あと五分で六時になってしまう。
 この考えている時間が速いようで遅くも感じた。
 白雪くんになんて告白しようか。それでもしも失敗してしまったらどうしようか、と、考えがまとまらない。ただ好きだって伝えればいいのに、こんなにも難しいとは思わなかった。
 今からでも逃げ出せるなら逃げ出したい。
 けれども、それじゃ変わらないと私はわかっている。
 願っているだけじゃ未来は変わらない。動かないと、変わらないんだ。
 私はもっと、白雪くんを知りたい。
 私はもっと、白雪くんと同じ時間を過ごしたい。
 私の記憶が消えたとしても、白雪くんのなかで私は生きていて欲しいから。
 ずっと、ずっと、残って欲しいから。
 だから私は頑張らなくちゃ。
 先の見えない未来が怖いものであろうと、立ち向かわなくちゃ——
 私は椅子から立ち上がった。
 そして、誰もいない教室を出て、白雪くんが待っている屋上へと向かった。

 薄暗い廊下の端にある、屋上に繋がっている階段を昇り、さびたドアを開けた。茜色に染まる空が目に飛び込んでくる。その真ん中に彼は、私に背を向けて立っていた。彼から出ている影が、いつもより大きく見える。
「……白雪、くん」
 速まる鼓動を必死に抑えながら私は彼の名を呼んだ。
 彼は私の方に振り返ると、「どうした」、と言った。
 宙に浮いているような感覚で、私は彼の方へと向かう。
 試験勉強を一緒にしているときは彼の顔をちゃんと見られたのに、今はどうしてもそれができない。緊張しているのだ。彼の想いを聞きたいけれど、聞きたくない私がいる。
「話したいことってなんだ。さっきから下向いているけど」
「……」
 言葉が詰まって息苦しい。
 たった一言、
 私はあなたのことが好き
 と、伝えるだけなのに——
「もしかして青点だったのか」
 彼は淡々とした口調で話しかけてくる。
 息ができないほど、私は緊張しているのに。
「だったらこれ——」
「白雪くん」
 私は顔を上げて彼の顔を見た。
 驚いていた。
 きっと、私の雰囲気がいつもと違うからだろう。
 風が私たちのあいだを駆け抜ける——
「私……」
 口が止まってしまう。
 誰もいなくなった教室で、セリフをいろいろと考えたのに、そのセリフは風と一緒にどこかへ飛んで行ってしまった。
 逃げたい。
 今すぐにでも私は逃げ出したい。
 これが切っ掛けで、彼との距離が遠くなってしまったらどうしよう。嫌われたらどうしよう。
 そんなことばかり考えてしまう。
 でも。
 それでも私は、この、破裂してしまいそうな想いを彼に伝えたい。
 もっと彼の傍に居たいから。
 もっと彼のことを知りたいから。
 私は行きたい未来へと進むために、この重くてつぶれてしまいそうな口を開いた。
「好きだよ……私……白雪くんのことが」
「……」
「だから……だから……付き合ってください」
 ……言えた。
 やっとこの想いを彼に伝えられた。
 ごめんね、白雪くん。
 急に、こんなこと言っちゃって。
 最初から自己満足だとわかっていた。
 もっと、白雪くんと一緒に居たくて、白雪くんのことを知りたかったら、距離を縮める努力すればいいだけだった。でも、私にはそれができなかった。告白、という、距離を一気に縮めるための方法を使ってしまった。
 怖かったのだ。
 もしも私の記憶がなくなってしまったら、と考えると、動けずにはいられなかった。もちろん、他の人に取られてしまう可能性とか、友だち関係のままで終わってしまう可能性とかも怖かった。
 私は誰かの記憶に残りたいのかもしれない。
 特別な存在として、誰かの記憶で生き続けたいのかもしれない——
 彼との沈黙の時間は、どんな時間よりも長く感じた。
 でも、そんな時間は、突然に終わってしまった。
「…………悪い。赤染」
「……」
 やっぱり、そうだよね。
 彼の一言で、さっきまで重かった空気が、砂のように軽くなった気がした。
「俺は別に赤染のことが——」
