そんな日々が続いていたある日の放課後、私のクラスに吉川さんが訪ねてきた。
あの時は余裕が無かったけど、彼女――吉川明穂が今年の文化祭で行われた学校一の美女を決めるミスコンの優勝者だったことを思い出した。落ち着きのある雰囲気をまとい、はにかんだ笑みを浮かべた彼女に惚れた生徒は多く、毎日下駄箱にはラブレター、体育館裏で告白されることもあるらしい。
吉川さんは私を廊下に呼び出すと、突然私の手を包んで恥ずかしそうに頬を赤らめた。突然のことに彼女の顔と包まれた手を交互に見遣ると、遠慮がちに口を開いた。
「この間は助けてくれてありがとう。クラスがわからなくて探してて……お礼が言えなかったのが心残りだったの」
「そんな、大したことはしていないし」
「でも本当に助かったわ。実は岸谷くんにはずっと付きまとわれていて困っていたの」
「付きまとわれてって……ストーカー?」
そういえば岸谷くんは自暴自棄になってるって、袴田くんが言っていたっけ。
すると、彼女は握った手に力を込めながら続けた。
「岸谷くんね、前はサッカー部のエースだったの。優しくて格好良くて、ファンクラブもできちゃうくらい。でも岸谷くんと話しているところを見た彼女たちが悪い噂を立てて、嫌がらせの対象にされてしまって。ほら、女子って影からバレないようにイジメを広めていくでしょ? 今までも教科書を隠されたり、身体操着を泥水が溜まったシンクに入れられたこともあったから、井浦さんも気を付けてほしくって」
「もしかして……それを言うために、教室まで来てくれたの?」
「ええ。無関係な人が巻き込まれるのはもう見たくないもの」
吉川さんは優しさの塊だ。自分の辛い経験を思い出すのは誰にとっても恐ろしいはずなのに、恐怖を押し殺してまで私に打ち解けてくれた。今も握った手が震えているのは、まだ恐怖が残っているからだろう。
私は思わず彼女の手を握り返した。
「ありがとう。吉川さんも気を付けてね」
私がそういうと、彼女は頬に伝う涙を拭って微笑んだ。
「――ってことがあったんだよ」
翌日、授業前に屋上の給水タンクの近くに座って、一緒についてきた袴田くんに吉川さんのことを話した。お礼を言われたのは私だが、彼が私の身体を乗っ取らなければ、もっと悲惨なことになっていたはずだ。
しかし、袴田くんはしかめ面で首を傾げた。
『岸谷が吉川につきまとってた、ねぇ……』
「……でもちょっとわかるかも」
『は? なんで?』
「だってあんな優しくて強くて美人さんはなかなかいないよ。私が男だったら速攻で惚れてたね」
『男の一人も作れねぇ奴が何言ってんだか』
袴田くんはつまんねぇ、と呟いて給水タンクの上で器用に昼寝を始めた。幽体とはいえ、不安定な場所で普通に寝るから、地面に落ちないのが不思議で仕方がない。
袴田くんが昼寝を始めたことで、屋上が途端に静かになる。
すると、校舎へと繋がる扉が静かに開いて誰が入ってきた。
「……井浦、だっけ」
「へ?」
意外にも私に声をかけてきたのは、あの岸谷くんだった。
「どうして……」
「教室に行ったらいなかったから。サボる奴の溜まり場といえば屋上だろ」
どこかで聞いた覚えのある話をして、岸谷くんは「隣、いいか?」と聞いてくる。私は少し横にずれてスペースを作ると、彼は黙ったまま隣に座った。気まずい空気が流れ、そっと彼を見ると、この間の時に比べて、どこかげっそりした顔つきをしている。
「えっと、大丈夫?」
「え?」
「いやっ! その……元気ないなって思って」
「あー……すっげー馬鹿なことしたなって後悔してんだよ」
「……吉川さんのこと?」
岸谷くんは小さく頷いた。
「苛立ちで我を忘れた挙げ句、女子に殴りかかったんだ。いくら腹が立っていても、こんな格好悪いことするなんてさ。お前が飛び出してこなかったら、もっと危なかったと思う」
お前にも悪いことしたな、と岸谷くんは下を向いたまま言う。
落ち込み具合とこちらを一向に見ようとしない様子からはかなり反省しているように見える。無理もない、あんな可愛らしい子に好意を向けていて、他の男子に盗られるところなんて見たくもないだろう。
「大丈夫だよ。気付いてくれてよかった」
私がそう言うと、岸谷くんは顔を上げて一瞬驚いた顔をしたものの、すぐ微笑んだ。
「ところでお前、袴田と知り合いだったのか?」
「は、袴田くん?」
「だってあの時のお前、アイツ特有の笑い方してたぞ。近くにいれば喋り方も似るっていうし。……もしかして彼女だったとか?」
「ゴメン、それは絶対ない」
袴田くんの彼女?
