――そうだった、バスの車内だって一大事だった!
私はすぐさま立ち上がり、乗降口にある非常コックを開ける。
本来なら運転手が操作して開けられるが、ミラー越しに見える運転手は急ブレーキをかけたばかりで上手く操作できるか分からない。ドアが開くと、後ろの座席にいた乗客が我に返って降りていく。おばあちゃんと男の子は、サラリーマンに支えられながら降りた。
「ああっ! せっかくここまで来たのに……」
「お前らぁ……何してくれんだ!」
「助けてやったんだから、ちったぁ大人しくしてろっての……井浦早く出ろ!」
暴れる二人を強引に抑え込む袴田くんが力で押されている。前に船瀬くんを助けたとき――二人がかりで襲い掛かってきた南雲の不良は難なくと制圧させたのに、今は抑えることだけで精一杯のようだった。
私は優先席に駆け寄り、怯えていた母親の手を取る。
「外に出ます、動けますか?」
「わ、わたしは、人を……」
「息子さんが待ってます、行きましょう!」
息子、の言葉に反応して、母親の目の色が変わる。握り返された手も少しばかり強くなった。彼女を支えながら立ち上がってドアを目指す。
もう少しで外に出る。歩道には疲れ切ってその場にしゃがみこむ乗客と、困惑した表情の通行人がこちらを見ていた。運転手もバスから降りている。
後は私たちが降りれば――!
「……クソ、ふざけんな!」
「しまっ――」
袴田くんの拘束から兎の彼が逃れると、今まで運転手に突きつけていた拳銃を、母親に向かって投げつけてきた。両手が塞がっているうえ、母親には避ける余力がない。
もし当たり所が悪くて、拳銃にセットされている銃弾が暴発でもしたらどうしよう。――そんな不安が過ぎる中、咄嗟に投げつけられた拳銃と母親の間に身体を入れ、覆い被さった。これで暴発してもこの人はまだ助かるかもしれない。
いったい何度ピンチになったら気が済むんだ、私は。
「――っこのアホがあああ!」
雄叫びが聞こえたとともに、ガシャン! とその場に叩きつけられる。顔を上げるとそこには、学校にいるはずの岸谷くんが、汗だくで目の前に立っていた。
「きっ……き、北峰の岸谷!?」
「危ねぇだろうが! 暴発したらどうすんだ!」
「……岸谷くん、なんで」
「はぁ? 授業中に無言電話をかけてきた奴はどこのどいつだ!」
心配したんだからな! と岸谷くんがすごい剣幕で迫ってくる。
そういえば、バスの座席に自分のスマホを埋め込んでいたことをすっかり忘れていた。
「どうしてここが分かったの?」
「俺の情報網を舐めるな。……つか、随分懐かしい顔がいるじゃねぇか」
岸谷くんはそう言って、腹部を蹴り飛ばされた袴田くんを、ニヤニヤと笑みを浮かべて言う。
「あー……岸谷? ようやく来たか」
「遅いってんならてめぇの方だからな、袴田。なんだその姿は。腕がなまってんじゃねぇの?」
鼻で笑いながら岸谷くんが手を伸ばす。袴田くんはそれをしっかり掴むと、二人して田中くん達を見据えた。
「話は聞いた。その兎野郎は、立てこもり犯が逮捕前に犯した事件の被害者の身内だな。別件で警察に何度か補導もされているから、ここで俺達を口封じしてもすぐにバレるぞ。拳銃のおもちゃとはいえ、脅すだけでも立派な犯罪だ。さっさと降参しろ」
「おもちゃ……おもちゃ!? あれが?」
「くははっ、やっぱりな。中身はBB弾ってところだろ。脅すには充分だ。……ああ、井浦は寝てたんだっけ」
「おまっ……なんでこの状況で寝ていられるんだよ……?」
「いやぁ……あれ?」
淡々といつものように話しているけど、この状況ではありえないことが起きている。だって岸谷くんは学校で会った時はすでに袴田くんの存在を忘れていたはずだ。困惑している私に、岸谷くんが気付いた。
「俺がどうやって思い出したかは後でじっくり話してやる。とりあえず袴田、あと数分で警察が到着する。どうする?」
「どうするも何も、今回ばかりは正当防衛を主張するしかねぇだろ」
袴田くんの目つきが変わる。ピリッとした殺気が一瞬にして空気を変えた。
「そうだな。……井浦、その人を連れて外へ」
「……うん」
二人が笑みを浮かべる。ああ、いつもの二人だ。
私は母親を支えながら、ゆっくりとバスを降りた。母親を歩道まで連れていくと、男の子がぐしゃぐしゃの顔で泣いて駆け寄ってくる。ぎゅっと抱きしめられた彼女も、男の子に負けないくらい強く抱きしめ返した。
安堵したのも束の間、突然ドン! とバスが大きく揺れた。
振り返ると、狭い車内で袴田くんと田中くんが豪快に殴り合っているのが見えた。袴田くんが「くはは!」と笑う声が聞こえてくる。その姿がやけに楽しそうで、猟奇的に感じ取った見物人のほとんどが、顔が引きつっていた。狂っていると思われても仕方がない。
