[長編]隣の席の袴田くん、死んで神になったらしい。

「……悪かった」

 沈黙のなか、先に口を開いたのは袴田くんだった。

「仕方がなかったとはいえ、勝手に井浦の身体に取り憑いた。中学のトラウマだってわかってたのに、お前を田中に引き合わせちまった」
「……私は、大丈――」
「大丈夫なわけがねぇんだよ」

 袴田くんが真っ直ぐ私を見て言う。今まで見たことのない、申し訳なさそうな顔に胸が締め付けられる。

「怖かっただろ。……怖くないわけがない。病院で田中とすれ違ったときから怯えてたのも知ってる。お前が我慢強いことだって、隣の席になる前から知ってんだよ」

 この人はいつもそうだった。
 素直になれないから遠回しに助けようとして、「もっと早く助けられていたら」と悔やむ。
 そのきっかけは私だったかもしれない。でも彼が悔やむ必要はどこにもない。頭でわかっていても、彼の正義が許せなかった。全員を救えるヒーローなりたくても自分はなれないと叩きつけられた現実に、彼は何度も立ち上がった。何度も諦めず、掴み取ったはずだった。

「中学の時、お前は助けてくれたのに俺は何も出来なかった。……これじゃあ、また同じことを繰り返しただけだ」

 袴田くんが目を伏せて謝る。いつもの彼なら在り得ない行動だと思った。こんな弱音を吐く彼は初めてで、私は不本意ながらも「らしくない」と呟いた。

「袴田くん、ちょっとごめんね」
「え……」
「額、貸してくれる?」

 返答を待たずに私は彼の制服の胸倉を掴むと、彼の顔を真っ直ぐ見据えた。

「井浦……まさか……!」

 何をしようとしているか察したようで、袴田くんの顔色がサーッと青くなる。身長差を考えてしっかり掴んで固定すると、私は思い切り頭を後ろに逸らした。

「は、早まるなって、お前だって無事じゃ――」
「袴田くんの――バカ!」

 勢いをつけ、袴田くんの額をめがけて自分の額を叩きこむ。鈍い音が響いて、お互いの脳をぐわんぐわんと揺らした。
 視界が左右に振られ、うまく立っていられない私はそのまま前に倒れる。袴田くんにもよく効いていたようで、ふらつきながらも倒れかかってきた私を支えて、一緒になって後ろに倒れ込んだ。
 当たった場所がすでに赤くなっている額をおさえながら、脳の揺れが落ち着くのを待つ。乗り物酔いのような気持ち悪さを飲み込んで顔を上げると、若干涙目になっている袴田くんが私を睨んでいた。

「なにしやがる……お前も無事じゃねぇって忠告はしたぞ!」
「ふ、船瀬くん直伝の頭突きを味あわせようと……」
「んなモン、タカドーにぶつけた分だけで充分だっての!」
「痛かったでしょ?」
「痛ぇよ! あのな、いくら俺が死んでるからって痛みを感じないわけじゃ――」
「そうだよ。痛いものは痛いんだよ」

 彼の腕を掴んで、ゆっくりと上半身を起こす。立ったままだと高すぎた目線も、この状態ならば同じくらいになる。それでも逃げないように、私は彼の制服を掴んだまま、目を逸らさなかった。

「痛いのを全部、袴田くんが受ける必要なんてない」

 私が田中くんと対峙することは、中学の時のトラウマを克服することに等しい。全てに無反応だったわけじゃない。誰もいないところで、破かれた教科書や長時間水に浸かってゴムが緩んでしまった上履きを抱きしめて泣いた。名前ではなく「置物」と言われながらも、されてきたこと全部を無関心でいられるほど、私は強くない。
 全員が知っていても見て見ぬふりしていたことはすごく悲しかったけど、誰かに言ったら次の標的にされてしまうことの方が怖かった。自分が我慢すれば、次の標的はできない。こんな思いを誰にもさせたくないと、勝手に使命感を背負っていた。
 それとは裏腹に、誰かに助けてほしかった。どんな拳や鉄パイプよりも、言葉が怖かった。周りの人の視線が恐ろしかった。

