トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~

 わたしはあの夜から、確かに彼に好意を抱き始めていた。だからこそ、家の前まで送ってくれた彼と別れる時に後ろ髪を引かれる思いがして、別れが名残り惜しくて連絡先を交換しようと思い立ったのだけれど、それは彼にとって迷惑なことなのではないかと、実は悩んでもいた。

 でも、それはわたしの思い過ごしだったのだ。彼もまた、わたしに恋をしたことに罪悪感のようなものを覚えていたのだ。
 だから連絡先の交換に快く応じてくれたし、父が病に倒れて帰らぬ人になるまでの間も、父が亡くなった後も、わたしのことを献身的に支えてくれていたのだ。

「絢乃さんのお力になろうと思ったのは、僕をパワハラから救って下さったご恩をお返ししたいという気持ちからでもありました」

「……恩返し?」

「はい。秘書室への異動を決めたのは、そのためでもあったんです。あなたが会長を就任された時に、僕がいちばん近い場所であなたの支えになりたいと。ですが、あくまで仕事上はボスと秘書という関係なので、仕事中は恋愛感情を持ち込まないつもりだったんですけど」

「……けど?」

 わたしが首を傾げると、彼は顔を赤らめながら、正直にすべて白状した。

「……その……、助手席でのあなたの寝顔があまりにも可愛かったので、つい我を忘れてしまって。もちろん、本当に絢乃さんのことが好きでキスしたんですけど、我に返ってからはもう、あなたに嫌われたらどうしようかとか、クビにされてしまうんじゃないかとかそんなことばかり考えてしまって」

 わたしは思わず笑い出してしまった。思いっきりバカ正直に、上司とはいえ八歳も年下のわたしに自分の弱い部分までさらけ出してしまう彼は、本当に愛すべき人だと。

 彼の気持ちがハッキリと分かった以上、今度はわたしの番。告白しようと決めるのに、もう何の(ちゅう)(ちょ)もなかった。

「……絢乃さん? 僕、何かおかしなこと言いました?」

「ううん、そうじゃないの。ありがとう、話してくれて。貴方の気持ち、すごく嬉しいわ。貴方が悩んでくれてたことも伝わったし、ホントに誠実な人なんだなぁって思った。……でもね、桐島さん。悩む必要なんてないのよ。わたしは貴方のこと、絶対にキライになったりしないから」

「え……、それって」

「わたしも、貴方のことが好きだから。初めて出会ったあの夜からずっと」

 目を瞠った彼の顔をまっすぐ見据えて、わたしは言った。

「わたし、貴方が初恋なの。初めて好きになった男性(ひと)が貴方でホントによかった」

「……ありがとうございます。光栄です。あなたの初恋の相手に、僕を選んで頂けて」 
「〝光栄〟だなんて、またオーバーな……」

 彼のリアクションにわたしは呆れたけれど、本当は嬉しくて仕方がなかったので、自然と笑みがこぼれた。

「バレンタインデーのチョコ、すごく美味しかったです。あれって、絢乃さんの僕への愛情が込もってたからあんなに美味しかったんですね。今気づきました」

「……うん」

 彼は当日のうちにも、「チョコ、美味しく頂きました」と連絡をくれたのだけれど。こうして本当の意味でのお礼を言ってもらえると、わたしも頑張って手作りした甲斐があったなぁと心がじんわり熱くなった。

「貴方はわたしがいちばんつらい時に、いつも心の支えでいてくれたよね。会長就任の挨拶の前も、今だってそうよ。貴方が秘書でいてくれて、どれだけ心強いか。……だから、わたしからもお願い。これからも、わたしのことを側で支えててほしいの。秘書としてだけじゃなくて、恋人として。……いいかしら?」

「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 おずおずと彼の表情を窺うように言うと、彼は何の躊躇もなく、わたしの想いを受け入れてくれた。

