気が立っている彼に事実を伝えても受け入れられない。彼を落ち着かせるためには、精神を逆撫でするようなことはしない。それは田中くんのためでも、吉川さんのためでもある。
 立てこもり事件の時に、彼女が呟いた言葉が頭から離れない。

 ――「私だって早く気付きたかった」

 それをあの場で聞いた袴田くんが、見て見ぬふりをする訳がないのだ。
 本当にいなくなってほしいのであれば、見ているだけでよかった。しかし彼は、わざわざ吉川さんの魂をビー玉に閉じ込め、一年もの間肌身離さず持っていたのは、絶対自分を殺した仕返しなんかじゃない。彼女を守るためだったとしたら、体内に取り込まなかったことも説明がつく。
 彼は最初から、復讐をしようなんて考えていなかった。

「怖かったからだよ」

 胸倉を掴んでいる田中くんに、袴田くんは続けた。

「怖くて、動けなかった」
「……何言ってんだ? 平気で人を殴れるお前が、怖気づいたとでも言うか!」
「人が目の前で死ぬことに恐怖を感じないわけがない。平気で人を殴って、言葉で傷つけることに意味がないことを、俺はその場で思い知った。――きっと、吉川だってそうだった」

 困惑する田中くんの手を振り払う。バスの揺れと同時によろけると、田中くんは呆れたように彼を見下した。

「残念だ。お前には明穂を助けることくらい、充分可能だっただろうに」
「いつでも誰かを助けられるような、万能な人間なんて早々いない。あの場にそんなヒーローはいなかった」

 目の前で吉川さんが倒れても、わざと助けなかったんじゃない。本当に足がすくんで動けなかったのだ。彼は一度は恨んでいた相手であっても、命を粗末に扱うような人じゃない。それを私はここにいる誰よりも知っている。
 袴田くんは震える手を力強く握った。

「お前を助けるつもりなんて最初からねぇよ。ただ俺は、吉川が泣く理由がお前になるのだけは避けるべきだと思うから、お節介しに来ただけさ」

 それは人との関わりを大事にしてきた袴田くんだからこそ見過ごせなかった、彼らしい答えだった。