「これでやっと一学期が終わる」
 ドッチボールで当てられて、外野にきた結城は、ため息交じりにそう呟いた。
「だな」
「あばらのヒビで体育を見学できるのはいいな。俺も赤染に衝突してもらおうかなー」結城はあくびをした。「赤染は相変わらず無双してるし」
「あれは異常だ」
 あの怪力はどこから生まれているのか。
 男子柔道部の球より速いのは当たり前で、ひょっとしたら甲子園に出場しているピッチャーよりも速いかもしれない。投球の正しいフォームを知っているわけではないが、赤染のフォームは美しいと直感でわかる。
「あれじゃ、チーム戦になってないな」結城は苦笑した。
「赤染対クラス全員でもいい気がする」
 柔道部の男子である飯田が投げた球を軽々とキャッチした赤染は飯田に向けて投球した。
「あーあ。赤染に向かって本気で投げるから、本気で返されちゃうんだよ。怖い怖い」結城は笑いながらそう言った。
「飯田は大丈夫なのか? 蹲っているけど」
「まあボールは柔らかいし、飯田は日頃から鍛えてるから大丈夫だろ。でも、俺たちみたいな一般人があんな球を受けたら、間違いなく病院送りだろうな」
「だな」
「可愛い顔してるのに肉体が凶器だからな。そんな赤染に好かれてるお前はもっとすごい」
「俺はなにもすごくない」
 飯田は四つん這いで外野に出ると仰向けに倒れた。遠くからでも辛そうなのがわかる。国体に出場するような飯田を打ち負かす赤染の肉体はどうなっているのだろうか。あれだけのポテンシャルがありながら部活動に入っていないのだから、猫に小判もいいところだ。
「それにしてもこの学校の校庭は広いよな」
「東京ドームはすっぽり入るだろ」
「なんでだろうな」
「知らん。土地は安いだろうけど」
「でも広くする意味がないよな。ただでさえ本島の学校よりも人数は少ないのに」
「確かに……」
 体育館もそうだ。
 野球を支障なくプレイできるほど広い。ボールが窓に当たったら割れそうだが、強化ガラスだから心配はいらないらしい。壁も窓と同じで、壊れにくい素材でできているから、球技や格闘技しても大丈夫だと聞いたことがある。
「あ、そうだ。思い出した」
「なにを」
「赤染と白雪って、付き合ってるのか?」
「付き合ってない」
 放課後、俺は赤染に勉強を教えてはいるが付き合ってはない。
「そうか。そうか。それならよかった」
「なにがよかった」
 んー、と結城は考え込むと
「紅野が俺に訊いてきたからさ」
 と言った。
「紅野、か。紅野は結城に、どんな質問をした」
「赤染と白雪は付き合ってるのかって」腕を組み結城は空を見た。「そもそも白雪って、紅野と接点あるのか?」
「いや。特になにも」
「だよな…… もしかしてモテ期の到来か?」
「それはない」
「だって赤染には告白されているわけだし、紅野には彼女持ちか訊かれているわけじゃん。どう考えても白雪史上、最高のモテ期だよな。しかもどっちも、顔面偏差値が日本一だし」
「それはない。他の理由で訊いてきたんだろ」
「でも、その他の理由ってなんだろうな。日陰で紅野は見学してるから訊いてみたら?」結城は木の下にあるベンチの方を見た。「毎回体育の授業は見学してるけど飽きないのかね」
「飽きるだろ。でも、義足だからドクターストップでもかかってるんじゃないか」
「だな。ボールが当たったら壊れるかもしれないしな」
 紅野は今も、校庭で行われているドッチボールを眺めている。
 野球観戦するみたいに、楽しそうに見ているわけでもなければ、つまらなそうに見ているわけでもない。ただただ、ロボットみたいに無表情でベンチに座っているのだ。
「あれで愛嬌がある人だったらさ、こっちから話しかけて座りながらキャッチボールでもできるんだろうけど、そうじゃないからな。赤染みたいに終始笑顔なら会話できるのに」
「だな…… あっ」
「どうした?」結城は紅野から視線をずらし俺の横顔を見てきた。
「そう言えば、前に俺、紅野に話しかけられた」
「え、そうなのか?!」予想外だったのか結城は驚くと、「ちなみに内容は?」
「内容は…… 紅野は赤染と話したいってことと、あとは赤染が好きかも訊かれたな」
「ふだん話さない相手に突然恋バナを持ちかけてくるのか…… うん、間違いない。お前は今、モテ期に突入しているぞ」
「それはない」
「ははははは」
 結城が笑い声をあげると同時にチャイムが鳴った。
 試合の結果は、赤染のいる、結城たちのチームが勝利した。
