「くそ、みんな俺のことをはめやがった」
「誰も結城をはめようとだなんて思っていない。あれはどう考えたって、席に座らなかった結城が悪い」
「ちっ。正論ばかり言いやがって」
 結城はほうきで床を掃きながら舌打ちした。今まで結城は、授業が始まっているのに座らないからと、何度も罰を出されている。中学生の頃は誰よりも真面目で成績だって学校内だと敵なしだったのに、高校生になったら正反対の人間になってしまった。忘れものはしないが、授業中にパラパラ漫画を作ったり、夜中の学校に忍び込んでは、屋上で天体観測を楽しんだりと自由人になった。
「あとどれくらいで終わりそうだ」「じゃあ終わりにするかぁ」「じゃあ終わりにするか、ってなんだ」「だって白雪はもう帰りたいだろ? なら俺も帰る。今日は屋上に行かない」「屋上に行かないのか。今朝は俺に行くって言っていたのに」「目の前に一人じゃ帰れないような友だちがいるのに、そいつを放って星を見るなんて、できるわけがないだろ」
 結城はほうきを掃除用ロッカーに片付けると、自分の席に戻って、リュックを背負った。
「さすがにこれで帰ったらマズいだろ」
 教室の中央に手の平サイズの埃の山が残っている。
 このまま帰ったら、明日も結城は掃除当番を任されるだろう。「これは取った方がいいんじゃないのか」
「取らなくても別にいいだろ、消しておけば」結城は埃の山の前に立つと、その山をサッカーボールを蹴るみたいにロッカーの方まで移動させて、ロッカーの下にシュートした。
「はい、終了」
「……はあ。見てられない」
 俺は決して、潔癖症ではない。
 任された仕事を途中で放棄してしまうのが嫌いなだけだ。
 喧嘩する気は毛頭ないが、俺は掃除用ロッカーからほうきを取り、ロッカーの下に隠れた埃の山をほじくり返した。
「おいおい辞めろよ。怪我人がやるくらいなら俺がやるから」
 結城は、俺からほうきを奪い取ると、掃除用ロッカーからちり取りを出して、埃の山を回収した。「これでいいだろ? 生徒会長さん」そう言うと結城は、ちり取りの上に乗った埃の山をゴミ箱へ捨てた。「白雪の目から見ても大丈夫か?」
「ああ」
「お前は真面目だな。ほら。手に持っている荷物をよこしな」
「いや大丈夫。これくらい自分で——」
「いいからよこせ。こんなときくらいは楽しろ」
 結城は言葉を遮ると、俺の手から荷物を奪った。
 教室のドアを閉め、鍵を職員室に返したあと、俺と結城は正門に向かった。あばらが痛いせいで歩くペースが遅くなってしまうが、結城はなにも言わずに俺のペースに合わせてくれた。
 廊下をゆっくりと歩き、消火栓の横にある階段に向かおうとしたとき、結城が、「どうして階段に向かうんだよ。エレベーターでいいだろ」と俺を呼び止めた。
「怪我しているのは足じゃない、上半身だけだ。だから階段で——」
「バカ。エレベーター使えよ。怪我しているんだろ?」
「でも歩けるから。大丈夫」
「どんな理由かと思えばそれかよ。呼吸するだけで痛いとか言っている人が、階段なんてちゃんと降りられるわけがないだろ。俺の言うこと聞かないと、このリュック、便器に突っ込むぞ? それでもいいなら階段で——」
「わかった。それは勘弁してくれ」
 卑怯だ。ズル過ぎる。
 俺は結城のあとに続きエレベーターに乗った。学校のエレベーターに乗るなんて、俺のなかでは罪を犯している気分だ。学校の先生、それから階段の上り下りができない生徒なら利用する意味がわかるが、俺みたいに歩ける生徒が利用していいものではないはずだ。
 下駄箱で靴を履き替えたあと、俺と結城は正門を通り外に出た。目に差し込んでくる眩しい光が体を焼いてくる。
「そうだ。まだ知らないんだけど、赤染とあのとき、なにがあったんだ?」
「……急だな」
 どんな内容かは言いたくないけれど、わざわざここで隠す必要はないだろう。結城は俺と赤染の間に起きた内容の詳細までは知らないはずだが、あのときに俺が苦い顔をしていたから、よくないことが起きたとは察しているはずだ。
「喧嘩でもしたのか?」「いや、していない」「じゃあ告白でもしたのか?」「いやしていない」「じゃあご飯にでも誘ったのか?」「していない」「じゃあ赤染は謝りにきたのか?」「して……いや、その通りだ。なんでわかった」
 結城は、んー、と喉を鳴らし、「白雪と話している途中で赤染がお辞儀してたからさ。そのくらいは予想できる」と空を見上げながら言った。
 空を見上げる結城の横顔は、名探偵が犯人を捜しているかのように見えた。それに、俺と赤染の間に起きた事件の辻褄が合わない、とでも言いたげな顔をしている。そんな顔をされたまま二人で帰るのは気まずい。
「どうしてそんな、腑に落ちないような顔をしている」
「どうしてって……」結城は言葉を区切ると、「赤染はどうして、お前に謝りにきたんだ?」
「それは……」
 赤染が背後から衝突してきたから。
 正確に表現すれば、赤染は前を見ずに走っていたから、俺とぶつかってしまった。になるだろう。走って衝突されただけで大怪我してしまう俺の脆弱さに思わず苦笑してしまった。
「赤染が後ろから走ってきて、それにぶつかっただけだよ」
「後ろから走ってきたか……」
 結城は俺の言葉を信じていないのか、両腕を組んで目を瞑り、眉間に皺を寄せている。
「なにかおかしいこと言ったか」
「……おかしい、な。うん、おかしい」結城は疑問から確信に変わったような顔になった。
「なにがだ」
