カーテンを開けて、朝日が差し込んでくるなか、俺は部屋の掃除をした。部屋で飲み食いはしていなかったから、生ごみの臭いはしなかったが、それでもしばらく放置していると、部屋の臭いを吸った服が臭くなっていた。それに、これは食事をしている最中に母親から聞いた話なのだが、母親は夜中に俺の部屋に忍び込んでいたらしく、脱ぎっぱなしの服をバレないように回収していたらしい。勝手に部屋に入り込まれていた、と考えると怖気がするが、助かった、とも思っている。
部屋掃除を終えたあと、俺は外出する準備をした。
これから俺は、本屋でバイトをしようと思う。気になる本を読み漁り、日記も書いて、自分と向き合う努力をしていければいいな、と思ったからだ。
忘れものがないかを確認し、玄関に向かう。
「正」
靴を履き、外に出ようとしたら呼び止められた。
「どうした?」
「行ってらっしゃい——」
母親は微笑み、手を小さく振った。
前の俺なら、行ってらっしゃい、と言うためだけに呼び止めるな、と思っただろう。でも今の俺は、そう思わなかった。
「——行ってきます!」
玄関でのやり取りで、初めて笑顔になれたような気がした。肩の荷が下りたような、気持ちが楽になったような、そんな感じがしたからだろう。
家を出たあと俺は、郵便物を確認した。一人暮らしでの習慣は、帰省したとしても続くものだ。中身を確認してみると、小さな封筒らしきものに手が当たった。封筒をなかから取り出して確認してみると、『白雪正様へ』、と書かれていた。思い当たる節がない。
誰が送ってきたのだろうか、と考えながら、白色の封筒を開けてみると、白い紙に、丁寧な文字が縦に並んでいた。文章から目をずらし、差出人が書かれているであろう、左下に目線をずらす。こんな改まった形の手紙を、誰が俺に送ってきたのだろうか。
「……」
息を呑んだ。
思いもよらない相手が、差出人だったからだ。
「紅野が、どうして……」
見間違いだと思ったが、差出人は紅野だった。丁寧な字で、紅野理守、と書かれている。すぐに俺は名前から目を離し、文章を読んだ。書かれている内容を、小さく声に出しながら読み上げた。
……紅野は俺に、なにを伝えたいのだろうか。
この紙には、肝心な用件が書かれていなかった。記されていることは、紅野はレイクタウンのスターバックスで、ずっと待っている、だけだ。待ち合わせ場所に俺が来るまで、永遠に待っている、とも受け取れる内容だった。
信用できない。
拉致される可能性は十分にあり得る。
だが、そう思ってしまうのは、紅野の言動がそう思わせているのだけであって、確信にはならない。集合場所を人目の多い場所に指定する理由、それから、この手紙が俺の家に届いている、ということは、紅野はすでに、俺の個人情報を握っていると断言できる。紅野なら、母親がいない時間帯を狙って俺を誘拐する計画を平然とやるだろう。
ポケットからスマホを取り出して紅野の連絡先を探す。が、見当たらなかった。なくなっていた。俺が削除したわけではない。紅野の名前を思い出すだけでも嫌だったから、連絡先を消そうだなんて考えに至らなかった。
スマホの画面を閉じ、考え込む。
厄介なのだ。
レイクタウンに居座り続けられても。
恐らく紅野は、俺が困る場所をあえて指定してきたに違いない——
仕方なく俺は、人通りの多い道を選びながら、紅野のいるレイクタウンへと自転車をこいだ。
駐輪場に自転車を止め、店内へと足を踏み込む。
相変わらずここは賑やかだ。春休みが関係しているのか、年齢層に幅がある。友だちとクレープを食べながら買いものをしている人もいれば、エコバックを肩にぶら下げて、店内を歩き回っている人もいる。
直接待ち合わせ場所には行かず、俺は二階に行って、上から紅野がスタバにいるか否かを確認した。
信じたくはないが、残念ながら紅野は窓際の椅子に座っていた。店内をぼーっと眺めているだけで、なにも作業をしていなかった。今日は制服姿ではなく私服を着ている。ベージュのワンピース姿を見ると、やはり同じ学年にはとても見えない。今となれば、その理由もわかる。
速まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をし、俺は、紅野が待っているスタバに向かった。店内に入り、紅野に声を掛けようとしたとき、
「あ…… 白雪くん……」
と、紅野が俺に気が付き、体をこちらへ向けてきた。
「ありがとう…… わざわざ来てくれて」足音で消えてしまいそうな声だ。
「ここに居られ続けても困る」落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、「で、用件はなんだ?」と質問した。「お前からしたら、俺はもう用済みだろ」
「まだ終わってない——」
そう言って紅野は立ち上がると、「赤染さんのことを話したい」
「……あ?」腑抜けた声が出てきた。「どうして今更、赤染の話が——」
「お願いします……どうか、お願いします」
紅野は頭を深く下げた。その姿には、あの島にいたときの不気味な雰囲気がまったくなかった。
「無理を言っているのはわかります。でも、それでも、話だけでも聞いて——」
「やめろ」
「白雪くん、赤染さんに私は——」
「おい」
頭を下げ続けてお願いし続ける紅野を、俺は止めた。
「…………」
「周りの目が気になる」
「……そう、だね」
すみませんでした、と、俺は周りにいる人たちに軽く頭を下げた。
「話なら聞く。とりあえず、ここを出よう」俺は、紅野に背を向けて、歩き出した。後ろから、紅野がついてきている気配はあるが、直接、紅野の顔を見ていなくても、紅野は俯いているとわかる。俺は、紅野の伝えたいことを一通り聞いたあと、どうしたら早く帰れるかを、歩きながら考えていた。
声を大きくされても困るから、俺は人気のない池に来た。友だちと昔話でもするなら、喫茶店とかフードコートでもいいが、紅野が相手なら外がいいだろう。
「赤染の話ってなんだ。もう話すことなんてないだろ」
紅野を見ているだけで、俺の腸が煮えくり返りそうだ。なにもかも、紅野のせいで失ったと思うと、正気ではいられなくなってしまいそうだ。
紅野は申し訳なさそうな表情を浮かべると、「私は、白雪くんに、彼女と……」
——会って欲しい。
そう言ったのだった。
「……」
「会うのが嫌なら、断っても——」
「冗談でも辞めろよ、そんなことを言うの」
耐えられなかった。
今すぐにでも、紅野を殴りたかった——
俺は紅野に背を向け、歩き出す。これ以上、紅野と話していたら気が狂ってしまいそうだ。
「——待って!」
腕をぎゅっと、掴まれる。「まだ、終わってない……」
「なんだよ」
平静を装えているのは周りの目があるからだ。二人だけで話していたら、とっくに暴れ回っているだろう。けど紅野の顔は、冗談ではなく、本気で言っているように見えた。
「お願い……最後まで、聞いて欲しい……」
「……」
俺の手を紅野は放すと、
「……ありがとう」
と言い、
「私は、気が付いたんだ……揺るぎない感情こそが、理性を上回る解決策だって——」
それから紅野は話した。
卒業式の日。傷だらけになり、人の血を吸うことが唯一の助かる方法だったのにもかかわらず、赤染は軍人を食べなかったどころか、殺そうともしなかったことを。これは、人を想う気持ちが産んだ奇跡だ、と紅野は言った。
「許してとは言わない。でも、赤染さんと会って欲しい。これは、今の私にできる、最大限の感謝。どうか、受け取って欲しい……」
「要は赤染を、生き返らせたってことか」
「……そういうことになる」
申し訳なさそうにしている紅野の顔。
その顔が、俺のなかの糸を切った。
弱弱しい表情が、俺を一層、怒りに陥れてくる。
「——美談にするな!」
限界だった。
声を荒げずに、黙って紅野の話を聞いているのは。
申し訳なさそうな紅野の顔を見ていると、頭に血が上ってくる。
「お前は、赤染がどれだけ傷ついたのかを知っているのか? 自分が人を食べなければ生きていけないって気が付いた日から、赤染は学校に来なくなった。みんなに会いたくても、会ったら傷つけてしまうかもしれないからって、赤染は別れの言葉も言わずに、みんなの前から姿を消した。だからこそ、赤染は嬉しかったんだろうよ。みんなが好きだから、泣かずにはいられなかったんだろうよ。卒業式の日、赤染はみんなと顔を合わせただけで、泣いたんだ。これ以上の幸せはないって、そんな顔をしてたんだ。