なんせ袴田くんなのだから。
「あ、あの金髪の彼は一体……?」
泣きついて離れない息子を宥めながら、母親は神妙な面持ちで私に問う。
「彼は……」
不良、幽霊、死神。――日頃の恨みも兼ねて散々嫌味ったらしい名称をつけてもいいが、やっぱりしっくり来るのはこれだろう。
「――ヒーロー、みたいなもんです」
狭い車内で繰り広げられる一方的な殴り合い。田中くんたちはただ耐えるだけで必死だった。座席やポールを使って自由奔放な動きをする袴田くんを、後ろでサポートしながらも確実に叩きこむ岸谷くん。――これが近江先輩が言っていた「北峰のツートップ」と称された二人の実力。これはきっと、もう二度と見ることのない、北峰の最高不良コンビが織り成す無双と言っても過言ではない。
誰も寄せ付けない阿吽の呼吸は、瞬きさえ許されないほど素早くて、いつしか息をするのも忘れてしまうほど暴力的で、繊細で、圧倒的な強さだった。
最強の不良と謳われた袴田くんと岸谷くんが揃ってしまったのが、最大の不幸だっただろう。
彼らには何をしても及ばず、兎の彼が降参すると、田中くんも抵抗を止めた。そこへ現れたパトカーから降りてきた警察官が、岸谷くんではなく私を見て「また君か」と呆れた顔をした。知らぬ間にブラックリスト入りしていたらしい。今年だけで三件は事情聴取を受けているし、仕方がないと諦めるしかない。 田中くん達を引き渡すと、別の警察官が私達を品定めするように訝しげに問う。
「君たちが起こしたんじゃないよね? ……いや、バスジャックと聞いているけど、本当は君たちの喧嘩が大事になっただけじゃないかと思って」
「はぁ!? そんなこと――」
「ただの喧嘩だったら、それこそ君たちも罪になる。正直に言ってくれ」
「正直も何も、俺が通報した時に話した通りですって!」
「捕まりたくないからそう言っているんじゃないのか?」
岸谷くんが何度説明をしても、警察官は疑い続ける。証拠として残りそうな写真や動画は撮っていないし、電話で聞こえてきた会話だけじゃ成立しないかもしれない。警察に目をつけられた時点で、信用は勝ち取れない。軽くあしらわれてしまう。今回ばかりは私も共犯にされているから、何を言っても無駄かもしれない。
隣にいた袴田くんにいたっては最初からわかっていたかのように、冷静に話を聞いていた。頭ごなしに決めつけられることに何の疑問を持っていないわけではないだろうが、何度も同じ局面を経験していることから半分諦めているのかもしれない。
「あのね、君達は何度も警察の世話になっているんだから、そろそろ大人の言うことを――ん?」
すると、さっきまで泣いていた男の子が鼻をすすりながら、警察官のズボンをぐいぐいと引っ張った。やけにムスッとした顔を可愛らしく思ったのか、警察官が屈み込んで聞く。
「どうしたんだい? 今大事なお話してるから……」
「ヒーローなんだよ!」
「ひ、ヒーロー?」
「ぼくはこわくてずっと泣いてたのに、おにいちゃんとおねえちゃんだけが悪いやつらと戦ってくれて、おかあさんを守ってくれたんだ! だからヒーローなんだぞ!」
「うちの子がすみません! でも本当なんです。彼らがいなかったらどうなっていたことか……」
「信じてください、彼らが何をしたかは知らないけど、助けてくれたのは本当なんだ!」
男の子が不器用にファイティングポーズを取りながら、懸命に教えてくれる。それに寄り添うように母親と、彼女を支えてやってきたサラリーマンが口添えをしてくれた。
「わ、我々だって決めつけているわけじゃないんですよ。不良の喧嘩である可能性も……」
「じゃあどうしておじさんは来てくれなかったの? ぼく、ずっとけいさつのおじさんにはやくきてってお願いしてたのに! おじさんは悪いやつから守ってくれる正義のヒーローじゃないの?」
「うっ……」
子供にここまで言われると、さすがの警察官も苦い笑みを浮かべるしかなかった。さすがに全てに答えられるわけではないことはわかっているつもりだ。それでも純真に助けを求めていた男の言い分に、嘘をつくことしかできない警察官にはむしろ同情してしまいそうになる。
「彼らが正当防衛だったことを、証明できればいいんですよね?」
困り果てた警察官に、バスの運転手が歩み寄る。
「バスの車内に取り付けたドライブレコーダーがあります。これなら文句ないでしょう」
「レコーダー……そっか!」
自分で動画の撮影をしておけばよかったと悔やんでいたけど、その手があったか。
これなら証明できるかもしれない!
