暗い世界が光によって霧散した。
カーテンの隙間から入り込んでくる日に目を擦らせながら、寝ぼけている体を起こそうとしたら、
「がっ!」
全身に稲妻が走った。
完全に忘れていた。昨日の朝、俺のあばらにヒビが入ってしまったことを。
ベッドから出るために体を起こそうとしたが、力が入らない。日を跨げば、日常生活に支障が出ないほどには治っているだろう、と思っていたが、その逆だった。むしろ痛みが増しているような気さえもする。
あばらに気を付けながら左手で枕元を漁り、充電器に挿していたスマホを手に取った。
「……おい、嘘だろ」
不幸というのは立て続けに起こるものだ。
始業時刻まで、残り四十分しかない。最低でも五十分はかかるのに、このままだと確実に遅刻してしまう。
そう言えば今日、俺は日差しで目を覚ました。いつもなら寝る前にアラームをセットしているけれど、昨日は怪我のことで頭が埋め尽くされていたから忘れていた。
「やばい、早く用意しな——」
素早く起き上がろうとしたからだろう。
再び全身に、稲妻が走った。あばらが痛くて声が出せず、一人で顔を歪ませては少しでも痛みを紛らわすために歯を食いしばることしかできない。朝から身体の自由を奪われるのは苦痛でしかない。怒りが煮えたぎる。
『結城、助けてくれ』
俺は結城に連絡した。これでは自力で学校に行けない。
冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、結城からの返信を待っていると、『どうした? なにかあったのか?』と連絡がきた。『もしかして怪我したところが痛いから助けてくれ、ってことか?』
『その通りだ。ちゃんと借りは返すから』
『バカ野郎! そんなに痛いなら学校休めよ!』
『俺は絶対に休まない。休みたくないんだ』
『そんなに学校が楽しいのか?』
『違う。とりあえず助けてくれ』
メッセージに既読が付いてからしばらく時間が経つと、
『わかった。今から迎えに行くから寝て待ってやがれ』
と返信がきた。
『ありがとう』
『気にするな。十分後には着くから待ってろ』
『了解』
『でも学校が始まるまで、あと四十分しかないからな……』結城はそう返信すると、『ジェットコースターで登校するか』
『ジェットコースター?』
『ああ。歩いてたら学校に間に合わないからな』
結城はなにを言っているのだろうか。きっと、ジェットコースターはなにかの例えなのだろう。不安はあるが、俺はジェットコースターとやらに乗って登校するしかないのだ。
時間は刻々と迫っているのに、俺はベッドから動かず、結城が家に上がって来るまで天井を眺めながら待った。
スマホでやり取りをしてから十分後。
俺は荷台に乗って登校している。荷台は、男子高校生が一人だけ乗れるくらいの大きさで、荷物は結城のバッグに入れさせてもらった。
あぐらをかいているはずなのに、後ろへと流れてゆく風景が新鮮だ。いつもは周りの風景をあまり見ずに登校しているからだろう。色がないように見えていた山や空が、今日は彩を持っている。英語しか聞こえなかった道も自然の声に溢れていた。日頃の疲れが体から抜けてゆく。
「どうだぁ? 人力車で登校してる気分は? 気持ちがいいだろ」荷台を押している結城が嫌味たらしく呟いた。
「その言い方は辞めてくれ。俺が結城を奴隷にしてるみたいじゃないか」
「ははは! 給料が出ないなら奴隷も同然だろ! もしかして、なにかくれたりするのか?」
「もちろんだ」
「おっとー。それは予想外だなぁ」
俺の返答に、結城は黙り込んだ。
お礼をするのは当然だろう。
昨日の下校に、朝の身支度まで手伝ってくれたのだから、礼を返すのが道理だ。
「結城はなにが欲しい。あまり高いものは買えないけど」
「そうだなー」結城は言葉を区切ると、「やっぱ、ものは要らねえわ」
「どうしてだ」
「あまり欲しいものがないからな。ものなんて所詮はものにしかすぎない」
よしっ、と結城は気合を入れるような声を出し、そろそろ飛ばさないと遅刻するな! と大声を出すと、急に走り出した。さっきまで亀のようだった荷台が、雪だるまが傾斜を下るように加速する。
「結城! 落ちるだろ!」
「俺を雇ったお前が悪いんだろうが!」
結城は悪魔みたいな笑い声を出すと、更にスピードを上げてきた。
キシキシと荷台がアスファルトの上で壊れそうな音を出している。
「バカバカバカ! しかもここ下り坂だぞ!」
どうして俺は、二日連続で死ぬような思いをしなければならない。
