赤染と会う約束をした日がとうとう来た。
 俺はバッグに、筆記用具、数学の参考書、それからノートを入れ、軽く朝食を取ってから家を出た。夏休みに入って以来、誰にも会うことなく、夜に買いものするために出かける以外は家に引き籠って勉強していたから、日差しが一段と眩しく感じる。懐中電灯で直接、目を照らされているみたいだ。それに、セミの鳴き声が耳のなかで暴れまわっているが、嫌な感じはしなかった。
 スマホのナビを頼りにしながら、軍基地の横を通り、点々と建っている住宅を抜けると、ひよこマークのカフェに出てきた。店前にはいくつか自転車がある。店の雰囲気は、集中して勉強できるような、落ち着いた感じだ。
 日かげに入ったあと、俺はスマホの画面を開いて赤染に、『先に入ってる』と送った。
『あと三十秒で着く!』
 まさか集合時間よりも二十分前なのに集まれるとは思わなかった。
 辺りを見回し、赤染がどこにいるかを確認する。
 店に入ることなく日かげで待っていると、「おはよう!」と、後ろから唐突に声をかけられた。
「お、おはよう……」
 赤染の着てきた服に俺は驚いた。学校での制服姿しか見たことがなかったかもしれないが、赤染の服装がカフェでゆっくりとするような、類の服装ではないからだ。パッと見た感じ、勉強道具は持って来ていなさそうだし、なんならこれから海にでも行くかのような服装だ。
「じゃあ、いこ」赤染はカフェに背を向けると歩き出してしまった。
「ん、どこにだ」
「あれ? 海だよ、海。山登りでもいいけど」きょとんとした顔で言った。
「遊びに行く約束ってしてたか?」
「してたような気がするけど……」赤染はスマホをポケットから取り出した。「ほら。約束してるじゃん。『夏休み、どこかで会わない?』って」
「会うって、勉強の意味じゃなかったのか?」
「え、会うって遊ぶって意味じゃないの?」
「……」
「……」
 沈黙が生まれた。
 これが、思い込みの怖さ、と言うのだろうか。
「今日は」
 たまたま同じタイミングで、俺と赤染は、今日は、と言ってしまった。
自然に俺と赤染は黙り込んでしまう。
「今日は遊びに行こう!」
 赤染が俺よりも先に口を開いた。子供が遊園地で親を引きずり回すみたいに、赤染が俺に、遊びに行こうよ、と訴えている顔は必死だ。「たまには息抜きしないと危ないよ」
「そこまで俺には時間がない。一分一秒でも無駄にはしたくないんだ」
「遊びは無駄にならない! 息抜きも立派な勉強だよ!」
「息抜きも勉強なのか」
「そうだよ。だって白雪くん、いつも苦しそうな顔してるじゃん……」
「……」
 次の言葉が出てこなかった。言い返す言葉が浮かばなかったわけではない。
赤染の表情が一変したからだ。
 今にも泣き出しそう、とまでは行かないが、そこには、母親が子供を心配しているかのような顔があった。その顔に、俺の口が開かなくなってしまった。
「だから行こう! 今日だけだから!」
 そう言うと赤染は、ばしっと、俺の右手を掴んできた。
「お願い…… します」
「……」
 俺は赤染の顔を見て、遊びたくない、とは言えなかった。
「……わかった」
「いい、の?」
「ああ」
 不思議だ。
 今までの人生、遊びに誘われたら必ず断っていたのに、今回はなぜか、受け入れてしまった。でも、俺にはその理由がわからない。断りにくかったのもあるが、それ以外にも理由があるような気がした。
「じゃあ行こう!」満面の笑みを浮かべると、赤染は俺の手を引っ張り、走り出した。「思う存分、遊ぼうね!」
「ああ。そうだな」
 このとき俺は、前を向いて走る彼女の姿が、この世界に代わりがいないような、唯一無二の存在に見えてきた。
 少しのあいだ歩くと、人が楽しそうに遊んでいる声と共に海の音が聞こえてきた。
 砂浜には、日焼けするためにサングラスして寝転んでいる人もいれば、数人でバレーボールしている人もいた。どこにもつまらなそうな顔をしている人はおらず、みんな笑顔で休みを謳歌している。
「白雪、くん」後ろから赤染の声が聞こえてきたから振り返ると、「どうかな、私の水着姿……」お披露目会みたいに、赤染は全身を俺に見せてきた。
「……似合うと思う」本音は違うが、似合っているのには変わりないからそうしておいた。
「ほんとに!」ご満悦の様子だ。さっきから妙に、周りの視線を感じるが気にしないでおくことにした。今日、俺は勉強をすると思っていたから、ここに来る途中で水着を買ったわけだが、赤染はもとから海で遊ぶ予定だったから準備万端のはずだ。それでこの水着なのだから、俺はなにも文句を言えない。
「おお! 海だ!」
 赤染はそう叫ぶと、海に飛び込んでしまった。
「気持ちいよ! 白雪くんも来れば?」
「俺は大丈夫だ」赤染みたいに飛び込んだら、あばらにヒビが、再び入ってしまう可能性がある。「砂浜でゆっくりしてるから大丈夫だ」ほんとうの理由は、水に浮かべないから、なのだが。
「もしかして白雪くん、泳げない?」泳げない人なんているの? とでも聞きたそうな顔で俺を見てきた。「それなら教えてあげるけど……」
「泳げないわけじゃない。泳がないんだ」犬かきならできるから、嘘は言っていない。
「どうして?」
「あばらが怖いんだ」
「そっかー。それならしょうがないね!」
 赤染は陸に上がって来ると、「じゃあ海で浮かぼうよ!」と言い、俺の腕を引っ張ってきた。
「遠慮しておく」「ずっと座ってたらつまらないじゃん」「そんなわけない。遊んでる姿を見るのも楽しいもんだ」「そんなの絶対に嘘!」
 いいから!
 と赤染は言い、強引に俺のことを海のなかに引きずり込んだ。
 足が海に当たり、冷やりと瞬間、全身に鳥肌が立ってしまった。引き下がろうとしても赤染の力が強すぎて下がれない。蟻地獄にでもはまってしまったかのようだ。
「た、助けてくれ!」命の危険を感じた。
とうとう足が浮いてしまった。どれだけ足を延ばそうとしても届かない。
「ほら、ぜんぜん大丈夫だよ!」
 沈まないようにと、足をどたばたさせながら俺は赤染の顔を見る。平然とした顔で赤染は浮いていた。「どう? 気持ちいい?」
「そんなわけないだろ! これのどこが気持ちいいんだよ!」
「怖かったら私の肩に捕まってもいいよ?」
「……くそ!」俺は赤染の肩を浮き輪代わりにした。
「ははは! もうちょっと奥に行こう!」無邪気な子供みたいに赤染は元気な声でそう言うと、海の奥側へと進み出してしまった。溺れるのではないか、と怯えすぎた俺は、これ以上進まないでくれ、とも頼めず、ただただ赤染の肩に捕まって、前に進み続ける赤染についてゆくことしかできなかった。

 一時間くらい浮遊したあと、海から上がり、今度は砂浜でブルーシートを敷いた。その上にスイカを一つ置き、海に向かう途中で買った園芸用の支柱でスイカ割の棒を作った。百均でできるから安上がりだ。しかも数本でまとめれば結構固いから、スイカを割るには丁度いいだろう。
「スイカ割りって棒がなきゃできないの?」赤染は、つんつんと棒を触ると不思議そうに見つめた。
「棒がなければスイカ割りにならないだろ。逆にどうやって割るんだ」
「空手チョップで割るんじゃなかった?」
「それは無理だ」
「そうだったっけ……」空手チョップでスイカが割れると、赤染は本気で思っているのだろうか。そう疑ってしまうくらいに赤染は、真面目な顔をして思い出そうとしている。
「なら空手チョップしてみたらどうだ」あまりにも腑に落ちなさそうな顔をしていたから言ってみた。「割れないから」
 「うん……わかったぁ」
 赤染は右腕を振り上げて握り拳を作ると、
「ふん!」
 と言い、力を込めてスイカに拳を当てた。
 ——びしゃり、と。
 なにかがつぶれるかのような音がした。
「……」
「あー、つぶれちゃった…… やっぱり三個、買っておいてよかったね!」
 赤染の笑い声が、右から左へ抜けてゆく。
 つぶれてしまったのだ。スイカが。それも拳だけで。あまりの非現実的な出来事に、俺はスイカの残骸から目を離せなかった。「これ、どんな手品だ?」
「手品もなにも。ただグーで殴っただけだよ!」
 グー、と言っている時点で空手チョップではない、と言い返したくなったが、それどころではなかった。
 赤染はビニール袋に入っているスイカを一つ取り出すと、「はい。これ、二個目」
「もうつぶさないでくれ」
「今度は棒で割るから大丈夫!」誇らしげに赤染は言った。
 きっと、赤染の力でスイカ割りをやってしまうと、一度の打撃だけで割れてしまう可能性がある。だから俺は、「じゃあ、俺からスイカ割りに挑戦する」、と言った。
「うん! わかった! 後ろから目隠しするよ」
 目を瞑っていると、瞼の上にタオルの圧力がかかってきた。
 後ろにいた赤染の気配がなくなり、結び終わったのかな? と思うと、強風が耳穴に吹き込んだ。
 赤染が息を吹きかけてきたのだろう。
 気が付いたころには全身に鳥肌が立ち、身震いしていた。
「ははは。すごいね、白雪くん。きゃ、とか言わないんだね」赤染が俺の横でクスクスと笑っている。「私だったら言っちゃうなぁ」
「言うわけないだろ」赤染の吐息の勢いがもう少し弱かったら、声を上げていたかもしれない。赤染の肺活力が強くて助かった。
「じゃあ一分間ぐるぐるしたあと割りに行って! よーい、始め!」
「お、おう。わかった」
 俺は赤染の合図と共にその場で回り始めた。
 二周したところで、胃からなにかが出てきそうになってしまう。
「こんなこと、一分もやるのか?」声を出しただけでも、食べ物が胃から出てきそうになる。
「うん! 多分ね。なんとなくだけど一分だと思う」
「なら五周にしてくれないか?」やっと四周目が終わった。そろそろ意識が飛んでしまう。
「うん! いいよ、五周で」
 赤染からの許可が下りると同時に、なんとか回り切ることができた。
 頭がふらふらとしていて、真っすぐに立つことすらままならない。
「頑張れ! 白雪くん!」応援団みたいに赤染は声を張り上げた。
「…………」
 一歩前に踏み出すたびに体のバランスが崩れる。目隠しをされているせいで、自分が真っすぐなのかもわからないし、どこにいるのかもわからない。俺の知るスイカ割りだと、外にいる人はスイカを割る人に向かってアドバイスする、あるいは嘘を言うはずだったが、赤染はさっきから、頑張れ、頑張れ、としか言ってくれない。それに、歩く体力すら残っていない俺は、赤染に場所を教えてくれ、と頼むことすらできない。
 ……これではスイカ割りの意味がない。
 時間の無駄だ。
 そう思い至った俺は、あばらに気をつけながらも全身を脱力し、意識を失ったかのようにその場で倒れた。
「白雪くん?!」
 赤染は大声を出すと、俺のもとに走ってきた。
「どうしたの?」赤染は、俺の視界を遮っていたタオルを解く。「もしかして気持ち悪くなった? 立ち上がれそう?」
「悪いな。体が貧弱で」目を開けると、赤染の顔が間近にあった。これから人工呼吸でも始まるかのようなポジションだ。「顔が近いぞ」
「ごめん」
「スイカ割りって、スイカのある場所を伝えないのか」
「んー、どうなんだろう。やっぱり伝えるのかな」
「伝えないと辿り着けない……」
「そんなに難しいの!」好奇心に満ちた顔を赤染は浮かべた。
「難しいに決まってる」
「じゃあ次、私の番だね」
 赤染は立ち上がると、「起き上がれる?」と手を差し出してきた。
「なんとか大丈夫そうだ」
 世界が回ってみえるせいか、気分が悪くなってくる。
 赤染の手は借りず、自力で立ち上がったあと俺は、「はい、これ」と言い、右手に持っていた棒を赤染に渡した。「目隠しをするから海の方に体を向けてくれ」
「わかった!」と言うと赤染は、訓練兵みたいに、機敏に動いた。
「……なあ」
「んん? なに?」顔だけを俺の方に向けてきた。
「……やっぱりなにもない」
「なんだ」
 そう言うと赤染は、前に向き直った。
 今更だとは思うが、どうして赤染は、スクール水着なのだろうか。それも、名前が胸に入っているタイプの。しかもスイムキャップまで被っている。
 確かに似合っている。が、ここは学校ではない。一般の人を見てみると、全員、学校とは無関係の水着を着ている。言おうか言わないか迷ったが、やっぱり辞めておいた。本人が気にしていないのなら、構わないだろう。
「目隠しされると、なんだかドキドキするね!」
「そうだな」
「うまく割れるかな?」
「赤染なら割れるだろ」
「ほんとに?!」
「ほんとだ」
 よし! と赤染は喜ぶと、「じゃあスタートラインに連れてって」と子供が親にお願いするみたいな口調で言った。
「わかった」俺は赤染の手を掴み、先導しようとした。
「ひゃ」
