気が付いたら日は沈みかけていた。海が茜色に染まっている。
 海で泳いでいた人たちはいなくなり、砂浜で遊んでいた人も、いつの間にか指で数えられる程度の人数になっていた。
「あー、たくさん遊んだ」
 水着から私服に着替えた赤染は、俺の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「スイカ食べるか」どうせ家に持ち帰っても食べきれないだろうから切っておいた。
「うん! ありがとう!」
 がぶり、と噛みつくと、赤染の頬が砂浜に落ちてしまいそうになった。たくさん動いたあとのスイカが美味しいのだろう。あっと言う間に一つ食べきると、紙皿の上に置いてあるスイカを素早く取った。
「水っぽくて美味しいね」顎が外れてしまうくらいに赤染は、口を大きく開けてスイカにかぶりつく。「うんうん、水っぽい」
「美味しいな」水っぽい、のニュアンスが違うような気がするが、そのまま流した。
「これ食べたら潜水してこようかな」
「もう着替えただろ」
「あっ、確かに。じゃあ辞めておくか」
 赤染は苦笑すると、ブルーシートの上で寝転がった。
「ごめんね、今日。急に遊ぶ予定にしちゃって」
 笑うこともなければ、申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、赤染は空をぼーっと見ながら呟いた。
「気にするな。俺も楽しかった」
「え、ほんとうに?!」赤染は飛び起きると俺の顔をまじまじと見つめた。
「ほんとうだ」
「それならよかった」
 赤染は嬉しそうに笑うと、足を伸ばし、手を後ろについて、夕日を全身で浴びるかのように座った。遊びすぎて疲れ切ったのか、赤染の表情がいつもよりもおっとりとしていた。
「明日から、また頑張らないとね」
「……そうだな」赤染は勉強のことを言っているのだろう。
「よし、やっぱり楽しまなくちゃね。もったいない」
 赤染は、瞬く間に気持ちを切り替え、笑顔になった。
「…………」
「……んん? どうしたの白雪くん」
「……いや、なにもない」
 だな、といつも通りに返せばいいのに、俺の口が開かなかった。
 嫌なのだろう、日常に戻ることが。
 夢が決まっていないのにもかかわらず、受験に向けて頑なに努力する毎日。
 父親のようにはならないように、母親には恩を返すために、と努力する毎日。そんな日常に戻りたくない自分がここにいる。
 けれども休むわけにはいかない。
 でないと、俺の存在価値が、なくなってしまう。
「……なあ、赤染」
「んん?」
 俺は、何事もないかのように笑っている赤染の顔を見た。
 赤染だって日常に戻るのは嫌なはずだ。
 それなのに赤染は、嫌な顔をせず、これから戻る日常を笑顔で迎えようとしている。
「どうして赤染は、そんなにも楽しそうに生活ができる」
 一緒に勉強を始めたときからの疑問だった。
 苦い顔するどころか楽しそうな顔をする理由が、俺は知りたかった。
「楽しそうか……」
 赤染は辛い過去を思い出したように俯くと、
「私ね、高校生からの記憶しかないんだ」
 と言った。
「高校生からの記憶しかない…… 事故にでも遭ったのか」
「違う。わからない。でも、気が付いたら私、家にいたの」
 赤染は言葉を慎重に選びながら話し続けた。
「でも、学校に行かないといけないってことは覚えてたんだ。不思議だよね。それだけは覚えてるって…… だから私、怖かったんだよ。いつかまた、急に記憶がなくなるって思うと。そのせいで私は、学校生活を心の底から楽しく過ごせなかった……」
 打って変わって、赤染は明るい表情になると、「それで会ったんだよ、白雪くんに」と、目を細めて嬉しそうに言った。
「ん、俺か」
「そう、白雪くんだよ」
 赤染は俺から視線をずらし、海の方に顔を向けた。
「私、すごいなって思ったの。白雪くんが屋上で生徒を叱ってたの。白雪くんは怖くないのかなって。人って、自分のやりたいことを邪魔されたら怒るでしょ? でも白雪くんは生徒会長として注意した。相手は白雪くんよりも、すっごく体が大きかったのにね。そこで私、思ったの。未来に怯えて生きちゃいけないって。今を頑張って生きないと、てね」
 赤染は立ち上がり、沈みかける夕日を見つめた。
