吸血鬼に捧げる恋占い

「だけど、三つの箱が同時に開いた時は少し違う。あちらの世界への扉が開く。箱の番人は魔物をあちらの世界へ送り届ける役目を担う。そして再び箱を閉じて終わりさ」

「バルクロはあちらの世界を見たことがあるの?」

「少しだけね。話に聞くところでは、あちらの世界を作った魔女が死んでからかなり荒れているらしい。こっちの世界に戻りたいと思っている奴らも大勢いるみたいだ。だけど……」

バルクロは両手の拳を握り締め唇を噛んだ。奴隷として人間から受けた仕打ちを思い出せば、仲間たちをこの世界に呼び戻すことが幸せだとは思えない。

「やっぱり住む世界は分けるべきだと思ってる。人間とは分かりあえない」

「じゃあ、バルクロはあちらの世界に行きたいの?」

「ローラとサラが一緒に行ってくれるならね」

サラは思わずグレンの顔をうかがっていた。あちらの世界に行けばグレンとは離れ離れになってしまう。

「今ならそうすることができる。サラ、親子三人で一緒に暮らしたい。こちらの世界ではできないけれど、あちらの世界に行けばそれが叶う」

バルクロは期待に満ちた眼差しでサラを見つめていた。

「今はまだそこまで考えられない。とにかくお母さんを助けるのが先だわ」

「もちろんだよ。ゆっくり考えてみて」

サラは曖昧に頷いた。

いよいよ、母に会える。その瞬間、繰り返し見たあの夢が蘇ってきた。

奏での箱はローラだけでなく、地下に眠る吸血鬼たちも目覚めさせてしまうかもしれない。

「お母さんをここに連れて来てから目覚めさせる方がいいと思うの」

サラはグレンに向けてそう言った。サラが危惧していることがグレンには伝わったのか、グレンは頷くと立ち上がった。

女性ひとり抱えて来れないことはない。

少なくとも華奢な体躯のバルクロよりグレンが適任だ。

その時、ノックの音がしてエドニーがエレインの所在を報せに戻ってきた。

「エレイン様はお部屋にいらっしゃいました」

それを聞いてバルクロが立ち上がった。

「急ごう。エレインに邪魔される前にローラを目覚めさせよう。サラはここで待っていて」

「でも……」

「すぐ戻る」

バルクロとグレンは足早に地下へと下りていった。部屋にはサラとエドニーのふたり、そしてふたつの箱が残されていた。
バルクロは封じの箱を手に、グレンは両腕にローラを抱いて戻ってきた。

サラはほっと胸を撫で下ろし、ソファに横たえられたローラに駆け寄った。

「お母さん……」

バルクロは机の上に封じの箱を置き、代わりに癒しの箱を手にとるとそれをサラに手渡す。しばらくするとサラの手の中でカチリと鍵の外れる音がした。癒しの箱はそれを必要とする者が近くにいる時だけ開くという。

バルクロは奏での箱を手にとり、ゆっくりとその蓋を持ち上げる。眠りし者を呼び覚ますという奏での箱は、普通のオルゴールとは違いぜんまいもシリンダーもついてはいない。それでも今にも音を奏でようとする微かな振動を感じた。

ふたりは逸る心を抑えながらゆっくりと箱を開いた。サラの手の中にどんな病も怪我も治すことのできる魔法の粉が現れた。キラキラと砂金のように輝く粉を掬いとり、慎重にローラの体にふりかけていった。

オルゴールの優しい音色が部屋に流れ出す。

三人は息を飲んでローラが目覚めるのを待っていた。

「お母さん! サラよ。目を覚まして!」

サラの呼びかけに答えるように、ローラの白い頬に徐々に赤みがさし、ゆっくりと瞼が上がる。その両目がサラをとらえ、口許に笑みが浮かんだ。

サラは体を起こそうとするローラの背に手を添える。まるでほんの少し横になっていただけというようにしっかりと伸びた母の背筋に安堵した。

「大丈夫よ、サラ。ありがとう。元気そうで良かった……」

ゆっくりとサラに向けられた声も眼差しも三年前と同じだった。

「ローラ!」

バルクロは我慢できないという風にローラを抱きしめ、はらはらと涙を流した。ローラはそこに夫であるダンがいることに驚いているようだった。

「あなたまで……」

「会いたかったよ、ローラ。僕のためにすまない」

ローラは呆れたようにその泣き顔を見て「何を謝ることがあるの」と、バルクロとサラの髪を撫でながら微笑んだ。

「グレンも、助けてくれてありがとう」

グレンはローラの伸ばした手を恭しくとると、その甲に口付けた。

これですべてが丸くおさまるかに思えたその時、グレンの執務机の上から書類が風に舞ってヒラリと落ちた。
それを合図にしたかのように、部屋の中に突然風が吹き荒れた。窓はすべて閉まったままで、どこから風が吹いているのか分からない。