昨日は完全に信号無視をした俺が悪かったが、今回ばかりは、俺はなにも悪くない。荷台を後ろから押していた結城は加速する荷台に追いつけなくなったからか、片足を荷台に乗せ、ストリートボードをしているかのような姿勢になっている。もしかして結城は、俺と一緒に、墓にでも入るつもりなのだろうか。こんな状況での唯一の救いは下り坂が直線なところだけで、あとは無事に帰らせない要素が盛りだくさんだ。
坂道を止まることなく進んでいると体がふわりと浮かんだ。
タイヤが石を踏みつぶしたのだろう。
体が浮いたときに、ポケットからなにかが抜けてゆくような感じがしたが、今はそれどころではない。荷台から落ちないようにバランスをとるので精一杯だ。もしも荷台から落ちてしまったら、入院する羽目になると直感でわかる。
「白雪はジェットコースターに乗ったことないもんな!」
「ああ! ないさ! あんなのに乗ってなにが楽しいんだ? あんな乗りものを平気な顔で楽しむ人は狂気の沙汰としか思えない!」
「大人になって彼女ができたらどうするんだ? 子供ができたら尚更だぞ!」
「ジェットコースターを愛する彼女は作らないし、子供にはジェットコースターが乗れなくなるような英才教育を施すから関係ない!」
「まったく……なにを言ってるんだか」結城がため息交じりの声を出した。「しかもこのスピード、ママチャリでも出せるくらいなんだけどな」
「お前の感覚が狂ってるんだ! こんなスピード、ママチャリごときで出せるはずがない!」
「これじゃ本物のジェットコースターに乗ったら気絶しちゃうなぁ」
結城は鼻で笑うと、俺の哀れな姿に呆れを通り越して面白くなってきてしまったのか、「こんなときくらいしかお前のこと虐められないからな!」
すると、再び地面に足をついて、荷台を全力で押し始めた。
「どうした白雪。そんな疲れたような顔をして。なにかあったのか?」
「全部、結城のせいだ。そのせいで授業中、眠くなっただろうが」
「それは悪かった。お詫びとしておにぎり一つあげるから——」
「いらない。昼飯を食べすぎると午後の授業で眠くなる」
「なら寝ればいいじゃん。飯をたくさん食ったあとの昼寝は最高だぜ?」
「そんな無駄な時間を俺はすごしたくない。睡眠に学費を出しているようなものだろ。そんなことしたら犯罪も同然だ」
「ははー。その優美な志は拍手に値するな」結城はパチパチと無表情に手を叩いた。「昨日に比べてよくなったか? 半日見ている限りだと悪くなったような気がするが……」
「昨日よりも悪くなった気がする」
今こうして、結城と話しているだけでもあばらに違和感がある。呼吸をするときに使わざるを得ないから対処のしようがない。できるだけ痛みが生まれないようにと、動くときは胴を動かさないようにして、あばらに負担がかからないように工夫している。そんな俺に結城は、今朝、苦しい思いをしてまで学校に来るお前は異常だ、と言ってきたが、俺は真に受けることなく聞き流した。
「あと三週間くらいで一学期が終わるから、そこまでの辛抱だな」結城はそう言うと、オレンジジュースをパックから搾り取るように飲んだ。「はいこれ。オレンジジュースの抜け殻。やるよ」
「いらん」会話の流れを切るように俺は言った。このクラスには結城以外にもゴミを友だちに渡す人がいるが、どうしてその人たちは、空になったペットボトルやパックを渡そうとするのか。
「今日の放課後、赤染に謝るのか?」結城はテーブルに肘を置くとそう訊いてきた。
「ああ。でも、今日の放課後は生徒会で集まらないといけない」
「そっかー。なら、今のうちに謝りに行けば?」
「今のうちにか」
「そうだ。あっちにいるからさ」
ほら、あれ。と、結城は俺の斜め後ろを指差した。その指の方向を見てみると、赤染がクラスの女子と喋りながら昼食を取っている姿が目に映った。いつもそうだが、赤染は常に笑っているイメージしかない。赤染の笑顔はこの学年で『アヤスマ』と名前が付けられていている。このアヤスマを貰いたいからと、クラスの男子は赤染に、スマイルを下さい、とお願いすることがあるわけだが俺にはその理由がわからない。
やっぱり可愛いねー、と結城は呟き、「あんな子供みたいな顔してるのに身体能力は怪物だからな。それも人のあばらにヒビをいれるくらいの脚力を持った怪獣。な、白雪?」と奥側にいる赤染を見つめながら言った。
「あの痛み、二度と繰り返したくない」俺は赤染のいる方向に振り返ることなく返事した。「そんなにじっと見て、結城は赤染のことが好きなのか」