そんな赤染を、お前は殺した。
自分の実験のためにお前は、赤染の命を、時間を、奪った。
赤染を蘇らせたからって、戻ってこないんだよ。赤染にとって、大切なものは……」
赤染を考えれば考えるほど、胸が締め付けられるような感じがした。
人の欲望で生まれてきた子だった、と考えるだけで、胸に穴ができそうだった——
「……ほんとうに、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
紅野は謝りながら、土下座をしようとしたとき、
「ああああ!」
と言いながら、右足を抱え、倒れてしまった。
痛すぎるせいか、脂汗が出ている。
「土下座なんてしなくていい。手を貸すから、立ち上がってくれ。人の目が気になる」
「…………」
歯を食いしばりながら紅野は、俺の手を取って立ち上がった。
「ごめんなさい……まだ、手術してなくて……」紅野は顔を歪ませた。「赤染さんに押された衝撃で、壊れちゃったみたい……でも、もう私は、付ける必要がないのか……」
ははは、と。
紅野は苦笑いしながら呟いた。
「……どうしたの白雪くん。私の足をずっと見てるけど」
「いや、なにも」
俺が、最新の義足を知らないだけかもしれないが、紅野のしている義足は、ふつうのとは違うような気がした。機械なのだ、足が。ロボットのような戦闘するための足に見える。学校では一般的な義足を付けていたが、どうして今は、違うのだろうか。
「そうだね……この話は、白雪くんにもしないといけないかな」
「なんの話だよ」
「どうして私が、義足なのかって話」
紅野は息を、ゆっくりと吐いた。
「実は私、日本生まれでも、育ちでもないんだ。毎日紛争が起きている、そんな国で生まれたんだ——」
そう言って紅野は、過去にあったことを、俺に話した。
「私のやったことは、絶対に許されることじゃない。頭を下げただけで、どうにかなるような問題ではない。たとえ、どれだけ悲惨な過去があったとしても、ね」
話し終えた紅野は、笑顔を作った。
ほんとうの気持ちを誤魔化すかのように、表情を緩ませたように見えた。
「……お前はこれから、どうするんだよ」
疑問だった。
紅野は紛争をなくすために人間兵器を開発してきたわけだが、本人曰く、それはもう止めることにしたそうだ。赤染の行動で、紛争を抑えるための十分な情報を得られたのと、自分の行動が間違えていたと気が付かされたから、らしい。となれば、これから紅野は、なにをするのだろうか。
やることがなくなった紅野は、どうやって生きていくのだろうか。
「公にするよ。私のしてきたことを」
「……紅野。言っている意味、わかってるのか?」
公にするとは、自分の罪を認めるも同然の行為で、確実に罰則が与えられるだろう。軽度な犯罪ならばまだしも、紅野のしてきたことは国際的にも問題になるような事件だ。もしかしたら、この事件が公にされるのを日本政府は恐れて、紅野の存在がなかったことにしよう、と働きかけるかもしれない。
「わかってる。でも、しなきゃいけない。二度と、私のような人が生まれてこないためにも」
「日本の評判を落としたくないからって、誰かがお前のことを殺しにくるかもしれない。それでも大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。人間兵器を造れるのは、私以外にも、あの島に務めていた軍人のなかでも一握りだけだし、人間兵器は人の争いを止めるかもしれないって、評判がいいんだよ。だから私は、信用されてる。あいつなら裏切らないだろうって、思われている」
紅野は当たり前のような顔をして、そう言った。
「…………」
俺は、なにも答えられなかった。
なんて答えればいいのか、わからなかった。
だから俺は、「おでこ出せ」と、命令口調で言った。
「……え」
「いいから、出せ」
「……わかった」紅野は前髪を退かし、おでこを出してきた。