「無理だ……」
安堵した矢先、袴田くんがぼそっと呟いた。隣にいなかったら気付けないほど小さな声だった。苦虫を潰したような顔で小声で私に言う。
「俺がちゃんと映っているか、わからない」
「でも実体化してるし……」
「俺はもう死んでいるんだぞ。警察が調べればすぐにバレる。むしろ心霊現象として証拠にならねぇ可能性もある」
「ど、どうにかならないの?」
「できたらとっくにやってるって」
悔しそうに唇を噛む。体力を消耗している今、実体化を維持するのも精一杯なのかもしれない。すると、誰かが袴田くんと岸谷くんの肩をがしっと、覆いかぶさるようにして掴んだ。
「――分かりました。では後日、そのドライブレコーダーを提出してください」
紺色のスーツを着た、優しい顔立ちをしている男性だった。提出するように言ったことから、きっと警察関係者なのだろう。袴田くんと岸谷くんは驚いた顔をして固まっている。
「し、しかし! 彼らはここらで有名な不良で……」
「先程、引き取った二人が自供しました。二人はある事件の被害者で、復讐の為にバスジャックした乗客を人質にしようと考えていました。彼らとは面識はあるもの、たまたま居合わせただけだと言っています」
「そう……言ったんですか?」
「ええ。私には庇っているようには見えませんでした。今までのことを踏まえて捜査するのも構いませんが、もう少し冷静に、視野を広げてみるべきだと思います」
スーツ姿の男性が微笑みながら言うと、警察官が萎縮して動揺の声を漏らした。
「それでは、彼らからは私が話を聞きましょう。あなたは乗っていた客の話を聞いてください。……さぁ、行こうか」
男性にされるがまま、少し離れた場所まで移動する。終始無言だった二人の様子が気になっておろそろしていると、ようやく二人を解放して向き合った。
「久しぶりだね、二人とも」
「え?」
「……か、片桐さん?」
岸谷くんが懐かしそうに頬が緩んだ。袴田くんは未だに驚いた顔をしている。
「覚えていてくれて嬉しいよ、隼人。玲仁は……忘れてるかな?」
「わっ……忘れてねぇよ!」
「本当か? あの時は肉まんにし眼中になかっただろー?」
「うるせぇ! さすがに覚えてるっつーの。ただ……また会えるとは思わなかったからさ」
肉まん、と聞いて思い出した。
袴田くんが生前、肉まん一つで暴走したとか。確かその後内緒で警察官に肉まんを奢って貰ったって言っていた気がする。
「井浦は初めてだったな。片桐さんは、俺と袴田が荒れてた頃によく世話になっていたんだ。今年から別の交番に異動したって聞いてたんだけど……」
「たまたま元居た交番に寄ったんだ。通報を受けて北峰の生徒って聞いたから付いてきたんだけど、まさかここで再会するとはな」
世間は狭いな、と、片桐と呼ばれた男性は嬉しそうに笑う。岸谷くんがいつもの調子に戻ってきている。きっと心から信用しているのだろう。
「さて、詳しい話を聞きたいんだけど、まず隼人から教えてくれ。その後に井浦さん。玲仁はゆっくりしていなさい。どういう訳が知らないけど、玲仁の存在が公に出るとややこしくなるだろう。だから、二人に聞くよ」
この人も袴田くんのことを覚えている――ということは、彼が事故に遭って死んでいることもわかっているのだ。だから人気のない場所まで連れてきてくれたのだろうか。
片桐さんは袴田くんのほうを向いて言う。
「来てくれてありがとう、玲仁。また一緒に肉まんを食べたかったよ」
「…………」
袴田くんは口を閉ざしたまま答えなかった。
きっと彼も食べたかったと思う。他愛もない話をしたかったと思う。――それがもう叶わないことを分かったうえで何も言えなかった。
片桐さんと岸谷くんが離れると、袴田くんと私だけになった。姿をくらませるには今しかない。
「じゃあ俺はこれで――」
「ダメ」
そそくさとこの場を去ろうとする袴田くんの腕を力いっぱい掴む。実体化した身体でもやはり冷たかった。突然のことで驚いた彼は、私を見て苦い顔をする。
「ちょっ……お前、こんなに握力あったっけ? リンゴ潰せるぞ」
「誤魔化さないで。今回ばかりは逃がさないから」
じっと見つめると、珍しく袴田くんの口元が引きつった。心当たりがあるのだろう。
「袴田くん、本当は心残りが何かわかっているんだよね?」
