それに比べて私はどうだろう。思っていることは全部綺麗事で、口先だけで行動に移そうとはしない。稀にあったとしても、それは稀でしかない。
「一人で考えてたって出てこないときは出てこないんだから、周りを頼るべき! ……私でよければ、いくらでも付き合うよ」
佐野さんがニッと口元を緩めると、私も自然に笑っていた。この人には一生敵わないと思うと共に、とても心強く思った。
「じゃあ……もし、もしもだよ? つい最近話すようになった知人が、人の道を踏み外そうとしていたらどうする?」
「……すっごく極端な質問ね。殺人事件にでも関わっちゃった?」
「た、例えばの話だから!」
怪しいとしかめっ面をしながらも、佐野さんは少し考えて口を開いた。
「私は止める前に話を聞く。何があったのか、どうしてその考えになってしまったのか、とか」
「その人が行方不明だったら?」
「それって行動を起こそうとしてるってこと? だったら探しにいくよ。行きそうなところにあたりをつけて……ああもう、まどろっこしい! 誰の話よ! 私も知ってる人!?」
「だから例えだって!」
話を聞いているうちに腹立ってきたのか、ヒートアップしていく佐野さんを落ち着かせる。
確かに袴田くんの事だと言ってしまえば楽だけど、事実上亡くなっている彼の話を出したところで別の問題が発生してしまう。考えているうちに、佐野さんは独り言のように小声で知り合いを片っ端から上げ始めた。
「身近で道を踏み外そうな人……キッシーとか? また淳太とか……」
「いや、だから……」
「僕がどうかしましたー?」
「……え!?」
いつからそこにいたのか、教室の入口で荷物を抱えた船瀬くんが顔を覗かせていた。入口から私の席まで距離があるのに、どうやって佐野さんの独り言が聞こえたのか。
「淳太が三年の教室近くにくるの珍しいね。その様子だと……荷物持ち?」
「はい。数学研究室に先生の荷物を戻しに行く途中で、先輩たちを見かけてつい。僕のことを名前で呼ぶのは、佐野先輩くらいしかいませんからね」
「そんなに呼んでたっけ?」
「それはもう、飼い犬を呼ぶ勢いで。何かあったんですか? 佐野先輩は粗ぶってるし、井浦先輩は困り顔だし。役に立つかは分かりませんが、聞かせてください」
失礼しまーす、と言いながら教室に入ってくると、佐野さんが近くの椅子を引っ張ってきて座るように促した。三人寄れば文殊の知恵、ということか。
佐野さんが先程までの話を簡単に説明すると、船瀬くんは荷物を抱えたまま首を傾げた。
「なるほど……かなりアグレッシブな人ですね。仮に岸谷先輩だったら、不良のまとめ役を担っている時点で可能性は低そうですが……」
「だから例え話だし、特定するゲームじゃないから。……それで、船瀬くんだったらどうする?」
「僕だったら頭突きしてでも止めます」
アグレッシブなのはどっちだ。
「先輩たちも知っているように、僕は思い込みが激しいです。被害妄想も酷くて、つい最近まで他人を疑ってばかりでした。でもある人に言われて目が覚めたんです。何よりも劣っていると思っていた自分にも武器がある……ただの考えすぎから繋がった結果です。もしやられ返されたら、向こうが冷静になるようなことをします。井浦先輩の知り合いが話を聞いてくれないようであれば、僕が前に出ましょう。もちろん、話を聞いてから。頭突きは奥の手に過ぎません」
「……頭突きをした時点で大抵の人が冷静になると思うけどね」
夏祭りの一件で袴田くんと何かあったようだけれど、詳しいことは聞いていない。それでも彼を変えるきっかけを作ったのは、間違いなく袴田くんだろう。
「そうだ、先輩に僕直伝の頭突きを伝授しますよ! 不審者に後ろから羽交い絞めにされても抜け出すコツもあわせてお教えします!」
「え!? あ、いや……」