「どうした」なにか変なものでも踏んでしまったのだろうか。
「いや…… なにもない」いつもの元気な声音が突然、弱弱しくなってしまった。
「じゃあ行くぞ」
「う、うん……」
 そこまで力強く引っ張っているわけではないが、もしかしたら怪我している部位でも掴んでしまったのかもしれない。
「悪いな、急に手を掴んで。どこか痛めたか?」
「んん、大丈夫だよ。ちょっとビックリしただけ」赤染は嬉しそうに言った。
「よし、着いたぞ」俺は赤染の手を放した。
「ぐるぐる回ってスイカを割ればいいんだよね?」
「そう。回ってから真っすぐ歩いて、あとはスイカを割るだけだ」
「白雪くんはどれくらい回って欲しい?」
「回りたいだけ回ればいい。どれくらい回りたい」
「じゃあ……五十周くらい?」真顔で赤染は言った。
「そんなに回ったら吐くぞ」俺は二周しただけで吐きそうになってしまった。
「大丈夫だよ」
 赤染は微笑むと、まるでここが、スケート場かのように回り出した。
 ふつうなら棒を軸にして回ったり、足をちょこちょことさせながら回ったりするはずだが、赤染は右足で爪先立ちになると、左足で勢いをつけて一気に回り出した。コマみたいに回り続ける赤染は、楽しそうな声を上げている。
「あと四十周するから待ってて!」何事もないかのように言うと、赤染は再び左足で回転に勢いをつけた。赤染の体を支えている爪先がドリルみたいになっている。
「……あとどれくらいだ」回転が速すぎて、途中から数えられなくなってしまった。
「五、四、三、二、一、終わった!」
赤染はふらりともせずまっすぐに立つと、
「はあ!」
 と言い、十メートルくらい先にあるスイカに向かって走り出してしまった。
 体幹が少しもブレることなく赤染は、スイカのところまで辿り着くと、「いくよ!」と声を張り上げ、棒を頭の上に振り上げた。
「……」
 ——またスイカが悲惨な形になる。
 そう思い、俺は手で目を塞いでしまった。
 が、スイカの悲鳴が聞こえなかった。
 おかしいな……
 と思い、目を塞いでいた手を退かすと、赤染がスイカの前で倒れていた。もちろんスイカは傷跡一つもなく、無事に生存している。
「赤染」
 きっと、回り過ぎて俺みたいに酔ってしまったのだろう。
 アホなことしたな、と思いながら俺は、気を失ったかのように倒れている赤染の下に向かった。
「……赤染?」俺は赤染の目を覆っているタオルを解いた。「大丈夫か?」
「……」
 反応がなかった。
 目は閉じたままだ。
「おい、赤染。どうしたんだ?」
「……」
「おい、赤染」
 体を揺すり、起こそうとしてみるが反応はなかった。
 悪い予感がする。
 呼吸はしているが、それ以外の動きがまったくない。熱中症だろうか。
 そうなら迅速に対応しないと命に関わってくる。
 迅速に対応するためにも、ライフセーバーを呼ぼうとすると、
「は!」
 と、赤染は、悪い夢から目が覚ましたかのような声を出した。
 目は開いているが、起き上がろうとはしてこない。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
 よいしょ、と重そうに体を起こすと赤染は、「最近、多いんだよね。こういうの」と言った。
「急に倒れることがか」
「そう」俯きながら応えると、「充電が切れたみたいに、ぷつんって、倒れちゃうんだよね。いつもなら一瞬だけ、意識が飛んで終わりなんだけれど……」
 悪化した。
 と、赤染は言いたいのだろう。
 でも赤染は、言わなかった。
「病院には行ったのか?」
「まだ。今まではめまいみたいな感じだったんだけどね。初めてだよ、気を失ったのは」
 大丈夫だと自分に言い聞かすかのように、赤染は笑顔を作った。
「もしあれだったら、今からでも」
「それだけは大丈夫だよ。うん、大丈夫!」赤染はすっと立ち上がり俺の顔を見ると、「また泳ぎに行かない?」と誘ってきた。
「俺はもう限界だ。動けそうにない。泳ぎたかったら海に行っていい。休憩してるから」
「そっか…… うん、わかった! 少し遊んでくるね」
 ついさっきまで意識を失っていたはずなのに、赤染は走ると、海のなかへ飛び込んでしまった。あの元気は、いったいどこから来るのだろうか。
 赤染は元気そうに振舞っているが、ほんとうは病気を患っているのではないか、と思ってしまう。赤染が目を覚ましたとき、不安を誤魔化そうとして急に笑顔になったのが脳裏から離れない。そんなことを考えていると、あの日の帰り道、紅野に言われたことがふと蘇ってくる。
 赤染は人間ではない、と。
 人造人間だと。
 紅野は言っていた。
 ——そんなことはありえない。
 仮に人造人間だとしても作った目的が見えてこないし、それに紅野は、赤染と距離を置け、みたいなことを言っていた。つまり、紅野が言っていた、赤染は人造人間だ、と言ったのは、俺を単に驚かせるための作り話、となる。他に答えが見つからない。
 俺は空を見上げたあと、赤染に目をやった。
 赤染は楽しそうに遊んでいる。しかもなぜか、知らない人たちと打ち解けて遊んでいた。
 「——はははは」
 どうしてだろうか。
 自然に笑みがこぼれてきた。
 赤染が遊んでいる姿を見ているだけなのに、気分が高揚してしまう。
 いつもの俺なら、誰かが遊んでいるのを見てもなにも感じないし、それがもしも無理矢理に見せられているのだとしたら、勉強したい、と思うことだろう。
 けれども、それがない。
 見続けていたい、と思ってしまうのだ。
 心が癒されてゆくのを感じながら俺は、砂浜で一人座り、赤染が海で楽しそうに遊んでいる姿を眺めた。
 気が付いたら日は沈みかけていた。海が茜色に染まっている。
 海で泳いでいた人たちはいなくなり、砂浜で遊んでいた人も、いつの間にか指で数えられる程度の人数になっていた。
「あー、たくさん遊んだ」
 水着から私服に着替えた赤染は、俺の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「スイカ食べるか」どうせ家に持ち帰っても食べきれないだろうから切っておいた。
「うん! ありがとう!」
 がぶり、と噛みつくと、赤染の頬が砂浜に落ちてしまいそうになった。たくさん動いたあとのスイカが美味しいのだろう。あっと言う間に一つ食べきると、紙皿の上に置いてあるスイカを素早く取った。
「水っぽくて美味しいね」顎が外れてしまうくらいに赤染は、口を大きく開けてスイカにかぶりつく。「うんうん、水っぽい」
「美味しいな」水っぽい、のニュアンスが違うような気がするが、そのまま流した。
「これ食べたら潜水してこようかな」
「もう着替えただろ」
「あっ、確かに。じゃあ辞めておくか」
 赤染は苦笑すると、ブルーシートの上で寝転がった。
「ごめんね、今日。急に遊ぶ予定にしちゃって」
 笑うこともなければ、申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、赤染は空をぼーっと見ながら呟いた。
「気にするな。俺も楽しかった」
「え、ほんとうに?!」赤染は飛び起きると俺の顔をまじまじと見つめた。
「ほんとうだ」
「それならよかった」
 赤染は嬉しそうに笑うと、足を伸ばし、手を後ろについて、夕日を全身で浴びるかのように座った。遊びすぎて疲れ切ったのか、赤染の表情がいつもよりもおっとりとしていた。
「明日から、また頑張らないとね」
「……そうだな」赤染は勉強のことを言っているのだろう。
「よし、やっぱり楽しまなくちゃね。もったいない」
 赤染は、瞬く間に気持ちを切り替え、笑顔になった。
「…………」
「……んん? どうしたの白雪くん」
「……いや、なにもない」
 だな、といつも通りに返せばいいのに、俺の口が開かなかった。
 嫌なのだろう、日常に戻ることが。
 夢が決まっていないのにもかかわらず、受験に向けて頑なに努力する毎日。
 父親のようにはならないように、母親には恩を返すために、と努力する毎日。そんな日常に戻りたくない自分がここにいる。
 けれども休むわけにはいかない。
 でないと、俺の存在価値が、なくなってしまう。
「……なあ、赤染」
「んん?」
 俺は、何事もないかのように笑っている赤染の顔を見た。
 赤染だって日常に戻るのは嫌なはずだ。
 それなのに赤染は、嫌な顔をせず、これから戻る日常を笑顔で迎えようとしている。
「どうして赤染は、そんなにも楽しそうに生活ができる」
 一緒に勉強を始めたときからの疑問だった。
 苦い顔するどころか楽しそうな顔をする理由が、俺は知りたかった。
「楽しそうか……」
 赤染は辛い過去を思い出したように俯くと、
「私ね、高校生からの記憶しかないんだ」
 と言った。
「高校生からの記憶しかない…… 事故にでも遭ったのか」
「違う。わからない。でも、気が付いたら私、家にいたの」
 赤染は言葉を慎重に選びながら話し続けた。
「でも、学校に行かないといけないってことは覚えてたんだ。不思議だよね。それだけは覚えてるって…… だから私、怖かったんだよ。いつかまた、急に記憶がなくなるって思うと。そのせいで私は、学校生活を心の底から楽しく過ごせなかった……」
 打って変わって、赤染は明るい表情になると、「それで会ったんだよ、白雪くんに」と、目を細めて嬉しそうに言った。
「ん、俺か」
「そう、白雪くんだよ」
 赤染は俺から視線をずらし、海の方に顔を向けた。
「私、すごいなって思ったの。白雪くんが屋上で生徒を叱ってたの。白雪くんは怖くないのかなって。人って、自分のやりたいことを邪魔されたら怒るでしょ? でも白雪くんは生徒会長として注意した。相手は白雪くんよりも、すっごく体が大きかったのにね。そこで私、思ったの。未来に怯えて生きちゃいけないって。今を頑張って生きないと、てね」
 赤染は立ち上がり、沈みかける夕日を見つめた。
「だから私、全力で生きてるの。叶えたい未来に向かって頑張ってるの。行きたくない未来から逃げるんじゃなくて、行きたい未来に向かって生きろって教えてくれたのは白雪くんなんだよ。そんな、私に大事なことを教えてくれた白雪くんが、私は好きなんだ」
 海の方に向いていた赤染は、俺の方に振り向き、満面の笑みを見せた。
「あ、ごめんね、長々と話しちゃって。しかも白雪くんからしたら、どうでもいいことだし」
 赤染は手を口で塞ぐと、顔を真っ赤にした。
「いや、うれしいよ。そう言ってもらえて」
 赤染はそれを聞くと、「え、あ」と戸惑った。「ほんとに?」
「ああ。ほんとうだ。わからなかったことがわかったような気がする」
「……それならよかった」緊張が解けたみたいに、赤染の表情は緩くなった。
 俺は今まで怯えて生きていた。
 父親のようになってはいけない、と生きてきた。
 でも、大事なことは違った。
 自分がどうしたいかが大事なんだ。
 歩みたい道はなにかを考えるのが大事で、辿り着きたくない道から避けられるような道を選ぶのは違う。進みたい未来があるから、それに向かって生きる、ということが大切なんだ。
 前から俺は、赤染とはなにかが違う、と思っていた。
 きっと、これが正体だったのだろう。
 叶えたい未来のために生きるか、それとも、叶えたくない未来から逃げて生きるか。
 だからいつも、赤染は楽しそうにしているのだ。
 自分が望む未来に向かって生きているから、歩みたい道を進んでいるから、彼女は毎日が楽しいのだろう。
「……赤染」
「ん? どうした?」
「これからも、よろしくな——」
  夕日に照らされている彼女は、誰よりもたくましく、そして、美しく見えた。先の見えない未来に、怯えず、立ち向かっているようにも見える、そんな彼女の姿に俺は、目が離せなかった。
 「——うん! よろしくね!」
 彼女は俺の顔を見て、笑った。
 その笑顔に、俺の強張った表情が、解けてゆくのを感じた。
「あ、そろそろ帰らないとだね」
「だな」
 自然と笑みがこぼれてくる。
 彼女を見ていると、幸せな気持ちになれる。
 これがもしも、恋、というのなら、俺は赤染に、出逢ったときから恋をしていたのかもしれない。

 俺は立ち上がり、赤染と一緒にブルーシートを畳んだあと、砂浜を歩いた。
 アスファルトの道が見えてきたとき、俺は、なにか鋭利なものを踏んでしまった。痛みが走った場所から血が溢れ出てくる。金を極力出さないためにも、ビーチサンダルはいらないだろう、と思ったが、こういうときに限って、尖ったものを踏んでしまうものだ。
「さすがにこれは、痛いな……」
「大丈夫?!」
 赤染はしゃがみこみ、俺の足元を見ると、
「血がたくさん出てるね……」と言った。
