[長編]隣の席の袴田くん、死んで神になったらしい。

「袴田玲仁って誰だっけ?」
 クラスメイトの一人が悪気なくそう言った。
 普段と変わらない朝を迎え、何事もなく授業を受けてようやく今週末に迫った文化祭の準備に取り掛かる最中、私だけが違和感を覚えた。教室のカーテンの色が変わったわけでも、クラスメイトの誰かがイメチェンをしたわけでもない。今までと何も変わらないこの光景に、いつからこの違和感が存在していたのだろう。
 壁に掲示する授業の課題をまとめた模造紙も決まって、位置の確認と装飾の作成を同時進行で進めていると、クラスメイトの一人が広げた模造紙を見て口にした時、予感が的中した。二年生の頃から残っていた模造紙には、作成した班のメンバーの名前が書かれている。その中には勿論、袴田くんの名前もあった。

「そんな名前の奴っていたっけ? 別のクラス?」
「なに言ってんだよ。昨年まで一緒だっただろ。……あれ、どんな奴だっけ?」

 それがきっかけで、教室内が気まずい空気に包まれた。クラスメイトのほとんどが袴田くんのことを忘れかけているなんて信じられない。つい先週、そこに書かれていた袴田くんの名前を見て思い出話に花を咲かせていたというのに、それさえも忘れてしまっている。

「袴田って、アイツだよ。金髪の不良で、昨年事故で亡くなった奴。袴田が座っていた席を皆で卒業まで残そうって話をしたじゃないか」
「……ああ、そっか! なんで俺、忘れていたんだろう」

 言い出した彼だけでなく、他のクラスメイトからも窓側の席に座っていたことや、沢山の人に慕われていたこと、あんなに目立つ容姿をしていた彼の存在を忘れかけていた。わざとには見えなかった。
 たった数日のうちに忘れるような記憶じゃない。久々に模造紙を広げたときにすっと挙がった彼の名前や思い出は、少なくとも亡くなった年に同じ教室にいたクラスメイトたちはしっかり刻んでいたはずだ。
 休憩に入ってすぐ、私は教室を飛び出して岸谷くんがいるクラスへ向かった。丁度教室から出てきたところを捕まえると、彼は口を開く前に勢い任せに尋ねる。

「岸谷くんは、袴田くんのこと覚えてる?」
「は?」
「袴田くんだよ! クラスの皆が忘れてたの。つい昨日まで名前が出ていたのに、悪ふざけには見えなくて……岸谷くんは忘れてないよね?」

 私の問いかけに岸谷くんは一瞬考え込むと、青ざめてハッと顔をあげた。
「危ねぇ……俺も忘れかけてた」
「……何言ってるの? ふざけてる?」
「袴田のことでふざけられるか。なんでお前だけ忘れてないんだよ?」
「そんなこと言われても、何がなんだか……朝から違和感があったんだけど……」
「……ちょっと待ってろ。おーい、安藤!」

 岸谷くんがそう言って、通りがかった安藤くんに声をかける。鞄を持っているから、これから帰るところだろうか。安藤くんがこちらにやってくると、私が視界に入ったのか、小さく舌打ちをした。

「なんでコイツがいるんだよ……」
「井浦が居ちゃ悪いのか?」
「気に食わねぇ」

 ろくに話したことがないのに?

「で、何の用だ?」
「ああ、袴田って覚えているか?」
「……ハマダ? 誰だ?」

 そう言って首を傾げる。安藤くんはクラスメイトよりも袴田くんの近くにいたはずだ。そんな彼でさえ忘れているなんて。
 岸谷くんは動揺しながらさらに尋ねる。

「ハマダじゃなくて、袴田! 俺たちを引っ張ってくれた不良の! 金髪に、黒の二連ピアス!」
「……ああ、思い出した! 袴田な、すっげぇ喧嘩の強くて変な笑い方をする奴」
「よかった……なんで忘れてんだよ?」
「さぁ……? アイツには恩があるけど、出会った当初から気に食わなかったし、もういないからって忘れていたのかもな。……でも、おかしいんだよな」
「なにが?」

