとう! ……あ、お金――」
「ああ、いいですよそれくらい」
わたしがお財布の小銭を確かめるのを、彼は笑顔でやんわりと止めた。
「そう? じゃあ……いただきます」
スマホカバーを閉じてバッグにしまうと、プルタブを起こし、中身をすすった。お砂糖とミルクの優しい甘さにホッとした。
彼はそんなわたしの隣に腰かけ、自分も缶コーヒーを飲み始めた。
「隣」とはいっても、キチンとわたしが不快にならない程度にスペースを空けていて、そんなところからも彼がちゃんと気遣いのできる人なのだと伺い知ることができた。
「絢乃さん、コーヒーお好きなんですか?」
「うん。パパの遺伝かしら。パパも毎朝コーヒーを飲まないと目が覚めない人だったから。ちなみにママは紅茶党」
「そうなんですか。僕もコーヒー好きなんです。飲むのはもちろんですけど、好きが高じて淹れる方にまで凝っちゃって」
「へえー、いいなぁ。わたしも桐島さんが淹れた美味しいコーヒー、一度飲んでみたいな」
わたしが目を細めてうっとりすると、彼はビックリするようなことをわたしに言った。
「そのお望み、案外すぐに叶うかもしれませんよ?」
「……えっ?」
わたしは目を瞠ったけれど、彼からの申し開きはなかったので、その時のわたしには彼がそう言ったのが冗談だったのか本気だったのか分からなかった。
「――ねえ、桐島さん。さっきは貴方にみっともないところ見せちゃったね。ごめんなさい」
「はい? ……ああ、先ほどの親族会議のことですね」
「うん……。なんか身内の恥を晒すみたいで申し訳ないんだけど、あの人たちいつもああなの。お祖父さまが会長職を引退した時も、ああして好き勝手なこと言ってたのよ」
わたしは憤りを通り越して。彼らのことを情けなく思っていた。そこまで権力に固執しないと、自分自身を保っていられないのだろうかと。
「お祖父さまって、えーーと……先々代の会長、ってことですよね」
「そう。自分たちがグループ内で実権を握れないのが気に入らないらしくて。……でもね、彼らの言ったこと、ひとつだけ当たってるの」
「……え?」
「わたしみたいな小娘に、会長なんて務まるのか。――あれ、ちょっと痛いところ衝かれちゃってたなぁ。わたし自身、パパに言われた時からずっと自信ないもの。わたしに会長なんて重責務まるのかしら……って」
母方の親戚の一人が、親族会議の席でわたしに浴びせた言葉のひとつである。彼のこの言葉は的を射ていたどころか思いっきり急所を衝いてきていて、わたしは心に甚大なダメージを受けていたのだ。
「ごめんなさい。貴方にこんな弱音を吐くつもりはなかったんだけど……」
彼の前では、わたしはなぜか背伸びをせずにいられた。彼になら、甘えて弱い部分を見せても大丈夫だと思えた。
「謝らなくていいですよ。僕になら、弱音なんていくらでも吐いて頂いて構いませんから。今後はそれが、僕の仕事の一環になるわけですし」
「えっ、どういうこと?」
彼はその時、サラリと爆弾発言をしてくれた。その時の驚きを、わたしは今でも忘れられない。
「……もう、お話ししてもいい頃かもしれませんね。部署を異動することは、もうお伝えしてましたよね? その転属先は、実は秘書室なんです」
「秘書室?」
「はい。小川さんの後任者となる会長付秘書って、実は僕なんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。――源一会長がお倒れになった後、もしかしたら絢乃さんが会長に就任されることもあるかもしれないと思って、僕なりに覚悟を決めてたんです。すぐに人事部に異動届を提出して、受理されました。今日はまだ総務課に籍が残ってますが、絢乃さんの会長就任が決まり次第、正式に秘書室へ籍も移されることになってます」
彼は淡々とそれまでの経緯を話していたけれど、彼は彼で相当な覚悟を持って転属を決めたのだと、わたしは彼の不器用なまでの実直さに感服した。
「あのっ、こう言ってしまうと、源一会長がお亡くなりになるのを望んでたように聞こえるかもしれませんけど、決してそんなことはありませんからね!? あくまで万が一の事態に備えてたというか……」
ハッとした彼があたふたと弁解するのを見て、わたしは思わず吹き出してしまった。
「大丈夫よ。貴方が父の死をそんな風に考える人だって、わたし思ってないから。安心して?」
「はあ、そうですか。よかった……」
「桐島さん。わたし、どこまでパパのようにできるか分からないけど……、頑張って会長やってみるわ。だから、これから先、わたしのことしっかり支えてね。よろしくお願いします」
「はい、もちろんです! こちらこそよろしくお願いします、絢乃会長」
それが、わたしと彼との間に強い絆が生まれた瞬間だった。