「大丈夫だよ。大丈夫。大丈夫だから」
 私は全力で笑顔になった。
 彼に気持ちを悟られないためにも、彼をこれ以上、戸惑わせないためにも。
「ごめんね。なんだか急に。嫌だったよね」
「俺は嫌なんかじゃ——」
「じゃあね。ありがとね、今までほんとうに、楽しかったよ!」
 私は後ろに振り返り、学校の外へ走り出した。
 彼が私の名前を呼んでいる。
 けれど私は振り返らずに走り続ける。
 耐えられなかったのだ。彼に断られたのが。
 あれだけ心の準備はしていたのに。まったく意味がなかった。
 私の目を覆いつくすように涙が溢れてくる。
 溢れ出た涙は頬を伝い、誰もいない廊下に落ちてゆく。
 そして私は、抑えきれないこの気持ちを抱きながら、どこかへ行くあてもなく、走り続けた。

 砂浜に座り込んでから、どれくらいの時間が経つのだろうか。周りには誰もいなくて、海の静かな音だけが聞こえてくる。日もなければ月もない空は真っ暗。でも、目が暗さに慣れてきたから、海の青さと砂浜の色はわかる。
 体育座りで海の向こうを眺めていると、誰かが私の方に近づいてきた。
「……紅野さん」
「よく気が付いたわね」紅野さんは驚いたように言うと、私の横に座ってきた。「どうしたの。そんなに暗い顔して。なにかあった?」
「……」
「私でよければ、なんでも聞くよ」
「……あのね」
 できれば誰にも話したくなかった。
 告白して失敗した話だなんて、他の人には知られたくない。恥ずかしい。
 けど、紅野さんにならいいかも、と不思議に思ってしまった。
「私、白雪くんに告白したの。期末試験が終わって、白雪くんと放課後、一緒にいられる理由がなくなったから、慌てちゃったの。どうすればいいのかわからなくなって。どうすれば、白雪くんと一緒に過ごせるのかなって。私ってバカだからさ。それで思いついたのが、恋人になることしかなくて。そうすれば、いつまでも一緒にいられるでしょ?  ずっとではなくても、なにもない関係よりかは会いやすくなる……」
 でも私は、失敗してしまった。
 そのせいで、前よりも近づきにくくなった。
「それで赤染さんは、失敗して、ここで泣いてるわけね」紅野さんは言った。
「そうだよ……」
 思い返すだけで、胸が締め付けられる。
 こんな結末になるのを知っていたら、私は絶対に、告白しなかっただろう。
 そうねー、と紅野さんは言うと、
「諦めたら、楽になれるんじゃないかな?」
 と訊いてきた。
「諦める?」
「そう。赤染さんは諦めてないから辛いんでしょ。ずっと白雪くんの近くにいたいのに、その手段がなにもないから、苦しんでる。そうだよね? いくら考えてもないものはない。思いつかないものは思いつかないんだよ。だから——」
「それだけは嫌」
「……」
「諦めるのだけは、嫌なの」
 子供みたいな理由だとわかっている。
 今の私は、なにも策がないのに食らいつこうとしている。無理だとわかっているのに引き付けようとしている。ただでさえ白雪くんから、嫌われているかもしれないのに。このまま何回もアタックして、余計に距離を取られてしまったら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
 それでも私は、諦められない。
 白雪くんは私に、人生で大事なことを教えてくれた。
 自分の歩きたい道に向かって行動しろ。たとえその行動が、怖いものを引き寄せようと、臨む未来のために努力しろと。そう教えてくれた。
 だから私は、あの日、白雪くんが私に謝りに来た日、勇気を出して白雪くんに勉強を教えて欲しい、とお願いした。
「なら、友達じゃダメなのかしら」紅野さんは、私に質問をぶつけてくる。「一緒にいたいだけなら友だちでもいいはず。今まで一緒に勉強してきたんだから、白雪くんのなかでも友だちくらいの認識にはなってるはずよ」
「……それもダメなの」
「ダメッて、どうして? 友だちのほうが気楽な部分もあると思うけど」