「いやいや、俺のタイプは違う。俺はお姉さんタイプが好きなんだよ」
「お姉さんタイプか」
「ああ。そうだ。お姉さんタイプだ。俺の好みのタイプは、赤染から少し離れたところにいるよ」結城は再び、俺の後ろを指差した。
「紅野のことか」
「そうそう。あれこそが俺の求める女性像なのさ」
結城は紅野理守を見て目を奪われてしまったのか、口が動かなくなってしまった。
紅野の性格は、赤染とは正反対だと言っても過言ではない。喜怒哀楽を顔と体で表現する赤染に対して紅野は表情を崩さず、抑揚のない声音で考えていることを伝えてくる。人間観察は得意な方ではないが、俺が思うに、紅野はお姉さんタイプではなくミステリアスな部類に入ると思う。容姿は大人びているし、銀髪で外国人にしか見えない。なにより、紅野の両足は義足なのだ。どうして義足なのかは誰も知らない。
「紅野は昔、部活に所属してたのか」
「してないらしいよ。ただの帰宅部らしい」結城は首を横に振った。「でもわからないこと多いよな。高校生に見えない容姿は置いといて、クラスメイトに自分から話しかけに行かないし、いつも赤染の傍にいるだけでかかわろうともしないし。紅野って、遠くから赤染を見守ってる母親みたいだよな」
「確かに。自分からは絶対に話しかけに行かない」
紅野は人付き合いが苦手なようには見えない。話しかけられれば口を開くし、授業でディスカッションの機会があればみんなと同じく発言する。ただ、必要最低限の情報しか紅野は口にしないのだ。あまり会話を好まないように見えるその姿は、クラスメイトから距離を置いているようにも見えてくる。
食堂の壁にかけてある時計を見てみると、針が一時を指していた。
雑談で賑わっていた食堂が静かになり、教室に戻る準備をしている生徒が目立つようになってきた。家から持ってきた弁当を持っている生徒もいれば、食堂のご飯を食べた生徒もいて、グラタンであったり、焼き肉であったりと様々な料理の残り香が俺の鼻孔をくすぐる。
「そろそろ帰るか」
結城は立ち上がると俺の横に来て、立ち上がれるか? と訊いてきた。
「大丈夫だ。コツを掴んできたから」
「無理だけはするなよ。で、赤染にこのまま謝りに行くのか?」
「そうだな」
「じゃあ俺は食堂の隅っこで見守ってる」結城は出口に向かおうと歩き出したとき、なにか言い忘れたことがあったのか、振り返り、俺を見てきた。「チャンスがあったら、しっかり自分の想いを伝えてこいよ」
「なんだそれ。俺は赤染に、恋愛感情を抱いてない」
「俺が言いたいのはその反対のパターンだ」
「……」
「赤染がお前のこと、ひょっとしたら気になってるかもしれないぞ」
「なんでそうなる」
「そんな理由、自分で考えるんだなぁ」
じゃあまたあとで、と結城は手を振ると、出口へ向かってしまった。
俺は今、赤染のいる場所から少し離れて、どのように話しかければいいのかを考えている。赤染が一人でいれば迷わずに謝りに行ける。が、現状は、四人で固まり食事を楽しんでいる。楽しんでいるところを邪魔するわけにはいかない。ましてやこれから俺がする話は、赤染にとって不快なものだ。
だから急に、俺だけのタイミングで謝るのは申し訳ない。明日の放課後に話したいことがある、と、赤染が一人になったタイミングで話しかけに行こう。
そう思った矢先、赤染は席から立ち上がると出口に向かって歩き出した。
トイレにでも行くのだろうか。
これは千歳一隅のチャンスだ。
あばらに気をつけながら、俺は赤染の下へ小走りした。
「——赤染」
「んん? あ、白雪くん……」
赤染は俺の顔を見ると、パンパンに膨れていた風船の空気が一気に抜けてゆくように、笑顔から真顔になってしまった。嫌だからだろう、俺と顔を合わせるのが。これのどこが俺に恋愛感情を抱いているかもしれないだ。
俺は一呼吸分あいだを空けたあと、「赤染、話したいことがあるから、明日のどこかの時間、空いてるか」と訊いてみた。
無理ならそれでもいい。
そう言われても素直に認めるしかない。
一瞬でも長く感じるような沈黙が続いたあと、赤染は口をゆっくりと開けた。
「も、もしかして……」言葉を区切り、顔を次第に赤く染めてゆくと、
「こく、はく、されるの? 私……」
と、言ったのだった。
「……違う。それは違う。どうしてそうなった」
「だって、話すのにわざわざ予約するなんて。そうとしか思えないよ」
「そんなシチュエーション、現実の世界ではありえない。俺が悪かった。でも、告白のために俺は赤染に話しかけたわけじゃない」