いやいや、絶対無理。私が即答で拒否したからか、岸谷くんは苦笑いをした。
「……でも、憧れたことはあるよ」
「憧れた?」
「うん。……私、袴田くんは楽しんで喧嘩している人には思えなかったから」
***
隣の席になるずっと前――全く面識のない頃に一度だけ、袴田くんが他校の生徒と喧嘩しているのを見かけたことがあった。当時から喧嘩になると必ず現れる問題児で、先生から何度も怒られている噂だけは聞いていたけど、彼については名前くらいしか知らなかった頃の話だ。
ある日の帰り道、私は同じ学校の男子生徒が複数の高校生に絡まれているところに遭遇した。一向に収まる様子はなく、物陰に隠れた私は警察に通報したけど、道が複雑で到着まで五分かかると言われてしまった。
彼も男の子なんだから、少しくらい反撃すればいいのに。
ハラハラしながら喧嘩の様子を伺っていると、袋叩きに遭っている男子がアニメの画集を抱えていることに気づいた。彼は当時、同じ学年で一番罵倒を浴びていたであろうアニメ好きの生徒だった。クラスメイトに罵られている場面を何度かあったけど、彼は頑なにアニメ好きを公言し続けていた。
おそらく高校生たちが画集を見てからかってきたのだろう。彼自身も戦ったが、複数の大男に到底敵うはずもなく、防戦一方のまま、サンドバックの代わりになってしまったのだ。
好きなものを好きでいることのどこが悪いのか。それを嗤い、貶す方がどれほど愚かで馬鹿らしいことか。
――そんな時、特徴的な笑い声が辺りに響いた。
「――くはは。随分楽しんでるじゃん」
まるでヒーローの登場だった。
段差のある塀の上に仁王立ちで佇む金髪の少年――袴田玲仁がそこにいたのだ。
耳に残る笑い方を気味悪がって、高校生の一人が袴田くんに向かって拳を振り上げたその瞬間、袴田くんが塀から飛び降りるのと同時に、近くの電柱まで蹴り飛ばされ、気を失った。何が起こったのか目を疑うほど、信じられない光景だった。それを皮切りに、他の高校生たちも彼に向かっていくが、誰一人として、彼に触れることすらできなかった。警察が到着するまでの五分間の間で、たった一人で自分よりも大きな体格の高校生たちを気絶させてしまったのだ。
通報した私と警察官が彼らの元へ行くと、袴田くんは画集をかばった男子の肩を支えて警察官に引き渡す。
「お前、すげぇ強いよ。好きなものを守れる奴って、かっこいいよな」
当時から袴田くんは不良少年として有名だった。殴り合いには誰にも負けなかった。
そんな彼が、いろんな人に虐げられても挫けずに好きなものを貫く彼を讃えたのだ。
――その時私は、初めて彼がどんな人にでも手を差し伸べることができる人なのだと知った。
***
「……だから、岸谷くんのことも止めたかったんだと思う」
当の本人は給水タンクの上で寝ているからわからないけど、少なくとも私はそう感じた。助けたいと思ったときに拳を振るう人――それが私が感じた彼の第一印象だからだ。
それに彼は岸谷くんがサッカー部でエースだったことを知っていた。彼が努力している姿をどこかで見ていたのかもしれない。
「袴田がそんなに良い奴とは思わねぇけど……まあ、お前らに救われたのは事実だ」
岸谷くんはそう言って立ち上がると、見下ろすようにして私に言った。
「サボるのはいいが、ちゃんと戻れよ? それじゃあな」
「うん。またね」
校舎に戻っていく岸谷くんの後ろ姿を見送りながら、私は吉川さんから聞いた話を思い出した。
殴り掛かったのは悪いけど、彼がストーカーみたいなことするような人には見えない。
「うーん……何か引っかかる……」
『……そんなに唸ってると牛になるぞ』
「うわっ!?」
耳元でガサガサの低い声が聞こえてきて驚いた私は、勢いあまってコンクリートの床に倒れ込んだ。
余計な尻餅をついてしまったようで、痛めたところを擦っていると、寝起きの袴田くんが大きく伸びをして隣に立った。幽霊(仮)でも寝起きの声は枯れるらしい。
「ビックリした……急に出てこないでよ」
『うっせ。驚きすぎなんだよ。それより……』
言葉を切って、袴田くんはじっと校舎の方を見つめる。先には岸谷くんが出て行った扉がある。
「どうしたの?」
『……いや、なんでもねぇ』
袴田くんは呟くと、しばらくその扉を見つめていた。
彼が何を考えていたのかはわからない。ただ、普段の気怠い雰囲気や喧嘩の時に見せる鋭い目つきではなく、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
あれから吉川さんから声をかけられることが増えたものの、クラスメイトや先生からは避けられたままだった。私は元から人付き合いが悪いこともあって、独りになることは苦ではなかったが、やはり声をかけてもらえるのは嬉しい。
