痛みには慣れないが、最近、あばらを痛めないための動きがわかったような気がする。そのおかげで呼吸もスムーズにできるようになったし、洗濯とか部屋掃除とかもゆっくりではあるができるようになってきた。
 だから今、俺は隣に結城がいなくても、一人で登校できている。
 赤染と放課後の勉強を始めてから三日が経過し、期末試験が今日から始まるはずなのだが、結城は今夜、明日の試験に備えての勉強はせず、学校の屋上で星空を眺めるらしい。星空を眺めたあとは、屋上で星を見ながら寝るらしく、そのための準備を朝に済ませるから、先に学校へ向かってくれ、と言われた。
 英語のリスニングは聞かないで、周りに広がっている田んぼを眺めながら歩いていると、止まれの看板の下で赤染が膝に手をついて立っていた。汗を地面に垂らしながら、肺を大きく膨らませたり縮まらせたりしている赤染の姿は、登校中にシャトルランでもしてきたかのような息の上がり具合だ。
「ああ、白雪くん!」赤染は息が整わなくて苦しそうな顔から一転、久しぶりに再会した友だちに見せるような満面の笑みを浮かべると、「一緒に、学校、行こ!」と、途切れ途切れながらにも伝えてきた。
「別にいいけど……どうした。そんなに息切れして」
「クマに追いかけられて」
「ほんとかそれ」だとしたら、よく逃げ切れたものだ。
「冗談だよ、冗談! 寝坊しちゃってさ」赤染は上体を起こすと、両手を広げて深呼吸した。「やっぱり、朝の空気は気持ちがいいね」
「まだ始業時刻まで二時間ある。これが寝坊なのか」
「あっ。まだそんな時間だったの?」
 あはははは、と赤染は、頭を掻いて苦笑いした。
「まだ息が整っていないけれど学校に向かおう。歩きながら息を整えた方が健康にいいって聞くしね」
「だな」
「あっ、そうだ白雪くん。昨日は家に入れた?」
「ああ。おかげさまで」
「それはよかったぁ」赤染は腕を空に向けて伸ばし、背伸びした。「明日から白雪くんも走る?」
「走るって」
「学校までだよ。登校するときに」「却下だ」
「えー、なんでよ。気持ちいいよ、朝から走るの」
「いや。それだけはない。汗をかいたら服が汚くなる」
「確かにそうだけど……」赤染は困ったように言うと、自分の服を触り始めた。「まあ、学校で洗うし大丈夫か」
「洗うって、どうやって。学校に洗濯機はないだろ」
「洗濯板で洗うんだよ。バッグのなかに洗濯に必要なものはぜんぶ入ってる」赤染は背負っていたバッグを前に持つと、チャックを開けてなかを見せようとしてきた。
「ストップ。赤染」
「んん? どうした?」
「チャックを開けるな」
 もしも俺が寝ぼけていたら、会話の流れに沿って、なんの疑いもなく赤染のバックの中身を覗いていただろう。
 ひょっとしたら、本人は気が付いていないのかもしれない。だとしたら抜けすぎだ。
「洗濯に必要なもの以外、バッグのなかには、なにが入ってる」
「えっとー。筆箱に、教科書に、弁当に……他になにか入れたっけ?」
「弁当箱も入れて走っていたのか…… まあいい。そこは——」
「ああ! 急いでたから一緒に入れちゃった。どうしよう白雪くん……」
「もう手遅れだ。今頃バッグのなかで白米が暴れているだろう」
「……もうだめだ」心底悲しんでいるような顔をした。今にも倒れてしまいそうなくらいに、気分が落ちている。
「追い打ちをかけるようで悪いが、着替えは大丈夫なのか」
 俺はあのとき、赤染の下着を見る羽目になる可能性が十分にあったから、赤染にバッグを開けるな、と伝えた。これで俺が犯罪者になってしまったら、冤罪もいいところだ。
「…………」
 赤染は黙り込んでしまった。
 俺が予想していたのは、バッグのなかに下着を入れていたのを思い出して仰天するシナリオだった。けれども赤染は、それどころじゃないのか口が開かなくなってしまった。きっと、着替えの服も米粒で覆われているに違いない。
「……着替えの服も学校で洗えば、大丈夫だよね」赤染は落ち込んでいた。
「……」着替えの服も洗ったら、授業中に着られる服がなくなるだろ、と言いたくなったが止めておいた。
「……あ」
「どうした」
「もしかしたら私、いいこと思いついたかも」
 そう言うと赤染は顔を上げた。
「いま何時かわかる?」
「えっと……」俺はポケットからスマホを取り出し画面を開いた。「七時だ」
「よし!」赤染はゲームで勝ったかのようにガッツポーズを決めた。
「赤染、これからなにしようとしてるんだ」
 赤染は難問が解けたかのように嬉しそうな表情を浮かべると、「今から服を取りに帰るね!」と言い、「だから私のバッグ、持ってて欲しいな」と頼んできた。