「だから私、全力で生きてるの。叶えたい未来に向かって頑張ってるの。行きたくない未来から逃げるんじゃなくて、行きたい未来に向かって生きろって教えてくれたのは白雪くんなんだよ。そんな、私に大事なことを教えてくれた白雪くんが、私は好きなんだ」
 海の方に向いていた赤染は、俺の方に振り向き、満面の笑みを見せた。
「あ、ごめんね、長々と話しちゃって。しかも白雪くんからしたら、どうでもいいことだし」
 赤染は手を口で塞ぐと、顔を真っ赤にした。
「いや、うれしいよ。そう言ってもらえて」
 赤染はそれを聞くと、「え、あ」と戸惑った。「ほんとに?」
「ああ。ほんとうだ。わからなかったことがわかったような気がする」
「……それならよかった」緊張が解けたみたいに、赤染の表情は緩くなった。
 俺は今まで怯えて生きていた。
 父親のようになってはいけない、と生きてきた。
 でも、大事なことは違った。
 自分がどうしたいかが大事なんだ。
 歩みたい道はなにかを考えるのが大事で、辿り着きたくない道から避けられるような道を選ぶのは違う。進みたい未来があるから、それに向かって生きる、ということが大切なんだ。
 前から俺は、赤染とはなにかが違う、と思っていた。
 きっと、これが正体だったのだろう。
 叶えたい未来のために生きるか、それとも、叶えたくない未来から逃げて生きるか。
 だからいつも、赤染は楽しそうにしているのだ。
 自分が望む未来に向かって生きているから、歩みたい道を進んでいるから、彼女は毎日が楽しいのだろう。
「……赤染」
「ん? どうした?」
「これからも、よろしくな——」
  夕日に照らされている彼女は、誰よりもたくましく、そして、美しく見えた。先の見えない未来に、怯えず、立ち向かっているようにも見える、そんな彼女の姿に俺は、目が離せなかった。
 「——うん! よろしくね!」
 彼女は俺の顔を見て、笑った。
 その笑顔に、俺の強張った表情が、解けてゆくのを感じた。
「あ、そろそろ帰らないとだね」
「だな」
 自然と笑みがこぼれてくる。
 彼女を見ていると、幸せな気持ちになれる。
 これがもしも、恋、というのなら、俺は赤染に、出逢ったときから恋をしていたのかもしれない。

 俺は立ち上がり、赤染と一緒にブルーシートを畳んだあと、砂浜を歩いた。
 アスファルトの道が見えてきたとき、俺は、なにか鋭利なものを踏んでしまった。痛みが走った場所から血が溢れ出てくる。金を極力出さないためにも、ビーチサンダルはいらないだろう、と思ったが、こういうときに限って、尖ったものを踏んでしまうものだ。
「さすがにこれは、痛いな……」
「大丈夫?!」
 赤染はしゃがみこみ、俺の足元を見ると、
「血がたくさん出てるね……」と言った。
 珍しいものでも見るかのように、じっと赤染は血を眺めると、犬が匂いを嗅ぐみたいに、顔を傷口に近づけた。ボールペンが一本、入るか入らないかくらいの距離だ。
「あまり顔は近づけない方がいいぞ」
「……」
 そう注意したが赤染は微動だにせず、俺の傷口を眺め続けた。
「どうしたんだ? 赤染」
「……」
 なにをしたいのか、と思いながら見ていると、赤染は更に、ゆっくりと傷口に顔を近づけた。このまま止まらなかったら、赤染の唇が傷口に触れてしまいそうだ。
「おい」足を引っ込めながら、語気を強めて俺は赤染を止めた。
 赤染は目を覚ましたかのようにぱっと顔を上げると、俺を見上げた。寝ているところを邪魔されたかのように、赤染は戸惑っていた。
「どうしたんだ? 赤染」
「あっ……」
 赤染は黙り込み、誤魔化すような笑顔になると、「傷口が深いから、どれくらい深いのかなって」と言い、立ち上がった。「ごめんね。ジロジロ見ちゃって」
「そんなに傷口、深かったか?」
「う、うん。まあね。ばんそうこう、貼った方がいいかも」赤染はハンドバックを漁り、ばんそうこうの箱を取り出すと、俺に渡してきた。「全部、使って」
「全部は使わないけど、ありがたく貰うよ」
 ばんそうこうを箱から一枚だし、足裏の傷口にぺたりと貼った。
「待たせて悪かったな。じゃあ帰るか」
「……うん」俯きながら赤染は返事した。声がいつもと違って、落ち込んでいた。
「どうした?」「いや、なにもないよ! うん、帰ろう……」
 赤染は歩き出すと、
「思い出話でもして、帰ろ」
 と、郷愁の念に駆られているような顔で、そう言った。