 わたしの彼への気持ちはもう(あふ)れる寸前で、わたしは次の瞬間、大胆な行動に出ていた。
 椅子から立ち上がると、背伸びをして自分から彼と唇を重ねていたのだ。

「……………………絢乃さん? 確かまだ、キスって二度目じゃありませんでしたっけ?」

 ポカンとした彼はわたしにそう確かめたけれど、わたしは後悔なんてしていなかった。

「……初めてじゃないから、自分からしても大丈夫かなって思ったの」

「そのわりには、お顔が赤くてらっしゃいますけど?」

「…………悪い?」

 わたしは少々バツが悪くなって、口を尖らせた。
 本当はわたしも、それほど気持ちに余裕があったわけではなかった。キスだって、二度目くらいでは慣れるはずがない。だってわたしは、男性にまったく免疫がなかったのだ。

「いえ、悪くなんかないですよ。絢乃さんのそういう初々(ういうい)しいところも可愛いなって思っただけです」

「…………そう」

 わたしはまた、彼のほんわかした笑顔にキュンとなった。「この人を好きになってよかった」と、心から思えた。

「――ねえ桐島さん。今までわたし、貴方に支えてもらってばかりだったね。だから、今度はわたしの番。これからは、わたしが貴方を守るからね!」

 わたしは彼を自分から抱きしめて、そう宣言した。
 部下を守るのは上司の務めだけれど、それだけじゃない。彼は本当は(もろ)い人なんだと分かったから、恋人としても彼のことを守ってあげたいとわたしは思ったのだった。

「ありがとうございます、会長」

 彼もまた、わたしをギュッと抱き返してくれた。

 ――初めて恋をした相手である彼と、やっと両想いになれたわたしだけれど、交際を始めるにあたり、ひとつだけ彼に言っておかなければならないことがあった。

「――桐島さん、ひとつ、貴方にお願いがあるんだけど」

「はい。何でしょうか?」

「わたしたちが交際を始めること、社内では秘密にしておいてほしいの。……一応、ママと里歩は知ってるんだけど」

 別に、わたしと彼との関係は不倫でも何でもないし、法に触れるわけでもなかったのだけれど。前にわたし自身が気にしていたことを、彼にも打ち明けた。

「……なるほど。了解しました。今はマスコミやメディアだけじゃなく、どこの誰でも気軽に情報を発信できる時代ですからね。ましてや、絢乃さんは僕と違ってセレブですから。社員が何気なくSNSで発信した情報が、どこからマスコミに流れるか分かりませんもんね」

「〝僕と違って〟は余計だけど。余計な噂流されたり、冷やかされたりしたら貴方だって仕事がしにくくなるでしょ? だから、オフィス内ではなるべく恋愛モードは封印するようにしましょう」

「そうですね」

 よくよく考えれば、この会話だって社内の他の人に聞かれれば(あや)うい内容で、わたしたちはこれだけでも危ない橋を渡っていたと思うのだけれど。幸いにも、この間は誰ひとりこの部屋を訪ねてこなかった。

 そして、この時のわたしには、彼のために解決してあげなければと思っていた由々(ゆゆ)しき問題がひとつあった。

「――ところで、貴方が半年前まで受けてたっていうパワハラのことだけど。被害に遭ってたのは貴方だけだったの? それとも、島谷さんは他の社員にも同じような嫌がらせをしてた?」

 わたしは会長として気持ちをサクッと切り換え、彼に向き直った。

「多分、他の人も被害に遭ってたと思います。僕が気づかなかっただけで……。島谷課長は外面(そとづら)がいいので、他の部署の人や役員の人たちがお分かりにならないところで(こう)(みょう)にやってたんだと思うんです」

「そう……。許せないわね。この組織のトップとして、この問題は見過ごすわけにいかないわ」

「他の人たちも、泣き寝入りしてたわけじゃないと思うんですけど……。労務担当の人に相談しても、課長本人は知らず存ぜずで押し通してたでしょうし、確かな証拠もないのでうやむやになってたんでしょうね」

「なんてこと……。ますます許せない!」

 わたしは憤りを隠せなかった。
 島谷課長が彼を苦しめていたことはもちろん許せなかったけれど、それはあくまで個人的なこと。彼以外の社員まで被害に遭っていて、しかもほとんど泣き寝入りのような状態になっていたというのは、これはもうこのグループのトップとして、絶対に捨て置くことができない問題だった。
 とはいえ、ことはすでに会社全体の問題で、わたし個人が島谷課長のところへ怒鳴り込みに行ったところで何の解決にもならないのは分かっていた。

