登校中に英会話を聞いていたら大怪我して病院送り。それも背後から来た得体のしれないものと衝突してこうなってしまったなんて話にならない。これ以上に不運な朝があるだろうか。午前中は保健室の先生と一緒に病院へ行き、昼休みの途中で教室に着いたけれど、全身がバットで殴られたかのように痛すぎる。これだとまともに授業なんて受けれそうにないし、一人で帰れるかも心配だ。それに、どうして田舎なのにもかかわらず、道路を歩いているだけで事故に遭わないといけないのだ。
 ため息をつきながら頭を抱えていると、「あちゃー。これは相当やられてるね……星を見る準備で遅れなければ助けられたかもしれないな」と、隣の席に座っている結城友助(ゆうきともすけ)は、俺を憐れむかのように両手を合わせた。「こればかりは不運としか言いようがないね」
「じゃあどうして笑っている。人が痛そうにしているのに、どうして結城はニヤニヤしている。人の不幸は蜜の味っていうけれど、腹を抱えてまで笑う必要はないはずだ」
「だってよ、どう考えてもリアリティーがないだろ! 朝っぱらからトラックみたいなのに衝突されてあばらがバキバキ? よくそれで学校に来れたもんだよな!」結城は面白そうに笑うと咳き込んだ。「俺なら絶対に学校休むけどな。保健室の先生に休んでもいいって言われなかったのかよ」
「もちろん休んでいいって言われた」
「じゃあどうして来るんだよ。休まない方がおかしいだろ」
 どうやら結城は、俺が学校に来た理由がわからないようだ。幼稚園の頃から同じ学校に通っているのに、未だに俺の考えを理解できていない結城の方が不思議に思えてくる。
「前にも説明したけれど、俺はこれでも生徒会長だ。それに母さんが頑張って稼いだ金で俺はこの学校に通えている。逆に怪我したくらいで学校を休むなんて——」
 ありえない。
 と言おうとしたところで、俺のあばらは悲鳴を上げた。これ以上しゃべるな、さもなければ折れるぞ。と脅されているかのような痛みだった。
「くっ!」
「おいおい、大丈夫か? 無理して話さなくていいぞ?」
「お前が話すように促したんだろうが……」
「あー。悪い悪い」
 頭を掻くと結城は、ごめんね、と謝ってきた。結城の表情を見て、ほんとうはなにも思っていないだろ、と言いたくなったが止めておいた。
 この調子だと昼食が入りそうにない。呼吸するだけでも息苦しさを感じるのに、米とか肉を胃のなかに流し込んだらどうなってしまうのかが容易に想像がつく。だが俺は、食事に関してはそこまで困っていない。俺のなかでは、勉強に支障が出てしまう方が困る。痛みで集中力が切れやすいのは、高校三年生で受験を控えた俺にとって、最悪でしかない。
「はあ……」
「もうしょうがないな。からかったお詫びとしてジュース奢ってやるから待っときな」
 結城は立ち上がると、机の横にかけてあるバッグから財布を取り出して、教室の出口へ向かった。そろそろ授業が始まるというのに、廊下に出てしまうのは見過ごせない、と思ったが、気を遣わせて悪いな、とも思った。
 次の授業の科目を生徒手帳で確認して、左手で机のなかを漁った。いつもなら覗きながら探しているけれど、腹を曲げたらあばらにもっとヒビが入りそうで怖いからできない。だから俺は、小学生みたいに音を立てながら手を掻きまわして探している。部活動に所属している人なら、あばらを故障しても笑い飛ばしそうだが、俺にはそんな余裕がない。
 ため息をつきながら授業の準備をしている途中、後ろから、白雪くん、と、俺を呼んでいる声がした。
 どこかで聞いた覚えのある声だ。
 でも俺は、女子と会話する機会なんて指で数えられる程度しかない。
 誰だろう、と後ろに振り返ると、そこには赤染愛夜(あかぞめあや)が立っていた。
「あの、その……」
 俺と視線を合わせずに目を泳がせている赤染は、喉に言葉を詰まらせている。あばらの怪我で苛立っているが、赤染に怒っているわけではない。目つきが鋭いとよく言われるから、今はわざと、目を大きく開いて赤染が接しやすいようにしている。