「それは私も知りたいっ!」
「もちろんです。まずはですねー……」
どこからその流れになったのか、いつの間にか船瀬くんから頭突きを教えてもらうことになってしまった。これは石頭であるからこそできる芸当であって、簡単にできることではない。それに後ろから羽交い絞めにあったとしても、頭突き以外にも方法はある。
「佐野先輩、角度はもう少し後ろです!」「こ、こう?」と真剣に練習している二人を眺めていると、先程まで深く考えすぎていた自分に呆れた。この会話が、この空気がすべて私の荷を軽くするためのものだと分かった途端、思わず声に出して笑ってしまう。二人はキョトンとした顔でこちらを見ていたけど、すぐににんまりと頬を緩ませた。
「もう大丈夫そうですか?」
「うん、ありがとう。……やること、わかった気がする」
私は鞄に必要なものを詰め込んでまとめると、背負いながら言う。
「二人に相談してよかった。後は私が頑張ってみる」
「……そっか。なんかあったら戻っておいで! 話ならいくらでも聞くからさ」
「僕も聞きますから!」
「ありがとう。それじゃ、また明日」
「頑張れーっ!」
二人に押してもらった背中を、無駄にしない。
私は二人を置いて教室を後にする。後ろから「金髪の先輩のことを聞きそびれた!」と船瀬くんの嘆く声が聞こえた気がしたけど、聞かなかったことにした。
夏休み前と比べて、放課後にも関わらず多くの生徒が校内に残っている。その大半が文化祭の準備で、特に生徒会で分担された細かい部分の準備に手間取っているようだ。
中庭では風紀委員会のメンバーが揃って、学校の正面校門に設置する看板の製作の真っ最中だ。岸谷くんが中心となり、他の委員が慣れない手つきで描いていく。
声をかけるタイミングを伺っていると、岸谷くんの方から私に気付いてやってきた。
「井浦? お前も手伝いにきてくれたのか?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあって。……袴田くんのことで」
岸谷くんは途端に顔をしかめた。そして風紀委員に作業の指示を出すと、少し離れた場所に移動して、周りに人がいないか確認して問う。
「袴田がどうしたんだよ。お前が直接聞いたほうが早いだろ?」
「……それができないから、岸谷くんに聞きに来たんだよ」
内容が内容なだけに話しにくくて、岸谷くんには話していなかったのだ。
花火の時のことを話すと、彼は「あのバカは……」と頭を搔き毟った。
「袴田の奴、何考えてんだ? そんなことする奴じゃなかったのに」
「やっぱり……」
「ん? やっぱりって?」
「私は、袴田くんが吉川さんのことを恨んでいても仕方がないって思った。それこそ自分を殺した張本人だと思えば尚更、憎んでいてもおかしくない。でもそれは、私が死んだ後の袴田くんを見て得た印象で、生前の彼のことはわからない。そんな私が袴田くんの心残りを見つけるなんて、無理な話なんだよ」
「まぁ……そうだろうけど。だから俺のところに来たのか?」
「うん。でも岸谷くんだけじゃなくて、いろんな人に袴田くんのことを聞きたいって思ってる」
「……本気か? アイツが関わった奴なんて沢山いるし、時間がかかるぞ」
「だから、岸谷くんが知っている中で一番近かった人と話がしたい。二人を助けたいの、お願い!」
私は勢いよく頭を下げる。岸谷くんは葛藤しているようで、しばらく沈黙が続いた。
「許すんだな? 未遂でも、吉川がお前にしたことは犯罪だぞ」
岸谷くんの声は、どこか怒りが込められているようだった。袴田くんのことも、意味のない喧嘩をさせられてきたことも全部を考えた上で、吉川さんを許すわけにはいかないのだろう。