「まあ、そうだな……」
 謎が解けてスッキリしたのか、結城は背伸びをして気持ちよさそうな声を出すと、
「ひょっとして、今日の朝、俺の言ったこと、無視したか?」
 心の内を見透かすような目を俺に向けてきた。
「……」全身に寒気が走る。
「なにも言い返せないってことは、どうやら図星だったようだな」
 やっぱり、と結城はため息をつくと、スマホをポケットから取り出した。
 
 夕食でコンビニ弁当を食べた俺は、ベッドの端で考える人みたいに座っている。
 四日後にある期末試験は乗り越えられるだろう。ただ、一日でも休んだら許されないこの時期、大学入試まであと半年の時期に勉強が思うようにできないなんて悲運としか言いようがない。
 俺は母さんが努力して稼いだ金を無駄にしてはいけないのに、父親みたく酒で酔い潰れてだらしない人生を送りたくないのに、これでは自分の行きたくない道へ進んでしまう可能性がある。
「……くそ」
 これがもしも、自分の手で招いた悲運だ、と考えると、苛立たずにはいられない。
 結城と下校しているとき。俺は結城に、英語の勉強をしながら登校していただろ? と訊かれた。この質問に俺は、なにも言い返せなかった。信じたくないからと目を逸らし続けていた現実を、急に突き付けられたようで反応ができなかった。
 貧乏ゆすりをしてしまいそうな右足を止めながら足元を見つめていると、ベッドの上に転がっているスマホが鳴った。スマホを取り、ラインを開くと、結城からメッセージがきていた。
『紅野から聞いたけど、やっぱりお前、車に轢かれそうだったところを助けてもらったらしいな。俺がいるときならいいけれど、いないときはしっかりと前を見て、イヤホンを外して、登校しろよ~』
 内容は俺が予想していた通りで、俺と赤染の間に起きた誤解についてだった。
『わかった。ありがとう。言うこと聞かなくてすまなかった』
『次から気を付ければいいだけさ。たまたま赤染がその場に居合わせたから助かったけれど、ほんとうだったらお前、今頃絶対に病院のベッドで寝込んでだぞ? せいぜい赤染に感謝するんだな』
『だな』
 スタンプを送ることなく、俺はスマホの画面を閉じて、ベッドの上に寝転がった。
 今回の件に関して、俺は運がよかったとも言える。車に轢かれて全身打撲か、それとも赤染に突っ込まれてあばらのヒビか。こんなの比べるまでもない。明らかに後者の方が軽傷だし治療費や交通費がかからない。
 でも、
 それでも俺は、納得ができない。
 許せないのだ。
 半年後に受験を控えているのにもかかわらず、周りに気を配れなかった俺がどうしようもなくて、救いようがなくて、今にも腸が煮えくり返りそうだ。
「くそ! がっ!」
 大声を上げたせいで、あばらが軋んだ。
 声もまともに出せないなんて、先が思いやられる。
 俺はあばらを庇いながら、再びラインを開いて、
『母さん、ほんとうに申し訳ない。今朝、あばらを怪我した』
 と連絡を送った。
『どうして(まさ)は謝るのよ~。それよりも怪我は大丈夫なの?』
『大丈夫。でも、座るのでも辛くて勉強ができない』
『なにを言っているの! 怪我してるときくらいは休みなさい! まったく、正は頑張り屋さんすぎるんだから。お金のことは気にしないで病院にしっかり行ってきなさいよ!』
『わかった』
 と送ってから少しだけ待つと、母さんからグッドスタンプが送られてきた。
 スマホを枕元にある充電器に挿したあと、俺はベッドに寝転がって天井を眺める。
 明日になったら、まず、俺は赤染に謝らなければいけない。
 命を救ってあげたのに、どうして私が謝らないといけないの? と理不尽に思っているだろう。お詫びとしてなにか渡した方がいいような気がする。
 それで、赤染に謝ったあとは家に帰り勉強する。
 明日の予定はこれでいいだろう。朝になれば多少なりともよくなっているはずだ。
 もしかしたら結城に、学校の屋上で天体観測するぞ、と誘われるかもしれないが、強引に連れていかれない限り断ればいい。もしくは、あばらは大丈夫なのか? と病院に行けって催促されるかもしれないが、これも適当に流せば大丈夫だろう。
 やはり俺には無理なのだ。
 金のことを気にしないで生活するのは。
 俺が小学一年生の頃、父親は失職して酒に狂い、金を稼ぐことなく家に籠り続けた。
 機嫌が悪くなれば母さんだろうと俺だろうと躊躇なく手を出して、気が収まったかと思えば今度は冷蔵庫から酒を取り出しては飲んでいた。けれど、そんな父親を前にしても、母さんは挫けることなく、俺が殴られそうになったら体を張って守り、友だちと遊ぶためのゲーム機がないと泣き喚けば寝る間も惜しんで必死に働いてくれた。
 そんな母さんに、気遣うな、という方が無理に決まっている。
 だから俺は、今までの恩を返すために頑張っている。
 将来、母さんを楽にさせるため、父親のようにはならないために、今を全力で生きている。
 目覚まし時計を見てみると、既に日を越していた。
「……はあ」
 まただ。
 また俺は、ため息をついてしまった。
 俺は一日に、どれだけのため息をつくのだろうか。
 生きている気がしない。
 幼稚園の頃は、もっと楽しかったはずなのに。俺は、なんのために生きているのだろうか。
 わからない。見当さえもつかない。
 死んだほうが楽になるのかもしれない——
 そう思うと、胸が苦しくなり、早く人生が終わらないかな、と考えてしまう自分が、怖い。