そのあとは異様な雰囲気のまま、午後の授業がはじまった。
休み時間、幸野は自分の席に座ったきりで、誰も近づかない。
わたしはそんな幸野の様子を、横目でそっと見る。
「池澤さん」
そして放課後になると、幸野がすぐにわたしの席に駆け寄ってきた。
「今日は間に合った。一緒に帰ろう」
近くの男子がちらちら、わたしたちの様子をうかがっている。
女の子たちのひそひそ声も聞こえてくる。
だけど幸野は、そんなものが目にも耳にも入っていないかのように、わたししか見ていない。
そしてわたしも、じっと幸野の顔を見つめた。
やっぱり……
わたしは荷物を持って立ち上がると、幸野の手をつかんだ。
そしてそのまま廊下へ引っ張りだす。
教室がざわついたのがわかったけど、もう振り向かない。
「え、なんだよ……池澤さん?」
さすがに戸惑っている幸野を連れて、階段を下りる。
廊下を速足で歩き、保健室の前で足を止めた。
「熱あるんでしょ? なんで学校なんて来るのよ!」
「は?」
わたしは幸野の胸に、無理やりブレザーを押しつける。
「わたしのために、なんでこんなことするの? 意味わかんない」
押しつけたまま、わたしはうつむいた。
なんだか悔しくて悔しくて、しかたない。
幸野はブレザーを受け取ると、そっとわたしの顔をのぞきこんできた。
「池澤さん? もしかして泣いてる?」
わたしは首を横に何度も振ると、保健室のドアを開け、幸野の体を押し込んだ。
「す、すみません! このひと、熱があるみたいなんです!」
「あらあら」
首をかしげながら出てきた保健室の先生が、幸野の顔を見る。
「まぁ、ほんとね。顔、赤いわよ。熱計ってみましょうか」
「お、お願いします!」
幸野の代わりに頭を下げた。
幸野はただ不思議そうに、わたしのことを見下ろしていた。
幸野はやっぱり熱があった。三十八度も。
「幸野くん、だっけ? 家は近いの?」
「えっと、電車で三駅先ですけど」
「おうちのひと、迎えにこれるかしら?」
すると幸野が勢いよく首を横に振った。
「無理です。家のひとみんな出かけてるんで。ていうか、小学生じゃないんだから、ひとりで帰れますよ」
わたしはぎゅっと手を握って、先生に言った。
「だったらわたしが送っていきます。家、近いので」
「あら、じゃあ、そうしてくれる?」
先生はにっこりわたしに微笑んだあと、幸野に言う。
「幸野くん、あんまり無理しちゃだめよ? 熱が下がらないようなら、病院で診てもらいなさい」
「はぁい」
「しっかりしている彼女がいて、よかったわね」
わたしの心臓がドキッと跳ねる。
か、彼女? しかもしっかりしているなんて、いままで一度も言われたことない。
だけど幸野は嬉しそうな顔で、もう一度「はい」と答えて、わたしに笑いかけた。
校門を出て、駅に向かって歩く。
いつもと同じ道だけど、保健室で少し休んでいたせいで、いつもより時間が遅い。
天気の悪かった昨日と違い、空には夕暮れのピンク色の雲が浮かんでいる。
電車はけっこう混んでいて、幸野はつらそうに見えた。
だけどわたしが視線を送ると、へらっと笑ってみせる。
やせ我慢しなくてもいいのに。ほんとバカなやつ。
最寄り駅につくと、幸野は大きく息を吐いた。
「はぁ……」
やっぱり具合が悪いんだ。
わたしはちょっと足を速めて、幸野のとなりに並ぶ。
そしてそっとその手を握った。
「池澤さん?」
幸野がわたしを見たけど、無視して歩く。
そんなわたしのとなりで、幸野が笑った。
「風邪うつっても、しらないよ? てか、おれのこと、そんなに心配?」
わたしは黙って進んだあと、ぼそっと口を開く。
「わたしの……せいだから」
つめたい風が、わたしと幸野の間を吹き抜ける。
だけど幸野の手は、すごく熱い。
「ちがうよ」
わたしの耳に幸野の声が聞こえた。