「よかったな。赤染のチームで」
「ああ。さすがにこの校庭のボール拾いは大変だからな」結城は安堵した。
 整列して号令をかけたあと、負けたチームは校庭の奥の方までボール拾いするために走った。
「よし。あと二時間の授業が終わったら明日から短縮授業だ」
「そうだな」
 体育の授業が終わり、俺と結城で教室に帰っていると、
「白雪くん」
 と後ろから声をかけられた。
 ——紅野だ、この声は。
 後ろに振り返りながら俺は、「どうした」と返事をした。
 紅野は俺の顔を見て微笑むと、
「今日、一緒に帰らない?」

 ここ最近、妙に俺は女子と会話する機会が増えている。その大半が赤染なわけだが、今日の体育の授業で話しかけてきた紅野だってそうだ。高校二年生のときも赤染と紅野は俺と同じクラスだった。なのに、会話する機会は一度もなかった。赤染と紅野は生徒会に入っていないから尚更、声を聞く場面さえもなかった。
 人の縁は急に近づくものだな、と考えながらノートの上でペンを走らせていると、赤染が「今日は紅野さんと一緒に帰るんだよね?」と質問してきた。
「ああ。そうだ。俺らの勉強が終わるまで、外で待ってるらしい」
「なら早めに切り上げないとだね」
「そうだな」
「どうして紅野さんは、急に白雪くんと帰りたいって言ったんだろ」赤染はペンを置き、首を傾げた。「白雪くんって紅野さんと仲いいの? あまり話してるイメージがないけれど……」
「いや。あまり話さない。同じクラスなだけのイメージしかない」
「そうなんだ……」赤染は不安そうな顔をして俯いた。
「赤染は仲いいのか」
「ん? あー。たまに会話するくらい…… でも、ほとんど話さないよ」
「そうか」
 紅野の意図が読めない。俺とも仲がいいわけではないし、赤染とも仲がいいわけではない。私は赤染と話したいの、と紅野は言っていたが、それなら、紅野と日常会話すらしない俺が一緒にいたところで気まずい空気が流れるだけなのに。
「そう言えば最近、ボトルに入ってるジュースはどうした」
「あー、あれね」と言うと、赤染は「最近届かないんだよね」と、深刻そうな顔をした。
「たぶん業者に苦情でも来たんだろう。宛先が間違えてますって」
「やっぱりそうなのかなぁ」
「今まで、買った覚えがないのに届いてたんだろ。それもどこの会社かわからないところから」
「うん…… あれ、美味しかったのに……」
 あれがないと元気が出ないんだよね、と赤染は独り言をぼやいた。手放したくなかった、と顔に出ている。
「じゃあそろそろ行かないとね、紅野さんが待ってるし」
「そうだな」机の上に広がった教科書とノートを一つにまとめる。
 赤染も勉強道具を片付け始めると、「どんな話しをしようかなぁ」
「ん、口調が嬉しそうだけど、赤染は紅野と帰るのが楽しみなのか」
「うん。まあね。どんな子なのかはあまりわからないけどさ、不安だな、不安だな、って思ってても、もったいないなって。どうせなら楽しんだ方がいいでしょ?」
「そうだな」
 赤染は俺の顔を見ると、沈んでいた太陽が顔を出したかのように表情を明るくした。
「どうやって紅野さんを笑わせようかなぁ」
 赤染は、んー、と喉を鳴らすと変顔の練習をやり始めた。俺と同じように、これで紅野を困らせてはならない。
「ふつうに会話すればいい」
「えー。みんなこれで笑ってくれるのに」
「……」
 面白くないから辞めろ、とは言えなかった。赤染の変顔は一発芸でやるような類ではない。張り詰めた雰囲気を緩くする、の方が一発芸よりも的確だろうか。見ていてほっこりするのには間違いない。
 帰り支度が終わり、俺と赤染はバッグを背負った。
「友だちが増えるって考えると楽しみだなぁ」今にも頬が床に落ちてしまいそうなくらいに、赤染は頬を緩くした。「まあ、あと二日で、しばらく会えなくなっちゃうけどね」
「確かに。そろそろ夏休みだからな」
「うん…… だね」声のトーンが落ちた。「まあ、帰ろ!」
「そうだな」
 忘れものがないかを見て、俺と赤染は正門へと向かった。

 正門近くにある街灯を見ると紅野が立っていた。
「待たせて悪かった」俺がそう言うと、赤染も、「ごめんね、待たせちゃって」と言った。
「いいよ。気にしないで。じゃ、帰ろう」紅野は手の平を振ると、背を向けて歩き出した。
 少しのあいだ会話が飛び交うことなく歩いていると、「夜、こんなに遅くまで一緒に勉強って、もしかして二人は付き合ってるの?」と紅野が話を切り出してきた。会話のペースが飛躍し過ぎていて度肝を抜かれる。