「白雪くんにとって、掛け替えのない存在になりたいから——」
 これはきっと、私の高校生よりも前の記憶がなくなっているからだろう。
 いつか人は死んでしまう。そして必ず、自分の記憶がなくなってしまうときがくる。
 私の場合は、それが高校生のときにやってきた。どこで生まれたのか、誰に育てられたのか、なにもかもを忘れてしまった。みんなが教室で昔話をするなか、私はなにも話せなかった。それで気が付いた。私は、高校生よりも前の記憶がないんだって。
 だから私は、その日から誰かの心のなかに生き続けられるようにと頑張ってきた。
 そうすれば、いつかまた自分の記憶がなくなったとしても、誰かのなかで以前の自分が生き残り続けてくれるからと、一生懸命に生きてきた。
 だから、ほんとうは誰でもいいのかもしれない。誰かのなかに、残り続けられればいいのかもしれない。でも私は、白雪くんに生き方を教えてもらえたから。怯えて生きているだけじゃダメだって教えてくれたから。そんな、私の人生で掛け替えのない人のなかで、生き続けたい——
「白雪くんにだけは、私を、忘れないで欲しい…… それだけだよ」
「…………そっか」
 紅野さんは空に目をやると、
「私はなにをしたいんだろう」
 と言い、立ち上がった。「じゃあね。赤染さん」
「う、うん。ばいばい」
 紅野さんは私に背を向けて、「許してね、私のことを——」、と一人で呟くと、砂浜からいなくなってしまった。
 紅野さんは、なにをしに私のところへ来たのだろうか。
 私にはわからないけれど、紅野さんと話していて、やっぱり私は、白雪くんと一緒にいたいんだな、と思った。手段はなくても近くにいたい気持ちは強いな、と思った。
 また行動を起こせば、告白したときみたいに失敗するかもしれない。
 けど、それは未来の話であって、成功するか失敗するかなんて誰にもわからない。なのに私は、いつも失敗してしまう方に目が行ってしまう——
 私は立ち上がり、スマホをポケットから取り出した。
 白雪くんとのトーク画面を開き、文字を打ち込む。
『さっきはごめんね。迷惑かけちゃったね。でも私が白雪くんのことが好きなのは、ほんとうだから。そうそう、期末試験の結果、伝えてなかったね。点数よかったよ! でも名前を書き忘れてて減点されちゃった。バカだね、私。それでできたらなんだけど、もしも白雪くんがよかったら、これからも勉強教えてくれないかな…… こんど弁当作るから! お願いします!』
 私は目を閉じながら送信ボタンを押した。
 弁当なんて真面目に作った覚えがない。私の体は不思議で、ご飯を食べたからって満腹にならない。あのいちごのような飲みものじゃないと満足できない。でも、白雪くんのため、と思えば頑張って作れるような気がした。
 ぐーっと、気持ちを切り替えるかのように、私は背伸びした。
 そして、暗くてなにも見えない海の向こうをじっと見つめて、心のなかで叫んだ。
 私は絶対に負けないと。
 たとえそれが乗り越えられない壁だとしても、いつかは乗り超えて、その壁に私のことを認めさせてやるんだって。
「おっと、危ない危ない」
 前を見ていたら、意識がぷつんと切れたような感じがした。
 思えば最近、どこから送られてきているかわからない栄養ドリンクが届かなくなっている。 前は一週間に一度は送られてきたのに、今じゃ三週間に一回しか送られてこなくなっている。送ってきているメーカーがわかれば電話で問い合わせて数を増やせてもらえるんだろうけど、その場所の情報はネットで調べても出てこなかった。
 私はスマホを開いて、彼から返信が来ているかを見る。まだ返信はなかった。もちろん既読も付いていない。
 楽しみだ。もしも白雪くんが、いいよって言ってくれたら、嬉しくて気絶してしまうだろう。
 そしていつかは、白雪くんにとっての特別な存在になるんだ——
 そんな明るい未来を想像しながら、私は家へと帰った。