「赤染の帰り、遅くないか?」結城がキャリーバッグに座りながら言った。
「だな。なにしてるんだろうな」
「先生たちと記念撮影とか」
「写真だけなら、こんなに時間かからないだろ」
赤染と体育館で別れてから、一時間は経過している。他の生徒は船に乗る準備を終え、赤染を待っている状態だ。出発まで残り五分しかない。
「赤染には時間、ちゃんと伝えたんだろ?」サランラップに包まれたおにぎりを結城は食べる。「やっぱり、塩むすびに勝るものはねえよ。米の甘味がちょうどいい」
「ああ。もちろん伝えた。で、その前に、おにぎりをここで食うな」
「いいだろ別に。こぼさないし、俺はこの学校を卒業した。それに、白雪は生徒会長の役目を終えてるわけだから、関係ないだろ?」
「関係なくはないが……」
「なら白雪も一個やるから食えよ」
ほいっと、結城は、ビニール袋に入っていたおにぎりを渡してきた。
「ここでは食わないけど、ありがたく貰っておく」
「なら返せ! お前がここで食うから面白いんだろ?」
「じゃあ返す」
「……やっぱいい。やるよ、その塩むすび」
「どっちだよ」
気分屋は扱っていて大変だ。
話がだいぶ逸れたが、今はそんなこと、どうでもいい。
「今から学校に行ってくる。だから、もしも俺が、ここに戻ってこなかったら引率を代わりにやってもらってもいいか?」俺が直接、赤染を確認すれば済む話だろう。
「別にいいけど。それでいいのか? 赤染をみんなで囲って、インスタライブをしながら帰るのが作戦だろ?」
「そうだ。けど、みんなを必ず、船に乗せなければならない。帰ったらすぐに受験が始まるからな。一日でも家に着くのが遅れると、全員に迷惑がかかる」
「確かにそうだな……うん、わかった。前に渡された紙に書いてある場所に行けばいいんだろ?」結城はキャリーバッグから立ち上がった。「とりあえず、そろそろ整列させておくぞ」
「頼んだ」
「念のために言っておくけど、死ぬような事態に巻き込まれそうだったら、必ず逃げて来いよ? 俺からしたら、赤染が救われて、お前が助からないパターンが一番、嫌だからよ」偽りのない顔で結城は言った。「お前がどうしても救いたいなら、なんも言えないけど……まあ、思う存分、やってこい」
「ああ。ありがとな」
結城は、ごちそうさまでした、とサランラップを丸めると「そろそろ出発するから整列してくれ!」と体育館に響き渡る声を出した。「そうだ、白雪」
「ん? どうした?」
「どうして俺にこの仕事を任せたんだ? 生徒会に務めていた奴らの方が頼れるだろうに」
「……信頼できるからに決まってるだろ」
「……はは、照れますなー」
結城の笑顔を見たあと、俺は赤染を探しに行った。
物音がなく、外の明るさでしか照らされていない廊下に違和感がある。つい最近まで、この廊下を歩いている生徒がいた、と考えると、不思議な感覚だ。
木の上に降り積もる雪を眺めながら歩いていると、ふだんなら通れているはずの道が、黒くて分厚そうな壁があるせいで通れなかった。
叩いてみたがビクともせず、押してみても動かない。
方向転換して、他の道で職員室に向かおうとしたが、ぜんぶ職員室に繋がる道が絶たれていた。
防火扉が作動してしまったのか、と思いながら壁に寄りかかり、結城に、赤染は体育館に戻ってきたか? とラインを送ると、遠くの方から人の声が聞こえてきた。同時に、階段を大勢の人が駆け上がってくる音もした。
直感で、マズい、と思った俺は、近くにあったトイレに身を隠し、様子を窺うことにした。
「こちら第三部隊。職員室前のバリケードに侵入成功。体育館に生徒が全員、船に乗る準備を整えて待機しています」と、男性の声が聞こえた。外部の人間と連絡を取っているのだろうか。
しばらく会話が続き、それが終わると男性は、「目的はいつ、バリケードを破ってくるかわからない。臨戦態勢を整えておけ!」
と、泣く子も黙るような男性の声が、隊員と思われる人たちに命令した。
信じたくないが目的は恐らく、赤染のことだろう。
つまり赤染は、職員室で捉えられてしまったのだ——
歯茎が折れてしまうくらいに、俺は歯を食いしばる。
悔しいのだ。
俺の判断ミスで、赤染を危険に陥れてしまったことが。
学校は安全だと勝手に思い込んでいた。幼稚園、小学校、中学校で、学校は安全な場所だ、ここにいれば命は狙われない、と思い込んでしまった。正確に言えば、信じたかったのかもしれない。疑いきれなかったのだ。紅野以外は全員ふつうの人だと、軍には関係ないんだと、俺は信じたかったのだ。
