そういえば、彼がこんな小さな揉め事で腹を立てているところは見たことがなかったな。
 呑気に考えていると、痺れを切らした安藤くんの、ご自慢のがっしりとした腕が私に向かって振り落とされた。佐野さんが「やめて!」と叫んでも、彼らは聞く耳を持たない。
 ああ、私はきっとこれで廊下までぶっ飛ばされて、壁に強く頭を打ち付けるだろう。――と悲観している暇もなく、避けることよりも先に、私の身体はいとも簡単に拳を叩き落とした。
 それはあまりにも一瞬の出来事で、その場にいた多くの生徒が目を丸くして驚いた。

「――さっきからいろいろ言ってくれてんじゃん。覚悟できてんだよなぁ?」
「なっ……なんだ今の……どうやって避けた?」
「は、袴田の、再来って……まさか」

 気付いた時にはすでに遅い。

「強い方が正しい、ねぇ……。望み通りやってやろうじゃん。まとめてかかってきやがれこの野郎!」

 ちょっと待って、私そんなに口悪くない!

 聞こえているかどうかも分からない私の声も虚しく、身体に乗っ取った袴田くんは怒鳴り散らした。
 制止しようとも、一度身体を乗っ取られてしまえば、彼が自分から出てくるまで何もできない。それはおそらく、言われ放題だった彼の気が晴れるまで続く。
 安藤くんや他の男子がこぞって襲い掛かってくるが、袴田くんは器用に受け流していった。狭い教室内で机や椅子にぶつかり、転げて廊下にまで出て行った男子もいる。他の生徒は巻き込まれないように離れていくのを良いことに、袴田くんは空いたスペースに誘導して彼らをひたすら転ばせていった。袴田くんが直接手を出すことはない。ただ彼らが絡まって相討ちに持ち掛ける工程を、彼だけが楽しんでいた。

「くははっ……こんなもん? 人数いたって意味ねぇな」
「クッソ……ふざけた笑い方しやがって……!」
「――そこまでだ!」