 困った顔の安藤くんの視線が私に向けられる。舌打ちするほど気に食わないと言ったくせに。

「井浦が気に食わない理由が、ついさっきまで思い出せなかった」
「は……? なんとなくとか、そういう曖昧なものじゃなくて?」
「だったら相手にしないだろ。だからなんでだろうと思ってたけど、岸谷の所為で分かった」
「俺の所為!?」
「言うこともやることも想定外すぎて、袴田そっくりだからだ」
「…………え?」
「他に用がなければいいか? バイトに遅れる」
「あ、ああ。ありがとうな」

 スマホに表示された時間を見ながら、安藤くんは慌てた様子で立ち去った。
 私の行動が袴田くんそっくりというのは正直心外だが、やはり彼も忘れていて、名前を出しただけで思い出していた。全員が完全に忘れているわけではないようだ。

「……いや、そういうわけでもなさそうだぞ」
「え?」

 そう言って岸谷くんが自分のスマホを見せる。画面には先日おんど食堂で会った近江先輩とのやりとりが表示されていた。彼から「袴田のことを知っていますか?」といつになく丁寧な文面で送ると、即レスで返答がきた。

【ふざけてんの? 俺がいくら自由人だからって玲仁のことは忘れねぇよ。】

 どことなく怒りが込められているような文面に、微かに岸谷くんの手が震えている。卒業後も付き合いがあるくらいなのだから、先輩がどういった感情で送ってきたのかが分かるのだろう。

「やべぇ、マジなやつだ……次会ったときに怒られる……!」
「なんか、ごめん……」
「いや、今はどうでもいい。それよりもどういうことだ? 俺と安藤、クラスメイトの大半の奴等は忘れかけていて、お前と近江先輩は覚えていた。……嫌な予感がする。袴田と最後に会ったのはいつだ?」
「せ、先週の帰りに会ったのが最後、だけど……」

 袴田くんの身体が透けているのを見たこと、あと一週間の時間しかないと告げられたことを話すと、岸谷くんは頭を掻きむしった。

「身体が透けてるとはいえ、成仏するとは限らねぇな。そもそも、井浦に吉川のことを伝えている時点でかなりヤバいんだと思うが……」
「……命日が近いからとか?」
「四十九日法要のときに平気で屋上で昼寝していた奴にそれが通じるとは思わねぇが……ともかく、文化祭の初日までに何とかしねぇと。まずは袴田を探すしか……」
「今日も探してみたけど、見つからないの」

 今朝も教室の他に屋上にも行ってみたけど、姿は見当たらなかった。学校の敷地外に出てまで散歩するようなタイプではないのは、私もよく知っている。
 彼は死んでからというもの、幽霊なんて言葉ではまとめられない、異質な存在として一年近くこの世を彷徨っていた。身体に取り憑くだけでなく、実体化という普通ではありえないことも、彼はさも当然のようにやってのけてきた。
 平然としていたから気付かなかった。――いや、気付かせなかった。

「これって、袴田くんの存在が完全に消える前兆じゃないよね……?」

 駅のホームで会った時に身体が透けていたのは、異質な身体の維持が保てなくなっていたのではないのか。いや、最初から身体の維持が不安定だった可能性だって捨てきれない。
 身体の消失――つまり、この世から成仏以外の方法で消えることがあるとしたら、それは誰かの記憶から消え去ること。明日になったら、岸谷くんもクラスメイトも、私でさえも完全に彼のことを忘れてしまうかもしれない。
 一年間も不安定な身体を維持してきた代償?
 それとも人の道を外れようとした罪?
 もし袴田くんが提示した期限以内に心残りを見つけ、晴らすことができたとして、彼の消失は成仏に変わるだろうか。
 そんな保障はどこにもない。誰も教えてくれない。むしろ無いと考えるべきだ。
 状況は最悪だった。
 神様は、気に入った人間を自分の元へ連れてきてしまうことがあるらしい。
 優れた才能を持つ若きアーティストがこの世から去った直後、残されたファンが悔しそうにそんなことを呟いていた。もし本当に神様が品定めをしているのなら、この世界で生きている私達は、ある程度自由を与えられた金魚にでも見えているのかもしれない。