今思えば、疑うための決定的な証拠があったじゃないか。
紅野はどうして、この学校に入学できたのか。この学校の設備はどうして、生徒の人数に合わないような大きさなのか。他にも疑える場所はいくつもあったのに、俺はその現実から目を逸らしていたのだ。
甘かった、俺の考えが。
学校は軍に関係があると、安心できない場所なのだと、思いたくなかったのだ。
トイレに逃げ込んで、なにもできない自分が苛立たしい。
こんなにも俺は、役に立てない人間なのだと思うと、胸が張り裂けてしまいそうだ。
『結城、先に向かっててくれ。あとは頼んだ。絶対に来るなよ』
結城にそうラインを送って、俺は機内モードにし、電話がかからないようにした。
トイレに逃げ込んでから、どれだけの時間が経ったのだろうか。スマホで時間を確かめてみると、一時間は経過していた。誰もいないかのように廊下は異様に静かだ。軍人の張り詰めた空気が、俺にも伝わってくる。
でも。
この長い時間は、一瞬で消えた。
「——目的がバリケードを破壊して、こっちに突き進んでいるぞ!」
隊長らしき男性が声を上げると同時に、職員室への道を阻んでいた黒い壁が破壊された音がした。重機が壁を木端微塵にしたかのような鈍い音が廊下に響く。
「——打て打て打てえええええ!」
銃撃音が鳴り響く。
初めて聞く音に、俺の鼓膜が破れてしまいそうだった。
「ああああああああああああ!」
叫び声が聞こえた。人間とは思えない、獣のような声が聞こえた。
これが赤染の声なのだろうか。
巻き込まれたら絶対に死んでしまう。
そう思い、息を止めて耳を澄ませていると、突然、廊下から音が聞こえなくなってしまった。そんなはずはない、と頭を振り、再度、廊下から音がしないか耳を澄ませてみたが、人が歩く音さえもしなくなっていた。
そっとドアを開け、隙間から廊下を覗いてみる。
「……嘘、だろ」
廊下が赤く、染まっていた。
重厚そうな壁に、人が走って体当たりしたかのような穴がぽっかりとできていた。廊下に赤染の姿はない。
「……う」
生臭さはないが、血の臭いが鼻を刺激した。
こんな形で死体を見る日が来るとは、思わなかった。
結城もきっと、こんな光景を紅野に見せられたのだろう。あのとき、結城が俺に、赤染と軍が戦争をしていたと伝えたとき、俺の目の前で急に嗚咽したのは、きっとこれが理由なのだろう。
トイレから出て、廊下を見渡しても、やはり誰もいない。
赤染は外に行ったのかもしれない。
こんなところで折れていたら、赤染が救えるはずがないだろ——
道路の水溜まりを踏むみたいな足音を聞きながら、俺は外へと向かった。
物陰に隠れながら赤染を探していると、空からヘリコプターの音が聞こえてきた。見てみると、隊列を組んでいるかのように並ぶヘリは、校庭へと向かっていた。銃撃戦の音が聞こえているから、きっとこのヘリは、応援部隊かなにかだろう。正門を見てみると、戦車が校内に入り込んできたかのような車輪の跡が雪に残っていた。
ここまで来たら俺の存在なんて気にしないだろう。
赤染のもとに向かおうと立ち上がった瞬間、今までとは比べものにならないような爆発音がした。ミサイルでも放ったのだろうか。校庭の方から煙が立つ。
俺は走った。
赤染を助けたいが一心に、走り続けた。
途中で、部外者発見、みたいな声が聞こえてきたが、俺は気にせず、全力疾走した。
炎と煙が校庭を包み隠すなか、赤染の姿が見えたところで、俺は、
「——赤染!」
と、喉が裂けてしまうくらいに叫んだ。
このまま突き進めば死ぬ、とわかっていながらも俺は、赤染のもとに向かい続けていた。赤染が俺の声に気が付いたのは、俺が叫んだ刹那だった。
——目が合った。
顔が血に染まり、無表情だった赤染が、いつもの笑顔を見せた。
すると赤染は、表情を一変させ、
「白雪くん!」
と、俺に手を伸ばし、「嫌だ! 止めて!」と叫び声を上げた。
どうしてそんなに嫌そうな顔をする、と考えたときには、もう遅かった。
全身の力が突然抜け、瞼が鉛のように重くなった。
麻酔銃で、俺は撃たれてしまったのだろうか……だとしたらいつ、俺は撃たれてしまったのだろうか。
意識が遠のいてゆく。
赤染を守りたい意志すらも消えてゆく——
「…………赤、染」
聞こえてくるのは、誰かの悲鳴。
目に映るのは、桜の色みたいに、赤く染まった白い雪。
