生徒会の会議を終えたあと、俺は赤染と勉強するために教室へ戻った。教室には赤染以外のクラスメイトは誰もいない。日中の騒がしい教室とは正反対だ。
「あ、白雪くん。お疲れさま」
 赤染は机の上にイチゴミルクのようなジュースの入ったボトルを置き、教科書とノートを広げて座っていた。窓から差し込む夕日が、赤染の姿をハッキリとさせている。
「待たせたな」
 ドアを閉めたあと、俺は、赤染の隣の席に座った。
 日頃から会話する仲であれば次の言葉が勝手に口から出てくる。が、赤染とは気楽に雑談を交わす仲ではない。
 バッグから筆箱と教科書を出して、俺は赤染の教科書を覗いた。
「なにがわからないんだ?」
「……」赤染は口をもごもごさせると、「……全部」
「全部か……」
「うん」
「……あと試験まで三日だぞ」
「うん……だから教えて欲しいの、全部」
「大丈夫だ」
 今、赤染が勉強している科目は数学だ。微分と積分の計算を三日で身につけるなんて無理がある。
 赤染を傷つけないために内心だけで頭を抱えていると、そこに追い打ちをかけるかのように赤染は、「数学だけじゃないの。他の教科も全部、わからない……」
「それは無理だ」俺の本心が漏れてしまった。
「だよね、やっぱり無理だよね」
「いや。まだ諦めるのは早い」
「え、百点狙えるの?」パッと目を開いて、俺を見つめてきた。
「それは不可能だ」
「……」赤染は足元に目をやると、黙り込んでしまった。
 俺も赤染から目を逸らして黙り込む。五科目を三日間でマスターするなんて宝くじを当てるよりも難しい。
 現実逃避するかのように窓の外を眺めていると、「頑張るので教えてください! お願いします!」と頭を下げて懇願してきた。「言うことなんでも聞きますから!」
「そこまでしなくても」
「白雪くんからしたら、無駄な時間でしかないのに」
「ぜんぜん。そんなことない。教えることでわかることもあるからな」
「そう、なんだ……」
 不安そうな顔をしていた赤染は、「じゃあよろしくお願いします!」と言うと、ヒマワリのような温かさのある笑顔になり、机の上に置いてあるジュースを一気飲みした。

 今まで誰かに勉強を教える機会が無かったからかもしれないが、赤染の記憶力は異常だと思った。それも俺の言ったことを一言一句間違えないで暗唱できるほどに。教科書に書かれている小説を一度見ただけで丸暗記してしまいそうな勢いがあった。けど、その力も、十分後にはなくなっていたが。
 この超能力のような記憶力を毎日使っていれば、絶対に学年でも上位狙えるだろうに、と、真珠を持った豚が脳裏を過る。
 三時間くらいかけて、全教科の基本的な部分を教えたあと、俺は、赤染から出るペンの音を聞きながら英語のリスニングに取り組んでいた。すると、
「——ねえ、白雪くん」
 赤染が、俺の右肩をちょんちょんと触ってきた。
「どうした。なにかわからない場所でもあるのか」
「違う違う」
 赤染は手を振りながらそう言うと、「白雪くんって、どうして勉強してるの?」
 と、不思議そうな顔をして訊いてきた。
「どうしてって……なんでそんなこと急に——」
「知りたいから……」赤染は視線を斜め下にずらした。「将来、なにやりたいのかなって」
「将来か……」
 ……ない。
 やりたい仕事なんてない。これが俺の答えだ。
 このクラスには美大を志望している生徒もいれば、起業したいから大学には行かない、と言っている生徒もいる。高校三年生になった今年、ほとんどのクラスメイトは明確な目標を持ち、それに向かって行動している。
 だが俺は違う。
 夢、目標、なりたい自分。
 そんなものはどこにもない。あるのは学力一位、それに生徒会長という称号だけだ。
「将来は、楽しく暮らせるだけで十分だ」
 そう言って俺は、赤染から参考書に視線を移した。
「……そっか」
 赤染は天井を見て、しばらく椅子にもたれ掛かると、「あ、そうだ。思い出した」
「なにをだ」
「今から手品するから私の方に椅子を向けて」赤染は目を光らせながら俺を見た。
「残り三日しかないのに大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないよー」にへまと苦笑いを浮かべる赤染。「それにもう三時間も勉強したんだし大丈夫だよ」