「そ、そんなわけないよ?!」赤染は目を大きく開きながら答えた。慌てる場面はどこにもないのに。
 ほんとうに? と紅野が疑いの顔を赤染に向けたが、赤染は、ほんとうだよ、と笑いながら返答した。完全にペースを紅野に掴まれている。教室にいるときは、どのようにしたら紅野を笑わせられるか、みたいなことを言っていたのに。
 紅野は、ふーん、と悪巧みしていそうな顔を浮かべると、「あんまり赤染さんは勉強が好きなイメージなかったけどな。授業中は寝てるしね」と言った。
「それは、んー、疲れてるからだよ。だから放課後に頑張らないといけないの」
「真面目だね、赤染さんは。白雪くんみたいに」
「ぜんぜんだよ! 白雪くんに比べたら米粒だよ」
「あはは、米粒って。そんな例えしたら赤染さんが可哀そうじゃない」口を押えながら紅野は微笑んだ。「ごめんね、白雪くん。二人だけで話しちゃって」
「ああ。気にしなくていいよ」
「ありがとう」紅野はそう言うと、再び赤染と話し始めた。
 これがふつうだろう。誘われたときから予想はできていた。嫌ではない。当たり前だからだ。
 クラス内で男女のグループができるように、やはり話しやすい相手は同性の人。わざわざ女子のグループに飛び込む男子はいないし、その逆もあり得ない。もしもいるとしたら、それは業務連絡か、話しかけた相手に好意を持っているか、それとも性別を気にしない、幼くて純粋な心を持った人だけだろう。
 しばらくのあいだ俺は、二人の会話を聞き続けた。
 紅野はミステリアスなイメージが強かったが、案外ふつうの人だった。
 雰囲気が他の生徒に比べて大人っぽいけれど、それ以外は特に目立っている部分はなく、中学生のころの話とか、趣味の話とか、何気ない会話をしていた。話の内容が面白ければ笑うし、怖い話をすれば顔を引きつらせるし、表情も俺が思っていたよりも豊かに見えた。
 そんなことを思いながらラジオ感覚で二人の話しを聞いていると、「紅野さんはどんなテレビを見るの?」と赤染の声が聞こえた。「紅野さんってお笑い番組ばかり見てそう」
「正解! よくわかったね。お笑い見てたらいつの間にか時間が過ぎちゃってるよ。赤染さんはなにを見てるの?」
「私はね……」赤染は考えると、「番組よりかは、映画を見るかもしれない。ディズニーの映画がすごく好きなんだよね!」
「……ディズニーのどんなところが好きなの?」
「やっぱり綺麗に物語が終わるところかなー」
「あの世界って平和だよね、必ずハッピーエンドで終わる」
「そうそう! そこがいいの!」赤染は新しい話し相手を見つけられて嬉しそうだった。
「じゃあバッドエンドの映画は見ないの? 実は恋人が病気を患ってた、みたいな」
「んー、あまり見ないかなぁ。やっぱり幸せな形で終わるのが一番だよ」
「そうだよね」
 うふふ、と紅野は笑うと
「白雪くんならどうする? もしも不幸な運命が決まっている相手に恋しちゃったら」
「お、俺か」急に話しを振られて驚いた。テレビで自分の名前を呼ばれたかのような気分だ。
「そう、白雪くんならどうする?」
「俺だったら恋したとしても付き合わないだろうな」
「たとえ彼女に告白されたとしても?」
「……断るだろう、な」
「そう、それならよかった」紅野はこの話しに区切りをつけると、再び赤染と会話を始めた。
 断ると言ったが、実際のところはわからない。恋愛経験がない俺が答えられるような質問ではないから思い付きの意見で答えた。わざわざ救われない未来に向かう理由が、俺には理解できない。
 再びラジオ感覚で二人の話を聞いていると、赤染と別れる看板が見えてきた。
 看板の下で紅野は立ち止まると、「じゃあね、赤染さん。私は白雪くんと同じ方向だから」と微笑みながら言った。「ここからあとどのくらい、赤染さんは家までかかるの?」
「家からここまでだと十五キロだね」苦笑いしながら赤染は言った。「ここからはいつも走って帰ってるから、そこまではかからないよ」
「そんなに走るのってすごいね…… 体には気をつけて」
「うん!」
 また明日ね。と、赤染は手を振ると、家に向かって走り出してしまった。一呼吸する頃には、赤染の後ろ姿は見えなくなっていた。
「速すぎるね」紅野は言った。
「ああ。そうだな」
 赤染が進んだ道から視線をずらし、俺と紅野は家に向かって歩いた。