風は徐々に速さを増して渦を巻き、部屋中の物を舞いあげていく。

風は部屋の中心へ向かって円を描くように吹いている。そのままでいると風に飛ばされた紙や写真立てなどが飛んできて危険なため、四人は身を屈め部屋の隅へと避難した。

そこへどこからともなく場違いな笑い声が聞こえてきた。

声のする方を振り返ったサラたちは、肩を揺らして笑うエドニーの姿に目を留めた。

エドニーは箱を手に立っていた。その蓋は開かれ、中にいるはずの小さな悪魔はエドニーの肩に乗っている。

グレンはエドニーから目を離さず、サラたちを庇うように間に立ちはだかった。

姿形はエドニーでも、この状況下でエドニーが笑っていることなど有り得ない。

「ローラ、久しぶりね。随分と探したのよ。まさかこんなところに隠れていたなんて」

エドニーの口から発せられたのは、エレインの声だった。

部屋の中を吹き荒れる風が一ヶ所に集まっていく。渦巻く風の中心にぽっかりと穴が空いたように暗闇が生まれていた。

「三つの箱が同時に開いたんだ……」

バルクロが呆然としたように呟いた。開ける必要のなかった封じの箱をエドニーが、いや、エレインに操られたエドニーが開いたのだ。

「ローラが目覚めるのを待ってあげたのよ。この光景を見るのは18年振りかしら?」

と再びエレインの声がした。

「何が起きている? エドニーは操られているのか?」

サラをかばいながら、グレンがバルクロに問いかける。

「あの風の中心は異界へ繋がっている。すぐに魔物たちが出てくるはずだ」

「どうやって閉じるんだ?」

グレンが尋ねる声もバルクロには届いていなかった。

「逃げろ! 早く!」

バルクロはローラとサラの背中をドアの方へ押しやった。
状況の掴めないサラはテーブルの上にできた竜巻を振り返り、そこからいくつもの声が溢れだし、無数の手足が伸びて来るのを見て悲鳴を上げた。