「どうした、赤染」
「あっ、えっと……」
 赤染は顔を歪ませながら俯くと、「ごめんなさい……」と謝ってきた。
「え、なにが」俺は赤染に、悪いことをされた覚えがない。
「ん……」赤染は怯んだような声を出すと、今にも泣いてしまいそうな表情を浮かべ、「白雪、くん……実は……」と言い、申し訳なさそうな顔になって、
「……私が、白雪くんを怪我させてしまいました。すみません——」
 と、赤染は深くお辞儀した。
「……お、おう。大丈夫だ。気にしないで……ん」俺は違和感を覚えた。「もしかして今朝、俺の背中に突っ込んできたのは赤染だったのか」
 視線をチラつかせながら、赤染は重そうに口を開けると、「……うん。そうだよ」と、弱弱しく答えた。
 得体の知れない物体の正体が赤染だったなんて。
 まさかの正体に驚く節もあるが、それよりも、あばらを怪我してしまった苛立ちの方が大きかった。
「ほんとうにごめんなさい。私、つい……」
「大丈夫」
「悪気はなかったんだけど、でも——」
「大丈夫、だから……」
「……」
 赤染が暗い顔をしているのは、きっと、俺が上手く誤魔化せていないからだろう。
 あらかじめ赤染が、どんな話を俺に持ちかけて来るのかがわかっていれば、臨機応変に対応できたかもしれない。でも俺は、咄嗟の判断で目の前の問題をそつなくこなせるほど要領のいい人間ではない。だからきっと、俺の本心が顔に出てしまったのだ。
「……赤染」
「……」
 居心地が悪い。あの出来事さえなければこうはならなかったんだ、と思ってしまう自分が、惨めでどうしようもない。
 俺は目を閉じて、息を大きく吸ったあと、
「赤染……次から気を付けてくれればいい。だから、気にするな……」
 と言った。
「……わかった。ごめんなさい」
 今の俺にはこれが精一杯だった。
 自分の心の狭さに苛立って、今にも机を殴りたかった。
 もっといい言葉があったはずなのに。
 もっといい態度があったはずなのに。
 俺は、辛そうな顔をしている赤染に、そんな言葉しかかけてやれなかった——
 チャイムと同時に教室に入って来た数学の教師は、席に着けー、と生徒に声をかけると出席簿を開き、教室にいる生徒の人数を数え始めた。教卓前に立つ教師を見たクラスメイトは一目散に席に着いた。
 静まり返った教室を赤染は見渡すと、視線を床に落としながら、ほんとうにごめんね、と言い残し、自分の席へと戻ってしまった。
「はぁ……」
 今日だけでどれくらいのため息をついたのだろうか。まだ一日の半分しか経っていないのに、一週間分のため息をついた気がする。
「どうしたんだ、白雪? そんな顔をして。ほら、これやるよ」
「あ、結城。ありがとう」
「そんなの気にするな。で、なにがあったんだ?」結城は俺の瞳を覗き込んでくるように顔を近づけてきた。授業が始まっているから席に座って欲しい。
 席についていない生徒は結城だけだし、黒板に背を預けている先生が、俺と結城を、厄介者を見るかのような目でじっと睨んでいる。
「なにもない。だからとりあえず、早く席に座ってくれ」
「わかったから。で、赤染となにがあったんだ?」
「……なんだ、俺と赤染が話していたの、知っているのかよ」
「もちろん」結城はペットボトルの蓋を開けるとカルピスを一気飲みした。「かぁ! やっぱりうまいね。カルピスは」
 さすがに先生は、結城の行動が気に入らなかったのだろう。
 先生は呆れたような顔をすると、「結城、今日お前、教室掃除な」と教室中に聞こえるような声で命令した。「だから今日の掃除当番は結城に任せていいぞー。みなみ先生には後で伝えておく」
 すると、さっきまで葬式みたいに静かだった教室から、クスクスと陰で笑うような声が聞こえてきて、前の方に座っている男子が、あははは! と大声で笑い出すと、みんなもそれにつられて急に火がついたように声を上げた。突然の笑い声に驚いた結城は、なにが起きたのかわからない、とでも言いたげな顔をした。