俺が最期に見た景色は、まるで季節外れの冬に咲く、雪の桜のようだった。
「だな。なにしてるんだろうな」
「先生たちと記念撮影とか」
「写真だけなら、こんなに時間かからないだろ」
赤染と体育館で別れてから、一時間は経過している。他の生徒は船に乗る準備を終え、赤染を待っている状態だ。出発まで残り五分しかない。
「赤染には時間、ちゃんと伝えたんだろ?」サランラップに包まれたおにぎりを結城は食べる。「やっぱり、塩むすびに勝るものはねえよ。米の甘味がちょうどいい」
「ああ。もちろん伝えた。で、その前に、おにぎりをここで食うな」
「いいだろ別に。こぼさないし、俺はこの学校を卒業した。それに、白雪は生徒会長の役目を終えてるわけだから、関係ないだろ?」
「関係なくはないが……」
「なら白雪も一個やるから食えよ」
ほいっと、結城は、ビニール袋に入っていたおにぎりを渡してきた。
「ここでは食わないけど、ありがたく貰っておく」
「なら返せ! お前がここで食うから面白いんだろ?」
「じゃあ返す」
「……やっぱいい。やるよ、その塩むすび」
「どっちだよ」
気分屋は扱っていて大変だ。
話がだいぶ逸れたが、今はそんなこと、どうでもいい。
「今から学校に行ってくる。だから、もしも俺が、ここに戻ってこなかったら引率を代わりにやってもらってもいいか?」俺が直接、赤染を確認すれば済む話だろう。
「別にいいけど。それでいいのか? 赤染をみんなで囲って、インスタライブをしながら帰るのが作戦だろ?」
「そうだ。けど、みんなを必ず、船に乗せなければならない。帰ったらすぐに受験が始まるからな。一日でも家に着くのが遅れると、全員に迷惑がかかる」
「確かにそうだな……うん、わかった。前に渡された紙に書いてある場所に行けばいいんだろ?」結城はキャリーバッグから立ち上がった。「とりあえず、そろそろ整列させておくぞ」
「頼んだ」
「念のために言っておくけど、死ぬような事態に巻き込まれそうだったら、必ず逃げて来いよ? 俺からしたら、赤染が救われて、お前が助からないパターンが一番、嫌だからよ」偽りのない顔で結城は言った。「お前がどうしても救いたいなら、なんも言えないけど……まあ、思う存分、やってこい」
「ああ。ありがとな」
結城は、ごちそうさまでした、とサランラップを丸めると「そろそろ出発するから整列してくれ!」と体育館に響き渡る声を出した。「そうだ、白雪」
「ん? どうした?」
「どうして俺にこの仕事を任せたんだ? 生徒会に務めていた奴らの方が頼れるだろうに」
「……信頼できるからに決まってるだろ」
「……はは、照れますなー」
結城の笑顔を見たあと、俺は赤染を探しに行った。
物音がなく、外の明るさでしか照らされていない廊下に違和感がある。つい最近まで、この廊下を歩いている生徒がいた、と考えると、不思議な感覚だ。
木の上に降り積もる雪を眺めながら歩いていると、ふだんなら通れているはずの道が、黒くて分厚そうな壁があるせいで通れなかった。
叩いてみたがビクともせず、押してみても動かない。
方向転換して、他の道で職員室に向かおうとしたが、ぜんぶ職員室に繋がる道が絶たれていた。
防火扉が作動してしまったのか、と思いながら壁に寄りかかり、結城に、赤染は体育館に戻ってきたか? とラインを送ると、遠くの方から人の声が聞こえてきた。同時に、階段を大勢の人が駆け上がってくる音もした。
直感で、マズい、と思った俺は、近くにあったトイレに身を隠し、様子を窺うことにした。
「こちら第三部隊。職員室前のバリケードに侵入成功。体育館に生徒が全員、船に乗る準備を整えて待機しています」と、男性の声が聞こえた。外部の人間と連絡を取っているのだろうか。
しばらく会話が続き、それが終わると男性は、「目的はいつ、バリケードを破ってくるかわからない。臨戦態勢を整えておけ!」
と、泣く子も黙るような男性の声が、隊員と思われる人たちに命令した。
信じたくないが目的は恐らく、赤染のことだろう。
つまり赤染は、職員室で捉えられてしまったのだ——
歯茎が折れてしまうくらいに、俺は歯を食いしばる。
悔しいのだ。
俺の判断ミスで、赤染を危険に陥れてしまったことが。
学校は安全だと勝手に思い込んでいた。幼稚園、小学校、中学校で、学校は安全な場所だ、ここにいれば命は狙われない、と思い込んでしまった。正確に言えば、信じたかったのかもしれない。疑いきれなかったのだ。紅野以外は全員ふつうの人だと、軍には関係ないんだと、俺は信じたかったのだ。