それは袴田くんに対しても同じだった。
教室に行くと、誰よりも早く『おはよう』と声をかけてくれたのは、他でもない彼だ。
――ただ、困ったことが増えてきたのも事実。
「オイ! 井浦ってのはお前か!」
放課後になると、校門前で他校の男子が現れるようになった。
聞くところによれば、岸谷くんの一件で校内に広まった「袴田の再来」の噂がなぜか他校にまで流れてしまい、かつて袴田くんに挑んで負けた不良たちが私に再戦を挑んできたのだ。
「だから、私関係ないんで……」
「ああ? 関係ないわけないだろ! あんな変な笑い方をする奴、袴田しかいねぇだろーが!」
それは本人は乗っ取ってるから。……とは、ここでは言えない。
苦笑いで誤魔化して逃げることもあるが、今回のように人数が多く、囲まれている場合はそういうわけにもいかない。
『くははっ! ちょー人気者じゃん井浦ぁ!』
当の本人はというと、腹を抱えて笑い転げていた。
ああ、この場にいる人たちに、彼のこの姿を見てもらいたい。きっと腹が立つに違いない。
『そんなに睨むなって。どうにかしてやろうか?』
「……最低」
自分で蒔いた種でしょうが。と呟いた後、我に返る。目の前には満面の笑みを浮かべた不良たちがこちらを見て、どこか嬉しそうに指の関節を鳴らしていた。
「ほう、そんなに腕っぷしには自信があるのか」
「えっと……てへ?」
「上等じゃあああ!」
こんな時代遅れの誤魔化し方じゃダメに決まってるっての!
一気に突っ込んでくる彼らは、まるで突進してくる凶暴なイノシシだ。何を言っても聞き入れてもらえない。思わず目を閉じると、耳元で袴田くんの溜息が聞こえた。
『ったく、しょーがねぇな』
そのまま私の身体を乗っ取った袴田くんは一瞬にしてイノシシ……ではなく、不良たちを一網打尽にしてしまった。何をしたのかはわからないけど、気絶させたわけではないようで、地面に倒れている不良たちは皆、顔を歪ませて唸っていた。
「お前らがここに何度来ても、袴田は出てこねぇよ。自分の学校の草むしりでもしてな」
私、そこまで口は悪くないよ。
「チッ……うるせぇな。お前に合わせてられるかっての」
人の身体乗っ取っておいてそれはないでしょ!
いくら中身が袴田くんであろうと、他人の目に映っているのは井浦楓だ。
透視能力でも備わっていない限り、すでに故人である彼の存在は認められず、現実に生きている私にすべてが向けられてしまう。だからできる限り身体を乗っ取られるのは避けたいけど、今のように私一人どうしようもないときに彼が居てくれると、強くは言えないのが現状。
不貞腐れた顔をしながらも袴田くんが私の身体から出ていく頃には、不良たちは全員逃げていった。
『あーあ。久々に動いたー!』
「どこが久々……?」
袴田くんを訪ねてくる不良は日に日に増えてきている。袴田くん目当てにこれ以上来られても迷惑だ。どうにかしなければと袴田くんに訴えれば、ケロッとした顔で『知るか』とひと蹴りされてしまった。
『どうしてもっていうなら岸谷に言えよ』
「岸谷くん?」
『アイツなら、他校にパイプ作ってるし』
「何の話?」
「井浦さーん!」
私の声を遮ったのは、こちらに駆け寄ってくる吉川さんの声だった。額にうっすらと汗を浮かべ、黒髪を耳にかける仕草は流れるようになめらかで、金管楽器を首から下げるストラップが揺れると同時に浮かべた笑みはとても爽やかだった。
「井浦さん、さっきの人たち大丈夫だった? 声が校舎の中まで聞こえてきたから心配で」
「それで来てくれたの? 部活中だったんじゃ……」
「井浦さんの方が大事だもの」
吉川さんはそう言って優しく微笑む。関係のない喧嘩に巻き込まれて多少なりとも苛立っていたのが、一瞬で和やかな気分になった。
「そういえばあれから岸谷くんとは大丈夫?」
「え? 何が?」
「何がって……付きまとわれて困ってたって……」
何のことかわかっていないのか、とぼけた顔をするも、すぐに思い出して「ああ」と呟く。
「大丈夫よ。最近は何もないから安心して。私の心配をしてくれるなんて、井浦さんは優しいね」
「そう……? ならいいんだけど」
ほんの一瞬、彼女の顔が歪んで見えた気がした。妙な違和感が拭いきれない。
すると「聞きたいことがあってね」と吉川さんは耳元に近づくと、誰かに聞かれないように小声で話しかけてきた。
「袴田くんのことで知っていること、全部教えて?」
「――え?」
想像もしていなかった人物の名前が出てきて、思わず目を見開いた。私が動揺したのを見て、彼女は更に続ける。
「ずっと気になってたの。私、何度も助けられたことがあったんだけど、素っ気無くて相手にされなくて。同じクラスなんだから知ってるよね。教えてくれない?」
――私たち、友達でしょう?