それは私だって同じだ。袴田くんが助けにきてくれなかったら、私はあの壊れたフェンスと一緒に落ちて地面に叩きつけられていたのだ。そう簡単に許せるわけはない。
だからって袴田くんのやり方は間違ってる。
「私は生かして償わせるべきだと思うから、袴田くんを止めたい」
頭を下げたままだから、彼がどんな顔をしているかわからない。協力できないと言われてしまえば終わりだけど、それもまた仕方がないだろう。出方を伺っていると、頭の上から大きな溜息が聞こえた。
「ったく……そんなこと言われちまったら、協力しない訳にいかねぇだろ」
ゆっくりと顔を上げると、岸谷くんは不敵な笑みを浮かべていた。
「じゃあ……!」
「けど、俺よりももっとよく袴田のことを知っている人がいる。まずはその人に聞くべきだ」
「そうなの?」
「ああ。俺らが入学した当初、よく袴田を気にかけていた先輩が定食屋で働いてる。三日後の金曜日ならいるはずだから行ってこい。金曜日なら次の日休みだし、文化祭の準備で遅くなるって理由をつけられるだろ。その間に俺は他の奴等から袴田が生きているときに巻き込まれたトラブルがあったか探ってみる。出身の中学もここからそう離れていないし、何かわかるかもしれない」
「そ、そうかもしれないけど、さすがに急すぎない?」
「善は急げだ。向こうには俺から連絡しといてやるよ。あーそうだ、これ使え。そしたら先輩に用事だってわかるから。あと腹は空かしておけよ。白飯のおかわり自由だから」
岸谷くんはスマートフォンのケースに挟んでいた『おんど食堂…特別券(野菜)五〇〇円』と書かれた、手のひらサイズの紙を渡された。端はボロボロで、使い込んだ跡がある。
「おんどしょくどう……?」
「先輩の名前は近江遼太郎。――在学中に“最強の自由人”と謳われた変人だ」
三日後の放課後、岸谷くんから送られた地図を頼りに、私はおんど食堂へ向かった。
北峰高校から歩いて三十分ほどで着くと言われて進んでいくと、景色ががらりと変わった。駅前が整備されて建物が多くなった学校側に比べ、山が近いこの地域は開発途中なのか、昔ながらの木造住宅が並んでいる。
しばらく道なりに歩いていると、「おんど食堂やってます」と書かれた看板が出ている一軒家を見つけた。取っ手部分が錆び付いている引き戸の向こうから、何やら賑やかな声が聞こえてくる。
意を決して引き戸を開けると、子供からお年寄りまで、幅広い年齢層の人が集まって楽しそうに食事をしていた。食べ終えた子は空になった食器を持って返却台に戻して、奥のスペースで本を読んだり宿題をしたり、各々の時間を過ごしている。客の中には同い年くらいの学生もいて、顔や手に絆創膏が何か所にも貼られていた。
「いらっしゃい。そんなところに突っ立ってないで、入っておいでよ」
目の前の光景に驚いていると、入口の近くにあるカウンターで作業をしていた男性に声を掛けられた。私より年は上だろうか、従業員の中でもオレンジ色のエプロンに違和感を覚えた。顔にかかった黒髪をかきわけ、耳にいくつものピアスホールの痕がある。
「んー……? 北峰の制服じゃん。久々に見たわ」
「えっと……」
「この食堂、町内会が配ってる食事券がないと利用できないんだけどある?」
「券……こ、これですか?」
岸谷くんに渡された食事券を男性に渡すと、嬉しそうに目を輝かせた。
「これこれ。みっちゃーん、野菜定食一つよろしくー!」
「あいよー……あら、女の子じゃない! 遼ちゃんの妹さん?」
「違う違う。コ―ハイだよ。こっちの席使って。ごはんはお代わり自由のセルフサービスだから」
「あ、あの、もしかして」――と言いかけて、口元を人差し指で遮られた。意味深な笑みを浮かべて男性――近江先輩は言う。
「そんな急かしなさんな。腹が減ると戦ができないように、話をするのだって食べてからの方がきっと、アンタも落ち着いて話せるだろ。ゆっくりしていきなよ、井浦チャン」
