「いい加減にしてよ!」
 眉を下げて、拒絶の意思を示す遥奏。

 僕は、足が動かない状態のまま、遥奏の腕を掴んでいる少年を観察した。
 年は、たぶん僕らと同年代。
 だけど、すごくがっしりしている。
 遥奏の頭のてっぺんが、彼の鼻くらい。
 色黒、筋骨隆々。十二月にしては薄着の黒い長袖が、太い腕でパンパン。
 僕なんか一撃でコテンパンにできそうな屈強さが、全身から滲み出ている。

 どうしよう……。
 パスケースを持つ右手が震える。
 関係ない人だったら、もしかしたら、見て見ぬ振りしてしまってたかも。
 でも、今はそうできる状況でもない。

 ……仕方ない。
 覚悟を決めた僕は、足をガタガタさせながら二人のところへ向かった。
「あ、あの……」
 遥奏と少年が同時に僕を見る。
「い、嫌がってるので、やめた方ががいいんじゃないですか」
 少年の目をなんとか直視して、告げた。

「ん?」
 少年が、きょとんとした顔で僕を見る。
 ……だけならまだしも、
「しゅ、秀翔?」
 彼に向かい合う遥奏も、同じような表情。
 少年が僕に喧嘩をふっかけてくるという最悪の展開を覚悟していた僕は、二人の反応に戸惑った。
「あ、えーっと……」
 少年に掴まれていない方の手でこめかみを掻く遥奏。その口元にはなぜか、平和な笑みが浮かんでいる。

「紹介するね、うちの弟の凌牙(りょうが)!」
 え?
「お、弟?」
 「お」の形で硬直する僕の口。
「そうそう、こいつがね、好きなマンガの新刊買いたいからお金貸してってしつこいの!」
 ということは、つまり……。
 「ネーチャン」じゃなくて、「姉ちゃん」って言ってたのか!
 自分の勘違いを理解して、一瞬で全身が茹で上がった。

 もう一度、弟さんを見てみる。
 たしかに背は高いし体格は良い。強そうに見えるのは変わらないけど、よく見れば顔立ちにはまだ幼さが残る。
 さっきは、突然の事態に動揺しちゃって、頭の中で相手をモンスター化しすぎていたのかもしれない。

「もう、わかったからこれで買ってきな」
 遥奏は財布から千円札を取り出すと、弟さんに押し付けた。
「さっすが姉ちゃん! ありがとー! 『もふもふビート♪』はオレの生きがいなんだよー」
 ごつごつした肉体から、興奮した甲高い声。
 『もふもふビート♪』とは、動物の音楽隊たちの日常を描く、まったりとした日常系漫画である。女子小・中学生を中心に大人気で、来年アニメ化も予定されているとかなんとか。

「はいはい、早くあっち行って」
 そう言って遥奏は弟さんの体を押し、立ち去るように促した。
「なになに、姉ちゃん、あの人彼氏?」
 冷やかす弟さんの声が耳に入る。遥奏がなんて返事したのかはよく聞こえなかった。

 人混みに紛れて見えなくなる弟さんの背中を見ながら、僕は魂の抜けた気分になる。
 ああ。
 なんてイタいことしちゃったんだ……。