「――っ!?」
ぞっとした。
脅しかけている彼女の言葉に、反射的に身構えて後ろへ下がる。しかし、咄嗟に掴まれた手をほどこうとするも、指の骨が折れるくらい強い力で引き留めようとしてくる。顔に似合わず、力強い。
「よ、しかわさん……?」
「あら、顔色が悪いけど……もしかして具合悪い? 保健室行きましょう。横になりながらでもお話はできるよね?」
微笑んで心配してくれているはずなのに、私は彼女に恐怖を覚えた。振り払おうとしても、恐怖から身体がすくんで動けない。
ふと視線を逸らすと、彼女の向こう側にいる袴田くんが目を見開いて固まっているのが見えた。一時停止ボタンでも押されたような、ピクリとも動かない彼があまりにも不自然だった。
咄嗟に二人の共通点がないか思い出そうとするけど、全然思い浮かばない。
岸谷くんの件では一切触れてなかったし、そもそも袴田くんが彼女を知っているのかも怪しい。二人並べば誰もが振り返る美男美女カップルに見えるけど、吉川さん越しに見える彼の表情は、なぜか怒りを抑え込んでいるようだった。
「――井浦!」
突然名前を呼ばれたことに驚いて、身体の緊張が一気に解けた。
校舎のある方から焦った様子の岸谷くんがこちらに駆け寄ってくる。彼の姿を見た吉川さんは名残惜しそうに手を離すと、小声で「また今度聞かせてね」と、いつもの優しい笑みを浮かべて戻っていった。
彼女とすれ違った岸谷くんは不思議そうな顔をして言う。
「悪いな、取り込み中……どうした、顔色悪いぞ」
「えっ……な、何でもない!」
視線を地面へ逸らすと先程まで握られていた手に、吉川さんの細い指の痕が赤く残っていた。もし岸谷くんが来なかったら、この手はさらに絞めつけられていたかもしれない。想像するだけで身震いした。
「今の……吉川か? あいつに何かされたのか?」
「え? あ……ううん、大丈夫。それよりどうしてここに?」
「お前がまた他校の奴に絡まれたって話を聞いてさ。知ってる奴いるし、交渉しようかと思ったんだが……お前、またやったな?」
「あー……ははは」
一体いつから見られていたのだろう。せっかく説得にやってきたかと思えば、私――というより袴田くん――が追い返してしまった後だ。
「袴田が死んだこと、アイツらもわかってるはずなんだ。それでもアイツに勝ちたいって思う方が強い。……お前に八つ当たりしたところで、袴田が生き返るはずがないのに」
どんなに願ったところで、死んだ人間は戻ってこない。それこそ、多くの人から慕われ、求められていた人間こそ、すぐいなくなってしまう。
……神様は、意地悪だ。
「アイツがいたら、今の状況を見てなんて言うかな」
「……わからないよ、本人しか」
岸谷くんのすぐ近くで、袴田くんは俯いたまま立ち尽くしていた。
そこにいるんだよって教えたら、少しは彼も気が楽になるだろうか。……いいや、きっと岸谷くんは彼に縋りついてしまう、そんな気がした。
「これは仲間から聞いた話で確証はないが……お前にも伝えておく」
気まずそうに口を開いた岸谷くんは、私に口外しないことを前提にある噂を教えてくれた。
「あの日、袴田は誰かに突き飛ばされたのかもしれない」