 ――そんな時、袴田くんが私の前に現れた。

「今でも教室が怖いことがある。それでも通えているのは、今の教室に、袴田くんや皆が来てくれるから。……だから、田中くんと対峙したときも、なんとかなるって思った。自分で決めたことで、自分から首を突っ込んだの。だから袴田くんが後悔することはない。……でもそれが、袴田くんを苦しめていたとしたら、ごめん」
 袴田くんはただ、自分の周りにいた人たちを守りたかっただけだ。
 死んだ後も成仏できず、死神のような存在になっても、偏見で悪者にされた自分を快く受け入れてくれた友人を、居場所である学校を守るために、異質な力を受け入れ、他人に使っていた。
 たとえ身体の維持が不安定になり、袴田玲仁という存在がこの世から消えたとしても、それで良いと捨て身でいた。
 そんな彼を、一体誰が守ってくれるのだろう?

「井浦……」

 困惑した声が聞こえる。袴田くんが覗き込むようにして私の顔を見る。
 眩しい金髪も、真っ直ぐな瞳も、薄っすらと残ってしまった喧嘩の傷痕も、全部私が知っている袴田くんだった。

「本当は、怖かったよ。でも……っ、袴田くんが勝手に居なくなる方が、怖かった……!」

 ボロボロと涙が零れる。あの袴田くんの前で泣くなんて最悪だと思った。
 でも彼がすぐ近くにいることが分かって気が抜けたのか、ずっとせき止めていたものが零れてしまった。こんな情けない顔なんて見せられないし、ましてや彼の顔なんて見たくない。余計なことまで口にしてしまいそうだった。勝手に人の身体使って、勝手に巻き込んで、感謝も謝罪もない奴と離れたら、清々すると思ったのに。
 すると、袴田くんの右手が私の頭に触れて自分の方にそっと引き寄せる。

「……え?」
「やっと泣いた」

 自分の胸に押し付けたまま手を離そうとはしない。むしろ力を加えて顔を上げさせないようにしている。反発しようとするとさらに力が加わった。

「お前、あの時も泣かなかったから。よかった」

 優しい声で耳元に囁かれる。
 そうだった。中学の時での嫌がらせも、屋上からフェンスと一緒に落下しそうになった時も、自分よりも大きくて狂暴な不良たちを前にしても、私は虚勢を張ってやりすごしてきた。今思えば、最後に泣いたのはいつだっけ。
 すると、袴田くんは「あーあ」と気怠そうに空を仰いだ。

「――もっと、生きたかったなぁ」

 呟くように零れた言葉とともに、雫が目の前を通り過ぎていく。震えたその声は、きっと私にしか届いていない。
 私は彼の背中に手をまわした。「いてぇ」と言われたけど、聞こえないふりをして抱きしめる。
 これから先、何年経っても忘れない。どれだけ耳をすましても心音が聴こえないことも、頬に触れた指先が冷たいことも、怖くて震えていた声も全部、私だけが知っている。
 一緒に過ごした時間が、この痛みが、彼が彼で在り続ける理由になってくれるのであれば、恨まれたって構わない。
 ずっと私を救ってくれたように、私もあなたを助けたかった。

 第五章 最後の復讐      〈了〉
 年に一度行われる大イベント、北峰高校の文化祭が始まった。
 夏休みからずっと準備してきたこともあって、楽しんでどんどんと売上を稼いでいるクラスもあれば、数時間に行われる演劇発表会に出場するために緊張で固まった笑顔のまま売り子をしている生徒もいる。
 そんな中、中庭では有志の文化部によるストリートライブが始まっていた。
 後夜祭でライブ予定である軽音楽部は、日中はソロやギター演奏をメインで披露するらしい。運が良ければ、ダンス同好会とのコラボが見られるという。文化祭中でも先生の手伝いから解放された私が中庭に着いた頃には、すでに多くの見物客で賑わっていた。

「楓ー! こっちこっち!」

 人混みをかき分けながら呼ばれた方へ向かうと、佐野さんと船瀬くんが手を挙げて一人分の空間を空けてくれていた。最前列の特等席だ。

「ごめんね、ありがとう」
「大丈夫ですよ! 井浦先輩、間に合ってよかったです」
「こういうのは前で楽しまなくちゃね! ほら、始まるよ」

 ギターのかき鳴らした音が中庭に響き渡ると、わあっと歓声が大きくなった。観客がずっと待ちわびていたのがよく伝わってくる。ギターを構える男子生徒の隣で、マイクを持った美玖ちゃんがニッコリと笑う。