おんど食堂は、共働きで忙しい家庭の為に地域の人たちが話し合って開店したものだった。食材は近辺の農家や牧場から安く仕入れており、仕事帰りにここで食事をする親子もいる。学生の利用も珍しくはなく、特に北峰の男子生徒は一時期よく通っていたらしい。
定食はどれも五〇〇円でごはんは食べ放題。その代わり、おかずの大盛りや追加注文は皿洗いや荷物運びを手伝ってもらっているという。
「井浦チャンが持ってきたその券は、ウチに食材を提供してくれるところに特別に渡してるんだ。その券さえあればタダで利用できる。ちなみに隼人の家は八百屋でさ、わざわざ余分に分けてくれてんだよ」
「はや……?」
「岸谷の名前だよ。知らなかった?」
「すみません。岸谷くんとはクラスも違うし、最近話すようになったのでうろ覚えで……」
「そりゃあクラス全員だけで二十人分を覚えるんだからキャパオーバーになるよなー。あ、野菜炒めどう?」
「すごく美味しいです」
目の前に置かれたお盆の上には、艶々の白米にわかめと玉葱の味噌汁、山盛りの野菜炒め、小鉢には冷奴とほうれん草のお浸しが置かれている。どれもごはんにあって、気づけばペロリと平らげてしまった。いくら空腹だったとはいえ、危うくごはん三杯目をお代わりするところだった。
食べ終えた皿をお盆ごと返却台に置いて席に戻ると、近江先輩が奥の畳の部屋に案内してくれた。靴を脱いで上がると、部屋の隅に用意されたちゃぶ台の上に、淹れたての緑茶が置かれる。
「食べたばっかりなのに移動させて悪かったな。この部屋、飲み物はいいけど食事は禁止なんだ。畳だから、子供がこぼしたときに掃除が面倒でさ」
「いえ、こちらこそお時間いただきありがとうございます。近江先輩はいつからここで働いているんですか?」
「高校にいるときから手伝ってたんだ。親が立ち上げのメンバーの一人で、今も就職したけど休みの日は大体ここにいる。寂しくなったら、井浦チャンもここにきていいよ」
「はぁ……」
「それで隼人……いや、岸谷の方がいいか。薄らぼんやりとしか聞いてねぇけど、玲仁の話が聞きたいんだって?」
湯呑に手を伸ばしたところで、近江先輩が本題を切り出した。先程まで和やかだった時間が、一気に冷めていく気がした。
「理由って聞いてもいいの?」
「……袴田くんに付きまとっていた女子生徒が事件に巻き込まれて、今も病院で眠っています。二人に何があったのか、どうしてこんなことになってしまったのかを調べたいんです」
「二人の関係ってこと? その辺だったら岸谷の方が詳しいだろ」
「岸谷くんから、先輩が袴田くんをよく気にかけていたと聞きました。それに彼には聞けるところはできる範囲で教えて貰ったので、他の人の話も聞きたくて」
「へぇ……岸谷から教えてもらったのか。アイツ、最初は元カノを玲仁に取られたって殴り込みにきたんだよ。結局は元カノの嘘だったんだけどさ」
そういえば、最初の頃に袴田くんがそんなような事を言っていた気がする。あの時は本当に仲が悪い印象しかなかったから、お葬式で号泣だったと聞いた時は正直驚いた。
「そんなアイツらが北峰で先頭に立って喧嘩に混ざっていく後ろ姿を見たときは感動したんだ。人を恨んでいても、いつか許さないといけない時が来ると、目の当たりにした」
「許さないといけないとき……?」
「恨む相手がこの世から消えちまったら、生きている人間がどうやってその相手に復讐する? 自ら命を断って地獄の果てまで追うか?」
「……無理、だと思います」
「だろ? いくら憎んでいても、自分が死んでしまったら復讐の意味がない。だから一生悔いが残る。あの時苦痛を味あわせておけば良かった、みたいなね。諦めきれないだろうけど、傍から見れば許してしまったと思われてもおかしくないんだ。……さて、それを前提に教えてあげようか。袴田玲仁の話を」