「じゃあなに? どうしたのぉ?」おっとりとした口調で言うと、赤染は首を傾げた。
触ったらモチモチしそうな柔らかい表情を赤染は浮かべている。本来であれば俺と顔を合わせるだけでも嫌なはずなのに、昨日の出来事を微塵たりとも覚えていないかのような立ち振る舞いに驚かずにはいられない。
だから俺は、「昨日の件の話をしたい」と素直に告げた。
「昨日の件?」
「ああ。赤染は昨日の昼休み、俺のところにきて謝っただろ」
「……うん」
「でも実際、赤染は俺のことを助けようとして突き飛ばした」
赤染は、うーん、と喉を鳴らしながら考え込む。
「それなら、謝るのは俺の方だろ。命を助けてもらったわけだから、お礼もしなければならない。けれど昨日、俺は赤染にお礼をするどころか謝らせてしまった。それについて詫びたかったから、俺は赤染に声をかけたんだ」
俺の説明を最後まで聞いた赤染は、うんうん、と頷いた。
許されることならば、今すぐにでもここで土下座をしたいくらいだが、俺は頭だけを下げて、「ほんとうに昨日はごめん。助けてもらった立場なのに謝らせたりして。お礼はなんでも」と謝った。
「白雪くん」
「……」
「ぜんぜん気にしてないよ」
「……え」
「だから、謝らなくていいよ」
どんな顔で言っているのかと思い、深く下げた頭を上げてみると、赤染は俺の心を包み込むような笑顔になっていた。小さな子供が悪いことをしても大人は許すように、赤染は優しい表情を俺に向けていた。
「だって、私が白雪くんのことを怪我させたのは事実だもん。白雪くんが車に轢かれそうだったから助けたのも、私がしたくてやったことだからさ。白雪くんはなにも、悪いことしてない」
「でも、俺は——」
「私が勘違いされるような助け方をしたから白雪くんは誤解しちゃったんだよね。ごめんね。昨日の時点で、白雪を助けようとして突き飛ばしました、って伝えなくて」
俺はなにも言い返せなくなってしまった。
優しすぎるのだ、赤染は。それも異常なくらいに。
前々から赤染は優しすぎるとクラスメイトから聞いていた。
ふだん赤染とは話す機会がないから、いまいち理解しにくかったが、これは常軌を逸している。もしも赤染ではなく他の人が赤染の立場だったら、お前のことを善意で助けてやったのに、どうして私の方が謝らないといけないのだ、となるに決まっている。だが赤染は、そんなことを一切口にしなければ、逆に自分の助け方が悪かったと言ってしまうほどだ。それも助けたのは命だ。自分が死んでもおかしくない状況だったはずなのに、ここまで完璧に対応されてしまうと余計に申し訳なさが出てきてしまう。
「赤染」
「どうしたの?」
「車に轢かれそうなところを助けたってことは、少なからず赤染が身代わりになる可能性だってあった。それでもどうして赤染は、俺のことを許してくれる」
「どうしてって言われても……」赤染は困惑した表情を浮かべると、「私から助けに行って、それで死んじゃったなら、それはそれで仕方がないことだよね」
「仕方がないこと……」
「うん。最期にやりたいことをやって人生を終えられたら最高じゃん。仮に私が身代わりになったとして、白雪くんがその代わりに助かったら、私は満足できるでしょ? まあ、白雪くんには迷惑かけちゃうかもしれないけれど」
あはははー、と無邪気な顔で笑いながら赤染は頭を掻いた。
俺には到底、理解できないような考え方だ。
なにかのために死ぬなんて、俺からしたら空想上での行動にしか思えない。
映画とかアニメとかでも、赤染と同じようなセリフを吐くキャラクターがいる。お前のためになら死ねる、と言うには、いったいどんな人生を送ったら言えるようになるのだろうか。俺には想像ができない。
「ありがとう。俺のことを許してくれて」
「許すも許さないも、白雪くんはなにも悪いことしてないよ」
そう言うと赤染は、口角を上げて笑顔になった。
これで一区切りはついただろう。
あと少しで授業も始まってしまうし、そろそろ教室に戻らなければ遅刻してしまう。
俺は教室に、踵を返そうとすると、
「待って、白雪くん」
赤染が俺のことを呼び止めた。
「どうした。お礼なら、きっちりする」
「そうじゃなくて、えっと……」
なにか言い難いことでもあるのか、赤染は目を泳がせると、
「今日の放課後、勉強教えてくれない?」
「勉強、か……」
「うん……だって白雪くん、頭いいじゃん。それに、三日後から期末試験だし……」
赤染は長い黒髪をたなびかせながらお辞儀すると、「お願いします! ちゃんとお礼は返すので!」と言ったのだった。