「どうしてこんなことに……?」

「バルクロのせいよ。あなたが無理やりあっちの世界へ送った魔物たちが、一斉にこちらに戻って来ようとしているの」

エレインの声がさも残念だと言うようにそう告げた。

「あれを消す方法は?」

グレンがバルクロの襟首を掴んで揺さぶる。

「消す方法なんてない。一度開いたら丸一日は開きっぱなしだ」

バルクロは青ざめ、震える声でそう答えた。

「あなた」

こんな時にも関わらず、落ちついていて優しいローラの呼ぶ声がバルクロをはっとさせた。

「この部屋で食い止めましょう」

「そんなことを言っても、僕たちの力では抑えきれないよ」

「あなたも一度は箱の番人だったのだから分かるはず。まだこの世界には彼らの居場所はないわ」

「お母さん、私も手伝うわ。どうすればいいの?」

ローラはしばらく考え、

「地下にもうひとつ入り口を開いて、そこへ誘いこみましょう」

そのためにはまず、エレインから封じの箱を取り戻さなくてはならない。

癒しの箱はサラの手に、奏での箱はバルクロの手にあった。

ローラはバルクロの手から箱を預かるとそれをサラに持たせ、地下へ先に行くように言った。

「グレン、サラをお願いします」

グレンは頷き、サラの手をとると地下へ向かった。

とにかく怪しい渦からサラを遠ざけたかった。扉をくぐる前にグレンはエドニーを振り返った。

「エドニー! しっかりしろ! そんなことで俺の秘書が務まるのか!」

エドニーの肩がぴくりと反応するのを見て、グレンはエドニーに背を向けた。

――いつまでも操られているなよ。
そんな願いが届いたのかどうか、エドニーの体がぐらりと揺れたのをバルクロは見逃さなかった。

バルクロはエドニーに体当たりすると、その手から零れ落ちた箱を足で蹴ってローラの方へ滑らせた。

しかしヴィルヘルムがそれを邪魔する。

箱は途中で進む方向を変え、壁に当たって転がった。

そちらへ伸ばしたバルクロの手を黒い大きな足が踏みつけた。体をぶるりと震わせてバルクロを睨みつけてきたのは、立派な体格の黒狼だった。

唸り声とともに口からのぞいた牙は、バルクロを震え上がらせるのに十分だった。

まともに相手をして適う相手ではない。

バルクロが人間に奴隷として扱われていた頃、数多くの魔物たちを口先三寸で集め向こうの世界へ送った。

そうすることが彼らを守ることになると思っていた。

けれど今なら分かる。彼らにも離れたくない家族がこの世界にいたのだ。

なら、こちらの世界へ戻してやるのがバルクロにできるせめてのもの償いなのではないだろうか。そんな思いが一瞬過ぎる。

「戻りたいのか……?」

バルクロは黒狼に問いかけていた。

「…………」

言葉が通じないのか、答えはなかった。

「あっちの世界に長くいるとね、人間の言葉もこちらで暮らした記憶も忘れてしまうのよ」

エレインの声がした。瞬間、バルクロの胸に取り返しのつかないことをしたという後悔の念が押し寄せた。

「でもこっちでしばらく暮らせばまた思い出すわ」

そんなエレインの言葉にバルクロは左右に首を振った。

「その前に愛する人を傷付けるかもしれない」

直接的にであれ、間接的にであれ、魔物が近くにいれば人間は傷付く。人間が傷付けば魔物もまた傷付くのだ。まして記憶がないなら尚更だ。

ローラやサラのように限りなく人間に近い存在でさえ、ほんの少しの違いを人間は恐れ気味悪がる。

――やはり、共存などできやしない。
「お前もあっちの世界で暮らせばいいんじゃないのか?」

「馬鹿ね。人間の世界にいるからこそ魔法は役にたつのよ」

エドニーの口は相変わらずエレインの言葉を伝えている。黒狼にバルクロが抑えられている今なら、箱を奪い返すこともできるだろうのに、その体は動かない。

ヴィルヘルムが動くより早くローラが箱を拾い上げた。

その蓋を閉じるとヴィルヘルムの小さな体も箱の中に吸い込まれて消えた。

「あなた、この箱をサラに」

「君は!?」

「エレインと話があるの」

渦の中から出てこようとする魔物たちを見れば、もう時間がないことは明白だった。

人間たちの中に飛び出していってしまえば、待ち受けるのは射殺、もしくは捕獲されて永遠に閉じ込められる未来しかない。

魔物たちが考えるほど人間は優しくないし、弱い生き物でもない。

人間たちは武器を発明し、自分よりも強い存在に打ち勝つ術を持っている。

この世界に魔物たちのいる場所はない。

バルクロは手の中の箱に目を落とし一瞬だけ躊躇った。けれど、ローラの頼みを引き受けることが今は最善だった。

バルクロは黒狼を引き付けながら地下への扉に飛び込んだ。

あちらの世界では先に開いた扉に魔物たちが押し寄せているだろう。

二つ目の扉が同時に開けば、この部屋を通ってまた向こうの世界へ送り返せるはずだ。

今はまだ、互いにとってそれが一番安全な方法なのだ。

ローラはエドニーの手を引いて廊下へ続く扉を出た。

ドアには念の為中から開かないようにまじないをかけた。

「さぁ、エレインの所へ案内してちょうだい」

エドニーは操られたまま歩き出した。

エレインは客室のひとつにいた。ベッドに腰掛け、ローラが来るのを待っていた。
「ようやくまた扉が開いたわ。箱を集めるの苦労したのよ」

エレインはそう言うと長い黒髪を揺らして立ち上がった。ローラは入り口を背に立ち、そこからエレインに話しかけた。

「何故そんなに扉を開きたいの? まだふたつの世界を繋ぐのは早すぎるわ」

「早すぎなんかじゃない! いつまでも行来を絶っているから、誰も幸せになれないのよ。あなたたちだってずっと人間に酷い目にあってきたでしょ?」

叫ぶようなエレインの声に、ローラは口を噤む。ローラが何を言っても今のエレインには届かない。

「ならどうするつもり?」

「人間にだって階級があるわ。貴族に平民、奴隷。今までは人間じゃないってだけで、私たちは奴隷扱いされてきた。でも人間に何ができるっていうの? 私たちの方が長生きだし、魔法も使える。これからは支配するのは私たちの方よ」