「……桐島さん。わたし、ちょっと出てくる」

「は!? 会長……! まさか、今から総務課に怒鳴り込みに行かれる気じゃ……。行っても何も解決しませんって! おやめになった方が――」

「違うわよ。人事部の山崎さんのところ。パワハラの件、労務へ相談してるなら、当然彼のところへも報告が上がってるはずでしょ?」

 彼は何を勘違いしたのか、わたしを引き留めようとしたけれど。わたしは至って冷静だった。

「わたしは会長として、そして貴方の恋人として、わたしにしかできないことをするわ。じゃあ、行ってくるね!」

「……分かりました。行ってらっしゃいませ」

 彼は納得してくれたらしく、恭しくわたしに頭を下げて見送ってくれた。

****

 ――人事部は、三十階にある。そして、人事部長である山崎さんは、自身の執務室を持っていた。

 わたしはエレベーターで三十階まで下りると、人事部長室の前のデスクにいる女性秘書に声をかけた。
 彼女は三十代初めくらいだったろうか。彼の秘書室の先輩にあたる女性だった。

「お疲れさま。山崎さん、いらっしゃるかしら?」

「あっ、会長! お疲れさまです! ――ええ、いらっしゃいますよ。お声がけ致しますので、少々お待ちください」

 彼女はわたしに断りを入れてから、人事部長室のドアをノックした。ちなみに、この部屋のドアも木製だけれど、会長室ほどの重厚感はない。

「――山崎部長、今よろしいでしょうか。会長がいらしてますが……」

「会長が? ――分かった。入って頂きなさい」

 室内から、渋い男性の声で返事があった。この声の主は、紛れもなく山崎さんだった。

「――どうぞ、お入りください」

「ありがとう。失礼します」

 彼女がドアを開けてくれたので、わたしは遠慮なく入室した。

「これは会長! こんな時間にどうされたんですか? ――どうぞ、おかけ下さい」

 彼は椅子から立ち上がった状態でわたしを迎え入れてくれて、応接スペースの黒い革張りのソファーを勧めてくれた。

「ありがとうございます。――ごめんなさいね、終業時間の間近に突然おジャマしちゃって。貴方にちょっと急ぎの話があったものだから」

「急ぎのお話……ですか。――君、会長にお茶を。コーヒーの方がよろしいですか?」

 彼は続いて入室してきた女性秘書に、お茶汲みを命じたけれど。

「ああ、いいの。すぐに終わるから、どうぞお構いなく」

 わたしはそれをやんわりと断った。彼女を傷付けないように、それでいて山崎さんのプライドも傷付かないように、慎重に言葉を選んだ。
「失礼します」と言って、秘書の女性が退出していくと、わたしは山崎さんに本題を切り出した。

「――山崎さん。半年前にあった、総務課でのパワハラの件なんですけど。こちらの労務担当に相談があったんですよね? 山崎さんにも報告上がってます?」

「どうでしたかね……、半年も前のことはちょっと。確認しますので、少々お待ち頂いてもよろしいですか?」

 彼はソファーから立ち上がり、デスクのパソコンに向かった。
 社員からの相談を受けた場合は、その内容が部長にも共有されているらしいと、わたしも生前の父から聞いたことがあった。
 
 しばらくして、彼はプリンターから吐き出された数枚の紙を手に、私の元へ戻ってきた。

「――えーと、……ああ、ありました。これですな。総務課所属の社員ほぼ全員から相談を受けていたようですが、島谷課長がその事実を認めなかったので、結局はウチの労務担当も何の対策もできんかったようです」

「ほとんど……、全員から……」

 わたしは愕然とした。これはもはや、我が〈篠沢グループ〉の汚点というか、(うみ)と言っても過言ではなかった。

「……ねえ、その中に、桐島さんからの相談もあったんですか?」

 わたしは山崎さんに、この件を知ったのは彼の身内のお話からだったのだと説明した。彼がパワハラのせいで、会社を辞めたいと思い詰めていたのだと。

「桐島くん……ですか? ……いえ、この中にはありませんねぇ。彼は相談に来ていなかったんじゃないでしょうかね」

「そう……ですか」

「彼の真面目さは、社内で評判になってますからね。きっとひとりで抱え込んでたんじゃないでしょうかねぇ。そこまで追い詰められる前に、ひとこと相談してくれたらよかったんですが」