「ああ。わかった。でも間に合うのか」
「うん! ここから往復すると、だいたいフルマラソンくらいの距離があるけど……普通に走れば間に合うよ!」
「……」変人だと思った。
「じゃあまたあとで!」
 赤染はしゃがみ込むと靴ひもを結び直し、軽く準備運動してから走り出してしまった。
 唖然としながら赤染の後ろ姿を見ていると、赤染がピタリとなにかを思い出したかのように立ち止まる。
「——白雪くん!」
「どうした?」
「この三日間、ほんとうにありがとね!」
 赤染はやまびこをするように、大声でそう言った。
「こっちも世話になった」
 赤染が手を振るのに応じ、俺も小さく手を振った。
 思い返せばこの三日間、今までに体験したことがないような不思議な時間だった。
 クラスメイトと一緒に勉強をしたことがなかったからだろうか。
 これは違うような気がする。
 感覚ではあるが、俺のなかで感情的ななにかが揺れ動いたような気がするのだ。
 気が付いたら俺は、新幹線のように走り去ってゆく彼女の後姿を、目で追っていた。

 この横断歩道で車に轢かれていたと思うと、ほんとうに運がよかったなと思う。あのときは確か、結城と一緒に登校する予定だったけれど、結城が屋上に行く準備が遅くなって、俺も登校時間が遅れてしまった。
 まだ早朝だから人は少ないし車は一台も通っていない。さすが田舎だ。都会ならこの時間帯でも人の流れが激しいだろう。
「——白雪くん」
 後ろから聞きなれない声がした。
 俺は後ろに振り向きながら、
「なんでしょう」
 と答える。
「……紅野」俺の首が、自然に傾げてしまった。
 ……珍しい。
 というか、この三年間で一度も話した覚えがない。
「白雪くんはいつも、こんな朝早くからなにしているの?」
「勉強だけど」
「そう」紅野は腕を組み、視線を横にずらした。「さっきたまたま見かけたんだけど、誰と一緒に登校していたの?」
「ああ」俺は言葉を区切り、「赤染だよ。登校していたらたまたま会った」と答えた。
「そういうことか」
 うんうん、と紅野は頷いた。なにを考えているのか、さっぱりわからない。
「そういうことかって、どういうことだ」
「そうね……」少しのあいだ考え込むと、「白雪くんの持っているそのバッグ。たぶんだけど赤染さんのでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ赤染は忘れものでもしたのかなって……」
 どう? 正解? と、紅野は興味津々に訊いてきた。
「正解」
「ふふふ。やっぱり」
 紅野は、無邪気に笑う赤染とは違って、大人びた笑い方をした。これをミステリアスな人だと表現するのだろうか。俺にはいまいち、紅野の考えていることが読めない。
 青信号になり、俺と紅野は一緒に横断歩道を歩く。紅野の服から花束のような甘い香りがしてきた。香水でも付けているのだろうか。紅野は周りの生徒に比べてどうしても大人っぽく見えてしまう。スーツ姿の紅野を想像すると、どこかの会社の上司、というワードが第一に出てくるくらいだ。
「白雪くんは赤染さんと仲がいいんだね」
「仲がいいというか、三日前から一緒に勉強してただけの仲。さっきから赤染についての話が多いけど、なにか気になることでもあるのか」
 俺はストレートに訊いてしまった。
 紅野と会ってから赤染の話しかしていないような気がする。
 俺と紅野ではあまり関係性がないから赤染を話題にしているのだろうか? だが、俺が今まで見ている限りだと、紅野が赤染と話している場面を見たことがない。もしかしたら紅野は、俺を経由して赤染と会話する切っ掛けを作ろうとしているのか。
 紅野は空を見上げながら、「そうね……」と言うと、「赤染さんと話したくてさ」頬を緩ませながらそう答えた。
「そういうことか……」いつも紅野が赤染を遠くから見ている理由がわかった。難解な謎が解けたようでスッキリする。
「だから白雪くんに声をかけたんだけど」
「すまない。正直俺も、赤染のことはあまり知らない」
「そっか」紅野は俺を見ると微笑んだ。「ねえ、最後に訊きたいことがあるんだけどいい?」
「俺に答えられる範囲でならいくらでも」
 ありがとね、と紅野は言うと、
「白雪くんって、赤染さんのこと、好き?」
 と、訊いてきた。
「……好き?」
「そう。恋しているか、それとも、していないか」紅野は立ち止まって、俺の内心を見透かすような瞳で見つめてきた。その鋭い瞳に、心臓が握られたような感じがする。
「いや。していない」俺は正直に答えた。 
「ならよかった」
 ふふん、と。
 紅野は微笑み、安心したような表情を浮かべた。