カーテンの隙間から入り込んでくる日に目を擦らせながら、寝ぼけている体を起こそうとしたら、
「がっ!」
全身に稲妻が走った。
完全に忘れていた。昨日の朝、俺のあばらにヒビが入ってしまったことを。
ベッドから出るために体を起こそうとしたが、力が入らない。日を跨げば、日常生活に支障が出ないほどには治っているだろう、と思っていたが、その逆だった。むしろ痛みが増しているような気さえもする。
あばらに気を付けながら左手で枕元を漁り、充電器に挿していたスマホを手に取った。
「……おい、嘘だろ」
不幸というのは立て続けに起こるものだ。
始業時刻まで、残り四十分しかない。最低でも五十分はかかるのに、このままだと確実に遅刻してしまう。
そう言えば今日、俺は日差しで目を覚ました。いつもなら寝る前にアラームをセットしているけれど、昨日は怪我のことで頭が埋め尽くされていたから忘れていた。
「やばい、早く用意しな——」
素早く起き上がろうとしたからだろう。
再び全身に、稲妻が走った。あばらが痛くて声が出せず、一人で顔を歪ませては少しでも痛みを紛らわすために歯を食いしばることしかできない。朝から身体の自由を奪われるのは苦痛でしかない。怒りが煮えたぎる。
『結城、助けてくれ』
俺は結城に連絡した。これでは自力で学校に行けない。
冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、結城からの返信を待っていると、『どうした? なにかあったのか?』と連絡がきた。『もしかして怪我したところが痛いから助けてくれ、ってことか?』
『その通りだ。ちゃんと借りは返すから』
『バカ野郎! そんなに痛いなら学校休めよ!』
『俺は絶対に休まない。休みたくないんだ』
『そんなに学校が楽しいのか?』
『違う。とりあえず助けてくれ』
メッセージに既読が付いてからしばらく時間が経つと、
『わかった。今から迎えに行くから寝て待ってやがれ』
と返信がきた。
『ありがとう』
『気にするな。十分後には着くから待ってろ』
『了解』
『でも学校が始まるまで、あと四十分しかないからな……』結城はそう返信すると、『ジェットコースターで登校するか』
『ジェットコースター?』
『ああ。歩いてたら学校に間に合わないからな』
結城はなにを言っているのだろうか。きっと、ジェットコースターはなにかの例えなのだろう。不安はあるが、俺はジェットコースターとやらに乗って登校するしかないのだ。
時間は刻々と迫っているのに、俺はベッドから動かず、結城が家に上がって来るまで天井を眺めながら待った。
スマホでやり取りをしてから十分後。
俺は荷台に乗って登校している。荷台は、男子高校生が一人だけ乗れるくらいの大きさで、荷物は結城のバッグに入れさせてもらった。
あぐらをかいているはずなのに、後ろへと流れてゆく風景が新鮮だ。いつもは周りの風景をあまり見ずに登校しているからだろう。色がないように見えていた山や空が、今日は彩を持っている。英語しか聞こえなかった道も自然の声に溢れていた。日頃の疲れが体から抜けてゆく。
「どうだぁ? 人力車で登校してる気分は? 気持ちがいいだろ」荷台を押している結城が嫌味たらしく呟いた。
「その言い方は辞めてくれ。俺が結城を奴隷にしてるみたいじゃないか」
「ははは! 給料が出ないなら奴隷も同然だろ! もしかして、なにかくれたりするのか?」
「もちろんだ」
「おっとー。それは予想外だなぁ」
俺の返答に、結城は黙り込んだ。
お礼をするのは当然だろう。
昨日の下校に、朝の身支度まで手伝ってくれたのだから、礼を返すのが道理だ。
「結城はなにが欲しい。あまり高いものは買えないけど」
「そうだなー」結城は言葉を区切ると、「やっぱ、ものは要らねえわ」
「どうしてだ」
「あまり欲しいものがないからな。ものなんて所詮はものにしかすぎない」
よしっ、と結城は気合を入れるような声を出し、そろそろ飛ばさないと遅刻するな! と大声を出すと、急に走り出した。さっきまで亀のようだった荷台が、雪だるまが傾斜を下るように加速する。
「結城! 落ちるだろ!」
「俺を雇ったお前が悪いんだろうが!」
結城は悪魔みたいな笑い声を出すと、更にスピードを上げてきた。
キシキシと荷台がアスファルトの上で壊れそうな音を出している。
「バカバカバカ! しかもここ下り坂だぞ!」
どうして俺は、二日連続で死ぬような思いをしなければならない。