紅野に勘づかれないよう、太ももの後ろで、デコピンの準備をする。
「白雪くんは、私のおでこを見て、なにがしたいの?」
「これでもくらえ」中指に溜め込んだ力を、紅野のおでこに放つ。
「いた……」反応は、以外にも薄かった。俺の力が無さ過ぎるせいだろう。
「これ以上、お前の話は聞きたくない」
「……」
「で、どこにいるんだ。赤染は」
「フードコートで、食事してると思うわ」
「赤染の食糧って、人の血じゃないのか?」
「今はもう違う。体を修理するのと一緒に、脳の部分もいじくったわ。でも大丈夫よ。記憶を司る部分は、なにも操作してないから」
ね、と。
紅野は微笑むと、「赤染さんなら、三階のフードコートにいるから。迎えに行ってあげな」
負の感情を抑え込みながら、笑顔で見送ろうとしているのが容易にわかった。これを、心が泣いている、とでも言うのだろうか——
「……後悔は、してないのか」
「ええ。もちろん…… でも——」
そう言って紅野は、目に涙を浮かべた。
「……羨ましいよ。君たちが」
「……」
「ほら。早く、行ってあげな。赤染さんが待ってるわ」
自分が救われなかったとしても、笑顔で送り出そうとする紅野に、俺は、
「…………ありがとな。俺を、救ってくれて」
そう感謝することしかできなかった。
「私には、これくらいしかできないから——」
スマホのズーム機能で、赤染の座っている位置を確認した。修理をされて、容姿が変わっているかと思ったが、まったく変わっていなくて安心した。周りの人に気を付けつつも、俺は、足音を立てないように赤染のもとへ近づいた。
息を潜め、赤染の真後ろにつく。
ステーキの焼ける音、香り、色、すべてが最高だ。
「——ん? 白雪くんの匂いがする」
ばっと。
赤染は後ろに振り返ると、「やっぱり、白雪くんだ!」
そう言って赤染は、椅子から立ち上がった。
「戦闘機能だけは、残ってるのか——」
「会いたかったよ!」
「よせ! ここで抱きついてくるな!」
腕ごとクラッチされているせいで抵抗ができない。
「嬉しいんだもん、しょうがない、じゃん……」
喜んだと思ったら、今度は泣き出してしまった。
赤染の鼻を啜る音が、俺の目を曇らせる。
「……ああ。俺も、嬉しいよ」
公共の場で、しかもフードコートで、泣くとは思わなかった。周りの人には迷惑かもしれない。
食事をしている傍らに泣いている人がいたら、美味しい食事も台無しになってしまう。けれど、俺は耐えきれなかった。
嬉しかったのだ。
赤染と、再会できたことが——
「こんなところで、なにをしているんだろうね、私たち」
赤染が、ぼそりと呟く。
「そっちから抱き着いてきたんだろうが」
俺は笑う。
「白雪くん」
「なんだ?」
「これって、カップルがすることだよね?」
「そうなのかもな」
赤染は、「ふふふ」、と笑い、腕の力を緩めて、俺の顔を覗き込むと、
「ねえ。白雪くん」
と、真面目な顔で、見つめてきた。
「ん?」
「——私と、付き合ってくれませんか?」
赤染の真剣な顔に、時間が止まったかのような感じがした。この止まった時間を、俺は、二度と忘れないだろう。
「もちろん。よろしくな。これからも、そして、ずっと——」
結ばれることが許されなかった運命。それに抗い、立ち向かい、俺たちは、二度と破られることはない絆で結ばれた。
この物語は、誰かが欠けたら紡がれなかっただろう。
両親がいなければ、俺は産まれてこなかった。結城友助がいなければ俺は立ち直れなかった。赤染愛夜がいなければ俺は今を生きることができなかった。そして、紅野理守がいなければ、赤染と会うこともなかったし、俺も紅野と同じように、絶対的な力を求めて生きていたかもしれない。そして、紅野と同じような運命を辿っていたかもしれない。
赤染は目を輝かせると、「うん! よろしくね、正!」と言った。
「な、人を急に、下の名前で呼ぶな」
「いいじゃーん、もう付き合ってるんだし」
「……名前の件はもういいから、俺から離れてくれ。周りの目がすごいことになってる。それに、腹が減った」
「お肉食べなよ! レアのお肉は美味しいよ?」
