いつからだろう。彼に恋心を抱いたのは。
 あれは確か、私が屋上でご飯を食べていたとき。傘が裏返ってしまうような暴風が吹いているなか、生徒会長である彼は、屋上で遊んでいる生徒に注意していた。彼はモヤシくらいに細身で声音は透き通るように奇麗だ。そんな、自分よりも体が大きくて強そうに見える生徒に立ち向かう姿は、まるで猫がライオンに立ち向かうみたいに、私の心を動かすものがあった。彼だって、楽しんでいるところを邪魔したら嫌われてしまう、とわかっているだろうに、それでも責務を果たそうとする気持ちに、私は惹かれてしまった。
 そんな彼が今、私の前を歩いて登校している。
 彼のことが好きだからといって、わざと登校時間を合わせているわけではない。今日はたまたま彼が、私と同じ時間に登校しているだけだ。いつもどれくらいの時間に登校しているのかは知らないけれど、私が教室に到着する時間には必ず彼はきている。私は毎日、朝のホームルームが始まる三十分前には教室に到着するようにしているから、彼はそれよりも早く学校にきていることになる。友だちから聞いた話によると、彼は毎朝教室で勉強するために誰よりも早く登校しているらしい。
 朝早くから教室にきて勉強するなら、登校しているときくらい歌でも歌って時間をつぶせばいいのに、この登校時間でさえも彼は、耳にイヤホンをつけて英語のリスニングを聞いている。というのも、これを知ったのも偶然で、彼が歩きながらスマホを操作しているときに、その画面が私の視界にたまたま入ってしまったのだ。仕方がない。
「——ん、結城。もう先に向かってるけど、どうした」
 彼はポケットからスマホを取り出すと画面に向かって会話をし始めた。
 先に向かっている、ということは、ふだん、結城くんと彼は一緒に登校しているのかな、と思ってしまう。
 しばらくすると彼はため息をつき、スマホをポケットに入れると、再び英語の勉強を始めた。友だちに嫌なことでも言われたのだろうか。初めの方は、しれっとした顔で話していたけれど、途中から彼は、理不尽な先生に怒られている生徒みたいに、空返事を繰り返していた。
 木々が揺れる音を聞きながら山道を下っていると、前からスポーツウエアを着た男性たちが走ってきた。きっとこの人たちは、この島の軍隊の人たちに違いない。彼と同じで、早朝から頑張る人たちを見ると素直に応援したくなってしまう。
 プリンが連なっているように見える山を眺め、体中を奇麗にしてくれるような空気を吸いながら歩いていると、やっと傾斜のない平らな道まで辿り着いた。いったい朝から、どれくらいの距離を歩いたのだろうか。ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、もう既に一時間半は歩いていた。
 彼に後れを取らないように歩きつつも、私はリュックからボトルに入っている、いちごみたいな色をした栄養ドリンクを取り出して、それを一気に胃へ流し込んだ。これを飲むと、いつも体の力が覚醒するような感覚がする。力がみなぎる、というのだろうか。筋肉が膨らむ気がする。
 建物がなくて、道路しかない敷地を三十分くらい歩くと、やっと学校が見えてきた。まるで飛行場を歩いているかのように、この三十分間は、なにもない景色を眺めながら登校した。
 学校の周りには住宅がなくて、ほとんどの生徒は自転車かバイクで登校するような位置に家があるか、それとも正門から最低でも三十分くらい歩いて着くような場所に家がある。
 学校の目の前にある信号が赤になった。私は立ち止まり、周りに知り合いがいないかを確かめる。スマホと睨めっこしている人もいれば、友だちと話している人もいた。でも私は、教室に着いてから話しかけようと思った。周りの人たちには、私の好意を気付かれたくないから。
「……あれ?」
 さっきまで私の目の前にいた彼が、目を離したすきにどこかへいなくなってしまった。彼は登校中に寄り道をするような人ではないし、忘れものを取りに家へ帰ったわけでもないだろう。だから私は、彼はどこに行ったのだろう、と目をパッチリと開けて探していると、
「——きゃあ!」
 と、私の隣にいる生徒が悲鳴を上げた。
 びくり、と私の肩が跳ね上がる。ドッキリを仕掛けられたみたいに鼓動が高まってゆくのを感じる。私たちの前に、突然、テレビに出るような有名人が現れたわけではない。が、彼女につられて次々とドミノ倒しのように、私の周りにいる生徒たちは叫び声をあげた。
 ——ここだと周りがうるさくて、探すのに集中できない。
 だから私は、信号の下から離れて別の場所に移ろうとした、そのとき、
「車に轢かれて死ぬぞ!」
 と、身の毛がよだつような声が聞こえてきた。
 磁石に引き付けられるように道路へ視線をずらす。すると、そこに彼はいた。
 スマホを触りながら歩いているせいか、彼は赤信号に気が付いていないように見えた。
 ——このままだと彼は、車に跳ねられて死んでしまう。
 その考えが頭を過ったとき、私の体は勝手に動いていた。
 前にいた生徒を手で退かしたあと、彼の後ろ姿に向かって、私は地面と水平に飛んでいた。
「——白雪くん!」
 彼の名前を呼んだのは、これが初めてかもしれない。
 こんな場面で彼の名前を呼ぶことになるなら、今更だけど、もっと早くから彼の名前を叫んでおけばよかったと後悔してしまう。
 彼とは同じクラスだから話しかけられるチャンスはいくらでもあったはず。勉強ができないから教えて欲しいとお願いしたり、修学旅行の行動班で同じになろうと誘ったりと、自分からもっと動けたはず。
 でも。私はそうしてこなかった。
 ——怖かったからだろう。先の見えない未来が。
 ただでさえ私の記憶は、高校生からしかないのに——
 それで私は、彼の代わりに車に轢かれて、死んでしまうと。
 そう思った。
 けれども、現実は私の想像していたものとは全く違う形になった。
 これはきっと、私の脚力が異常だったからだろう。
 私の手が彼の背中に触れると、彼と私は弾丸のようになって電柱に突っ込んだ。
 電柱の軋むような音がする。
 私と電柱に挟まれた彼は倒れ込んだ。お腹を守るように蹲っている。声にもならない声で、彼は辛そうな呻き声を上げて、額に冷や汗を流している。
 だから私は、
「……大丈夫?」
 と、声をかけたけれど、彼は歯を食いしばるだけで応えなかった。