「どっちなんだ」楽観的すぎる。「赤点になっても知らないからな」
「大丈夫、絶対に黒点にするから」
「いや、赤染は青点だ」
「あおてん?」
「顔が真っ青になる点数って意味だよ」
「そうなの?! 赤の反対だから満点だと思った」
 赤染は腹を抱えて笑い出した。俺にはどこで笑いのツボにはまってしまったのかがわからない。
「白雪くんって真面目なだけじゃないんだね」
 赤染は手の甲で目を拭うと、「じゃあ今度は私の番ね」、と言って、椅子を私の方に向けるように、とお願いしてきた。集中力の切れた赤染に勉強しろと言っても無駄そうだから、俺は赤染の指示に従った。
「これからなにをやるんだ」
「ちゃんと私の顔を見ててね」
 そう言うと赤染は真顔になり、俺の顔をじっと見つめてきた。
 俺と赤染しかいない教室は静かになり、キリギリスの鳴き声だけが耳に入ってくる。こんな状況をクラスメイトに見られたらどうしてくれるのだろうか。
「……二十秒なにもしない手品ってあるのか」
「あるよ、あるある」赤染は小声で笑うと、「じゃあ始めるよ」
「まだ始まってなかったのか」
「ではいきます」
 赤染は肩を回したあと、大きく深呼吸して、
「エレベーターに顔を挟まれたおばあちゃんの顔真似」
 と言った。
 すると赤染は、大きく開いた手の平で、自分の頬をつぶした。
 ——きっと赤染は、自分の手をエレベーターのドアに例えたのだろう。
 手の平でつぶされた赤染の顔が、しわくちゃになった。
「…………」
 赤染はひょっとして、これを手品だと思っているのだろうか。
 意表を突かれた俺は、なにも言えなかった。
「むー、むー、むー」赤染が壊れた機械音のような声を出している。
 これはきっと、顔が挟まっているせいで締まらないドアを表現しているのだろう。
 赤染の顔はつぶれたり元に戻ったりを繰り返している。
「……赤染」
「んん?」
「恥ずかしくないのか」
「ぜんぜん! 恥ずかしくないよ?!」赤染は、本心を隠そうと必死だった。
 動きを止めた赤染はきょとんとすると、
「それよりもどうだった? 面白かった? 私の手品」赤染は無邪気な顔をした。
「……あ、ああ。面白かった」
「ならよかった!」
 子供が親に褒められたかのような笑みを赤染は浮かべた。
 あれは面白かったのだろうか。どちらかというと、面白かったと言わされたような気がする。突拍子もない手品をされて突然、面白かった? なんて聞かれたら、そうですね、としか答えられないだろう。
「他にも手品あるけど見る?」
「もう大丈夫。十分だ」これ以上、反応に困るような芸は披露しないで欲しい。
 俺は椅子の向きを直し、外を見た。ついさっきまでは、夕日が教室を照らしていたのに、いつのまにか太陽は地に沈んでいた。ここから見えるのは暗闇のなかで光る街灯だけで、それ以外はなにもない。この教室の時間だけが止まっているかのようだ。
「そう言えば赤染、帰る時間は大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。私、一人暮らしだから。まだ学校にいられるよ」
「そうか」
「白雪くんはどっちの門から出るの?」
「正門だ」
「じゃあ同じだね。途中まで一緒に帰ろう」
「ああ、わかった」
「あ。思ったらもう八時だね。クマと会ったら怖いから帰らない?」
「そうだな」
 赤染は立ち上がると、机の上に置いてあるものをバッグのなかに詰め込み始めた。
「そのボトルに入ってるジュースはなんだ」
「ああ、これ」赤染はバッグのなかからボトルを出すと、「私、ジュースを飲んでいるわけじゃないんだよね」
「じゃあなんだ」
「これはね。なんて言えばいいのかな。んー、栄養ドリンクみたいな?」
「みたいなって。自分で買ってるわけじゃないのか」
「うん。どこから送られているのかわからないけど、いつも飲んでるんだよね」
「そうなんだって……ん。発送場所がわからない栄養ドリンクを飲んでるのか」
「うん。そうだよ。初めて見たときは変なジュースだなー、って思ったけれど、飲んでみたら、すっごく美味しかったんだよね!」