 珍しいものでも見るかのように、じっと赤染は血を眺めると、犬が匂いを嗅ぐみたいに、顔を傷口に近づけた。ボールペンが一本、入るか入らないかくらいの距離だ。
「あまり顔は近づけない方がいいぞ」
「……」
 そう注意したが赤染は微動だにせず、俺の傷口を眺め続けた。
「どうしたんだ? 赤染」
「……」
 なにをしたいのか、と思いながら見ていると、赤染は更に、ゆっくりと傷口に顔を近づけた。このまま止まらなかったら、赤染の唇が傷口に触れてしまいそうだ。
「おい」足を引っ込めながら、語気を強めて俺は赤染を止めた。
 赤染は目を覚ましたかのようにぱっと顔を上げると、俺を見上げた。寝ているところを邪魔されたかのように、赤染は戸惑っていた。
「どうしたんだ? 赤染」
「あっ……」
 赤染は黙り込み、誤魔化すような笑顔になると、「傷口が深いから、どれくらい深いのかなって」と言い、立ち上がった。「ごめんね。ジロジロ見ちゃって」
「そんなに傷口、深かったか?」
「う、うん。まあね。ばんそうこう、貼った方がいいかも」赤染はハンドバックを漁り、ばんそうこうの箱を取り出すと、俺に渡してきた。「全部、使って」
「全部は使わないけど、ありがたく貰うよ」
 ばんそうこうを箱から一枚だし、足裏の傷口にぺたりと貼った。
「待たせて悪かったな。じゃあ帰るか」
「……うん」俯きながら赤染は返事した。声がいつもと違って、落ち込んでいた。
「どうした?」「いや、なにもないよ! うん、帰ろう……」
 赤染は歩き出すと、
「思い出話でもして、帰ろ」
 と、郷愁の念に駆られているような顔で、そう言った。
 今日で白雪くんと帰るのが最後になる、と考えると、胸が締め付けられて、泣き崩れてしまいそうだった。けれども、そんなことをしたら、白雪くんが心配してしまうから、私は泣きたい気持ちを必死に抑えて、白雪くんと一緒に帰った。
 帰り道の思い出話、すごく楽しかった。
 白雪くんが車に轢かれそうになったところを私が助けたこと。
 それを白雪くんは、私が前方不注意で衝突してきた、と勘違いしていたこと。
 今思えば、あの出来事がなければ、私と白雪くんは一緒にいられなかったのかもしれない。
 どうして白雪くんは、あのときの勘違いに気が付いたのかは知らないけれど、もしも白雪くんに、その勘違いを指摘してくれた人がいたのなら、私は感謝してもしきれない。私と白雪くんを結んでくれたその人には一生、顔が上がらないだろう。
 そこから私と白雪くんは一緒にいる時間が多くなった。
 笑って、笑って、笑って。毎日が楽しかった。
 ほとんど私しか笑っていなかったかもしれないけれど、やっと今日、白雪くんは初めて、私に笑顔を見せてくれた。嬉しかった、ほんとうに。やっと、本心を見せてくれたって。
 白雪くんはいつも、辛そうな顔しかしていなかった。
 人生を苦しんでいるだけで、ちっとも楽しんでいないように見えた。
 初めて一緒に勉強したとき、あまりにも人生に絶望しているような顔をしていたから、私は笑わそうと、友だちから教わった顔芸で挑んでみたけれど、白雪くんには効果がなかった。あれは失敗したなと思う。
 でも、今は違う。
 呪いが解かれたかのように、笑うようになった。
「じゃあな、赤染」
 白雪くんは手を振った。
 それも今までと違って、楽しかったよ、と伝えるように手を振っている。
「……じゃあね、白雪くん」
 私も白雪くんと同じように、楽しかったよ、と手を振る。
 もっと、このときが早かったら、どれだけ楽しい生活を送れたかと思う。
 そう思っても、この日常は二度と、戻ってこない。
 戻したくても、戻してはいけないのだ。
 だって、
 私は、人間じゃないから——
 今日、私は気が付いてしまった。
 白雪くんが血を出したとき、私は、今まで家に届いていた栄養ドリンクと同じ匂いだと思った。色は違うけれど、白雪くんの血を嗅いだとき、美味しそうだな、と思ってしまった。だから私は、どれだけ食べものを食べても、なにかが足りないような感じがしていたのだ。胃袋に食べものが溜まるだけで、食欲が満たされなかった理由はそうだったのか、とわかってしまった。
 最近、私の家に血が届かなくなって、飲める量が減ってきているからか、食欲が増してゆくばかりだ。私のせいで、もしも人を殺してしまったら、と考えると身震いせずにはいられなかった。仲のいいクラスメイト、白雪くん、紅野さんを殺してしまう私を想像すると、頭が壊れてしまいそうだった。
 最後の分かれ道、私は白雪くんの後ろ姿を見続けた。
 もう一人の自分を押し殺しながら、私は、白雪くんの姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。最後の最後まで私は、白雪くんの姿を目に焼き付けるように見た。
「……行っちゃった」
 暗いところでも明るく見える私の目でも、彼の姿がとうとう見えなくなってしまった。
「やだよ……やだよ……」
 涙が溢れ、私はその場で崩れ落ちた。
 別れの言葉なんて言えなかった。
 今までありがとうって伝えたくても、私は言えなかった。
 白雪くんを心配させてしまうのだけは、嫌だった。
 せっかく笑顔になった白雪くんを不安にさせるのだけは嫌だった。
「……でも、白雪くんからしたら、私って、特別じゃないもんね……」
 二学期が始まって一週間が経過した。一学期と変わらず読書しているクラスメイトもいれば、友だちと集まって雑談している人もいる。でも、俺にとって、二学期の学校生活に違和感しかなかった。クラスメイトが一人いなくても、何事もなかったかのように生活を送るクラスメイトたちが不思議だ。
「よ、白雪」結城が登校してきた。
「お、おはよう」赤染の席から、俺は目を逸らした。
 結城はバッグを机のフックに掛けると、「朝から浮かない顔してるけど、どうした?」と訊きながらペットボトルの蓋を開け、なかに入っているカルピスを一気飲みした。「飲むか、一口」
「いや。大丈夫……」
「ん? どうしたんだ? 困ってそうな顔をしてるけど」
「別に困ってはないんだ……」言おうか言わないか迷った。が、言うことにした。
「結城は赤染について、なにか知ってるか?」
 そう、赤染が学校に来ないのだ。
 夏休みに海に行って以来、赤染と連絡が取れなくなった。赤染の連絡先が削除されたわけではないが、ラインを送っても返信が来ないのだ。もちろん、既読もつかない。
「んー、赤染かー」結城は悩んだ末に「悪いな、なにも知らない」と答えた。
「赤染、学校に来てないから」
「確かに、珍しいな」今まで気が付いていなかったような口振りだった。「赤染が風邪をひくなんて聞いたことがない。あの体力お化けの体に入る菌はバカだな」
 あははは、と結城は一人で笑った。
「もし気になるなら家庭訪問でもすればいいんじゃないか?」
「……そうだな」ここからどれくらい歩くかわからないが、その手は有効かもしれない。
「え、ほんとうに行くのか? マジな顔だけど」意表を突かれたのか、結城はきょとんとした。
「ああ。誰も知らなかったら行く」
「赤染の家って確か、ここから歩いて三時間くらいかかるぞ」
「それでも行く。心配だからな」
「すごいな……」結城は黙り込むと、「お前のなかじゃ、赤染はただのクラスメイトじゃないってことだな」と言った。
「なんで嬉しそうな顔してるんだよ」
「あの勉強しか頭にない白雪が変わった、と思うと嬉しくてな」
 俺から逃げるように結城は教室のドアに向かうと、「俺は応援してるぞ!」と大声を出し、教室から出て行った。まったく。注目の的になるような言動は辞めて欲しい——
 昼休み、それから放課後を使って、赤染の安否について聞き込みをしたが成果は得られなかった。赤染と仲良くしているクラスメイト、それから、担任でさえも赤染の状況について知らなかった。みんな俺と同じく、連絡はしているみたいだが、返信が来ないようだ。赤染のことだから、スマホを川に落として音信不通にでもなっているのだろうか——
 生徒会が終わったあと、俺は、すぐに帰り準備を整えて学校を出た。
 帰り道にコンビニへより、栄養ドリンクを買って、担任から聞き出した情報を頼りに、赤染の家へと向かう。
 いつもの帰り道、赤染と別れる看板の下で、右には行かず左に行こうとすると後ろから声をかけられた。
「あれ? 白雪くん、今日はそっちに行くの?」
「……紅野」
 声をかけられるまで、紅野の存在に気が付かなたっか。
「ああ。今日はこっちに行く」
「どうして? なにかあったの?」
「これから赤染の家に行く」
「あー、赤染さんね……」
 紅野は、ふふふ、と不気味な笑みを浮かべると
「赤染さんは、引っ越したよ」
 と言った。
「だから、家に行っても誰もいないわよ」
「……引っ越した?」
 信じられなかった。あまりにも唐突過ぎる。
「そう、引っ越した。それも夏休みの途中で。転校ってことかな」
 紅野は誰も知らなかった赤染の情報を赤裸々に話した。
「理由までは知らないけど、きっと、親の事情で引っ越しでもしたんじゃないのかしら。だから赤染さんの家に行っても、意味ないわよ」
「……」
 急遽、赤染は転校することになったから連絡を返さなくなったのか。自分で節目を作るために、赤染はわざと返信していないのか。
 ……違う。
 それは違うだろ、と今までの記憶が訴えてくる。
 もしも転校することになったら、赤染はみんなにそのことを伝えるだろ。同じ学校じゃないけれど、これからもよろしくね、と必ず言うだろう。赤染は絶対、みんなが心配するようなことはしないはずだ。
「そんなはずがない」
「んん? どうして?」
「赤染なら連絡するはずだ。みんなに心配をかけるような真似は絶対にしない」
「あらそう」冷めたような口調で紅野は言った。
「それにだ」
 紅野は虚言癖がある。
 一緒に下校したとき、紅野は突然、俺にキスをした。それも赤染から意識を逸らすためだとか言って。そんなことをする紅野が、ほんとうのことを言っているとは思えない。挙句の果てには、赤染は人造人間だ、なんて小学生でも信じないような作り話を平気でする人間だ。
「俺は、紅野が嘘をついているようにしか思えない」
「なんでかしら?」不思議そうに首を傾げた。
「前に紅野は、赤染から意識を逸らすためにって、俺に突然キスをした。これにはなんの意味があるんだ」「……」「それに、赤染が人造人間だなんて誰が信じられるか。赤染は、人間だ。どこにもロボットらしい素振りはなかった」「……そうね」
 紅野は説得するのを諦めたかのように微笑むと、「じゃあ行ってらっしゃい。赤染さんはいないから」
「そうさせてもらう」
 俺は立ち止まる紅野に背を向けて、赤染の家に向った。
 何度も山道を抜け、傾斜のある上り坂を歩き終わったとき、小さな村みたいな場所に出てきた。山の平地に住宅を建てたようなところだ。そんな田舎っぽい立地とは裏腹に、建てられている住宅は洋風だった。家から出てくる人を見ると、みんな若く、俺のイメージしていた村とは少し違った。
 砂利道を歩き、担任に渡された紙を見ながら右往左往としていると、赤染の家らしきところに辿り着いた。前に赤染は、一人暮らしだと言っていたが、家の大きさが割に合っていない。外壁のなかに広がる庭を見ると、映画やドラマで家の庭をパーティー会場にしている金持ちの学生を連想させる。
 間違えていないのかをもう一度確認したあと、俺はインターホンを押した。
 だが、返事はなかった。
 念のためにもう一度、インターホンを力強く押した。もしかしたら、さっきのは、ちゃんと押せていなかったのかもしれない。
 けれどもやはり、返事はなかった。
 ひょっとして、赤染は寝込んでいるのだろうか。
 しばらく待ったあと、もう一度インターホンを押せばいい——
 そう思ったとき、「おーい、そこの人」という声が聞こえた。誰に声をかけているのだろうか。声がした方に向き、その人を見る。どうやら赤染の隣人らしい。赤染の住まいの隣にある家からこちらに向かってきた。
「なにをしてるのかな」筋肉が隆々としている男性は首を傾げると、「そこは俺の家だけど」と言い、「もしかして前の住人かい?」
「……いや、違います。あれ……」担任から渡された紙を再度確認した。間違えていない。ここは赤染の家だ。「この家に赤染さんが住んでると訊いたのですが」
「……あー!」男性はなにかを思い出したかのように目を見開くと、「君は赤染さんの友だちか」と言い、「赤染さんは引っ越してるはずだよ」
「……え」
「確か夏休み中だったかな。この家が空いたのは。ずっと前から住みたかったんだよ」男性は笑うと、「じゃあ散歩するので、これで失礼します」と言い、ポケットからスマホを取り出すと、どこかへ行ってしまった。