夏祭りの最後に叩きつけられた挑戦状――袴田くんの心残りを見つけることは、正直今でも分からない。でもよく考えてみたら、良い意味で大のお人好しの彼だ。
過去を特に悔いていたが関係しているとすれば、同じ過ちを起こさないようにすることだったのではないか。私と最初に出会ったのは偶然だったと思うけど、誰も傷つけないために、見知った顔の私を利用したのも納得がいく。
「心残りを探せっていうのも建前で、自分の身体を維持するために私の身体に長期間取り憑くための準備だったんじゃないの?」
「え、えーっと……いや、まぁ……」
「ビー玉に魂を閉じ込めたのも、結局は吉川さんを守るためでしょう?」
これは私の勝手な仮説だ。
彼は立てこもり事件に偶然居合わせてしまい、吉川さんが倒れたのを目の前で目撃したことで焦っていたのではないだろうか。意識を無理に保とうとする彼女を見て、咄嗟に魂だけを閉じ込めることを思いついた。彼が私に取り憑いて動くことや、実体化できる異質な力ならそれが可能だと思い、賭けることにした。結果的には成功したが、随分割の合わない博打を打ったものだ。後は頃合いを見計らって身体に戻す算段だった。
しかし、相手は重症の怪我を負っているとはいえ、自分を陥れた人物だ。躊躇っているうちに身体の維持が保てなくなっていった。
「……ちがう?」
かなり勝手かつ強引な仮説だと自分でも思う。袴田くんは呆れたように小さく溜息をついた。
「半分ハズレ。……本当はすぐに戻すつもりだった。でも自分の身体を維持するのに精一杯で、ビー玉を壊すほどの力が無かった。それだけだ」
「……随分素直だね、大丈夫?」
「お前こそ、随分失礼になったな」
お互い様だな、と袴田くんはポケットから黒い靄がかかったビー玉を取り出した。
「でも、ようやく返すことができる」
手のひらの中心にビー玉を置くとぎゅっと握る。薄いガラスが割れた音がして、指の隙間から小さな光が漏れる。袴田くんは病院の方を向いて手のひらを開くと、光を帯びた球体が宙に浮いてスッと消えてしまった。
「じきに目が覚めるはずだ。一年も寝たきりだったから、起きるのに一苦労だろうけどな」
「……ありがとう」
「別に、約束を守っただけだ」
照れているのか、袴田くんはそっぽを向いた。
喧噪から離れた場所で二人で並ぶ。駅のホームで話した時とは違う、ぎこちない空気が漂っていた。問いただしたいことが山ほどあるのに、聞いたら最後になってしまうんじゃないかと、急に不安に煽られて言い出せない。
「……悪かった」
沈黙のなか、先に口を開いたのは袴田くんだった。
「仕方がなかったとはいえ、勝手に井浦の身体に取り憑いた。中学のトラウマだってわかってたのに、お前を田中に引き合わせちまった」
「……私は、大丈――」
「大丈夫なわけがねぇんだよ」
袴田くんが真っ直ぐ私を見て言う。今まで見たことのない、申し訳なさそうな顔に胸が締め付けられる。
「怖かっただろ。……怖くないわけがない。病院で田中とすれ違ったときから怯えてたのも知ってる。お前が我慢強いことだって、隣の席になる前から知ってんだよ」
この人はいつもそうだった。
素直になれないから遠回しに助けようとして、「もっと早く助けられていたら」と悔やむ。
そのきっかけは私だったかもしれない。でも彼が悔やむ必要はどこにもない。頭でわかっていても、彼の正義が許せなかった。全員を救えるヒーローなりたくても自分はなれないと叩きつけられた現実に、彼は何度も立ち上がった。何度も諦めず、掴み取ったはずだった。
「中学の時、お前は助けてくれたのに俺は何も出来なかった。……これじゃあ、また同じことを繰り返しただけだ」
袴田くんが目を伏せて謝る。いつもの彼なら在り得ない行動だと思った。こんな弱音を吐く彼は初めてで、私は不本意ながらも「らしくない」と呟いた。
「袴田くん、ちょっとごめんね」
「え……」
「額、貸してくれる?」
返答を待たずに私は彼の制服の胸倉を掴むと、彼の顔を真っ直ぐ見据えた。
「井浦……まさか……!」
何をしようとしているか察したようで、袴田くんの顔色がサーッと青くなる。身長差を考えてしっかり掴んで固定すると、私は思い切り頭を後ろに逸らした。
「は、早まるなって、お前だって無事じゃ――」
「袴田くんの――バカ!」
勢いをつけ、袴田くんの額をめがけて自分の額を叩きこむ。鈍い音が響いて、お互いの脳をぐわんぐわんと揺らした。