「愛夜が言うと、ブラックジョークに聞こえてくる」
俺らは笑い合った。
今までにあったこと、それから、未来の話をして盛り上がった。
そんな、桜の咲く季節に起きた奇跡は、まるで、季節外れの雪が彩った、雪の桜のようだった。
部屋掃除を終えたあと、俺は外出する準備をした。
これから俺は、本屋でバイトをしようと思う。気になる本を読み漁り、日記も書いて、自分と向き合う努力をしていければいいな、と思ったからだ。
忘れものがないかを確認し、玄関に向かう。
「正」
靴を履き、外に出ようとしたら呼び止められた。
「どうした?」
「行ってらっしゃい——」
母親は微笑み、手を小さく振った。
前の俺なら、行ってらっしゃい、と言うためだけに呼び止めるな、と思っただろう。でも今の俺は、そう思わなかった。
「——行ってきます!」
玄関でのやり取りで、初めて笑顔になれたような気がした。肩の荷が下りたような、気持ちが楽になったような、そんな感じがしたからだろう。
家を出たあと俺は、郵便物を確認した。一人暮らしでの習慣は、帰省したとしても続くものだ。中身を確認してみると、小さな封筒らしきものに手が当たった。封筒をなかから取り出して確認してみると、『白雪正様へ』、と書かれていた。思い当たる節がない。
誰が送ってきたのだろうか、と考えながら、白色の封筒を開けてみると、白い紙に、丁寧な文字が縦に並んでいた。文章から目をずらし、差出人が書かれているであろう、左下に目線をずらす。こんな改まった形の手紙を、誰が俺に送ってきたのだろうか。
「……」
息を呑んだ。
思いもよらない相手が、差出人だったからだ。
「紅野が、どうして……」
見間違いだと思ったが、差出人は紅野だった。丁寧な字で、紅野理守、と書かれている。すぐに俺は名前から目を離し、文章を読んだ。書かれている内容を、小さく声に出しながら読み上げた。
……紅野は俺に、なにを伝えたいのだろうか。
この紙には、肝心な用件が書かれていなかった。記されていることは、紅野はレイクタウンのスターバックスで、ずっと待っている、だけだ。待ち合わせ場所に俺が来るまで、永遠に待っている、とも受け取れる内容だった。
信用できない。
拉致される可能性は十分にあり得る。
だが、そう思ってしまうのは、紅野の言動がそう思わせているのだけであって、確信にはならない。集合場所を人目の多い場所に指定する理由、それから、この手紙が俺の家に届いている、ということは、紅野はすでに、俺の個人情報を握っていると断言できる。紅野なら、母親がいない時間帯を狙って俺を誘拐する計画を平然とやるだろう。
ポケットからスマホを取り出して紅野の連絡先を探す。が、見当たらなかった。なくなっていた。俺が削除したわけではない。紅野の名前を思い出すだけでも嫌だったから、連絡先を消そうだなんて考えに至らなかった。
スマホの画面を閉じ、考え込む。
厄介なのだ。
レイクタウンに居座り続けられても。
恐らく紅野は、俺が困る場所をあえて指定してきたに違いない——
仕方なく俺は、人通りの多い道を選びながら、紅野のいるレイクタウンへと自転車をこいだ。
駐輪場に自転車を止め、店内へと足を踏み込む。
相変わらずここは賑やかだ。春休みが関係しているのか、年齢層に幅がある。友だちとクレープを食べながら買いものをしている人もいれば、エコバックを肩にぶら下げて、店内を歩き回っている人もいる。
直接待ち合わせ場所には行かず、俺は二階に行って、上から紅野がスタバにいるか否かを確認した。
信じたくはないが、残念ながら紅野は窓際の椅子に座っていた。店内をぼーっと眺めているだけで、なにも作業をしていなかった。今日は制服姿ではなく私服を着ている。ベージュのワンピース姿を見ると、やはり同じ学年にはとても見えない。今となれば、その理由もわかる。
速まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をし、俺は、紅野が待っているスタバに向かった。店内に入り、紅野に声を掛けようとしたとき、
「あ…… 白雪くん……」