「人間は馬鹿じゃない。そんなことは不可能だわ」

「知ってる、ローラ? この邸にいったいどれだけの吸血鬼が眠っているか。この街には吸血鬼の伝説がある。領主が吸血鬼なのよ? この街なら簡単に支配できるわ。かつての領主がそうしたようにね」

「グレンがそんなことはさせないわ」

「吸血鬼にとって魔女の血がどれだけ魅力的か知ってる? たった一滴で虜にできるのよ」

エレインはそう言うと部屋の中央に向かって歩いた。

そこに青白く魔法陣が浮かび上がる。そしてその手には小さなナイフが握られていた。

ローラははっとしてエレインに駆け寄った。

瞬く間にエレインの姿は掻き消え、ローラはたたらを踏むと、辺りを見回した。

部屋にはもうエレインの姿はなかった。
薄暗い地下に続く階段に、先導するように次々と蝋燭に火が点っていく。

グレンの部屋から続く階段の下はひとつの部屋になっており、ハンナと歩いた通路は見えなかった。

恐らく、地下にはいくつかの部屋があり、グレンの部屋はそのひとつと階段で繋がっているのだろう。

部屋の中にある棺は蓋が開かれている。その中に三年の間ローラは眠っていたのだ。

もしグレンが助けてくれていなければ、ローラは病で命を落としていたかもしれない。

サラはグレンを見上げ改めてお礼を言った。

「母を助けてくれてありがとうございます」

「こんな風にローラを蘇らせる日がくるとは思わなかったよ。俺はただローラの言葉を信じただけだ。ローラは君が助けに来ることを予知していたんだな」

グレンは机の上の燭台にも火を灯し、棚から何かを取り出している。

真鍮の筒から取り出されたのは三角錐の小石のようなものだった。

「それは何ですか?」

サラはグレンの手元を覗き込む。そこからグレンの香水の香りが強く香ってきた。

「これはお香だよ。御先祖様に安らかに眠っていただくためのものだ」

そう言いながらグレンは鉄皿の上にお香を置き火を着けた。

ゆらりと立ち上る煙から、部屋中に香りが広がっていく。

「グレンからいつもしていたのは、このお香の匂いだったんですね……」

「確かにこの匂いが染み付いてるな。父がここへ入るのを嫌がっていたせいで、子どもの頃からずっと香をたくのは俺の役目だったからね」

「それであの時も……」

ハンナが地下でオルゴールを鳴らした時、目覚めた吸血鬼をグレンが眠らせた。

「吸血鬼は死なない。かと言っていつまでも当主が代替わりしないままでは、人々に気味悪がられてしまうからね。……ここで長い眠りにつくんだ」

「いつまで?」
サラはすぐに馬鹿な質問をしたと思った。けれど、グレンはさらりと答えた。

「また必要とされる時まで」

誰に何を必要とされるのか。雲を掴むような答えにじっとグレンの目を見返していると、御先祖様の日記にそう書いてあったんだよ、とグレンは肩をすくめた。

その後すぐに、階段を降りる足音とともにバルクロが部屋に飛び込んできた。

「サラ、やっぱりあっちの世界には行けそうにない。奴らはもう言葉も理性も失っている。ここに扉を開いたら僕らも早く逃げなきゃ」

バルクロは叫ぶように言って、サラとグレンの手に箱を押し付けた。

「確かこの部屋にはもうひとつドアがあったよね。そのドアから外に行く道は?」

「三つ目の部屋にある」

「よし、じゃあ箱を開こう」

風が勢い良く渦を巻き始めた。階段の上からは何かがドアに体当たりしているような音が響いてくる。

先程と同じならどんどん風が強くなり中央に暗闇が現れるはずだった。けれど、風はすぐに止み、何も起こらなかった。

「やっぱりふたつ同時に開くのは無理なのか……」

バルクロの声は獣の唸り声にかき消された。

タンッと地面を蹴った黒狼が柩の上から三人を見据える。

「二人とも先に逃げろ」

バルクロに促されて、グレンはサラを扉の方へ連れ出す。

振り返ったサラの目の前で、黒狼はバルクロに飛びかかりその体を床に押し倒した。

荒い息とともにその牙がバルクロの喉に今にも食らいつこうとしている。

サラは無意識のうちにバルクロの方へ駆けだすと、黒狼の体にしがみついていた。

「やめて、お願い!」

黒狼の牙が今度はサラに向けられる。

グレンは素早く壁にかけてあった剣を手に取り、黒狼に切り付けた。

黒狼はすんでのところで飛び退き、グレンに唸り声をあげる。