「ほんとうなのか……これ」
 信じられなかった。
 信じられないのではなく、信じたくないのかもしれない。
 あの男性は、赤染の家を自分の家だと断言した。赤染は一人暮らしのはずだが、クラスメイトに内緒で、身内と一緒に住んでいるのだろうか。それは違うだろう。隠す理由に見当がつかない。
 だとしたら赤染は、ほんとうに引っ越してしまったのだろうか。誰にも別れの言葉を告げることなく、この島を去ってしまったのだろうか。でも、それはあり得ない。赤染なら必ず、みんなに別れの言葉を伝えてから転校するだろう——
 そして次の日、朝のホームルームで担任は言った。
 ——赤染さんは転校した。
 親の都合で、本島に戻られたと。
 俺も含めクラスメイト全員、息を呑んだ。信じられないと。あり得ないと。でも、信じるしかなかった。
 ときの流れは早いものだ。
 気が付いたら二学期の期末試験の最終日になっていた。今日が終われば一週間後くらいには家に帰り、正月を迎えたあとセンター試験が待っている。一学期に比べて二学期は一瞬だった。
「もうそろそろ、この島ともさよならだな」結城は帰り道の途中にある自販機でコーンポタージュを買って手を温めた。結城の吐いた息が白くなる。「どうだ? 星でも見に行くか?」
「ああ。そうだな」
「……あれ? やっぱり変わったな、お前」
「そうか?」
 大きくは変わっていないが、自分のなかで余裕ができたような気がする。勉強が完璧だから、ではない。俺は赤染に教わったのだ。
 未来に怯えて生きてはいけない、今を全力で生きるのだ、と。
 俺は父親のようにはなりたくない、勉強を必死にやらなければ父親のようになってしまうと、常に自分に言い聞かせて毎日を過ごしてきた。
 確かに、目の前にある過ちを繰り返さないように生きることは重要かもしれない。
 でも、それだけではダメなんだ。
 自分の歩む道を、歩みたい道を、選ぶことも大切なんだ。
 失敗しないように生きるのではない。
 一度きりしかない人生を、満足できるように生きるのだ——
「結城と星が見たいからな」
「俺と、か……」結城はにやにやすると「照れるなぁ」とふざけながら言った。
「どうだ? 今回の期末試験は。赤染を教えてきた経験は生かされたか」
「まあ、そうだな……」
 中間試験対策で赤染を教えたとき、自分の理解力の低さが身に染みてわかった。おかげで今回の試験は確実に百点を取れる科目が増えそうだ。けれど、前の試験に比べて虚無感があった。心に穴が開いたような、そんな感じだ。
「じゃあ今日の夜、一時に学校集合な」
「わかった」
「よし、じゃあまたあとで——」
 結城は、「凍え死ぬ」と震えながらコーンポタージュを顔に当てると、俺の家の前を通り過ぎて行った。

 徹夜する人の脳は、どんな構造をしているのだろうか。俺には絶対にできない。これから星を見るというのに、眠気が襲ってきている。今なら五秒以内に寝落ちできそうだ。
 ふらふらとする頭を必死に抑えながら、正門前で待っていると、「白雪!」と声が聞こえてきた。結城だろう。俺は閉じてしまいそうな目を強引に開け、呼びかけに応じた。
 正門前に結城は自転車を止めると「よう、お前眠そうだな」と言った。
「初めてだ、こんな時間まで起きてるの」
「白雪らしいな」結城は微笑み、正門に手を掛けると、泥棒みたいに登り始めた。「ほら、生徒会長さん、後についてきな」ニタニタとしている。
「そうか……」今更だが俺は気が付いてしまった。校則を破ろうとしていることに。正門を登って校内に侵入してはならないみたいな校則はなかったかもしれないが、登ってはいけないと直感でわかる。人としてのルールというのだろうか。
「まさかここまで来て登らないは、ないよな?」
「ちょっと待て」
 頭のなかで葛藤している。
 屋上で星を見たい自分、校則を破ってはいけないと訴える自分が論争中だ。
「外部の人じゃないんだから別にいいだろ」戸惑う俺を諭すように、結城は話す。「それに、一週間もしたら、この学校とはお別れするんだから。一回くらいはいいんじゃねえか?」
「……」
 迷った末に、俺は正門に手を掛けた。
「それでいい。白雪が正門を登っている写真を学校中にバラまこう」
「それだけは辞めてくれ」バレてしまったら生徒会長の座を引きずり降ろされる。
 手慣れているのか結城は、軽々と四メートル近くある正門を登り終えると、内側から鍵を開けた。「よし、これで登らずとも学校に入れる。無意味だったな。白雪」
「……そういうことか」
 騙された。
 結城はただ、俺が正門を登る姿を見たかっただけだった。
 正門登りを途中で辞め、俺は結城の自転車を校舎内に入れた。よくよく考えれば登る必要はないってわかったはずだ。自転車かごに結城の荷物が入っているのを確認しなかった俺がバカだった。これだから夜中まで起きているのが嫌いなのだ。
「ありがとな、自転車」結城は自転車かごに入っていた荷物を取り出すと背負った。
「おう」一秒後にはどうでもよくなっていた。頭が回らない。
 非常口から学校に入り、屋上に繋がる廊下へと歩いてゆく。明かり一つついていない廊下は不気味だ。消火栓設備だけが暗闇を赤く照らしている。
 階段を昇り、屋上の扉を開けた。古いせいか軋む音がした。
「どうだ、この景色」
 結城はビップ席にでも招待するかのように、俺を先に屋上へと行かせた。
「……すごい」
 宇宙を見ているようだ。
 月が出ていない夜空は、星の輝きで彩られている。
「この学校の生徒しか見られない絶景スポット。誰にも邪魔されないで見られるのは最高だろ?」
「結城が屋上に来る理由がわかった気がする」
 眼前に広がる夜空から目が離せない。スマホのホーム画面にしようと、写真を一枚撮ったが、まったく奇麗に映らなかった。
「スマホじゃ撮るの難しいぞ」結城はバッグを漁り、カメラを取り出した。「これで前に撮ったことがあるから送ってあげるよ」
「ありがとな!」誕生日プレゼントを貰ったかのような気分だ。
「お、おう。白雪がそんなに喜ぶなんて、見たことない」
「それは嬉しいよ」
 星空は奇麗だと知ってはいたが、スマホの画面で見るのと直接見るのとではやはり違うものだ。これだけで屋上に来た甲斐があったなと思う。
「白雪の驚く顔を見れたことだし、早速準備するか」結城はバッグから、キャンプ椅子の収納バッグを取り出した。「キャンプ椅子を立てて、その上から布団をかけるのさ」
 寒い寒い、と言いながら結城は椅子に座り、膝の上に布団を掛けた。「これぞミニチュアキャンプ」
「幸せそうだな」
「幸せだ。断言できる」結城はそう言い切ると、椅子の隣に置いてあるバッグから水筒とマグカップを取り出してマグカップに飲みものを注いだ。
「はい、味噌汁。具材は豆腐とワカメ」
「用意周到だな」結城と違って、俺は防寒着しか持ってこなかった。防寒着で全身を包むように座り、腹を冷やさないようにする。
「もちろん。ここで手抜かりはしない」日頃の疲れを吐き出すかのように、結城は深呼吸した。「やっぱ、この学校に来た意味があったな。こんなにも奇麗な風景が見れるなんて」
「わざわざこの夜空を見るために、結城はこの学校に来たのか」
「そんなわけないだろ」結城は可笑しそうに笑った。「親元を離れたくてこの学校に来た」
「厳しいからな。結城の親は」
「それも嫌なくらいにね。あれだけ真面目だと、人生を楽しんでるのかを問いたくなるね」愚痴っぽく言うと、結城は味噌汁をずるずると飲んだ。「なにが先を見て行動しろだ。今を見れないやつに未来なんて見れるわけがないだろ。……あ、悪い。夜なのに人の悪口なんて聞きたくないよな」
「いや、大丈夫だよ」
「ネガティブなことは極力言わないようにしてるんだけど」
「しょうがない。誰にでも言いたいときはある」味噌汁をちょっぴり飲む。鳥肌が立った。食事する環境がここまで味覚に影響を与えるとは知らなかった。
「白雪はどうしてこの学校を選んだ?」
「そうだな……」この質問をされると、母親を思い出す。「母親に入れって、言われたからだよ。家事の手伝いもするから、偏差値の高い学校に入学させてくれ、とも頼んだ。でも、断れなかった……」
 ほんとうなら都内の学校に行きたかった。いい学歴を持ちたかったからだ。母親にそのことを伝えたが、辞めてくれ、と頼まれたから諦めざるを得なかった。でも今は後悔していない。この学校に入学してよかったと、心の底から思っている。
 二人の間に沈黙が流れると、「はは、ははは」と突然、結城は笑い出した。
「なにが可笑しいんだよ」
「いや、だてよ」笑いを堪えると結城は、「俺と真逆な理由だけど原因は同じだからさ」
「どこか同じなんだよ」
「俺は親から逃げるために来た。お前は親に追い出されてここに来た。どっちも親に左右されてるなって考えると笑えてきて。お前はもっと真面目な理由かと思ったけど違ったな」再び結城は笑い出し、「それに、境遇も似てるよな」
「境遇が似てる?」
「そうだ」
 結城は昔を懐かしむような目になると、
「大切な人がいなくなったって意味でだ」
「……」
「俺はあいつの分も生きる。生きたいんだ。俺が選んだ道だからな」
 結城の声音が変わったから、顔を見てみると、いつもケラケラしている結城の顔が覚悟に満ちていた。空を眺め、どこか遠くを見ている結城は、今は亡き彼女を見ているかのようだった。
「……結城」
「ん? なんだ?」
 言おうか言わないか迷った末に俺は、
「……過去に戻りたいか」
 と、質問してしまった。
 後悔していないのか気になったのだ。
 他の子と付き合っていれば、今も楽しい時間を過ごせていただろうに——
「いいや」
 結城は強くそう言い、
「後悔なんてしてない。満足してるよ、俺は。確かに日葵(ひまり)は余命宣告されていた。長くは生きられないって。持っても二年だろうってな。でも、俺は日葵が好きだった。世界を広げてくれた日葵を、俺は大事にしたかった。日葵のおかげで俺は、人生って楽しいもんなんだって気が付かされたんだよ。逃げるのが人生じゃない。立ち向かうのが人生なんだってね」
「……」
「俺の両親は毎日毎日、勉強しないと将来困るのはお前だぞ、って言ってきた。確かにこの意見は正しい。役立つのは間違いないからな。でも、違うんだ。その考え方が。勉強はやらされるものではない。将来の自分のためにやるものではなく、今の自分のためにやるものなんだってね。勉強の目的の焦点を、今に当てるか、それとも先の見えない将来に当てるかは、似ているようで、まったく意味が違う。
 日葵は限られた時間を楽しむために必死に生きてた。暇さえあれば自問自答を繰り返して、自分にとっての幸せを考えていた。驚いたね、あの日記、『過去と今と未来の私』には」
 結城は思い出し笑いし、話しを続けた。
「今までの出来事が全部、書かれてるんだ。あのときはどう思ったか、このときはどう思ったか、てね。でもこの日記は、日常を細かく記すだけじゃ終わらなかった。
 未来を書いてるんだよ。今までの自分を分析して。それも、未来で起こるであろう感情までも細かく書いてあった。それで答え合わせするんだってさ、昔と今が、繋がっているかって。それで予想が外れたときは嬉しいんだってさ。新しい縁が生まれたって。
 度肝を抜かれたね。初めて見たときは。こんなに自分を見つめられるやつがいるんだなって。それで俺は、日葵を好きになったわけさ」
「インスタとか、ツイッターとかじゃなくて、手書きで日記を書いてるのか?」
「そうだ。全部手書き。文字でそのときの気持ちがわかるからって言ってたよ」
「……すごいな」日葵さんの生き方に、言葉が出てこなかった。
「見してもらったときは、なにかの連載小説かと思ったよ。それでそのとき、日葵は言ったんだよ。どうして人は、今を見つめ切れていないのに、将来のことばかり見るんだろうって。それも暗い未来ばかりで、明るい未来だけを見ようとしないってね」
「だからさっき、結城は親に不満を言ってたのか」
「はは、まあ、そういうことだ。俺の両親は不安で生きている。希望で生きてないからな。そこが気に食わないだけ」結城は足元にある水筒を取ると、湯気が立っている味噌汁をマグカップに注いだ。「そんなことを教えてくれた日葵の名前を、俺はこの世に残したいのさ」
「なんだ? それ」
「星の名前に日葵を刻み込む」
「……は?」意味がわからなかった。
「俺も最近、本を読んで知ったんだけどな。星の命名権について」
「もしかして新しい星を見つけて、それに日葵の名前を付けるのか?」
「そうだ。それが俺の希望だ」
 星の命名権? 彼女の名前を刻み込む? 希望? 