昨日は完全に信号無視をした俺が悪かったが、今回ばかりは、俺はなにも悪くない。荷台を後ろから押していた結城は加速する荷台に追いつけなくなったからか、片足を荷台に乗せ、ストリートボードをしているかのような姿勢になっている。もしかして結城は、俺と一緒に、墓にでも入るつもりなのだろうか。こんな状況での唯一の救いは下り坂が直線なところだけで、あとは無事に帰らせない要素が盛りだくさんだ。
坂道を止まることなく進んでいると体がふわりと浮かんだ。
タイヤが石を踏みつぶしたのだろう。
体が浮いたときに、ポケットからなにかが抜けてゆくような感じがしたが、今はそれどころではない。荷台から落ちないようにバランスをとるので精一杯だ。もしも荷台から落ちてしまったら、入院する羽目になると直感でわかる。
「白雪はジェットコースターに乗ったことないもんな!」
「ああ! ないさ! あんなのに乗ってなにが楽しいんだ? あんな乗りものを平気な顔で楽しむ人は狂気の沙汰としか思えない!」
「大人になって彼女ができたらどうするんだ? 子供ができたら尚更だぞ!」
「ジェットコースターを愛する彼女は作らないし、子供にはジェットコースターが乗れなくなるような英才教育を施すから関係ない!」
「まったく……なにを言ってるんだか」結城がため息交じりの声を出した。「しかもこのスピード、ママチャリでも出せるくらいなんだけどな」
「お前の感覚が狂ってるんだ! こんなスピード、ママチャリごときで出せるはずがない!」
「これじゃ本物のジェットコースターに乗ったら気絶しちゃうなぁ」
結城は鼻で笑うと、俺の哀れな姿に呆れを通り越して面白くなってきてしまったのか、「こんなときくらいしかお前のこと虐められないからな!」
すると、再び地面に足をついて、荷台を全力で押し始めた。
「どうした白雪。そんな疲れたような顔をして。なにかあったのか?」
「全部、結城のせいだ。そのせいで授業中、眠くなっただろうが」
「それは悪かった。お詫びとしておにぎり一つあげるから——」
「いらない。昼飯を食べすぎると午後の授業で眠くなる」
「なら寝ればいいじゃん。飯をたくさん食ったあとの昼寝は最高だぜ?」
「そんな無駄な時間を俺はすごしたくない。睡眠に学費を出しているようなものだろ。そんなことしたら犯罪も同然だ」
「ははー。その優美な志は拍手に値するな」結城はパチパチと無表情に手を叩いた。「昨日に比べてよくなったか? 半日見ている限りだと悪くなったような気がするが……」
「昨日よりも悪くなった気がする」
今こうして、結城と話しているだけでもあばらに違和感がある。呼吸をするときに使わざるを得ないから対処のしようがない。できるだけ痛みが生まれないようにと、動くときは胴を動かさないようにして、あばらに負担がかからないように工夫している。そんな俺に結城は、今朝、苦しい思いをしてまで学校に来るお前は異常だ、と言ってきたが、俺は真に受けることなく聞き流した。
「あと三週間くらいで一学期が終わるから、そこまでの辛抱だな」結城はそう言うと、オレンジジュースをパックから搾り取るように飲んだ。「はいこれ。オレンジジュースの抜け殻。やるよ」
「いらん」会話の流れを切るように俺は言った。このクラスには結城以外にもゴミを友だちに渡す人がいるが、どうしてその人たちは、空になったペットボトルやパックを渡そうとするのか。
「今日の放課後、赤染に謝るのか?」結城はテーブルに肘を置くとそう訊いてきた。
「ああ。でも、今日の放課後は生徒会で集まらないといけない」
「そっかー。なら、今のうちに謝りに行けば?」
「今のうちにか」
「そうだ。あっちにいるからさ」
ほら、あれ。と、結城は俺の斜め後ろを指差した。その指の方向を見てみると、赤染がクラスの女子と喋りながら昼食を取っている姿が目に映った。いつもそうだが、赤染は常に笑っているイメージしかない。赤染の笑顔はこの学年で『アヤスマ』と名前が付けられていている。このアヤスマを貰いたいからと、クラスの男子は赤染に、スマイルを下さい、とお願いすることがあるわけだが俺にはその理由がわからない。
やっぱり可愛いねー、と結城は呟き、「あんな子供みたいな顔してるのに身体能力は怪物だからな。それも人のあばらにヒビをいれるくらいの脚力を持った怪獣。な、白雪?」と奥側にいる赤染を見つめながら言った。
「あの痛み、二度と繰り返したくない」俺は赤染のいる方向に振り返ることなく返事した。「そんなにじっと見て、結城は赤染のことが好きなのか」