近江先輩は温くなったお茶を一口飲み込む。ごくっと喉を通った音が、やけに大きく聞こえた。
誰しも、悪い人間が生まれた時から素行が悪いわけではない。些細なきっかけ一つで人が変わってしまう。ただその規模が大きく、誤った方へ向かったがために人生へ影響してしまうことがある。
袴田玲仁も同じだった。幼い頃から家事だけでなく、近所の畑仕事や新聞配達まで、困っている人を見つけたら率先して手伝うようにしていた。周りからの評判も良い、皆に偉いと褒められて育った。
そんな彼が、生まれ持っての黒髪を金髪に染めたのは、小学生最後の春休みだった。
近所で美容師の見習いをしていた男から「練習台になってほしい」と頼まれて引き受けたところ、金髪になって帰ってきたのだ。
聞けば、見習いは黒に近い茶髪にしようとしていたが、本人たっての希望で金髪にしたという。中学校への入学を控えていることを心配したが、それでも袴田は譲らなかった。
母親は困った顔をしていたが、嬉しそうに自慢する息子を見て受け入れるしかなかった。なんせ、彼が金髪にした理由が「誰が見ても自分だと気付いてもらうため」だったのだ。自ら進んで手伝いに励む彼が、いつでも目印になると思って考えたことなのだから、簡単に反論することができなかった。
しかし、いきなり金髪になった袴田に、周りの住民たちは「不良になってしまった」と思い始め、厳しい目で見るようになった。彼が住んでいた地域は老人が多く、格差で判別することも少なくない。一時、隣の家に泥棒が入って保管していた大金を盗まれた大騒ぎしたが、実は仏壇の下に隠してあったという、何とも人騒がせな騒動があった時も。「袴田さん家の息子が盗んだんじゃないか」とあらぬ噂を立てられたこともある。
袴田自身も向けられた視線に次第に気づいて、学校に行く以外は帽子を被って金髪を隠して手伝いを続けていた。
入学した中学でも、あまりに目立ちすぎて上級生や教師に目を付けられる始末。気に食わないと言われて体育館裏に呼び出されては、痛めつけられる日々。幾度も回避してきたが、根本的な解決にはならない。自分の身が危ないと察して殴り返すこともあった。
傷だらけで帰ってくる袴田を見て事情を知った美容師の見習いは、ひたすら謝って黒に染め直そうと提案した。しかし、すでに外見だけで判断していた教師に説教された後だったこともあり、「髪色一つで改心したとは誰も思わないし、自分で頼んだことだから変えない」と言って断ったという。
周りに味方はいない――袴田はその日から、自分の身を守るためだけを考えて拳を振るうようになった。
学校側に悪いイメージがついてきた頃、あるクラスで一人の女子生徒が孤立していることを知った。
いたって平凡な容姿で、そこそこの成績。教室の端にある席に座って誰とも話すことはない、黒子のような存在だった。
そのせいか、あるグループが彼女をターゲットにし、在らぬ噂をでっち上げて楽しむようになった。ある時には彼女が他人のロッカーを開けて貴重品を盗んだと言い、またある時は定期テストでカンニングしていたと言う。教師に問い詰められるも、彼女はすべて否定した。決定的な証拠はもちろんないため、教師はクラスメイト全員に注意し、女子生徒にのみ「今度出てきたら即退学させる」と脅したらしい。
それ以来、クラスで何か事件が起きると、クラスメイトと担任教師は真っ先に女子生徒を疑うようになった。孤立してしまった女子は不登校になるのでは、と誰もが思っていたが、何事もなかったかのように登校し、味方のいない教室で授業を受けている。聞き分けがいいのか、諦めたのか。ただ黙って教室の片隅にいる奴をクラスメイトは皆、置物のように見ていた。