と、紅野が俺に気が付き、体をこちらへ向けてきた。
「ありがとう…… わざわざ来てくれて」足音で消えてしまいそうな声だ。
「ここに居られ続けても困る」落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、「で、用件はなんだ?」と質問した。「お前からしたら、俺はもう用済みだろ」
「まだ終わってない——」
そう言って紅野は立ち上がると、「赤染さんのことを話したい」
「……あ?」腑抜けた声が出てきた。「どうして今更、赤染の話が——」
「お願いします……どうか、お願いします」
紅野は頭を深く下げた。その姿には、あの島にいたときの不気味な雰囲気がまったくなかった。
「無理を言っているのはわかります。でも、それでも、話だけでも聞いて——」
「やめろ」
「白雪くん、赤染さんに私は——」
「おい」
頭を下げ続けてお願いし続ける紅野を、俺は止めた。
「…………」
「周りの目が気になる」
「……そう、だね」
すみませんでした、と、俺は周りにいる人たちに軽く頭を下げた。
「話なら聞く。とりあえず、ここを出よう」俺は、紅野に背を向けて、歩き出した。後ろから、紅野がついてきている気配はあるが、直接、紅野の顔を見ていなくても、紅野は俯いているとわかる。俺は、紅野の伝えたいことを一通り聞いたあと、どうしたら早く帰れるかを、歩きながら考えていた。
声を大きくされても困るから、俺は人気のない池に来た。友だちと昔話でもするなら、喫茶店とかフードコートでもいいが、紅野が相手なら外がいいだろう。
「赤染の話ってなんだ。もう話すことなんてないだろ」
紅野を見ているだけで、俺の腸が煮えくり返りそうだ。なにもかも、紅野のせいで失ったと思うと、正気ではいられなくなってしまいそうだ。
紅野は申し訳なさそうな表情を浮かべると、「私は、白雪くんに、彼女と……」
——会って欲しい。
そう言ったのだった。
「……」
「会うのが嫌なら、断っても——」
「冗談でも辞めろよ、そんなことを言うの」
耐えられなかった。
今すぐにでも、紅野を殴りたかった——
俺は紅野に背を向け、歩き出す。これ以上、紅野と話していたら気が狂ってしまいそうだ。
「——待って!」
腕をぎゅっと、掴まれる。「まだ、終わってない……」
「なんだよ」
平静を装えているのは周りの目があるからだ。二人だけで話していたら、とっくに暴れ回っているだろう。けど紅野の顔は、冗談ではなく、本気で言っているように見えた。
「お願い……最後まで、聞いて欲しい……」
「……」
俺の手を紅野は放すと、
「……ありがとう」
と言い、
「私は、気が付いたんだ……揺るぎない感情こそが、理性を上回る解決策だって——」
それから紅野は話した。
卒業式の日。傷だらけになり、人の血を吸うことが唯一の助かる方法だったのにもかかわらず、赤染は軍人を食べなかったどころか、殺そうともしなかったことを。これは、人を想う気持ちが産んだ奇跡だ、と紅野は言った。
「許してとは言わない。でも、赤染さんと会って欲しい。これは、今の私にできる、最大限の感謝。どうか、受け取って欲しい……」
「要は赤染を、生き返らせたってことか」
「……そういうことになる」
申し訳なさそうにしている紅野の顔。
その顔が、俺のなかの糸を切った。
弱弱しい表情が、俺を一層、怒りに陥れてくる。
「——美談にするな!」
限界だった。
声を荒げずに、黙って紅野の話を聞いているのは。
申し訳なさそうな紅野の顔を見ていると、頭に血が上ってくる。
「お前は、赤染がどれだけ傷ついたのかを知っているのか? 自分が人を食べなければ生きていけないって気が付いた日から、赤染は学校に来なくなった。みんなに会いたくても、会ったら傷つけてしまうかもしれないからって、赤染は別れの言葉も言わずに、みんなの前から姿を消した。だからこそ、赤染は嬉しかったんだろうよ。みんなが好きだから、泣かずにはいられなかったんだろうよ。卒業式の日、赤染はみんなと顔を合わせただけで、泣いたんだ。これ以上の幸せはないって、そんな顔をしてたんだ。
そんな赤染を、お前は殺した。