「――おまたせしました、歌いますっ!」

 美玖ちゃんの一言で始まると、待ってましたと言わんばかりに大いに盛り上がった。最近流行りの曲からついうっとりと聴き入ってしまうバラードまで、なんでも歌いこなす彼女に全員が魅了される。ペンライトまで準備していた佐野さんも人一倍声を上げて楽しそうだ。

「これはもう……ミスコンでのアピール効果ですね! 後夜祭もきっと盛り上がりますよ!」
「ああ……それでこんなに人が多いんだね……」

 興奮気味に言う船瀬くんの言葉をすんなりと納得した。
 ミスコンの出場者のアピールは昨日の前夜祭で行われた。今は校内に入ってすぐの一角にコーナーが設置され、アピールタイムの動画が流しっぱなしにされている。中庭に集まっているほとんどの人が動画を見て来てくれたようだ。
 私と岸谷くんは前夜祭に参加出来なかったけど、その日のうちに佐野さんが動画を送ってくれたのを見ることができた。
 いろんな生徒のアピールが行われる中、名乗りもせずアカペラで一曲歌う美玖ちゃんの斬新なアピールが一番素敵でかっこよかった。なんであの場に居られなかったのだと、岸谷くんも大きく肩を落としていたっけ。
 私が直接聞きたかったと本人に伝えると、「楓が呼び捨てができるようになったらいつでも歌ってあげる」と言われてしまった。知らぬ間に佐野さんと美玖ちゃんの二人から、名前で呼ばれるようになっていることには驚いた。別に許可が必要なものじゃないけど、ちょっとくすぐったく感じる。
 かくいう私は以前と変わらず美玖ちゃん、佐野さんのままだ。呼び捨てまでの道のりはまだ遠い。

『くははっ! お前、不良の喧嘩を止めようとする勇気はあんのに、人見知りは治らねぇのな』

 すぐ近くで聞き慣れた声がする。見れば、人混みに紛れながらも独特な笑い方をする袴田くんの姿があった。密集しているにも関わらず、よくここに潜り込んだなと感心していると、袴田くんと目が合う。

『いいだろ、幽霊が一人混じってたって誰も気付かねぇよ。もう混じってるかもしれねぇし』

 それはそうかもしれないけども。
 小さく溜息をつくと、袴田くんがまた『くはは』と笑った。
 つい二日前まで弱っていたとは思えないほど、以前と変わらない様子の彼らしさに安堵している反面、心配していた時間を返せと怒鳴ってやりたいとも思う。
 というのも、岸谷くんを始めとする大勢の人の記憶から消えていた袴田くんの存在は、バスジャック事件から一夜明けると、すっかり元に戻っていたのだ。スマホの文字化けも無くなり、模造紙で書かれたマジックペンも元通りにはっきりと書かれていた。
 袴田くんいわく、身体の維持が不安定になったきっかけは、まだ力について理解していないにも関わらず、吉川さんの魂をビー玉に閉じ込めたことに間違いないらしい。
 ただ、それと平行して、成仏せず一年もこの世に居座り続けたことも異例だったのではないだろうか。
 異質であること以前に、幽霊である彼には心残りという、この世に留まり続ける理由があった。下手すれば地縛霊になっていてもおかしくない。そして謎の力も加わり、すべてが想定外だったことを強引にまとめていたが為にバランスを崩し、悪い方向へ働いてしまった。――それが生前関わりのあった人の記憶から存在を消すことになってしまったのではないか、と推測された。
 その中でも私や近江先輩、田中くんが忘れなかったのは、中学の件で彼のことをより深く知っていたからだと仮定すれば、時間が経過していたら忘れていた可能性もあるだろう。
 また、完全に忘れていたのに岸谷くんが思い出すことが出来たのは、ずっと私に取り憑いていた彼が回復し、再びこの世に現れたから。
 腑に落ちないことばかりだけど、これ以上考えると頭がパンクしそうだったのでやめた。数十年後くらいに思い出したら、思い出話にして考察してみようと思う。
 なぜ袴田くんに異質な力があるのか。――そのことについては今もわかっていない。