「おれが好きでやってるだけだよ」
そのとき、幸野が教室で言った言葉を思い出した。
『おれは池澤さんのこと好きだから』
いまごろになって頭がかあっと熱くなり、急に心臓がドキドキしてきた。
「ここでいいよ」
気がつくと、わたしたちは歩道橋の上まで来ていた。
いつものように真ん中で、幸野が足を止める。
「い、家まで送る」
「やさしいんだな、今日の池澤さんは」
だってやっぱりほっとけない。
「あ、あんたの家って、どこなの? 小学生のころ、住んでたところ?」
といっても、小学生のころの幸野の家も知らないけど。
「いや。いまはちがう」
「おうちのひと、いつ帰ってくるの? 遅いの?」
「おうちのひとかぁ……」
幸野の手が、わたしから離れた。
そして手すりに手をかけて、遠くを見つめる。
「うちの母親さ……二か月前に死んだんだよね。病気で」
「え……」
思ってもみない言葉に、わたしは呆然とする。
幸野はそんなわたしを見て、ちいさく微笑む。
「うち、おれがちいさいころに両親離婚したから、母子家庭だったんだけど……母さん死んじゃって、おれひとり残されてさ。顔も覚えてないような父親が、仕方なく引き取ってくれたんだ」
わたしは幸野のとなりに黙って立ち、その声を聞く。
「父親はもう再婚してて、若い奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんと暮らしてた。だからおれみたいな厄介者、引き取りたくなかっただろうけど……まぁ、しょうがないよな。一応父親だし、高校生の息子を、路頭に迷わすわけにはいかないし」
幸野は遠くを見たまま、はぁっと白い息を吐く。
「それでも感謝はしてるんだ。おいしい飯を食わせてもらって、あったかい布団を用意してもらって、高校まで行かせてもらってさ。でも卒業したらあの家を出て、ひとりで生きていこうと思って……だからバイトして金貯めてる」
「そう……だったんだ」
国道を車が行き交う。
救急車のサイレンが遠くに聞こえる。
幸野はわたしのとなりでふっと笑うと、こっちを見た。
「信じた? いまの話」
「え?」
「なんでも信じちゃうんだよな、池澤さんって。マジで、心配」
わたしは呆然と幸野の顔を見る。
「う、うそなの?」
もう一度笑った幸野は、なにも言わずにまた遠くを見た。
幸野の横顔に、夕陽が当たる。
また騙された。腹が立つ。
本心を見せない、この男にも。
簡単に信じてしまう、自分自身にも。
「ほんとにここでいいから」
歩きだそうとした幸野の手を、ぎゅっとつかんだ。
「だめ。家まで送る」
「いいよ。ひとりで帰れるって」
「だめ。先生と約束したから」
幸野があきれたように、ため息をついた。
「じゃあ……一緒に帰ろうか」
わたしは握った手に、力を込める。
こうなったらもう、離してやるもんか。
ぜったい、離してやるもんか。
わたしたちは並んで階段を下り、いつもとは違う方角へ向かって歩いた。
国道をしばらく歩いて右に曲がると、新しい家が建ち並ぶ住宅街に入った。
幸野の家はこの先にあるんだという。
手をつないだまま歩いていくと、綺麗な洋風の一軒家が見えた。
「あ、悟くん!」
ガレージに停まった車から降りてきた、若い女のひとがそう呼んだ。
「おかえりなさい」
女のひとは赤ちゃんを抱いてこっちを見ている。
「そっちもおかえりなさい。いま帰ってきたんですか?」
幸野がわたしのとなりで言う。
わたしはあわててつないでいた手をほどいた。
女のひとはにっこり微笑むと、幸野に話しかけてくる。
「ええ、そうなの。ごめんなさいね、一週間もひとりにしちゃって」
「いえ、ぜんぜん」
幸野は笑顔でそう答えてから、女のひとに抱かれている赤ちゃんに声をかけた。
「陽翔ー、元気だったか? おばあちゃんち、楽しかったか?」