「いやいや、俺のタイプは違う。俺はお姉さんタイプが好きなんだよ」
「お姉さんタイプか」
「ああ。そうだ。お姉さんタイプだ。俺の好みのタイプは、赤染から少し離れたところにいるよ」結城は再び、俺の後ろを指差した。
「紅野のことか」
「そうそう。あれこそが俺の求める女性像なのさ」
結城は紅野理守を見て目を奪われてしまったのか、口が動かなくなってしまった。
紅野の性格は、赤染とは正反対だと言っても過言ではない。喜怒哀楽を顔と体で表現する赤染に対して紅野は表情を崩さず、抑揚のない声音で考えていることを伝えてくる。人間観察は得意な方ではないが、俺が思うに、紅野はお姉さんタイプではなくミステリアスな部類に入ると思う。容姿は大人びているし、銀髪で外国人にしか見えない。なにより、紅野の両足は義足なのだ。どうして義足なのかは誰も知らない。
「紅野は昔、部活に所属してたのか」
「してないらしいよ。ただの帰宅部らしい」結城は首を横に振った。「でもわからないこと多いよな。高校生に見えない容姿は置いといて、クラスメイトに自分から話しかけに行かないし、いつも赤染の傍にいるだけでかかわろうともしないし。紅野って、遠くから赤染を見守ってる母親みたいだよな」
「確かに。自分からは絶対に話しかけに行かない」
紅野は人付き合いが苦手なようには見えない。話しかけられれば口を開くし、授業でディスカッションの機会があればみんなと同じく発言する。ただ、必要最低限の情報しか紅野は口にしないのだ。あまり会話を好まないように見えるその姿は、クラスメイトから距離を置いているようにも見えてくる。
食堂の壁にかけてある時計を見てみると、針が一時を指していた。
雑談で賑わっていた食堂が静かになり、教室に戻る準備をしている生徒が目立つようになってきた。家から持ってきた弁当を持っている生徒もいれば、食堂のご飯を食べた生徒もいて、グラタンであったり、焼き肉であったりと様々な料理の残り香が俺の鼻孔をくすぐる。
「そろそろ帰るか」
結城は立ち上がると俺の横に来て、立ち上がれるか? と訊いてきた。
「大丈夫だ。コツを掴んできたから」
「無理だけはするなよ。で、赤染にこのまま謝りに行くのか?」
「そうだな」
「じゃあ俺は食堂の隅っこで見守ってる」結城は出口に向かおうと歩き出したとき、なにか言い忘れたことがあったのか、振り返り、俺を見てきた。「チャンスがあったら、しっかり自分の想いを伝えてこいよ」
「なんだそれ。俺は赤染に、恋愛感情を抱いてない」
「俺が言いたいのはその反対のパターンだ」
「……」
「赤染がお前のこと、ひょっとしたら気になってるかもしれないぞ」
「なんでそうなる」
「そんな理由、自分で考えるんだなぁ」
じゃあまたあとで、と結城は手を振ると、出口へ向かってしまった。
俺は今、赤染のいる場所から少し離れて、どのように話しかければいいのかを考えている。赤染が一人でいれば迷わずに謝りに行ける。が、現状は、四人で固まり食事を楽しんでいる。楽しんでいるところを邪魔するわけにはいかない。ましてやこれから俺がする話は、赤染にとって不快なものだ。
だから急に、俺だけのタイミングで謝るのは申し訳ない。明日の放課後に話したいことがある、と、赤染が一人になったタイミングで話しかけに行こう。
そう思った矢先、赤染は席から立ち上がると出口に向かって歩き出した。
トイレにでも行くのだろうか。
これは千歳一隅のチャンスだ。
あばらに気をつけながら、俺は赤染の下へ小走りした。
「——赤染」
「んん? あ、白雪くん……」
赤染は俺の顔を見ると、パンパンに膨れていた風船の空気が一気に抜けてゆくように、笑顔から真顔になってしまった。嫌だからだろう、俺と顔を合わせるのが。これのどこが俺に恋愛感情を抱いているかもしれないだ。
俺は一呼吸分あいだを空けたあと、「赤染、話したいことがあるから、明日のどこかの時間、空いてるか」と訊いてみた。
無理ならそれでもいい。
そう言われても素直に認めるしかない。
一瞬でも長く感じるような沈黙が続いたあと、赤染は口をゆっくりと開けた。
「も、もしかして……」言葉を区切り、顔を次第に赤く染めてゆくと、
「こく、はく、されるの? 私……」
と、言ったのだった。
「……違う。それは違う。どうしてそうなった」
「だって、話すのにわざわざ予約するなんて。そうとしか思えないよ」
「そんなシチュエーション、現実の世界ではありえない。俺が悪かった。でも、告白のために俺は赤染に話しかけたわけじゃない」