今思えば、疑うための決定的な証拠があったじゃないか。
紅野はどうして、この学校に入学できたのか。この学校の設備はどうして、生徒の人数に合わないような大きさなのか。他にも疑える場所はいくつもあったのに、俺はその現実から目を逸らしていたのだ。
甘かった、俺の考えが。
学校は軍に関係があると、安心できない場所なのだと、思いたくなかったのだ。
トイレに逃げ込んで、なにもできない自分が苛立たしい。
こんなにも俺は、役に立てない人間なのだと思うと、胸が張り裂けてしまいそうだ。
『結城、先に向かっててくれ。あとは頼んだ。絶対に来るなよ』
結城にそうラインを送って、俺は機内モードにし、電話がかからないようにした。
トイレに逃げ込んでから、どれだけの時間が経ったのだろうか。スマホで時間を確かめてみると、一時間は経過していた。誰もいないかのように廊下は異様に静かだ。軍人の張り詰めた空気が、俺にも伝わってくる。
でも。
この長い時間は、一瞬で消えた。
「——目的がバリケードを破壊して、こっちに突き進んでいるぞ!」
隊長らしき男性が声を上げると同時に、職員室への道を阻んでいた黒い壁が破壊された音がした。重機が壁を木端微塵にしたかのような鈍い音が廊下に響く。
「——打て打て打てえええええ!」
銃撃音が鳴り響く。
初めて聞く音に、俺の鼓膜が破れてしまいそうだった。
「ああああああああああああ!」
叫び声が聞こえた。人間とは思えない、獣のような声が聞こえた。
これが赤染の声なのだろうか。
巻き込まれたら絶対に死んでしまう。
そう思い、息を止めて耳を澄ませていると、突然、廊下から音が聞こえなくなってしまった。そんなはずはない、と頭を振り、再度、廊下から音がしないか耳を澄ませてみたが、人が歩く音さえもしなくなっていた。
そっとドアを開け、隙間から廊下を覗いてみる。
「……嘘、だろ」
廊下が赤く、染まっていた。
重厚そうな壁に、人が走って体当たりしたかのような穴がぽっかりとできていた。廊下に赤染の姿はない。
「……う」
生臭さはないが、血の臭いが鼻を刺激した。
こんな形で死体を見る日が来るとは、思わなかった。
結城もきっと、こんな光景を紅野に見せられたのだろう。あのとき、結城が俺に、赤染と軍が戦争をしていたと伝えたとき、俺の目の前で急に嗚咽したのは、きっとこれが理由なのだろう。
トイレから出て、廊下を見渡しても、やはり誰もいない。
赤染は外に行ったのかもしれない。
こんなところで折れていたら、赤染が救えるはずがないだろ——
道路の水溜まりを踏むみたいな足音を聞きながら、俺は外へと向かった。
物陰に隠れながら赤染を探していると、空からヘリコプターの音が聞こえてきた。見てみると、隊列を組んでいるかのように並ぶヘリは、校庭へと向かっていた。銃撃戦の音が聞こえているから、きっとこのヘリは、応援部隊かなにかだろう。正門を見てみると、戦車が校内に入り込んできたかのような車輪の跡が雪に残っていた。
ここまで来たら俺の存在なんて気にしないだろう。
赤染のもとに向かおうと立ち上がった瞬間、今までとは比べものにならないような爆発音がした。ミサイルでも放ったのだろうか。校庭の方から煙が立つ。
俺は走った。
赤染を助けたいが一心に、走り続けた。
途中で、部外者発見、みたいな声が聞こえてきたが、俺は気にせず、全力疾走した。
炎と煙が校庭を包み隠すなか、赤染の姿が見えたところで、俺は、
「——赤染!」
と、喉が裂けてしまうくらいに叫んだ。
このまま突き進めば死ぬ、とわかっていながらも俺は、赤染のもとに向かい続けていた。赤染が俺の声に気が付いたのは、俺が叫んだ刹那だった。
——目が合った。
顔が血に染まり、無表情だった赤染が、いつもの笑顔を見せた。
すると赤染は、表情を一変させ、
「白雪くん!」
と、俺に手を伸ばし、「嫌だ! 止めて!」と叫び声を上げた。
どうしてそんなに嫌そうな顔をする、と考えたときには、もう遅かった。
全身の力が突然抜け、瞼が鉛のように重くなった。
麻酔銃で、俺は撃たれてしまったのだろうか……だとしたらいつ、俺は撃たれてしまったのだろうか。
意識が遠のいてゆく。
赤染を守りたい意志すらも消えてゆく——
「…………赤、染」
聞こえてくるのは、誰かの悲鳴。
目に映るのは、桜の色みたいに、赤く染まった白い雪。
俺が最期に見た景色は、まるで季節外れの冬に咲く、雪の桜のようだった。