 不意の告白に俺は耐えきれず、「……ははは」と笑みがこぼれてしまった。
「なに笑ってるんだよ」
「いや、ちょっと……」まさか結城が、こんなにもロマンチックな人だとは思わなかった。
「バカ、冗談に決まってるだろ」
「冗談には聞こえなかったけどな」
「冗談だ! 冗談! できたらいいなって ——熱っ!」
 どうしたと思い見てみると、どうやら結城は味噌汁をこぼしてしまったようだ。いつもなら俺がからかわれる側なのに。結城の反応が面白かった。
「バカになんてしない。カッコいいと思うぞ」
「この流れからしてバカにしてるようにしか聞こえない」
 結城の話を聞いて、俺は同じ道を歩いているな、と思った。
 赤染は俺に、生きるとはなにかを教えてくれた。そして、結城も日葵さんに生きるとはなにかを教えてもらった。
 これでやっとわかった。結城が自由人になってしまった理由が。今はもう、マイナスのイメージを持っていない。学校の規則を破る部分は認められないが、今をしっかりと見つめている姿にはすごいな、と素直に思う。
「じゃあ、そろそろ家に帰るよ」俺は立ち上がり言った。丁度いい節目だろう。
「え? 屋上に泊まらないのか?」
「こんな寒いところに一晩いたら凍え死ぬだろ!」結城が持っている布団を強奪したくなる。指がかじかんで動きずらくなってきた。
「準備が甘かったな、白雪」
「俺は泊まり込みだなんて聞いてないぞ」
「悪かったな。いつも一人でここに来てるから。言い忘れた」
「体調崩すなよ」屋上の扉に向かいながら言う。
「はっ。お前は俺の母親か」結城は吐き捨てるように笑いながら言った。
 その言葉を聞き俺は、「ある意味、同じなのかもな」と言い、校舎に入った。

 いくらか温かい。
 ゼロ度に近いとちょっとした温度の差で温かく感じてくるものだ。
 暗闇に包まれた廊下を歩き、角を曲がる。手で壁を伝いながら歩かなければならない程の状況ではないが、ゆっくり歩かなければ、壁に衝突してしまうだろう。そんなことを考えながら歩いていると、教室の明かりが目に入った。しかもそこは、俺の教室だった。
 今日の掃除当番が消し忘れてしまったのだろうか——
 足早に教室へ向かい、ドアを開ける。
「……あ」
 体が動かなくなり、喉に言葉が詰まった。
 こんな出来事が起きるとは思っていなかったからだ。
「……白雪、くん」
 お互いに目が合い、ときが止まったかのような感覚が襲ってくる。
「……赤、染?」
 そう。赤染がいたのだ。
 転校したはずの赤染が、自分の席に座っていた。
 ……あり得ない。
 赤染が教室にいるはずがない。
 だって赤染は、転校したはずだろ——
 目を擦り、再び赤染の座っていた席を見た。
 が、そこにはもう、赤染はいなかった。幻覚でも見たかのように、一瞬で消えてしまった。そして俺の目には、戻されていない赤染の椅子、それから、開いた窓から入り込む風で揺れているカーテンが映っていた。
「……」
 やはり幻覚だった。
 赤染と会いたいという意志が作った、満たされることのない幻想だった。
 だって赤染は、既にこの島から出て行ったはずなのだから——

 教室の明かりを消し、階段を下りて、正門へと向かった。
 やはり夜の学校は怖い。存在しないはずの人が見えてしまうのだから。これはきっと、俺の睡眠不足が原因だろう。
 正門を開けようとしたとき、学校に向かって車が走ってきているのがわかった。暗闇を照らす光が目立つ。
 教員かもしれない。と思い至った俺は、近くにあった木陰に入り姿を隠した。夜中に学校へ忍び込んでいる、とバレてしまったら、俺の立場は確実に剥奪されてしまうだろう。
 校内に入る車の姿を見ていると、「……トラック?」と、思わず声を出してしまった。教員が学校に来るためにトラックを使うとは想像がつかない。それにこんな時間に、荷物の運搬だなんてあるはずがない。
 陰に身を潜めていると、トラックに続いてきた二台の車から人が出てきた。顔までは見えないが、どちらも軍服を着ている。二人の内、身長が二メートル近くありそうな軍人がトラックにノックすると、なかから銃を持った軍人が二十人くらい、それから手錠をかけられている囚人らしき人が五人出てきた。牢屋で碌な食事を摂っていなかったのか、食事をしっかりと取っているのかが疑わしくなるほどに痩せていた。
 車から出てきた偉そうな二人を先頭に、銃を装備した軍人と囚人たちが校庭に向かって歩き出す。これから軍事演習でもするのか。まだ夜中で、近隣の住民を起こしてしまうような訓練はやらないだろうから、結城は大丈夫だろう。
 目の前に誰もいなくなったあと、俺は木陰から出て、家へと帰った。
 それも、結城から電話がかかっていたことを知らずに——
 家に帰ったあと俺は、結城から着信があったことに気が付いた。寝る前に何度かかけ直したけれども返信がなかった。どうした? と、送ったラインも既読が付かない。屋上でまだ寝ているのだろうか。授業開始まで残り三十分だというのに。
「おはよう、白雪」
 声を掛けて来たのは結城だった。寝不足には見えない。だが、疲れているように見えた。
「おはよう。よくあんな寒いところで寝れたな」
「布団があれば乗り越えられるよ」寝相が悪い人はどうすればいいのだろうか。確実に椅子から落ちるし、起きた頃には布団がなくて、風邪をひいているだろう。
「昨日の電話、どうしたんだ? 何回もかけ直してきたけれど」
「ああ、あれか」結城は俯くと、「暇だったからだよ」
「夜中に暇だからって、電話をかけてくるやつが身近にいるとはな」
「ははは」結城は苦笑いした。なにか誤魔化しているように見える。
「結城は昨日、幽霊を見たか?」
「幽霊? 俺は見てないけれど……」
「そうか」
「どんな幽霊だったんだ?」結城が心配しているようにも見える顔で訊いてきた。答えによっては真剣に話をしなければならないと目で伝えてくる。思い当たる節は毛頭ない。だから俺は、
「赤染が教室にいたんだよな」
 と素直に伝えた。
「……」
「でも、瞬きしたらいなくなってたんだ」
 目を開けたら、入れ忘れられた椅子に、開けっぱなしの窓しかなかった。まるで姿を見られたくないからと、外に逃げ出したかのように。
「……白雪」「ん? どうした?」
「ほんとうに、赤染を見たんだな」声を低くして同じ質問をしてきた。
 聞き逃したのかと思い、もう一度同じことを言おうとした。が、いつものおちゃらけた雰囲気が少しもなく、見てはいけないものを見てしまったのかと、赤染を見たのは冗談だと言ってくれと、そんな思いが伝わって来た。
「ほんとうだけど……どうした?」
 質問の糸が汲み取れなかった。
 結城はため息をつき、誰かを探すように教室を見渡すと、「白雪、外で話したいことがある。時間を貰ってもいいか?」と余裕のない顔で言った。
「外で?」
「そうだ。ここじゃ、ダメだ」結城の必死な顔に圧力を感じる。
「……ああ、別にいいけど」
「じゃあ行こう。時間がない——」
 そう言うと結城は、颯爽に教室を出て行ってしまった。

「そんなに慌てて。急にどうしたんだ?」
「昨日の帰り、お前は軍人を見たか?」命でも狙われているかのように、結城の話し方には余裕がない。「それとも見てないのか、どっちなんだ、白雪」
「まずは落ち着け、深呼吸でもしろ」このまま話していたら、結城の呼吸がもたなそうだった。昨日までは平然としていたのに、いったいなにがあったというのか。
 気持ちが落ち着いてきたのか結城は、「悪かったな」と謝ると、申し訳なさそうに俯いた。
「気にするな。赤染の霊を見たのは確かだけど、それがどうしたんだ?」
「やっぱりそうか——」
 結城は苦い顔を浮かべる。俺の返答を恐れていたかのような表情だ。
結城は改まるように深呼吸をすると、「これからする話をよく聞いて欲しい。俺のためにも、そして、お前のためにもな——」
「ああ。どんな話だ?」
 結城は心を落ち着かせるように目を閉じる。
 そして、深刻な事態に巻き込まれたかのような顔つきになると、
「昨日、お前が帰ったあと、赤染と軍のやつらが殺し合いをしたんだ——」
「……え?」真顔で冗談を言っているのだろうか。だとしたら、将来は役者になれるだろう。そう思ってしまうくらいに突拍子もない話題だ。けど、結城の硬直した顔は崩れず、微動だにしない眼差しを俺に向けてきている。
「信じなくても構わない。ただ、頭の片隅に入れておいて欲しいんだ。なにかあったときのために。俺たちが殺されないために……」
 人が死んでしまうような悲惨な光景を見たのだろうか。結城の顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだった。「それで、赤染の方が勝ったんだ。軍のやつら、二十人くらいか。そいつらを全員、食ったんだよ。赤染が……」
 うえっと。吐き気がしたのだろう。
 結城は両手で口を押さえると下を向いた。
「おい、大丈夫かよ」
 信じられない話だが、結城が冗談を言っているようには思えなかった。
「ああ、大丈夫だ。悪い……」
「生き残りは誰もいないのか? それに、殺す、じゃなくて、赤染は食ったのか? それも軍人を……」
「そうだ、食ったんだ。それに——」
 結城は目を逸らすと、
「紅野がいたんだよ。軍の方に。あいつは死んでない。今も生きてる……」鬼に恐れている子供みたいに、怯えた声でそう言った。「どうして、あんなやつが、俺たちのクラスにいるんだよ……」
「紅野? どうしてここで——」
「はは、アイツは人間じゃない。鬼だ。人の顔をした鬼だ。俺も殺されるかもしれない。アイツらみたいに、エサにされるかもしれない。ここで死ぬのなんて、それだけは御免だ」
 恐怖を植え付けられたような顔をしている。今にも壊れてしまいそうだ。
「大丈夫だ、結城。紅野は今、ここにはいない」
 結城の怖気づいた目に視線を合わせて、紅野はここにいないから大丈夫だと言い聞かせた。お前を殺すような人はいないと、緊張している体を和らげるように囁いた。
「……そうだな。それなら、よかった……」安心しきっているわけではないが、動揺が少しだけ納まったような気がした。
「これがもしも、世間に発覚したら日本はつぶれるだろう。日本がつぶれたら、やつらにとっても不利益しかないはずだ。だから慎重に物事を進めてくる。目撃されたら銃口を向けてくるくらいにな……」結城は目を鋭くして俺を見る。「だから、この島に滞在する残りの一週間、絶対に赤染と紅野の関係に首を突っ込まない方がいい。殺されるかもしれない。これは、俺からの警告だ。もしも紅野に、赤染を見かけたか、みたいな質問をされたら絶対に見てないって答えろ」
 いいな、と。
 結城は俺に、念を押した。
「…………」
 すぐに返答できるような内容ではなかった。
 前の俺なら迷わず、結城の意見に従っていただろう。
 だが、今の俺は、違う——
「悪いが結城の意見には賛同できない」
「白雪……」
「俺は、大切な人を見殺しにはできない」
 きっと結城は、ほんとうにあったことを話しているのだろう。
 昨日の夜、赤染と軍の人たちが殺し合ったこと。
 赤染が軍の人たちを食べたこと。
 そして紅野が、軍の方にいたこと——
 話が物語のようだ。まるで、全てが初めから予定されていたかのように。
 あの日の帰り道、紅野は俺に、忠告してきた。
 ——赤染とかかわるな。後悔するのはお前だ、と。
 あれは、俺を巻き込まないための言葉だったのだろう。
 今思えば、不可解なことがたくさんあった。
 赤染が発送先も知らない飲みものを飲んでいたこと。暗闇のなかでも、日が出ているように辺りが見えること。人とは思えない異常な体力を持っていること。そして、そんな赤染を遠くからずっと見ている紅野。
 紅野がいつも、赤染の近くにいたのは監視をするためだったのかもしれない。赤染の身近にいることで、うまく実験が進んでいるのかを観察していたのかもしれない——
「それでも俺は、会いたいんだ。一緒に、居たいんだ——」
 これこそ、飛んで火に入る夏の虫だろう。
 俺が首を突っ込んで、どうこうできる問題ではないのは誰にだってわかる。
 でも。
 それでも俺は、赤染愛夜、彼女を救いたいんだ。
 俺の人生を変えてくれた人。
 人生は、歩みたくない道から逃げることじゃない。
 歩みたい道へ進んでいくことが大事なんだって。
 そう教えてくれた彼女を、俺は、救いたいのだ——