自分の実験のためにお前は、赤染の命を、時間を、奪った。
赤染を蘇らせたからって、戻ってこないんだよ。赤染にとって、大切なものは……」
赤染を考えれば考えるほど、胸が締め付けられるような感じがした。
人の欲望で生まれてきた子だった、と考えるだけで、胸に穴ができそうだった——
「……ほんとうに、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
紅野は謝りながら、土下座をしようとしたとき、
「ああああ!」
と言いながら、右足を抱え、倒れてしまった。
痛すぎるせいか、脂汗が出ている。
「土下座なんてしなくていい。手を貸すから、立ち上がってくれ。人の目が気になる」
「…………」
歯を食いしばりながら紅野は、俺の手を取って立ち上がった。
「ごめんなさい……まだ、手術してなくて……」紅野は顔を歪ませた。「赤染さんに押された衝撃で、壊れちゃったみたい……でも、もう私は、付ける必要がないのか……」
ははは、と。
紅野は苦笑いしながら呟いた。
「……どうしたの白雪くん。私の足をずっと見てるけど」
「いや、なにも」
俺が、最新の義足を知らないだけかもしれないが、紅野のしている義足は、ふつうのとは違うような気がした。機械なのだ、足が。ロボットのような戦闘するための足に見える。学校では一般的な義足を付けていたが、どうして今は、違うのだろうか。
「そうだね……この話は、白雪くんにもしないといけないかな」
「なんの話だよ」
「どうして私が、義足なのかって話」
紅野は息を、ゆっくりと吐いた。
「実は私、日本生まれでも、育ちでもないんだ。毎日紛争が起きている、そんな国で生まれたんだ——」
そう言って紅野は、過去にあったことを、俺に話した。
「私のやったことは、絶対に許されることじゃない。頭を下げただけで、どうにかなるような問題ではない。たとえ、どれだけ悲惨な過去があったとしても、ね」
話し終えた紅野は、笑顔を作った。
ほんとうの気持ちを誤魔化すかのように、表情を緩ませたように見えた。
「……お前はこれから、どうするんだよ」
疑問だった。
紅野は紛争をなくすために人間兵器を開発してきたわけだが、本人曰く、それはもう止めることにしたそうだ。赤染の行動で、紛争を抑えるための十分な情報を得られたのと、自分の行動が間違えていたと気が付かされたから、らしい。となれば、これから紅野は、なにをするのだろうか。
やることがなくなった紅野は、どうやって生きていくのだろうか。
「公にするよ。私のしてきたことを」
「……紅野。言っている意味、わかってるのか?」
公にするとは、自分の罪を認めるも同然の行為で、確実に罰則が与えられるだろう。軽度な犯罪ならばまだしも、紅野のしてきたことは国際的にも問題になるような事件だ。もしかしたら、この事件が公にされるのを日本政府は恐れて、紅野の存在がなかったことにしよう、と働きかけるかもしれない。
「わかってる。でも、しなきゃいけない。二度と、私のような人が生まれてこないためにも」
「日本の評判を落としたくないからって、誰かがお前のことを殺しにくるかもしれない。それでも大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。人間兵器を造れるのは、私以外にも、あの島に務めていた軍人のなかでも一握りだけだし、人間兵器は人の争いを止めるかもしれないって、評判がいいんだよ。だから私は、信用されてる。あいつなら裏切らないだろうって、思われている」
紅野は当たり前のような顔をして、そう言った。
「…………」
俺は、なにも答えられなかった。
なんて答えればいいのか、わからなかった。
だから俺は、「おでこ出せ」と、命令口調で言った。
「……え」
「いいから、出せ」
「……わかった」紅野は前髪を退かし、おでこを出してきた。
紅野に勘づかれないよう、太ももの後ろで、デコピンの準備をする。
「白雪くんは、私のおでこを見て、なにがしたいの?」
「これでもくらえ」中指に溜め込んだ力を、紅野のおでこに放つ。