「ええ……」

 山崎さんの言葉には、わたしもまったくの同感だった。
 幸いにも、彼はわたしと出会ったことで気持ちが楽になり、転属を決めてパワハラから解放されたけれど。もしもそうでなかったら……と思うと、わたしは心が痛んだ。

「――山崎さん。もうすぐ新年度も始まりますし、わたしは新入社員が入る前に、この問題は解決した方がいいと思うんですけど。明日の朝、ご都合はいかがですか?」

「大丈夫……だと思いますが。――ああ、会長室で会議を行いたいと?」

「そうです。この問題への今後の対応を、村上さんと三役会議で話し合いたいんです。――ちょっと待ってて下さいね」

 わたしはスーツの右ポケットからスマホを取り出して、彼に電話をかけた。内線電話でもよかったのだけれど、彼が山崎さんからの内線だと思ってビクビクするのではないかと思ったのだ。

『――会長、今どちらにいらっしゃるんですか?』

「人事部長室よ。山崎さんのところ。――急な話で申し訳ないんだけど、明日の朝イチで、三役会議をやるから。山崎さんは大丈夫らしいから、村上さんには貴方から連絡しておいてくれないかしら?」

『三役会議? ……ああ、例の件で、ですね』

「そう。お願いね。ご本人に繋がらなかったら、秘書の小川さんに伝えておいてくれて構わないから」
『分かりました。――あの、一度こちらにお戻りになりますよね?』

 彼はわたしがあのまま直帰するとでも思っていたのだろうか? でも、バッグは会長室に置いたままだったし、出社時と退社時の送迎は彼の務めだったので、わたしがひとりで帰宅する可能性はほぼゼロに近かった。

「うん。もう話は終わったから、これから戻るわ。じゃあ、また後で」

 電話を切ると、わたしは山崎さんに改めて言った。

「それじゃ、わたしは上に戻ります。明日の会議、よろしくお願いしますね」

「はい。わざわざお疲れさまでございました」

 人事部長室を出ると、わたしは秘書の女性を始め、まだお仕事中だった社員のみなさんに「おジャマしました」と声をかけてから、人事部を後にした。

 ――再びエレベーターに乗り込み、四階上の会長室に着いた頃には、ちょうど彼もわたしがお願いしていた電話を終える頃だった。

「――はい。急なお願いで申し訳ございません。では明日の会議、よろしくお願い致します。失礼します」

 彼は村上さんの携帯ではなく、内線で社長室に繋いでいたらしい。電話を終えると静かに受話器を戻し、わたしのヒールの靴音に気づいて顔を上げた。

「――あ、会長。お帰りなさい」

「ただいま。――村上さんも、明日大丈夫って?」

「はい。ということは、山崎専務も? ……というか、聞こえてらしたんですか?」

「うん……、ゴメンね。戻ってきたら、貴方まだ電話中だったんだもの。声をかけるのも悪いなぁと思って……。わたしがお願いしたことだったし」

 わたしは素直に、両手を合わせて彼に陳謝した。

「謝られる必要なんてありませんよ、会長。別に無理難題ふっかけられたわけでもないですし、あなたのお願いでしたら、僕は何でもお聞きしますよ。……惚れた弱みで?」

 最後にボソッと付け足された一言に、わたしは思わず吹き出した。……なるほど、悠さんのおっしゃっていたことは本当だったらしい。

「会長、ありがとうございます。僕が苦しめられた問題のために、わざわざ会議まで開いて下さるなんて……」

「まあ、貴方を守るって約束したしね。それにこれは、貴方のためだけじゃないの。会社のイメージにも関わる問題だし、来月から働いてくれる新入社員のためにも、今年度中に解決しなきゃいけないから」

「なるほど。そういうことでしたか」

 我が〈篠沢グループ〉は――、少なくとも中枢である篠沢商事は、世間から優良ホワイト企業というイメージで通っている。そのため、毎年の入社希望者が多いのだけれど、パワハラなんて問題がのさばっていたら、四月に入社してくれる新入社員の人たちを騙し討ちにするようで(まこと)()(かん)だった。
「――そういえば、あっちのテーブルの上、カップ置きっぱなしでした。洗って片付けてこないと。ちょっと行ってきます」