 ならば、神様は袴田玲仁をお気に召したのだろうか。

 不慮の事故に遭って成仏できず、人の生死に関わることができる異質な存在になった彼を、神様は喉から手が出るほど欲しかったのか。それとも彼が気に入らなかったからこそ、多くの人の記憶から彼の存在を消そうと残酷な仕打ちをしているのか。

 記憶の中から消えてしまえば、今度こそ袴田くんの存在自体がなかったことになる。

 その止め方は、誰も知らない。
 *

「それで、お前はどこまでわかったんだ?」
「……過去の話を聞いただけじゃ、わからないよ」

 文化祭の準備中にも関わらず、私と岸谷くんは屋上で作戦会議を始めた。
 責任者の彼がここにいるのはどうかと思うが、事前に彼は「ちょっと野暮用を済ませてくるから先に進めてくれ」と他の委員に仕事内容を委員に渡していた。
 屋上なのは単純に教室がどこも空いていなかったからで、袴田くんがそこで聞いていたとしても構わなかった。いや、むしろ出てきてほしいとさえ思う。くはは、といつもみたいに気味悪く笑って、何事もなかったように現れてほしかった。しかし、私の思いは虚しく、屋上には風の吹く音だけが寂しそうに響いた。
 岸谷くんは、袴田くんの中学での話について、荒れていた程度の事しか聞かされていなかったらしい。聞いていて楽しい話ではないから、必要なかったのだろう。他にも、私が彼と同じ中学に在籍していたこと、当時ニュースで話題になった騒動を止めたのが彼であったことを話すと、納得した様子で頷いていた。

「まさかお前が袴田と同じ中学だったとは……二年の時から隣の席だったのに、気付かなかったのか?」
「……気付かないわけないよ。中学から金髪は変わらなかったし。でもちゃんと話したことなかったから、私のこと知らないと思ってて……」
「それもそうか。……北峰に入った当初のアイツは、殴ることしか考えてない奴だったからな」
「そういえば岸谷くん、元カノが原因で袴田くんに殴りこんだって近江先輩が言ってたけど……」
「詳しい話は聞くなよ。俺的にはザ・青春だったんだから。……って、だからってどうでもいいって顔すんな。傷つくぞ」
「とにかく、吉川さんとの繋がりが肉まん事件だったことは分かったよ。近江先輩の話が本当なら、袴田くんの不器用さが仇になった思う。……確か岸谷くんもいたんだよね?」
「肉まんが潰されたところはな。アイツの爆弾発言は人伝で聞いたんだよ。この言い方はしたくないが……お互い自業自得だよな。あの時の袴田はミスコン優勝者よりも肉まんだったし、吉川は狙った奴にはしつこくて裏で有名だったから」

 遠い目をしている岸谷くんを見る限り、袴田くんはよほど肉まんが好きだったらしい。これ以上追及するものでもないけど。
「だが、吉川が袴田に好意を持っていたのは間違いない。本人も言ってたし、そのために井浦を消そうとしていたのも事実だ」
「……吉川さん、あの時嬉しそうだった」

 一年前の屋上で、袴田くんが告げた忠告は完全に脅しだった。にも関わらず、吉川さんは恍惚な笑みを浮かべ、彼が消えた後もその場所を見つめていた。それを見て正直ひいてしまったのは、きっと私だけではない。
 もしかしたら彼女はあの時、好きな人と共に生きていけると錯覚したのではないか。勘違いも甚だしいが、そう思い込まなければ、逃げ場のないあの状況を乗り切れなかったのかもしれない。

「俺も見てぞっとした。そうじゃなかったとしても、『最強の不良の女』の肩書を持っていれば、周りからスペック高く見られるだろうし、憧れがあったのかもな」
「……そうだとしても、死んでも欲しい立ち位置じゃないよ」

 もし彼女にかける言葉があるとすれば、私は迷わず「相手が悪かった」と宥めるだろう。なんせ女の子より肉まんの安否を確認する奴だ。付き合って損するに決まっている。

「だからと言って、袴田の心残りが吉川を道連れにするってのはおかしい話だよな。普通、嫌いな奴を隣に連れて歩くか?」
「……それか、復讐を望んでいる袴田くんの気が変わった、とかは?」
「さっき女子よりも肉まんを優先する奴ってお前も言ってたくせにそれはないだろ。嫌いなモンは嫌いなタイプだろうし」
「でも挽回の余地は与えるよね。屋上で袴田くんが最後の忠告をした一週間後に、コンビニの立てこもり事件が起きてるんだから」