「いた……」反応は、以外にも薄かった。俺の力が無さ過ぎるせいだろう。
「これ以上、お前の話は聞きたくない」
「……」
「で、どこにいるんだ。赤染は」
「フードコートで、食事してると思うわ」
「赤染の食糧って、人の血じゃないのか?」
「今はもう違う。体を修理するのと一緒に、脳の部分もいじくったわ。でも大丈夫よ。記憶を司る部分は、なにも操作してないから」
ね、と。
紅野は微笑むと、「赤染さんなら、三階のフードコートにいるから。迎えに行ってあげな」
負の感情を抑え込みながら、笑顔で見送ろうとしているのが容易にわかった。これを、心が泣いている、とでも言うのだろうか——
「……後悔は、してないのか」
「ええ。もちろん…… でも——」
そう言って紅野は、目に涙を浮かべた。
「……羨ましいよ。君たちが」
「……」
「ほら。早く、行ってあげな。赤染さんが待ってるわ」
自分が救われなかったとしても、笑顔で送り出そうとする紅野に、俺は、
「…………ありがとな。俺を、救ってくれて」
そう感謝することしかできなかった。
「私には、これくらいしかできないから——」
スマホのズーム機能で、赤染の座っている位置を確認した。修理をされて、容姿が変わっているかと思ったが、まったく変わっていなくて安心した。周りの人に気を付けつつも、俺は、足音を立てないように赤染のもとへ近づいた。
息を潜め、赤染の真後ろにつく。
ステーキの焼ける音、香り、色、すべてが最高だ。
「——ん? 白雪くんの匂いがする」
ばっと。
赤染は後ろに振り返ると、「やっぱり、白雪くんだ!」
そう言って赤染は、椅子から立ち上がった。
「戦闘機能だけは、残ってるのか——」
「会いたかったよ!」
「よせ! ここで抱きついてくるな!」
腕ごとクラッチされているせいで抵抗ができない。
「嬉しいんだもん、しょうがない、じゃん……」
喜んだと思ったら、今度は泣き出してしまった。
赤染の鼻を啜る音が、俺の目を曇らせる。
「……ああ。俺も、嬉しいよ」
公共の場で、しかもフードコートで、泣くとは思わなかった。周りの人には迷惑かもしれない。
食事をしている傍らに泣いている人がいたら、美味しい食事も台無しになってしまう。けれど、俺は耐えきれなかった。
嬉しかったのだ。
赤染と、再会できたことが——
「こんなところで、なにをしているんだろうね、私たち」
赤染が、ぼそりと呟く。
「そっちから抱き着いてきたんだろうが」
俺は笑う。
「白雪くん」
「なんだ?」
「これって、カップルがすることだよね?」
「そうなのかもな」
赤染は、「ふふふ」、と笑い、腕の力を緩めて、俺の顔を覗き込むと、
「ねえ。白雪くん」
と、真面目な顔で、見つめてきた。
「ん?」
「——私と、付き合ってくれませんか?」
赤染の真剣な顔に、時間が止まったかのような感じがした。この止まった時間を、俺は、二度と忘れないだろう。
「もちろん。よろしくな。これからも、そして、ずっと——」
結ばれることが許されなかった運命。それに抗い、立ち向かい、俺たちは、二度と破られることはない絆で結ばれた。
この物語は、誰かが欠けたら紡がれなかっただろう。
両親がいなければ、俺は産まれてこなかった。結城友助がいなければ俺は立ち直れなかった。赤染愛夜がいなければ俺は今を生きることができなかった。そして、紅野理守がいなければ、赤染と会うこともなかったし、俺も紅野と同じように、絶対的な力を求めて生きていたかもしれない。そして、紅野と同じような運命を辿っていたかもしれない。
赤染は目を輝かせると、「うん! よろしくね、正!」と言った。
「な、人を急に、下の名前で呼ぶな」
「いいじゃーん、もう付き合ってるんだし」
「……名前の件はもういいから、俺から離れてくれ。周りの目がすごいことになってる。それに、腹が減った」
「お肉食べなよ! レアのお肉は美味しいよ?」
「愛夜が言うと、ブラックジョークに聞こえてくる」
俺らは笑い合った。
今までにあったこと、それから、未来の話をして盛り上がった。
そんな、桜の咲く季節に起きた奇跡は、まるで、季節外れの雪が彩った、雪の桜のようだった。