「じゃあ、わたしもお手伝いするわ。たまにはね」

「よろしいんですか? ありがとうございます」

 彼はすっかり空になっていた三人分のカップや湯呑みをトレーに回収し、わたしがドアを開けて、二人で給湯室へ向かった。

 初めて足を踏み入れる給湯室は、彼のもう一つの〝城〟のような場所。もちろん、秘書室に在籍している他の社員も利用するのだけれど、その一画に揃えられている彼愛用のコーヒー道具一式には、誰ひとり手を触れないのが暗黙のルールになっているようだった。
 それはなぜかというと、村上さんも山崎さんも、コーヒーはインスタントしか飲まないから、なのだとか。

「わぁ……、本格的ね。これでいつも淹れてくれてるのね。ホントにバリスタみたい」

 わたしが彼の愛用品に感動していると、彼は眉を軽くひそめた。

「どしたの?」

「……やめて下さい。兄に言われたことを思い出してしまうんで」

「あぁ~……、さっきの話ね」

 お兄さまに「兄弟で喫茶店をやろうぜ」と言われたことが、本人には不本意だったようだけれど。わたしには、彼が白シャツ・黒パンツに長いバリスタエプロンをして、喫茶店の厨房に立っている姿が簡単に思い浮かんだ。

「そんなにイヤなの? 似合いそうだけど」

「イヤというか……。バリスタには興味あるんですけど、兄と一緒に店やるのだけは御免被りたいんです。野郎同士で仲良し兄弟って、なんか気持ち悪くないですか? ムサいというか」

 どうやら彼は、〝ブラコン〟だと周りから冷やかされるのがイヤなようだった。わたしには兄弟・姉妹がいないため、その感覚がよく分からなかった。

「どうなのかなぁ……。わたしはひとりっ子だから、兄弟の関係がどうとか分かんないけど。仲がいいのはいいことだとは思うな」

「……まぁいいですけど」

 彼はムスッとしたまま、水を張った洗い桶にカップと湯呑みを浸け、洗剤を泡立てたスポンジで洗い始めた。
 わたしは彼がすすいだ食器をクロスで拭いて、食器棚にしまうのを手伝おうと、水切りカゴの前で待っていたのだけれど。

 ――不意にわたしのジャケットの右ポケットで、スマホが震えた。

「……ちょっとゴメンね、電話みたい。――ん? この番号って」

 どこかで見覚えのある番号、と思ったら、その日に教わったばかりの悠さんの携帯番号だった。

「――もしもし、悠さんですよね? 先ほどはどうも。――あの、どうなさったんですか?」
 素早く通話ボタンを押し、わたしは応答した。
 一体何のご用件だろう? 忘れ物でもされたのかしら? ――わたしには、彼がわざわざわたしのスマホに電話してきた理由が思い浮かばなかった。

 そして、その隣では発信者がお兄さまだと知って、彼が(ぶっ)(ちょう)(づら)で立っていた。

『ああ、絢乃ちゃん。まだ仕事中だろ? ゴメンな。――いや、別に大した用件じゃねえんだけどさ、さっき訊き忘れたことあって』

「訊き忘れたこと?」

『うん。――あのさ、絢乃ちゃんって誕生日いつ? もうすぐだってのは、アイツから聞いてんだけど』

 ……ああ、なんだそんなことかと、わたしは脱力した。

「三日です。四月三日」

『四月三日かぁ。んじゃ、あと一週間ちょっとだな。ありがと。――悪いけど、貢に代わってくれる?』

「えっ? ……はい。――お兄さまが、貴方に代わってほしいって」

 わたしがスマホを差し出すと、彼は受け取るなり電話に向かって噛みついた。

「オイ兄貴っ! そんな用件でわざわざ会長の携帯にかけるくらいなら、最初っから俺に電話しろよ!」

『だってさぁ、絢乃ちゃんの誕生日、お前に訊くワケにいかねぇじゃん? やっぱ本人に訊かねぇとさぁ』

「あー……、まぁなあ。そうだけど」

 彼は完全に悠さんのペースに引っぱられ、いつの間にか毒気を抜かれていた。

『だろ? っつうワケでさ、お前、プレゼントちゃんと考えてやれよ? 今回は失敗(しく)んじゃねぇぞ。お前の物選びのセンス、めちゃめちゃ悪ぃもんな。いつだったか、彼女にドン引きされてたじゃん?』