「じゃあなに? どうしたのぉ?」おっとりとした口調で言うと、赤染は首を傾げた。
触ったらモチモチしそうな柔らかい表情を赤染は浮かべている。本来であれば俺と顔を合わせるだけでも嫌なはずなのに、昨日の出来事を微塵たりとも覚えていないかのような立ち振る舞いに驚かずにはいられない。
だから俺は、「昨日の件の話をしたい」と素直に告げた。
「昨日の件?」
「ああ。赤染は昨日の昼休み、俺のところにきて謝っただろ」
「……うん」
「でも実際、赤染は俺のことを助けようとして突き飛ばした」
赤染は、うーん、と喉を鳴らしながら考え込む。
「それなら、謝るのは俺の方だろ。命を助けてもらったわけだから、お礼もしなければならない。けれど昨日、俺は赤染にお礼をするどころか謝らせてしまった。それについて詫びたかったから、俺は赤染に声をかけたんだ」
俺の説明を最後まで聞いた赤染は、うんうん、と頷いた。
許されることならば、今すぐにでもここで土下座をしたいくらいだが、俺は頭だけを下げて、「ほんとうに昨日はごめん。助けてもらった立場なのに謝らせたりして。お礼はなんでも」と謝った。
「白雪くん」
「……」
「ぜんぜん気にしてないよ」
「……え」
「だから、謝らなくていいよ」
どんな顔で言っているのかと思い、深く下げた頭を上げてみると、赤染は俺の心を包み込むような笑顔になっていた。小さな子供が悪いことをしても大人は許すように、赤染は優しい表情を俺に向けていた。
「だって、私が白雪くんのことを怪我させたのは事実だもん。白雪くんが車に轢かれそうだったから助けたのも、私がしたくてやったことだからさ。白雪くんはなにも、悪いことしてない」
「でも、俺は——」
「私が勘違いされるような助け方をしたから白雪くんは誤解しちゃったんだよね。ごめんね。昨日の時点で、白雪を助けようとして突き飛ばしました、って伝えなくて」
俺はなにも言い返せなくなってしまった。
優しすぎるのだ、赤染は。それも異常なくらいに。
前々から赤染は優しすぎるとクラスメイトから聞いていた。
ふだん赤染とは話す機会がないから、いまいち理解しにくかったが、これは常軌を逸している。もしも赤染ではなく他の人が赤染の立場だったら、お前のことを善意で助けてやったのに、どうして私の方が謝らないといけないのだ、となるに決まっている。だが赤染は、そんなことを一切口にしなければ、逆に自分の助け方が悪かったと言ってしまうほどだ。それも助けたのは命だ。自分が死んでもおかしくない状況だったはずなのに、ここまで完璧に対応されてしまうと余計に申し訳なさが出てきてしまう。
「赤染」
「どうしたの?」
「車に轢かれそうなところを助けたってことは、少なからず赤染が身代わりになる可能性だってあった。それでもどうして赤染は、俺のことを許してくれる」
「どうしてって言われても……」赤染は困惑した表情を浮かべると、「私から助けに行って、それで死んじゃったなら、それはそれで仕方がないことだよね」
「仕方がないこと……」
「うん。最期にやりたいことをやって人生を終えられたら最高じゃん。仮に私が身代わりになったとして、白雪くんがその代わりに助かったら、私は満足できるでしょ? まあ、白雪くんには迷惑かけちゃうかもしれないけれど」
あはははー、と無邪気な顔で笑いながら赤染は頭を掻いた。
俺には到底、理解できないような考え方だ。
なにかのために死ぬなんて、俺からしたら空想上での行動にしか思えない。
映画とかアニメとかでも、赤染と同じようなセリフを吐くキャラクターがいる。お前のためになら死ねる、と言うには、いったいどんな人生を送ったら言えるようになるのだろうか。俺には想像ができない。
「ありがとう。俺のことを許してくれて」
「許すも許さないも、白雪くんはなにも悪いことしてないよ」
そう言うと赤染は、口角を上げて笑顔になった。
これで一区切りはついただろう。
あと少しで授業も始まってしまうし、そろそろ教室に戻らなければ遅刻してしまう。
俺は教室に、踵を返そうとすると、
「待って、白雪くん」
赤染が俺のことを呼び止めた。
「どうした。お礼なら、きっちりする」
「そうじゃなくて、えっと……」
なにか言い難いことでもあるのか、赤染は目を泳がせると、
「今日の放課後、勉強教えてくれない?」
「勉強、か……」
「うん……だって白雪くん、頭いいじゃん。それに、三日後から期末試験だし……」
赤染は長い黒髪をたなびかせながらお辞儀すると、「お願いします! ちゃんとお礼は返すので!」と言ったのだった。