「え――っだぁ!?」

 それは一瞬の出来事だった。鞭のように振るわれた彼の左ストレートが船瀬の右頬に入ると、その衝撃に耐え切れず、船瀬がその場に倒れ込んだ。頭ごと吹き飛ばされたのではないかと、おそるおそる頬に触れる。右頬がヒリヒリと痛み、唇の端が切れているだけで済んでいた。

『――押し付ける? んなもんお前が勝手にこっちに押し付けてんだろ』

 倒れ込んだ船瀬と同じ目線になるように、少年は屈んで続ける。

『殴り合いだけで勝ち負けが成立すんのは喧嘩だけ。定期テストでいつも上位だからって負け知らずの天才だとは限らねぇだろ。強い奴は勝ったところで、すぐ天狗になって追い抜かされるんだよ。つか、大体いつ俺がお前に弱いって言った?』
「え……?」
『人間は皆弱くて脆い生き物なんだよ。何に対しても悩まず、生活に苦労せず、傷一つつかずに終わる人生を迎える人間はいない。……皆傷つけて、傷つけられて生きてんの。お前も、俺も』

 そう言われて、船瀬ははっとした。今まで自分が口にしてきたことは、ただの八つ当たりでしかない。自分ができないことを人に押し付け、逃げる――それしかやってきていなかったのだ。
 取り柄も何もない自分を笑う誰かが嫌いだった。でもそれ以上に、何も言い返せない自分が大嫌いだったのに、自分から逃げていたことにようやく気付いた。

『弱い奴でも強くなる方法はいっぱいある。現にお前、生きることに逃げてねぇじゃん。いい加減、妄想を織り交ぜたその低い自己評価から目を覚ませ。……勝つんだろ、自分自身に』

 本当に復讐したい相手は誰だ、と問いかけられたあの時から船瀬はずっと考えていた。頭で相手が分かっていても、何ができるのか、結局分からなくて諦めて今まで引きずってきた。それが今、自分が自分と向き合う機会にあった。

(……今ここで自分が行動を起こせたら、何か変わるかもしれない)

 確証も根拠も何もない。それでも不思議と浮かんできた希望に、手を伸ばす。

(逃げる訳にはいかない。自分のために、自分を守ってくれた先輩たちのために!)

 船瀬は自分の頬を両手で挟むようにして強く叩いた。ただでさえ右頬は彼の拳が入ってじんじんと痛むのに、自ら追い打ちをかけたことによって涙が出てきた。
 それを拭って勢いよく立ち上がると、少年を見下ろす。もう迷っている暇など無かった。

「――勝ちます、今度こそ」
『……くははっ。殴られる前にそうしてくれよ。時間ないんだから』
「でも僕ができるのは、高御堂さんに突撃するくらいで、井浦先輩を助けられるか……」
『それでいい。それができれば上出来だ。井浦にはとっておきがあるからな。お前はお前が出来ることをすればいい』

 少年は独特な笑い方をしながら立ち上がると、今度は船瀬の額を軽く弾いた。先程の拳に比べても、全く痛くないものだった。

『お前の身長もひねくれた性格も、全部がお前の武器だ。ぶつかっていけ』
「僕の……武器」
『いいか、井浦が動けるようになったら、すぐにグラウンドに向かって走れ。その後のことは俺達に任せときな』

 くはは、と口元を緩めた少年は、右手で指をパチンと鳴らした。