赤ちゃんはきょとんとした顔で、幸野のことを見ている。
わたしがなにも言えずに突っ立っていたら、女のひとがぺこっと頭を下げた。
わたしもあわてて、おじぎをする。
「悟くん? お友だち?」
「あ、うん。同じクラスの子。おれちょっと具合が悪くて、この子が送ってくれたんだ」
「まぁ、ありがとうございます。よかったら、上がっていって?」
わたしはさらにあわてて、首を横に振る。
「い、いえ、けっこうです。わたしはこれで……」
「そう? じゃあまた遊びにきてくださいね」
「は、はい。お大事に」
優しそうなひとだ。
女のひとは赤ちゃんを抱いたまま、家のなかへ入っていく。
それと入れ替えに、車からキャリーバッグを運んできた男のひとが、幸野に言った。
「転校早々女の子なんか連れて歩いて……ちゃんと学校に行ってるんだろうな?」
「行ってるよ」
幸野がそっけなく答える。
男のひとはふんっと鼻を鳴らして、家のなかに入っていった。
「あの……」
わたしは幸野の背中に声をかける。
すると振り返った幸野が、いつもの調子で軽く笑いかけた。
「これがうちの家族だよ。ていうか、同居人?」
じっと、幸野の顔を見つめてつぶやく。
「さっきの話……ほんとうだったの?」
幸野はそれに答えずに、わたしに向かって言う。
「ひとりで帰れる?」
「え、あ、うん」
わたしはぼんやりと、街灯の灯りに照らされる、幸野の顔を見る。
「じゃあ、また明日。池澤莉緒さん」
どうしてだろう。
なんだかすごく、胸が痛い。
翌朝、寝不足のまま家を出て、学校へ向かう。
昨日の夜もいろんなことを考えてしまって、また眠れなかった。
最近こんなのばっかり。
これもぜんぶ、あの男のせいだ。
二か月前にお母さんが亡くなったって言っていた。
小さいころに別れたお父さんと、その奥さんと赤ちゃんと暮らしているって。
冗談みたいに言っていたけど、あの話はきっとほんとうだ。
だから幸野はこの町に戻ってきて、うちの学校に転校してきたんだ。
歩道橋の上で足を止め、幸野の家の方向を見下ろす。
幸野はどんな気持ちで、あの家族と暮らしているんだろう。
『卒業したらあの家を出て、ひとりで生きていこうと思って……だからバイトして金貯めてる』
つめたい風に吹かれながら、ぎゅっと手を握る。
歩道橋から見上げた真冬の空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。
教室につくと、あの甲高い笑い声が聞こえてきた。
あかりだ。
今日は自分の席で女の子たちに囲まれて、楽しそうに笑っている。
わたしはごくんと唾を飲み込み、気づかれないようにそっと教室に入る。
あかりたちと少し離れたところの席に、幸野が座っていた。
熱……下がったのかな。
昨日より、顔色はよさそうに見えるけど。
でも今日、幸野はひとりでいる。
いつもだったら、あかりたちとしゃべっているのに。
『今度池澤さんを傷つけたら、おれがあかりんを殺すよ?』
昨日あかりにあんなこと言ったからだ。
だけどわたしはなにもできず、黙って自分の席に向かう。
そして気配を殺すようにして、授業の準備をはじめた。
「池澤さん、おはよう」
びくっと肩を震わせ、顔を上げる。
いつの間にかわたしの前に、幸野が立っている。
「な、なによ、急に」
「え、声かけるくらいいいだろ? クラスメイトなんだし」
わたしはちらっとあかりのいる席を見る。
あかりたちもこっちを見ていて、なにかこそこそと話している。
「大丈夫だよ」
幸野が小声でわたしに言った。
「あいつらのことなら、心配しなくていいから」
わたしは幸野の顔を見上げる。
「池澤さんは、なにも心配しなくて大丈夫」
幸野はそう言って、にっと笑うけれど……
みんなの前であんなことを言われたあかりが、黙っているはずはない。