そんな女子生徒と袴田が出会ったのは、それからすぐのことだ。
ある日の放課後、袴田と同じクラスの男子生徒が悪名高い複数の高校生に絡まれているところに遭遇した。一方的に殴られていたのを見て、袴田が間に入って懲らしめたが、通報を受けてやってきた警察官は「袴田が原因で男子生徒が巻き込まれたのではないか」と疑ってきたのだ。男子生徒は必死に庇ったが聞き入れてもらえず、袴田が連行されそうになったところ、通報した彼女が現れてこう言った。
「わ、私が通報したときには、すでに喧嘩は始まっていたんです! その人は途中から入ってきて、彼を庇ったんです。本当に、通りがかっただけなんです。……信じられないならこれはどうですか? 喧嘩していた時の動画です。背中で庇うように戦っているように見えませんか? 警察官は一度レッテルが貼られた人間がすることを、全部悪だと判断して切り捨ててしまうんですか? 疑うことが仕事だとしても、証拠もないのに一方的に決めつけないでください!」
噂で聞いていた人物とは思えないほど、彼女は警察官相手に口を挟ませる暇もなく状況を説明した。声が若干震えていたのは、久しぶりに口を開いたからかもしれない。結果的に彼女が撮った動画が決め手となり、袴田の無実は証明された。
髪色を変え、不良だと恐れられてきた袴田が、初めて救われた日だった。
しかしその翌日、ある騒ぎが起こった。
袴田たちと警察官が話しているのを目撃した生徒が、クラスのグループメールにその時の様子を流していたのだ。
【置物と不良が共犯だった! マジウケるんだけど!】
そのコメントともに貼られた画像には、警察官と袴田たちが話をしている場面で、批判するコメントとともにどんどん広まって、SNSに拡散されていった。
事実を知っている袴田は冷静だったが、一緒に写っている女子生徒のことが気になって、朝のホームルームの前に彼女がいるクラスに向かった。
騒がしい声が聞こえて、ドアから覗くと、目に入ってきた光景に言葉を失った。
マジックで机に書かれた罵倒の言葉の数々、空のペットボトルに折れ曲がって挿しこまれた菊の花。
その席に座るはずの女子生徒は鞄を持ったまま、机を前に立ち尽くしていた。その姿を見て笑っている生徒もいるこの教室がなんとも悲惨で、醜い感情で溢れていた。
「袴田と組んでいれば、俺達が止めるとでも思った? 残念だったな!」
「たいして殴るしか脳がない奴と一緒にいても、クラスが違う時点で無駄だっての」
「つか、元はといえば田中がカンニング疑われるからだろー」
「わりぃわりぃ。でもセンセーも置物だって信じてるし、大丈夫っしょ」
田中と呼ばれた生徒が楽しそうに笑うと、女子がゆっくりと顔を向ける。なんとも無機質で、この世のものとは思えないといった目で辺りを見渡した。
「なんだよ、元はといえば、お前が袴田と組もうとするからだろ? 俺たちに逆らおうとするからこうなったんだよ。やられて当然じゃねぇか」
「…………」
「……なんだ、その目は」
(――不味い)
袴田は嫌な予感がした。田中がこっそりと拳を固めているが見える。このまま放っておけば、田中は彼女に暴力を振るうかもしれない。いや、それよりももっと悪いのは、田中が別の誰かを怪我を負わせるか、学校の物を壊して、すべてを彼女のせいにすることだ。そうなったら、今まで以上に風当たりは厳しいものになる。
(飛び出して止めるか? いや、そんなことしたらアイツが教室にいられなくなる)
袴田は考えるだけで、動こうとはしなかった。――いや、動けなかった。何度も喧嘩の最中に感じる殺気を潜り抜けてきたはずなのに、一歩踏み入れただけで襲ってくる、卑劣で欲にまみれた空間が気持ち悪くて仕方がない。
(なんでだよ、なんで――!?)