「やかましいわっ! つうか、絢乃さん横にいんだぞ? そういう話はやめてくれ!」

 彼は小声でまくし立てていた。兄弟ゲンカは非常に微笑ましいのだけれど、わたしに聞かせたくない話なのだろうかと、わたしは小首を傾げていた。

『お前、いい加減センス磨けや。あっ、何ならオレも一緒に選んでやろうか? この兄ちゃんに任せなさい♪』

「遠慮被るよ。確かに兄貴の物選びのセンスはピカイチだし、女性のツボもちゃんと心得てるけど。絢乃さんが兄貴に心変わりしそうでコワい。……あ」

『〝あ〟?』

 不用意な発言をしてしまったことに気がついた彼の顔には、ハッキリと「ヤベぇ」と書いてあった気がする。
 彼はしきりに、わたしにペコペコと頭を下げていたけれど、わたしは苦笑いしつつ、言ってしまったことは仕方ないと肩をすくめて見せた。

『心変わりって……。お前、ついに絢乃ちゃんの彼氏になったのか! よかったなぁ!』

「……うん。そうなんだよ、あの後すぐに、めでたく両想いになってさ」

 お兄さまにそう話す彼は、満更でもなさそうだった。 
『んで? さっきの〝あ〟は何なんだよ?』

「うん……、いや。絢乃さんから、『付き合い始めたことは秘密にしましょう』って言われたから。ここ、まだ会社の中だし、誰かに聞かれてたらマズいと思って。――兄貴、頼むから妙な噂とか流さないでくれよ?」

 彼は真面目なうえに、心配症でもあるのだとわたしは気づいた。お兄さまは社外の人なのだから、そんな心配は一ミリもなかったはずなのだけれど。

『分かってるっつーの。お兄サマを信じなさーい♪』

「…………」

 そして彼は、明らかにお兄さまのことを信用していないようだった。

『何だべよ、その沈黙は? とにかく、絢乃ちゃんの誕プレは真剣に選んでやんな。――仕事中に悪かった。んじゃ、絢乃ちゃんによろしく』

「うん。……えっ!? ちょっ……! ――あっ、切れた」

 彼はため息をついた後、スマホをわたしに返しながらグチっていた。

「兄貴のヤツ、好き勝手喋って切っちゃいましたよ。会長の携帯だっていうのに、まったく。――すみません、ウチの愚兄が」

 受け取ったわたしは、そういえば悠さんも同じようことを言っていたなと思い出し笑いをして、ちょっとだけ彼を茶化してみた。

「桐島さん、心配しすぎるとハゲちゃうわよ? それか、胃に穴が開くかのどっちかね」

「やめて下さいよ」

 彼は顔をしかめた。そして、彼が電話で話している間に洗い物が片付いていたことに驚いた。

「……あれ? 洗い物、会長がやっておいて下さったんですか」

「うん。これくらいの量なら、すぐ終わるから。だってわたし、お料理好きだし。将来はちゃんと自分で家事もこなせるマダムになりたいんだもの」

 家ではほとんど毎食専属のコックさんたちに料理を任せている我が家だけれど、休日などには時々わたしもキッチンで腕をふるうこともある。
 料理の先生はコック長だったり、史子さんだったり、母だったりと日によって違うけれど、この頃にはすでに作れる料理のレパートリーはかなり豊富になっていた。

 彼に家庭的な面をアピールしたいわけではなかったのだけれど、人並みには家事もできるのだと思ってほしかったのだ。

「いつか、貴方にもわたしの作ったお料理、食べてもらいたいな」

 すでに、手作りのスイーツは食べてもらっていたけれど、まだ家庭料理を食べてもらう機会には恵まれていなかったから。
 社交辞令ではなく、わたしが本心からそう言うと。

「ええ、ありがとうございます。ぜひ」

 彼も笑顔でそう答えてくれた。
 オフィス内ではこういう(ふん)()()を醸し出すのは危険だと分かっていたけれど、せっかく恋人同士になれたのだから、こういう会話も少しくらいはいいかな、と思ってしまう自分がいた。