 執行猶予とでもいうべきその一週間で、何を企んでいたのかはわからない。彼女が改心を試みた手前、袴田くんが先に痺れを切らしたのかもしれないし、一週間後に何もしなければまた彼に会えるのではと黙っていたかもしれない。あの時ばかりは異常だった彼女の思考に、私も岸谷くんも寄り添うことができない。
 ……そういえば、あの場で唯一冷静だった人がいたっけ。

「岸谷くんはあまり動揺してなかったね」
「……顔に出てなかっただけだろ」
「嘘だね。岸谷くんは顔に出やすいよ」

 袴田くんが屋上から去ったあと、彼は何事も無かったかのように、戻ってきた先生に事情を事細かに説明していた。恐ろしくて動けなかった私の代わりに、吉川さんがしたことを説明する一方で、袴田くんの存在を隠し通してくれた。

「袴田くんの脅しを聞き慣れていたから? それとも――怖かった?」
 私が煽るように聞いたのが悪かったのか、岸谷くんは面倒臭そうに小さく溜息を吐いた。

「お前はいつからしつこく聞いてくるようになった? 今まで踏み込んでこなかったくせに」
「確かに喧嘩絡みは避けてきた。でも今はそんなことを言っていられない。袴田くんのタイムリミットが近いなら、もうなりふり構ってらんないよ」
「そこまでしてどうすんだよ。袴田はもう死んでるんだ。……まさか本気で好きになったとか」
「そんなわけないって。私はただ、成仏する前にちゃんと会って、文句言ってやらなきゃ気が済まないだけ!」

 この際、理由は何でもいいと思った。どれだけ助けたいと思っていても、間に合わなければ意味がない。消えることが成仏することに繋がっても、そうじゃなかったとしても、私は袴田くんに会いたい。会って話したい。

「こっわ……まぁ、確かにそうだけどよ」
「それに彼の一番恐ろしいところを見てきたのは岸谷くんの方が知っているでしょ? だからあの時、本気で怒ってた袴田くんに気付いたんだよね?」
「それも近江先輩から聞いたのか。……ったくあの人は、自由人とはいえ口が軽すぎる」

 岸谷くんは私よりもずっと、袴田くんと一緒にいる時間が長かった。最初は敵で、喧嘩をしてお互いを認めた、青春臭い頃を思い出したのか、彼は小さく溜息をついた。

「……思い出したんだ。入学当初に荒れていた頃のアイツを」

 渋々口を開いた岸谷くんは、フェンスの向こう側を見た。

「誰一人寄せ付けなかったあの威圧感が、身体から染みついて今も離れない。その気迫に圧されて降参する不良は沢山いた。アイツは本当に、最強と呼ぶにふさわしい奴だったんだ。記憶に焼き付いて離れないくらい、まっすぐな目が恐ろしくて、頼もしかった」
「岸谷くん……」
「……ったく、なんで今頃思い出させるんだよ。明日になったら俺や他の奴らが忘れるかもしれないって時に」
「ご、ごめん」
「まぁいい。それよりも井浦、明日になって俺がとぼけた顔してたら思い切りぶん殴れ。――頼むぞ、戦友を奪われるなんて、死んでも御免だ」

 悔しそうに唇を噛む彼に、私は何も言えなかった。
 作戦会議後、岸谷くんは文化祭の準備のために作業に戻った。
 袴田くんのことが心配なのはわかるけど、一応責任者である彼が、文化祭の仕事を放ったらかしにするわけにはいかない。
 何かわかったら連絡すると話して別れると、私は荷物を持って学校を出た。クラスでは展示のみで、当日飾るまで手出しができない。だから放課後まで教室に残って作業をする必要がないのだ。
 とはいえ、袴田くんのタイムリミットが迫っている以上、このまま真っ直ぐ家に帰るわけにはいかない。花屋に寄り道をして小さな花束を買うと、バスに乗り込んである場所に向かう。

