私は自分の両頬を思い切り叩いた。痛くて涙が零れると、制服の袖で拭う。

「行かない。……でも忘れないから」

 私はぎこちながらもできる限りの笑顔を作った。これ以上引き留めてはいけない。自分の為に決断した彼を、私が送り出さなくてどうする。今の私は前を向いている袴田くんに対して失礼だ。

「袴田くんに会えたこと、絶対に忘れない」

 喉に詰まっていた言葉を、声を震わせながらやっとの思いで告げる。袴田くんは驚いた顔をすると、すぐにまたいつも通り口元を緩め『くはは』と笑った。

『言ったな? 忘れたら道連れにするぞ』
「それはやめて」
『くははっ! 冗談だって!』

 わしゃわしゃと私の頭を撫でまわすと、袴田くんの手が名残惜しそうに離れていく。

『じゃあ、特別に教えてやろう』
「え?」
『俺の本当の心残り。――中学の時に助けられなかった奴を、助けたかった。それだけ』

 特大のビンタをくらった気分だ。困惑する私を見て、袴田くんは満足そうに笑うと、コンクリートを蹴ってフェンスの上に飛び乗った。

「も、もう行くの?」
『思い立ったら吉日ってよく言うだろ。あ、でもなんかあったら呼べよ。すぐに行くから』

 ピンチのとき、袴田くんはいつも助けてくれた。混乱しているときも、冷静になれるように声をかけてくれた。それがどれだけ心強くて、何度救われたことか。

「……呼ばないよ。だからこれからは自分の為に生きて」

 すでに死んでいる人に生きてほしいと願うなんて、ただの皮肉にしか聞こえないかもしれない。でも送り出す言葉をかけるなら、他人の為に留まってくれていた彼が、自由気ままに旅をしてほしいと願っているから。
 私がそう言うと、袴田くんはまた『くはは』と笑う。

『またな』

 袴田くんがフェンスの向こう側へ飛ぶと同時に、追い風が強く吹いた。思わず目を瞑ってしまうと、次に顔を上げたときにはすでに彼の姿はどこにも見当たらなかった。