周りの目なんて気にしてない。自分がどうあるべきかと考えて拳を振るってきたはずなのに、この場で飛び込めば、自分が完全に周りから突き放されることを悟った。振り払ったはずの不安がまた押し寄せてくる。
(……もしかして、怖いのか?)
気にしない、考えない――そう自分に言い聞かせても、袴田は動けなかった。
すると、突然ガシャン! と大きな音が廊下まで響いた。何かが倒れたようで音が聞こえた教室の中を見れば、落書きだらけの机が横たわっていた。菊の花がへし折られる形で入ったペットボトルgは、床に転がって、蹴り上げた脚を戻した彼女の足元に辿り着く。
「こんなことして、楽しかった?」
女子生徒は至って冷静に、無表情のまま教室にいるクラスメイトに問いかける。滲み出てきた怒りを察したのか、その場にいる全員が息を呑んだ。
「袴田くんは人助けしただけ。くだらない噂を流して何が楽しいの?」
「お前……袴田がヤバい奴らと繋がっている噂を知らねぇのか! 随分お気楽な奴だな!」
「噂ごときに振り回されているアンタたちが、他人のこと見下せるほど偉いとでも思ってるの?」
つい先程までされるがままだった彼女が、顔を真っ赤にして怒り任せに怒鳴り散らす。握った拳が震えているのは恐怖からか、緊張からか。力を込めすぎて色が変わっていた。
田中を含め、クラスメイトたちは気迫に押されてだんまりを決め込む。教室にいる誰もが顔を真っ青にし、怯えた表情を浮かべていた。まるで龍の逆鱗に触れてしまったような、禁忌を犯した絶望感が漂っていた。
何も答えない彼らに呆れたのか、女子生徒はそのまま入口にいた袴田に見向きもせず、颯爽と教室を出ていく。教室が静まり返って、なんとも言えない重い空気が教室を包んだ。
すると田中が「今度こそアイツを罠に嵌める準備をする」と、怒り狂った声が聞こえてきた。倒れた机を蹴とばす音が、クラスメイトだけでなく、廊下で様子を伺っていた他の生徒を不安にさせる。
しかし、その中で一人――袴田だけは違った。吐き気がするほど気持ちが悪かったのに、今はどこか清々しさを感じていた。貶けなされ、蔑ないがしろにされて、大勢を敵にまわった最悪の状況で、最後の最後で自分の意見を告げる。――これがどれだけ恐ろしいことか!
「……くはは」
(バカか、俺は。今更誰かから信用を得ようなんて、ふざけてる)
思わず口元が緩み、笑ってしまう。袴田は冷静だった。先程の躊躇いなどどこにもなかったように、颯爽と教室へ入っていく。
袴田が教室に入ってきたことに気付いた生徒は、皆悲鳴を上げた。それをお構いなしに進み、彼女が倒した机の前に行くと、辺りを見渡し田中と呼ばれていた生徒を見つける。
どこかで見かけた顔だと思ったが、ふと入学当初に近くの空地でガラの悪い生徒と一緒にいたのを思い出した。百歩譲っても自分よりも質が悪い。袴田は彼に向かって言う。
「随分くだらねぇことしてんじゃん」
「あ……こ、これは、あの置物が……」
「悪いけど全部見てたから。まぁ、俺が教師に言ったところで信用されないと思うけど」
「そ、そうだろう! 不良のお前なんかより――」
「くははっ。そう、俺は不良だからさぁ……こんなことしかできねぇんだよな」
そう言って、ずっと握りしめていた右の拳を振り上げた。