「美味しいからって、そんなもの飲んで大丈夫なのか」
「大丈夫だよ! だって私、生きてるし」えっへんと、赤染は胸を張った。
「問題はそこじゃないような気がするけど」
「でも最近、届く量が少なくなってきてるんだよね……」赤染は視線を下にずらすと、子供が大事なものを親に没収されたかのような顔をした。「あ、それどころじゃないよ。もう今日は帰らないと」
「そうだな」
 俺も立ち上がり荷物を整理したあと、赤染と一緒に学校を出た。

 ついたり消えたりを繰り返している街灯に照らされている夜道を歩いている途中。俺は赤染に頼みごとをしようかしないか迷っていた。
 恐らく結城と一緒に登校しているとき。俺は、家の鍵を落としてしまったのだ。足元に金貨が落ちていてもわからないような夜道で、親指くらいしかない鍵を探すのは難しいし、あばらに負担が掛かるから辛い。
「どうしたの? さっきから下向いているけど。なにかいるの?」
「……いや。別に。なにもない」
「なにもないような顔してないじゃん」
「……」どうやら誤魔化せなかったらしい。「……一ついいか」
「どうしたの?」
「鍵を登校中に落として。今、手元にない」
「え、それじゃあ家に入れないじゃん!」
「そう。それでさっきから下向いていた」
「そういうことか。てっきり私、白雪くんはカエルを探してるのかと思った」
 赤染は微笑むと、「じゃあ私も手伝うよ」と言い、立ち止まって辺りを見渡し始めた。
「やっぱりなにも見えないか」
「大丈夫だよ、白雪くん。私、こういうの得意だから!」赤染は自信満々な顔をした。
「これに得意不得意ってあるのか」
「んー、なんていうんだろう。失くしたものを探すときって、目のいい方が探しやすいでしょ? それに私、暗いところに居続けると目が慣れてくるんだよねぇ」
「この暗さに慣れるのか」
「うん。少しずつ明るくなってくるんだよね」
 赤染はしばらく目を凝らして探し続けると、「——あっ! なんかあそこだけ色が違う!」と言い、指をさした。「あれが、白雪くんが探してる鍵じゃない?」
「あれって、どれだ」
「あれだよ、あれ」赤染は指を差し続けるが、俺には見えなかった。
「じゃあ、あそこまで行こうよ」
「ああ。そうだな」
 俺は赤染のあとに続き、おそらく鍵がある場所へと向かった。
 五十メートルくらい歩き、赤染は立ち止まると、
「あ、やっぱり鍵だ」
 と言って、赤染は鍵らしきものを拾い上げて俺に渡してきた。
「……あ、ありがとう」正真正銘、俺の鍵だった。
「どういたしまして」そう言うと赤染は、白い歯を見せて微笑んだ。「じゃあ帰ろうか」
「そうだな」
 俺はもう一度、自分の鍵であるかを確認して、赤染と一緒に帰った。

 寝る準備を済ませた俺は、ベッドに寝転がった。
「……」
 外から聞こえてくる音に違和感がある。窓の方から聞こえてくる虫の声に加えて、赤染の声が頭のなかで流れ続けている。
 意味もなく暗い天井を眺め続けていると、枕元にあるスマホが、ぶーっ、と震えた。
 あばらに注意しながらスマホを取り、画面を開く。
『きょうはありがとね! 先生よりもわかりやすかったよ。またお願いします』
 赤染愛夜と書かれたメッセージが、画面の中央にあった。
『こちらこそ。教えていて自分の理解の低さがわかった。またよろしく』
『うん! テストで顔が真っ青にならないように頑張ります!』
 既読してから少し経つと、赤染から、ゆるい顔をしたパンダのスタンプが送られてきた。このまま既読だけして送り返さないのは悪いかなと思い、俺は初めからラインに備わっているコニーのスタンプを使った。そのあとすぐに、赤染から既読は付いたが返信はなかった。
 スマホの電源を切り、俺は再び真っ暗な天井を眺める。脚立にでも登れば触れる距離に天井はあるはずなのに、俺にはどんな色をしているのかがさっぱりわからない。もちろん白だということは知っている。でも、辺りを照らす明かりがないと色が見えなくなるのだ。
 俺の目が悪いのが原因かもしれない。
 けれども、コンタクトをしていたとしても俺は、天井の色を識別できないだろう。それくらいに、この島の夜は暗い。