 ついさっきまで、話し声が途絶えることがなかったのに、俺と紅野だけになった瞬間、虫の鳴き声しか聞こえなくなってしまった。道を照らす満月に視線が行く。珍しい。今日の月は、赤色だ。
「結構、帰り道が同じだな」
「……」
 紅野が気まずく感じているかもしれない、と思い、俺は話しかけたが反応はなかった。
「山道だからバイクで登校していいはずなのに、どうして紅野は歩きなんだ」
「……」
 俺は横を見た。
 もしかしたらクマに襲われたのかもしれないと思ったからだ。
 でも、紅野は俺の隣で歩いていた。それも、無表情に歩いていた。
「なにかあったのか。さっきまで楽しそうにしてたのに。もし一人で帰りたいなら俺は先に行くけど」
「白雪くん」
「どうした」
 紅野は立ち止まると、「私の顔に、なにか付いてる?」と訊いてきた。
「なにも付いてないけど……」紅野の顔を見て、そう言ったときだった。
 辺りが急に暗くなった。
 友だちから目隠しをされたみたいに、なにも見えなくなってしまった。
 どうして暗くなったのか。
 それに気が付いたのは、紅野の顔が、俺の視界に映ったときだった。
「——どうだった? 突然のキスは」
 紅野は口周りを舌で舐めると微笑んだ。
「…………」
 なにも言葉が出てこなかった。
「ビックリした? それならごめんなさいね。でも、よかったでしょ?」
 微笑みながら俺の様子を見ている紅野。
 俺は無性に苛立ってしまった。
「……なんで、急に、キスをした」
「簡単だよ」
 友だちに勉強を教えるかのような口調でそう言うと、紅野は、
「赤染さんじゃなくて、私に意識を向けさせるため」
 と言い、目を鋭くして俺を見てきた。
「どうして俺が、赤染が好きみたいな言い方になって——」
「知ってるんだよ、私は」
 紅野は俺の言葉を遮り、語気を強めた。
「白雪くん、私は知ってるんだよ。赤染さんが十三日前に、白雪くんに告白したこと。それで断ったこと。なのに、勉強の誘いは断らなかったこと」
「勉強に恋愛が関係してるわけがない」
「いや、ある。あるんだよ」
 紅野は小さい子供を諭すように優しく言った。
「それも白雪くんならね。本来の真面目で交友関係をあまり持とうとしない白雪くんならあり得る話しなんだよ。私の知ってる白雪くんなら勉強がある、という理由で断っただろうに。でも、白雪くんはそうしなかった。一緒に勉強したかったんだよね? 赤染さんと」
「……」
 反論できる余地はまだあった。
 けれども俺は、他のことに気を取られてなにも言い返せなかったのだ。
 あまり話したことがないのに、どうして紅野はここまでも情報を握っているのだろうか。赤染だって日頃から話をするような仲ではないと言っていたし、俺だって赤染と同じだ。なのに紅野は知っている。直接関係のない二人の情報を、細かく把握しているのだ。
「赤染さんと一緒に勉強がしたい、以外にも理由はあるのかな? 私には思いつかなかったけれども」
「紅野はなにがしたいんだ。俺の赤染に対する気持ちを知りたいのか?」
「違うよ。そんなことはどうでもいい」と言い、「私は、白雪くんに、赤染さんと距離を置いて欲しい。それだけよ」
 疑問点が多すぎて、話しについていけない。
「さっきの映画の話、白雪くんはなんて答えた? 悲運とわかっているなら好きな人と付き合わないって言ったよね。ここまで言えばわかるかな? 赤染さんには未来がないのよ。私たちみたいに、当たり前の日常を送る未来が」
「おい。さっきからお前、なにを言ってるんだ」
 頭に血が上っている。
 赤染に未来はない、と言われて、我慢ができなかった。
「頭のいい白雪くんならわかるでしょ? 私の話が、なにを意味するかって」
「遠回しに伝えるな。俺にはお前の言うことが理解できない」
「じゃあ仕方ないわね。教えてあげる」
 魔女のような不気味な笑みを浮かべると紅野は、
「彼女、赤染愛夜は人間じゃない。人の手で造られた、人造人間よ」
 と言った。
「……」
 初めて人を馬鹿だ、と思ったかもしれない。
 宇宙人はほんとうにいる、と本気で演説されたような気分だ。
「ごめんね、話しすぎちゃって。これはクラスメイトからの忠告だよ。今ならまだ引き返せる、わかるわよね? 白雪くんなら」
「……」
「これは私と白雪くんだけの秘密。じゃあね、私は赤染さんと同じ方向だから」
 そう言うと紅野は後ろに振り向き、
「愛が産むのは破滅だけなんだから——」
 と、独り言のようにぼそっと呟くと、歩いてきた道とは反対の方向へ行った。