 バスに揺られる中、私は近江先輩と山中くんと話した中学時代のことを思い出していた。
 私が袴田くんと同じ中学に通い、悲惨で醜い光景を目にしたあの日――机には罵倒する落書きとペットボトルに首の折れた菊の花が一輪飾られていた。悪戯にしては悪質で、周りのクラスメイトの知らぬふりをする冷ややかな雰囲気にショックを受けたあの光景は、決して良いものではない。むしろこればかりは忘れてしまいたいとさえ思う。
 しかし、それはたった四年の時間を経て、同じ光景を目の当たりにすることになる。
 夢に出てくることも、記憶にこびり付いて離れないことも、仕方がないと思っていた。でもそれはあくまで過去の記憶で、現物を見ているしているわけじゃない。だから、あの再現を間近で見たとき、息苦しくなったのを覚えている。
 当時のことを知っていて、あの中学から入学してきたのは袴田くんだけだ。それにも関わらず、吉川さんはあの光景を再現した。多少異なる部分はあっても、私の記憶にあるものと瓜二つだった。偶然にしては出来すぎていたから同じ人が仕掛けたのかと考えたけど、主犯格だった田中くんが敵対視していた袴田くんと同じ北峰に入学とは考えにくいし、聞いたこともない。
 ならば、吉川さんが誰かから聞き出したことになる。情報源がどこかを突き止めたくても、学校での彼女は今、持病の関係で不登校扱い。入院中であることも校内に広まっているが、実際はコンビニ立てこもり事件で負傷した傷の所為で一時危なくて、今も昏睡状態が続いている。これを校内にいる生徒は皆、記憶が抜けていた。私がいくら聞きまわっても、彼女の話をしてくれる人はいなかった。
 そこでお見舞いも兼ねて、吉川さんが眠っている病院に行くことにした。
 入院している病院は以前から知っていたけれど、彼女の企みによって死んでいたかもしれないと思うと、とても見舞いに行く気分にはなれなかった。
 病院に着くと、受付で一般病棟の個室にいると案内されて向かう。
 夕方だからか、待合室には入院している人のお見舞いで訪れた人たちが多く座っていた。中には小さな子供もいたけど、渡されたジュースを飲んで、大人の顔色を伺っているように見える。待合室を抜けて廊下に出ると、前からやってくる人物を視界に捉えた。
 その人が近付いて来るにつれ、私は思わず立ち止まった。だんだんと心拍数が上がっていく。

「な……んで?」

 震えた唇が、蚊が鳴くくらい小さくて、かすれた声が思わず出る。途端にフラッシュバックして、脳内にあの光景が浮かんだ。中学の頃、誰もが見て見ぬふりをした教室で一人、ニヤリと口元を歪め、見下した彼の笑みが、笑い声が頭の中で再生する。

 ――「おー来た来た。置物、お前の特等席を作っておいたぞ」
 ――「わりぃわりぃ。でもセンセーも置物だって信じてるし、大丈夫っしょ」
 
 ああ、こんな時になんで思い出しちゃうんだろう。

 目の前からやってくる男性の顔が見えて、忘れたい光景と重なった。短髪の黒髪に三白眼――私が中学を転校するきっかけとなった張本人、田中くんだった。
 幸い私には見向きもせず素通りしていく。通り過ぎる時に陰口を呟かれることもなく、底の擦れたスニーカーの音だけが廊下に響いた。
 靴音が小さくなるにつれ、私はそっと後ろを振り向いた。彼が振り返ることもなく、曲がり角を過ぎて姿が見えなくなると、ようやく身体の緊張が解かれ、大きく息を吐いた。中学以来とはいえ、あの頃の面影が重なると本人だと思い知らされる。思い出したくない人物の一人だからこそ、あまりにも唐突な再会に顔を背けようとしても動けなかった。
 彼が来た方向には個室が並ぶ病室がある。夕方に病室を抜け出すようなことはないはずから、誰かのお見舞いにでもきたのだろう。
 なるべく深く考えることはせず、吉川さんの病室を探した。