『あれ? そういや岸谷は?』
「委員会の巡回が被って来れないみたい。後夜祭のライブに全力を賭けるって言ってた」
『すっげぇ楽しみにしてたのにな。てっきり乱入するんだと思ってた』
「……さすがの岸谷くんもそんなことはしないよ」

 私がそう言うと、袴田くんは「そっか」と笑ってライブに目を向けた。一緒に声をあげて楽しんでいる姿は、幽霊とは思えないほど溶けこんでいた。
ストリートライブが終わると、次のコーナーが始まる前に私達は中庭を抜けた。
 廊下に展示された校内新聞を流し読みしながら、佐野さんが船瀬くんに問う。

「淳太のところは何やっているの?」
「お化け屋敷です。別のクラスと被っちゃったんですけど、僕らのほうが怖い自信がありますよ!」
「おおっ! いいね、後で行こうよ」
「あと明日のストリートライブに、野中と僕で漫才します」
「漫才? もしかして夏祭りの?」
「はい、夏祭りが終わった後すぐに野中から練習メニューを渡されました」

 口約束がこんなに早く形になるとは。でも心なしか船瀬くんの表情は嬉しそうだった。以前の彼とは比べ物にならないくらいほど活き活きとしている。最初は心配していた佐野さんも、今では船瀬くんを引き連れてカフェ巡りをしているらしい。傍からみれば姉弟のようだ。

『あの泣いてるだけだった奴が、よくここまで明るくなったな』

 二人から一歩後ろを歩く袴田くんが呟く。心配していた人はここにもいたか。

「そういえば、金髪の人の名前だけでも教えてくださいって言われてるんだけど、教えていい?」
『絶対教えるな。どうせ調べれば出てくるんだから』
「袴田くん、本当は照れてる……?」

 そう尋ねると、袴田くんは鼻で笑ってそっぽを向いた。どうやら照れ隠しが苦手らしい。

「おーいたいた。井浦チャン」
 ふと、後ろから呼ばれて振り返ると、やけに目立つオレンジパーカーを着た近江先輩と制服姿の山中くんが手を振りながらやってきた。すでに屋台を巡っていたのか、山中くんの手には可愛らしい綿菓子が握られていた。

「久しぶりー。元気ぃ?」
「元気……って、そんなに日が経ってないですよね?」
「ごめんね、井浦さん。事前に言っておけばよかったけど、連絡先知らなくて」
「う、ううん。びっくりしただけだから。来てくれてありがとう」
『げぇっ……』

 ふいに嫌そうな声がして見ると、袴田くんが先程と打って変わってげっそりした顔をしている。近江先輩は直属の先輩ですごくお世話になったと聞いている。怪訝そうにしているのも照れ隠しだったりするのだろうか。

『……今、照れ隠しとか考えただろ。残念ながら本心だ』

 鬱陶しいと面倒臭がっている一方で、口元が緩んで嬉しそうに見える。本人には言わないでおこう。
 近江先輩は在学中は「最強の自由人」の異名を持つ不良だったと聞く。実際に会った時も怖いイメージはなかったけど、私が知らないだけで、二人しか知らない一面があるのかもしれない。
 そういえば岸谷くんはスマホに表示された文面だけで震えあがっていたっけ。

「きょ、今日はどうしたんですか?」
「可愛い後輩の最後の文化祭を見に来たに決まってるだろー? あ、大晴は俺が連れてきた」
「ちょうど北峰のアニメ同好会に顔を出そうと思っていたんだ。少し前にネット上で意見交換会をしていて――」
「なにより、井浦チャンに会いたかったから来ちゃった」

 ニッコリと満面の笑みを浮かべて近江先輩が言う。不用意に距離が近くて思わず後ずさると、隣ではギロッと睨んでいる袴田くんがいるのに気付いた。状況がシュールすぎて怖い。

「そんな警戒しなくても平気だって。これを渡したかっただけだよ」

 近江先輩はポケットから『おんど食堂…特別券五〇〇円』と書かれた食券を二枚、私に差し出した。それぞれ端の方に「日替わり」「肉団子」と書かれている。