「バカなことを言ってるって自分でもわかる。けれど、大切な人を救いたいって気持ち、結城なら、わかるだろ?」
「…………」結城は黙り込むと、「ははは」、と笑い出した。可笑しいものでも見ているかのように、結城は笑った。
「なにが可笑しいんだよ」
「いやいや。まさかお前が、ここまで赤染のことが好きだったとはな」
「好きじゃ表せない。俺にとって赤染は、人生を変えてくれた人なんだ」
「そっか……」
 にやり、と。
 結城は口角を上げると、
「行くまでとことん行ってこい。満足するまで抗ってこい。大事なのは自分に忠実になることだ。ほとんどのやつらは、見えない未来に怯えて安全な道を選んで行く。
 でも、それは間違いだ。この世に安全な道なんてどこにもない。勉強をすれば安全な道に行けるかって? それは違う。勉強すれば安全な道に行けるなんて、それはその道を突き進んだ人への冒涜だ。その人たちは、二度と戻ってくることのない時間を犠牲にして、掴み取ったんだ。自分の望む未来を。安全な生活をな。人生をかける覚悟がなければ、安全なんて手に入らないだろう」
 結城は微笑み、最後に言った。
「そんな、人生の成功者って言われているやつらに共通することはなにか——
それは、自分に素直なところなんだ。そいつらが最期に笑って死ねるのさ。って。日葵がそう言ってた」
「お前の言葉じゃないのかよ」
「もちろん。俺の頭じゃ、こんな言葉は出てこない」
 あはははは、と。
 俺と結城は二人で笑い合った。
 俺たちはほんとうに馬鹿だなと、そう言い合った。

 一週間後に行われる卒業式に向けて、今日は卒業式の進行の流れを確認する時間が放課後に設けられた。体育館が業務用ストーブに温められ、先生の話を真面目に聞いている生徒がいるなか、体を揺らしながら寝ている生徒もいれば、仲のいいクラスメイトと会話している生徒もいた。本番で緊張しないためにも、演台で自分が答辞を読んでいるシーンをイメージしながら、俺はこの時間を過ごした。
 卒業式練習が終わり、次々と体育館を出てゆく生徒を見ながら、俺も下校する準備を早々に整え、正門へと向かう。友だち同士で帰っている生徒が多いなか俺は走った。早く行かなければならないと思ったからだ。赤染の安否が心配で、平静ではいられない。
「——あら? どうしたの? そんなに慌てて」
 尾行されていたのだろうか。
 帰り道、いつも赤染と別れる場所で、後ろから紅野に声を掛けられた。
「用事があるから急いでるんだ」
「ふーん」不気味な笑みを紅野は浮かべた。「もしかして、赤染さんの家に行くのかな」
 紅野の言葉を聞いて、俺は確信した。
 今朝、結城が嫌な夢を見て精神的に不安定だったのかもしれない、という可能性もあったが、その可能性は完全に抹消された。紅野は昨夜、ほんとうに赤染を殺そうとしたのだろう。赤染と戦争をした、と結城は言っていたが、その様子がまったく窺えない。傷跡が一つもないのだ。
「その様子だと、私の予想は当たってたみたいね」
「お前は俺に、辞めておけ、とでも言うのか? お前に都合が悪いことでもあるのかよ」
 紅野は知っているのだ。俺が昨夜の出来事を知っていることを——
 そうでなければ話しかけてこない。紅野はどこかで、結城と俺のやり取りを見ていたのだ。
 ふつう、機密事項を知られたら、外に情報が漏れないように、と俺を暗殺してきそうだが、そうではないらしい。
「違うわよ」紅野は首を小さく振り、「都合が悪かったら、とっくに白雪くんなんて捕まえてるわよ」と微笑んだ。「その気になれば、いつでも白雪くんなんて殺せるんだから——」
 平気で物騒なことを言う。心臓が締め付けられ、体が逃げろ、と命令してきた。が、俺は立ち止まり、紅野を睨みつけた。気持ちで負けたら、二度と立ち向かえそうにない。
「世間にバラされるのは怖くないのか」
 人間兵器を製造している、と世間の人たちが知ったら、紅野にとって不都合だろう。職を失うのはもちろん、これから先、どこにも就職できないのは容易に想像できる。だが紅野は、昨夜の出来事を知られているのにもかかわらず、結城に手を出すわけでもなければ、俺に手を出すわけでもない。弱みを握られているはずなのに、隠蔽しようとする素振りすら見せない。
「まったく、怖くないわ」
「はったりだろ」
「そんなわけない。白雪くんも知ってるでしょ? 証拠がなければ誰も動かないって。一般人が犯行現場を見たからって、それが決定的な証拠にはならないってね」
 だって、
 と。
 紅野は薄気味悪く笑う。
「結城くんのスマホはここにあるから」
 紅野は胸ポケットから、結城が最近買ったばかりのスマホを取り出した。
「……」
「あれ? どうしたの? さっきまで、あんなに勢いがあったのに」
「……そのスマホ、いつ結城から奪った」
「いつって……」思い出す素振りを見せ、「昨日の夜だけど」
「お前、結城になにをした」
「体に傷をつけるようなことはしてないわ。誰かいないかって、見回りをしてたら、たまたま結城くんが屋上にいたから、一緒に儀式を見ただけよ」
「儀式?」
「そう。儀式よ。人類の救世主の誕生を確かめる、大きな儀式。でも、結果はダメだったけれどね——」紅野は俺の理解速度を気にせず、べらべらと話し続けた。「今回の儀式は成功するのか、期待していたのよ。今まで何度も何度も挑戦してきたからね。けれど赤染愛夜は失敗作だった。食べちゃったのよ、人間を。お腹が空いたからって理由で。食べなければ死んでしまうような飢餓状態でも、理性を保てられるように赤染さんを造ったんだけどね。だからまた、作り直さないといけない」
「……」
「白雪くんもわかるでしょ? お腹が空いただけで人を食べる人造人間がいたら危ないって。そんな人造人間がいたら、みんな死んじゃうわよ」
「……」
 紅野のような人間を狂人と言うのだろう。
 紅野の考えを俺は理解できる気がしない。しようとも思わない。人の心を持っているのであれば、誰もそんな思想に辿り着かないだろう。
 紅野は作り直さなければならない、と言っていた。赤染が失敗作だとも言っていた。赤染は失敗作なんかではない。一人の人生をいい方向に変えるほどの価値観を持った、正真正銘の人間だ。
 そんな赤染を駄作だなんて、許せない——
「だから、いくら白雪くんが足掻いても無駄なんだよ。証拠がなければ権力もない。それに、赤染愛夜は処理しなければならない。暴走したら誰も止められなくなるからね」
「——お前の好きなようにはさせない」
 これが精一杯だった。
 今の俺にできる、最大限の敵意表明だった。
「赤染も、結城も、滅茶苦茶にしやがって」
「さすが赤染さんの彼氏さん。でも救われない。助けられない——
 せいぜい足掻きなさい。赤染愛夜を救うために。そして思い知るのよ、愛は破滅しか生まないって。人間は、愚かなんだって——」
 これ以上話す理由はなくなった。
 ここで立ち止まっていても、時間が経つだけだ。
 紅野が言う通り、俺には権力もなければ紅野をつぶせるような証拠もない。
 ただ、勝機はまだある。
 紅野は油断している。負けとは無縁そうだ。
 それが故に、紅野は情報を漏らしすぎた。
 教えてはいけないはずの情報も、包み隠さず俺に伝えた。
 必ず俺は、救ってみせる。なにが起きようと、助け出してやる。
 輝く未来を手に入れるために、俺は必ず、君を守って見せる——
 赤染は、自分が人間兵器だと、どのタイミングで気が付いたのだろうか。人を食う兵器だと悟れば情緒不安定になるだろうが、そんな素振りは一切なかった。それどころか毎日、楽しそうに学校生活を送っていたくらいだ。
 恐らくだが、強行突破しようとしても、赤染は俺のことを家には入れてくれないはずだ。もしかしたら、白雪くんのことを食べてしまうかもしれない、とか、合わす顔がない、とか言って、俺を家から追い返すはずだ——
 赤染の家に着いた俺は、インターホンを押し、返答を待つ。
 顔が見られないように帽子を深く被った。これで家の前にいる人は、宅配便かなにかに間違えるだろう。ここに来る前に一度、俺は家に戻り、帽子とダンボールを取ってきた。服もそれらしいものを選び、万全な態勢で赤染の反応を待つ。
「……どちらさまですか」どうやら赤染は、まんまと引っ掛かったようだ。前に赤染は引っ越したと伝えてきた隣人は、もしかしたら紅野に関係がある人なのかもしれない。
「お届けものです」声音を変えて返答する。初めて声を変えたから、上手くできているかわからないが、赤染ならこれくらいで騙せるだろう。「印鑑を頂いても宜しいでしょうか」
「私、なにか頼んだっけな……はい、今から取りに行きます」
 がちゃり、と。扉の開く音がした。
 赤染が出てきたドアから、俺が立っている門まではいくらか距離がある。そのあいだで赤染にバレないように俺は足元を見続けた。手汗が出てくる。
「もしかして、あの栄養ドリンクかな……」赤染が気の抜けた声で呟き、門を開けた。「ん……もしかして、この匂い……」
 白雪くんかな? と。
 そんな小声が聞こえて来た瞬間、背中に悪寒が走った。
「——久しぶり、赤染」
 どうやって誤魔化すかを考えようとしたとき、反射的に自分の正体を明かしてしまった。ここはもう、直感に任せるしかない。
「ど、どうして、ここに……」
 後ずさりながら、赤染は目を大きく開いた。
 赤染はきっと、状況を理解ができたらすぐに門を閉めようとするだろう。それをさせないためには、赤染が戸惑っているあいだに決着をつけるしかない。
「ここに入れてくれ! 赤染と話したいことがある!」人生で初めて声を張った。喉に傷が入ってしまう。
「……い、いやだ! 絶対に入れないんだから!」「今しか話せる機会がないんだ! これを逃したら二度と、赤染とは話せなくなる! だから、ここに入れてくれ!」「い、嫌だって!」
 このままだと押し切られてしまう。
 俺を止める赤染の顔は、複雑な顔だった。
「入るぞ!」
 俺は手に持っていた段ボールを赤染に押し付けた。
 突然、ダンボールを押し付けられた赤染は条件反射でダンボールを手に持った。そのすきに、俺は赤染の横をすり抜けて敷地内の中心まで入る。
「どうか、これだけは頼む……俺は、赤染に話さなければならないことがあるんだ」
「……」
 寒さで冷え切った空気が赤染との間に生まれる。
 赤染がどんな表情をしているのか、頭を下げている俺には想像できない。
「家が嫌ならどこでもいい。俺は赤染と話したいんだ。だから」
「いいよ」赤染は抑揚のない声で話す。「その代わり、ここでなら」
 ゆっくりと俺は、顔を上げる。
 赤染の表情は、助けを絶たれてしまったかのような、悲しいものだった。
「わかった。なら、ここで話す」
「白雪くん、どうしたの」光のない目で赤染は、俺をじっと見てくる。
「……赤染、命を狙われてるんだな」
「なに言ってるの、白雪くん。私にはさっぱりだよ」
「とぼけないでくれ!」
「……」驚く様子もなく、赤染はただただ黙り込んだ。
「夏休みに海へ行って以来、連絡が取れなかったこと、二学期から学校に来なくなってしまったこと、全部、自分が人間兵器ってことに関係があるんだろ?」
 ぴくり、と。意表を突かれたかのように赤染は目を開いた。どこにも情報は漏れていないはずなのに、と困惑している。
「どうして、それを」
「結城から聞いた。軍に殺されそうになったらしいな」
「……なんで、なんで、白雪くんは知ってるの——」
 そう言った瞬間、赤染の目の色が変わった。
 乾ききった目から、負の感情が溢れている。
「殺したのは私だよ。先に殺しに来たのはあっちだけど、死んでしまったのは、私じゃなくて、軍の人たち。私は生きてるんだよ。昨日、あれだけ打たれたり、刺されたり、殴られたりしたのにね。傷跡が一つも残ってない。これじゃ、ほんものの殺人鬼だよ。死ぬことのない、完璧な殺人鬼。そうでしょ? 白雪くん。私、なにも間違えたこと、言ってないよね?」
「……」
「美味しかったんだよ。人の血が。ご飯とか、お菓子とか、そんなものとは比べものにならないくらい。これが人の味なんだって、食べ続けたいなって、思ったんだよ。そんな私に、白雪くんはなにがしたいの?」
 色のない赤染の瞳が涙で潤んだ。
 ——助けて欲しいのだろう。ほんとうは。
 けれども赤染は、その答えを見つけられない。
 人を食べてしまうかも、人に迷惑をかけてしまうかも、といろいろと考えているのだろう。
 でも、赤染は、俺のことを食べなかった。
 どれだけ近くにいようと、我慢していたのだ。
 ならば赤染は、いつも通りの生活を送っていいはずだ。
「俺は、赤染を助けに——」
「……うるさい」
「……だから一緒に」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
「……赤、染——」
「だったら、私を助けに来たんだったら、どこかに行ってよ……」弱弱しく、赤染は俺を睨みつける。「私を助けたいなら、早く、どこかに行ってよ。お願いだから……」
「嫌だ」
「なんで! 白雪くんは私のために来たんでしょ? だったら、私の言うことを聞いてよ。それが、私にとっての救いなんだから!」
「……」
「私は、白雪くんのことを大切な人のままで終わらしたい。好きな人のままで終わらしたい。でも、この体が、私の言うことを聞いてくれないの。食べろ、食べろ、って訴えてくるの。白雪くんは、私の食糧なんだって、私にとっての栄養なんだって、言い聞かせてくるの。でも、私は、そんな目で白雪くんのことを、見たくない……」
 なにも言い返せずにいると、赤染は頭を抱えて膝まづきそうになった。
「赤染!」
 体が勝手に、手を差し伸べていた。
「——触らないで!」
 俺の手が、はじかれた。
「もういいから! 速く出て行ってよ!」
 顔を覆った手の隙間から、赤染は獣みたいな目で、俺を睨みつけてくる。
「俺は出て行かない! 赤染は連れ出すまでは!」
「ああああああああああああああああ!」
 赤染の叫び声が聞こえたとき、俺の視界から、赤染が消えていた。
 ——きっと俺は、殴られたのだろう。
 視界の位置が、みるみると下がり、背中から地面に落ちる。
 「がっ!」
 あばらにヒビが入ったような気がした。
 吐血はしないが、頭皮から流血している。
「……まただ。また、殺しちゃった」
 赤染の膝まづく音が聞こえた。
「私は、私は—— みんなと一緒にいたいだけなのに……どうして、こうならなくちゃならないの。私、なにも悪いことしていないのに……」
 赤染は泣いた。
 どこにでもあるような、そんな生活を送りたいと泣いた。
 そんな赤染が泣く姿なんて、見たくない——
「……俺を、勝手に、死んだことにするな」
「……え」
「やっぱり、赤染は、人間だ」
 体を起こそうとすると、全身が鞭で叩かれたかのように痛くなった。
 蹲りたかった。痛い、痛い、と言って、立ち上がりたくなかった。
 でも今は、痛いだなんて言っている暇はない。
「……」わけがわからない、とでも言いたそうな顔をして、赤染は、だらりと膝まづいている。
 俺は、そんな赤染の前で、腰を下ろした。
「今ので全部、わかったよ」
「なんで、どうして……」
「確かに赤染は、人を食う化け物かもしれない。おまけに、人を簡単に殺められる力まで持っている。武装した軍人に生身で勝つくらいだからな」
「それなら! 私は、人じゃない……」また俯いてしまった。
「人を食うから人ではない。兵器みたいな強さだから人ではない。赤染は、そう言いたいんだろ?」
「そうだよ! これのどこが人なの! 私は人が粉々になるまで殴って、蹴って、食べた! そのとき罪悪感なんてなかった! これのどこが人なのよ!」
「——なら、どうして泣いてるんだ?」
「……」
「それに、さっきはどうして、俺を殺さなかった? もしも俺を食べたいなら、殺すのが一番手っ取り早いだろ?」
 自分でも驚くくらいに冷静だ。
 口が、自然と動き続ける。
「俺は今まで、怯えながら生きてきた。父親のようにはなりたくない、絶対にならないんだってな。怖い未来から逃げるようにしか、俺は人生を歩んでこなかったんだ。でも、それを変えてくれたのは赤染なんだ。迎えたい未来に努力する大切さを、赤染は俺に教えてくれた。だから今、俺はここにいる。赤染と、これからも一緒にいたいから、ここにいるんだ」これでは、告白と取られても仕方がない。けど、それでもよかった。
「……」赤染は疑いの目を俺に向けた。「……いいの? 白雪くんは。だって私は、人を殺したんだよ?」
「そんなの関係ない。第一、襲ってきたのはあっちからだろう? それなら正当防衛だ」
「私、また人を食べるかもしれないよ?」
「大丈夫だ。俺の血ならいくらでもやるし、医療に携われば血くらいは手に入るだろう。それに、赤染はもう、人を食べない。だって、今まで一緒にいた時間が、それを証明しているじゃないか。だから、大丈夫だ。安心しろ——」
「……ありがとう、白雪くん……」
 そう言うと赤染は、ゆっくりと抱き着いてきた。 
「ほんとうに、ありがとう。こんな私を、助けてくれて——」
 ぎゅっと。
 力強く、赤染は引き付けてくる。
「が、離してくれ、息が」
「ありがとう。ありがとう。白雪くんに会えて、ほんとうによかった」
「頼む、離して、くれ——」
 意識が遠のいてゆく。
 離してくれ、と頼んでも、赤染は俺を離してくれない。
 それほど苦しかったのだろう。助けてくれる人がいなかったのは。
 ならば俺が君を守って見せる。
 俺を暗闇から救い出してくれた君を、救い出して見せる——
 

 あのあと俺は、作戦の内容を赤染に伝えた。赤染のやることは案外簡単だから、すんなりと納得してくれた。この島から脱出したあとも宜しくねって赤染は微笑んでくれた。それだけで俺は、戦うためのエネルギーが蓄えられたような気がした。一学期のとき俺は、アヤスマ、になんて興味を持たないだろう、笑顔一つで頑張ろうだなんて思わないだろう、と思っていたが、たった半年くらい一緒にいただけで、こんなにも変わってしまうとは、俺も簡単なやつだな、なんて考えてしまう。
 赤染と別れてから俺は、赤染と別れて結城の家に向った。
 作戦の内容を伝えるだけだから電話でもよかったが、なにせ相手は軍だ。電波を拾われて作戦が筒抜けになってしまったら、俺たちの勝ち目がほんとうになくなってしまう。それにこの作戦は、紅野が言っていたことをもとにして練ったものだから、確実に成功するとは限らないのだ。
「——よお、どうした? 夜中に訪問してくるって、今までに一回もなかったよな」
 寝間着姿の結城が玄関に出てきた。
「結城に話しておきたいことがある」
「なんだそれ?」結城は目を擦った。
「とりあえず、家のなかに入っていいか?」
「ああ。別にいいけど」
 どうぞ、と言わんばかりに、結城は道を開けた。
 靴を脱ぎ、暗い廊下を歩き、俺と結城はリビングに入る。
「あれ。結城の部屋って、こんなに質素だったか? 前まで天体観測するための道具とか、カメラとか、いろいろあったのに」部屋には布団に机に椅子しかない。これから引っ越しでもするかのようだ。
「もう片付けたんだよ。全部、あそこのダンボールに入ってる」
 結城が指差した方を見ると、そこには段ボールの山があった。部屋の隅にできた段ボールの山は、地震が起きたら倒れてくるだろう。
「白雪は片付けたのか?」
「まだだな。でも、そろそろ始めないと。残り一週間しかない」
「まあ、白雪の部屋は勉強道具に机しかないからな。そんなにかからないだろう」
「皮肉しているように聞こえるのは気のせいか?」
「気のせいだ」
 そこの椅子に座りな、と言い、結城はキッチンに行った。
「はい、コーヒー。これで今夜は眠れなくなるぞ」結城が俺に渡してきた。
「そんなに長く話さないよ」ニ十分くらい話して帰ろうかと思っていた。
「まあ飲めって。この家でコーヒーを飲めるのは最後だぞ」
「そんな言い方するな。そもそも俺がこの家に来たのは、今回も含めて三回しかないんだぞ」
「なんだよ、その言い方。まるで俺の家に思い入れがないみたいじゃないか」
「素直に話したいって言えばいいものを」これ以上、コーヒーを飲むか飲まないかで揉めていても時間の無駄だ。俺は湯気の出ているカップを手に取り、一口コーヒーを飲む。
「そう。それでいいんだよ。一日くらい、ゆっくりしていけよ」結城は嬉しそうだ。「それで、作戦ってなんだ?」椅子に腰を下ろしながら言う。
「赤染を助ける作戦だ」
「赤染って。その前に赤染と会えたのかよ」
「会えた。それで話した。やっぱり赤染は、死にたくないってさ」
「死にたくない以前に、よくそこまで話し込めたな」結城はカフェオレを啜る。「どうやって赤染と対面したんだよ」
「特別なことはなにもしてない。赤染の家に、配達員のふりをして潜り込んだんだだけだ」
「やっと、覚えたんだな。人を騙すってことを」ニヤニヤと結城は笑った。
「その言い方だと語弊が生じる」
「いやいや。俺は嬉しいんだよ。白雪が自分の生きがいを見つけてくれて」
「なんだよ急に。俺は思い出話をしに来たわけじゃないんだ」
「やっぱり、話しの脱線は受け付けないか」
 あはは、と結城は苦笑した。
「じゃあ本題に入るか」結城は改まって言った。「その作戦とやらはなんだ? しかも相手は軍だぞ? 一般人が太刀打ちできる存在ではない」
「いや。一般人だからこそできる、作戦が一つだけある」
「なんだそれ」
「じゃあ今から説明する——」
 そこから俺は今回の作戦について説明した。赤染に頼んだこと。俺がすること。それから、結城に頼みたいこと。
 一気に話し過ぎたせいか、最初の反応はいまいちで、うんうん、と頷いていても理解していない様子だった。けれども、紙に図を書きながら説明すると、結城は納得したのか、そういうことか! と賛成してくれた。
 作戦を一通り聞き終わり、結城はカフェオレを飲んだ。
「なるほど。つまり今回の作戦は、生徒会長、SNS、それから島の住人を使った、鉄壁な防御作戦ってことかぁ」
「そうなる」
「にしてもよく考えたな。紅野の発言が嘘だった場合、この作戦は破綻しそうだけど。賭け要素はかなりあるな」
「俺の頭じゃ、これが限界だ」
「でも、これくらいで十分だと思うぞ。この島から赤染を脱出させれば、こっちに勝利の女神が降臨しやすくなるからな。生徒にスパイみたいのがいなければ成功するだろう」
「だな。仮にいたとしても、赤染にアプローチをかけてくるに違いないから、すぐにわかる」
「確かに。紅野の発言を解析すると、それしか手段はないからな」
「他に疑問点は?」
「ない。あとは実行するのみだ——」
 ひとまずこれで大丈夫だろう。
 俺の身に、なにかあったときの代役は任せられる。
「じゃあ早速、紅野だけがいないラインのグループを作るか」
「おーけー」結城はポケットから古い方のスマホを取り出して使った。「紅野に渡したやつ、もう帰ってこないだろうな」
「……」
 申し訳なくなった。嫌な出来事を思い返させてしまった。
「そう暗い顔するなって。俺はもう大丈夫だから。俺のスマホを取り返すためにも頑張ろうぜ」
「そうだな」
「俺は紅野を装って、グループに参加すればいいんだろ?」
「それで大丈夫だ。結城がいない理由は、スマホを川に落とした、でいいよな?」
「文句なし。あとは全員入ってきたあと、先生にサプライズしたいから、学校でこの話をするのは禁止、も忘れずにな。そうすれば紅野に情報が回りにくくなるだろう。それに、卒業式の写真撮りごときに、みんなザワつかないだろ」
「だな。集合写真は恒例行事のようなものだから、学校で話題にすらならないだろ。あとは祈るしかないな」
 一週間後の卒業式の日に全てが決まる。
 これは予想だが、紅野たちが赤染を処理してくる日は、卒業式の日に合わせてくるはずだ。いつ暴走するかわからない赤染、機密情報を漏らす可能性のある一般市民が減るタイミング、これらを踏まえて考えた結果だ。
 作戦を伝えたあと、俺と結城は結局、思い出話に浸かった。幼稚園の頃にタイムカプセルを埋めたとか、小学生のときは、自由研究の課題でペットボトルロケットを連射するためにジュースを無駄買いしていたら母親に怒られたとか、そんな話をした。
 こんな平和な時間を、赤染とも送りたいと、俺は強く願った。
 雪の降る卒業式の日。
 卒業式といえば、三月に行われるイメージがあるが、この学校は本島から離れていて、ほとんどの生徒が大学入試をする会場から離れているから、十二月に卒業式をやってしまう。
 紅白に染まった体育館のなか、今年の卒業式も無事に終えた。
 来賓挨拶を聞き、校長先生から卒業証書を受け取り、校歌を斉唱して、一年間お世話になった教室に行き、担任の先生からクラスメイトに向けての言葉を受け取った。友だちと笑っている生徒もいれば、泣いている生徒もいて、これが高校生活最後なんだな、と改めて実感した。高校生活のなかで、いや、今までの人生で今年は特に、中身が濃い年だったと思う——
「おい白雪、俺はお前の身になにかが起きたときの代理役でいいんだよな?」
 結城が俺の耳元で確認してきた。
「そうだ。結城はなにも知らないように振舞ってくれればいい」
「了解」
 そう言うと結城は男子が固まっている黒板前に走って行った。
 結城が楽しそうに話しているのを見届けて、俺は教室を見渡した。
 ……やはりいない。
 紅野が学校に来ていないのだ。
 もちろん、卒業式にも来ていなかった。
 きっと紅野は今頃、慌てているのだろう。
 この事態については、計画を立てる段階で予測がついていた。
 なぜなら軍にとって今日は、最も赤染を処理するのに都合がいい日だからだ。都合がいい日、というよりかは、動かなければならない、あるいは、動きやすくなる日とでも言うのだろうか。
 紅野は前に、結城のスマホを奪っていた。情報を隠蔽するためだろう。人間兵器を造っていることが公になったら、自分たちが危ない、と紅野はわかっているのだ。
 夜中の学校にいた赤染を狙ったのも、昼間だと人目についてしまうから、それを避けたかったからだろう。島の住民、あるいはこの学校の先生や生徒に目撃されて、その目撃情報をネットに拡散されたら紅野たちはお終いなのだ。
 それに紅野は、赤染が暴走する前に処理しなければ、と言っていた。
 住民に被害が出る前に止めなければならないのは当たり前のことだ。もしも被害が出てしまったら来年の入学者数が減り、紅野たちの言う、儀式、とやらが成立しなくなってしまう。ほとんどの生徒の地元が本島だ。死者が出た島の学校になんて、誰も行きたくなくなるだろう。そう考えると今日に焦点を当てるのは当然の判断なのだ。
「みんな聞いてくれ!」教室にいるクラスメイトに俺は声を掛けた。「学年ラインでも伝えた通り、これから学年全員の写真を撮るから、大教室に置いてある荷物を持って、十分後には体育館に向かってくれ!」
 みんな俺を見て、友だちと目を合わせると、嬉しそうな顔をした。
 女子の方からは、久々に愛夜と会えるのが楽しみ、と声が聞こえ、男子の方からは、もう二度と会えないだろうから一緒に写真撮ってもらおう、みたいな声が聞こえた。
 今回の作戦は、赤染がみんなに好かれるような人だったから成立した、と言っても過言ではない。結城の家で学年ラインを作り、俺は、赤染がこの島に戻ってきて、みんなと卒業写真を一緒に撮りたいらしい、と送った。みんなの反応が不安だったが、その心配は無用で、むしろ大歓迎だった。それはそうだ。急に転校してしまった、仲のいい友だちと会えるなら、誰だって喜ぶに決まっている。
 そのあと俺は大声で、廊下で話している生徒、他の教室にいる生徒たちにも、荷物を持って体育館に集合するように、と伝えた。すべての教室から嬉しそうな声が聞こえてくる。
 大教室に行き荷物を持ったあと、俺も含めて全員、体育館に集まった。卒業式の跡はまだ残っている。本島に戻るための船に詰め込む荷物は、体育館の端に移動させ、赤染が来るまでしばらく待っていてくれ、と伝えた。
 白雪くんが、みんなに集合時間を伝えてから、もうニ十分は経っただろうか。女子トイレの個室に隠れているせいで、正確な時間がわからない。
 白雪くんに連絡をしたい。でも、スマホを持っていないから連絡ができないのだ。私にはよくわからないけれど、白雪くんは、もしかしたら私のスマホは軍から支給されたものの可能性がある、と言っていた。位置情報がどうだとか、通話履歴がああだとか、それで赤染の居場所とか作戦の内容が筒抜けになったら危険だ、みたいな意味だった気がする。
 それで白雪くんは、トイレにいる私に伝わるように、大声で廊下にいる生徒や他の教室の子に声を掛けていたのだ。一応、私のスマホは池に落として故障したことになっている。みんなからのメッセージを返信しなかった理由を、私はちゃんと伝えたいけれど、白雪くんがややこしくなるから止めてくれ、と頼まれた。転校したとして生徒とは会話してくれ、とも頼まれている。
 個室から出て、私はドア越しに音を確かめた。
 ……大丈夫そうだ。
 誰もいない。
 ドアを忍者みたいに開けて、足音を鳴らさないようにしながら、私は体育館へと向かった。

「——ああ! 愛夜!」
 私が体育館に入ると、クラスメイトの妃菜(ひな)が私を指差した。
 妃菜につられるように、同じクラスの女子が私の存在に気が付くと、次々と名前を呼びながら私の下に走ってきた。
 急に連絡が取れなくなったらから心配したよ、どこの学校に転校したの、久しぶりだね、と色々な声が一斉に飛び交ってくる。これだけで私は泣きそうだった。みんなが、こんなにも心配してくれていた、と考えるだけで、私の傷ついた心が癒されてゆくような感じがした。
 一人一人に私は、スマホを池に落としちゃった、東京の学校に転校した、久しぶりに会えて嬉しいよ、と言い目を合わせて笑った。
「どうだ、久しぶりの学校は」
 白雪くんが、私にそう尋ねてきた。
「うん。嬉しいよ、ほんとうに。戻って来れるとは思わなかったから」
「辛かったら無理しなくていいからな」
「うん……ありがとね」
「ああ。こちらこそ」
 白雪くんは微笑むと、体育館にいる生徒全員に向って、
「これから赤染を含めた卒業写真を撮るから、クラスごとにまとまってくれ!」と、合図をかけた。
 私のためだけに、やってくれている、と考えると、鼓動が速くなってしまう。今の私は、白雪くんの横顔を見るだけで、頭が真っ白になってしまう。
 白雪くんは私に目をやると、「二組と三組のやつらが、真ん中に赤染が来るように空けてくれているから、そこに行きな」と言った。
「え、でも私、一組だよ?」
「いいんだよ。みんながそうしたいって言ってるんだから。この学校じゃ、赤染は有名人なんだから」
 見てみると、二組と三組が一人分、すっぽりと穴を空けていてくれた。手招きもしてくれている。ここには居場所があるんだよ、と言ってくれているようだ。
「これが島の学校のいいところなのかもな。この学年も、百五十人くらいしかいないから、みんな同じクラスも同然みたいなところがあるって……どうしたんだ? 顔が赤くなってるけど」
「……なにも、ないよ」
 私は目を隠して、溢れてきた涙を必死に堪えた。
 こんなにも優しい人たちが多くいる学校に出会えて、私は、ほんとうに幸せ者だ——
「十秒後にシャッター切るぞ」
 三脚に置いてあるカメラのボタンを押すと、白雪くんは一組の方へ走った。
 雪が降る寒い季節のなか、隣の人の肌と肌が触れあい、温かさを感じる。
 みんなで寒くならないように、協力して助け合っているかのように。
 あなたを私たちが守ってあげる、仲間なんだから、と伝えてくれているみたいで、泣かずにはいられなかった。

 全体写真を撮り終わって、そのあとは私のところに来てくれた子と写真を撮った。女子だけなのかな、と思ったけれど、男子も次々と来た。私は芸能人なのか、と疑ってしまうくらい、みんなが一緒に撮ろうよ、と声を掛けてくれた。
 全体写真を撮るのに使ったカメラが高価そうだったから、それどこで買ったの? と白雪くんに聞いたら、あのカメラは結城がいつも星を撮影するときに使っている、と言っていた。私も一度は、夜空に浮かび色とりどりな星を撮影してみたい。
 思えば私は、担任の先生にも挨拶をしていなかった。この際は、謝っていない、の方が正しいのだろうか。自分でも転校したのか、それともしてないのかがわからなくなってきた。会いたいのには変わりない。
「白雪くん」私は全体を見渡している白雪くんに声をかけた。見張りでもしているのだろうか。
「どうした?」
「あのさ、学校の先生に、会いに行ってもいいかな」
「んー」足元を見て、白雪くんは考え込む。
 パッと顔を上げると白雪くんは、「いいと思う」と言った。「学校は安全だろう。紅野みたいな生徒はいないと思う」
「だよね。学校は安全だから、みんなをここに集めたんだもんね」
「そうだ。それに一般人が多くいる。ここにいる生徒で集団下校すれば、軍のやつらは容易に手を出せないだろう。生徒が死んだら、親が必ず気が付く。どうして私の子は帰ってこないの? って。そうなれば、学校の評判は下がり、紅野の言う、作り直し、がやりにくくなるはずだ。環境が整っていないのに実験するような空っぽな頭ではないだろう」
「……要は、生徒に手を出したら自分たちが不利になるってこと?」
「そういうことだ」
「私にはよくわからないけど、大丈夫そうだね!」
「だから、先生たちに会ってくるといい。でも、なにか違和感を感じたらすぐに逃げるんだぞ。赤染の足なら逃げられるはずだ。新幹線並みの馬力があるのに、逃げられないはずがない」
「うん! じゃあ、会って来るね」
「ああ」
 今日みたいな日に辿り着くなんて、思わなかった。
 私は一生、一人で時間を過ごさないといけない、
 軍の人と戦わなければいけない、
 そう思っていた。
 でも、私には。みんながいる。
 守ってくれる、みんながいる。
 それだけで私は、胸がいっぱいだった——
 暖房の音が聞こえるほど静かで、この学校の生徒全員が入っても大丈夫そうな職員室に行き、私は担任のみなみ先生に声をかけた。
「みなみ先生、お久しぶりです」
「んんって、え、赤染さん?!」みなみ先生は、椅子から転げ落ちてしまうくらいに驚いた。「……どうして、ここに?」みなみ先生は机の上に置いてあるスマホを手に取り、誰かと連絡を取り始める。
「みんなと写真を撮りたくて。戻ってきました」
「そうか、そうなのね……」みなみ先生は私と目を合わせず、スマホに文字を打ち込んでいた。もっと、ちゃんと話したいのに。忙しいのかな。
「先生、誰と連絡しているのですか?」
「……」私を無視して、必死に打ち込んでいる。
 私は、みなみ先生のスマホを覗き込んだ。誰と連絡をしているのか、楽しみにしながら覗き込んだ。これがもしも、みなみ先生の彼氏だったら、話題が広がりそうだ。
 ——でも。
 みなみ先生が連絡している人は、私の予想を裏切った。
「……どうして、みなみ先生が、紅野さんと連絡を取ってるんですか?」
 頭の中が真っ白になった。
 どうして、どうして、と疑問ばかりが湧いてくる。
「あー、そうね……」
 みなみ先生は顔を上げて微笑むと、
「赤染さんが、学校に来てるって、紅野さんに伝えるためよ——」
 みなみ先生の言葉を聞いたとき、私のなかで大事ななにかが断たれた。
 みなみ先生が紅野さんの仲間だと気が付いたとき、私の逃げ道はすべて塞がれていた。職員室から廊下に出るための道も、外の様子が見える窓も、閉ざされている。逃げ道を塞ぐ壁は黒く、見た目からして簡単には壊せそうにない、と直感でわかった。
 どうにかして逃げないと、と考えていると、私の目の前にいたみなみ先生は、私から距離を取って銃を構えていた。他の先生も、みんな、私に銃口を向けて立っている。それも訓練された軍人みたいに。
「……先、生?」開いた口が閉まらなかった。
「——撃て!」
 みなみ先生の声が聞こえたとき、物音すらしなかった職員室が、発砲音で満たされた。銃弾が、体を貫通してゆく。私の楽しかった思い出とともに、体を貫通してゆく。不思議と痛みはない。これもきっと、私が兵器だからだろう。
 けれども胸だけは、ぎゅっと、締め付けられた——
「……ひどいよ」
 私は信じていた。
 先生たちは優しい人だって。私を守ってくれるって。
 助けてくれるって——
「……みんな、みんな、もう死んじゃえ!」
 こんな結末を迎えるなら、最初から諦めていればよかった。
 人を信じられなくなるなら、死んでしまった方が楽だった。
 でも私にはそれができない。
 したくないのだ。
 白雪くんと生きたいから、友だちとまだ、生きていたいから——
「……先、生」
 あっという間だった。
 私が、先生たちを殺してしまうのは。
 みんな、血を出して倒れている。
「……あ、あ、あ、あああああああああああ!」
 私の心はぐちゃぐちゃだ。
 生きたいから殺してしまい、殺してしまって泣いている。
 どうすればいいのか、自分でもわからない。
 ——ふと、
 私は亡くなってしまった先生たちを、食べたいと思ってしまった。
 口の中が湿り、頭から血の匂いが離れない。美味しそうだと、そう思ってしまう。
「……ダメ、絶対に、ダメ……」
 現実から目を背けるように蹲り、私は耐え続けた。
 人は食べものじゃない。私と同じ、人間なんだと言い聞かせ、暴れ出しそうな舌を噛み続けた。