ミスコン――この言葉を聞いた途端、急に心臓を掴まれた気がした。顔に出てしまいそうで、無意識に佐野さんから顔をそらす。
「そ、そうなんだ……」
「うちのクラスの推薦で決まったの! いいところまで行けると思うんだよね。今年は吉川さんいないし……って、どうしたの?」
「え? あ、ううん。なんでもない!」
はにかんで誤魔化すと同時に、担任の先生が教室に入ってくると、佐野さんは慌てて自分の教室に戻っていった。
いつも通り始まったホームルームが進められる中、私の頭にはミスコンの話がぐるぐると渦巻いていた。夏休みが明けたら、学校全体で文化祭の準備が始まる。だから前回の優勝者の名前が出るのも不思議じゃない。
ただ、彼女がこの場にいない事を平然と口にする事が、私にはできない。
『おい井浦。ぼーっとしてどうした?』
窓側の席では、袴田くんが気怠そうに今日も机に寝そべっている。冬服姿の彼を見るだけで暑く思えてしまうが、こればかりは仕方がない。
「なんでもない、大丈夫」
『夏バテか?』
「……なんだか今日は親切だね? 変なモノでも食べた?」
『そんなに珍しいことじゃねぇだろ。それにお前が倒れたら俺が遊べないじゃん』
「人をおもちゃにしないで」
先生や周りのクラスメイトを気にしながら小声で言い返す。人の気も知らずに、相変わらず袴田くんはニヤリと口元を緩めて楽しんでいた。
『もう夏休み入るんだよな。井浦は補習とか受けねぇの?』
「この間の期末テストで赤点は回避したから受けないよ。……あ、でも夏祭りのボランティアすることになったから、何日かは来るかも」
『マジ!?』
寝そべっていた袴田くんが勢いよく立ち上がると、ガタン、と音を立てて椅子が引かれた。それはホームルーム中で先生しか喋っていない教室内に響いて、周りの目が一斉にこちらへ向けられた。特に先生は、幽霊(仮)の彼の姿は見えないのに、勝手に椅子が動いたように見えたらしく、口をパクパクさせていた。
「井浦、今その席……動かなかったか?」
「わ……私が足で蹴りました! 足元に虫がいたので驚いて!」
「そ、そっか……お、驚いた時は声出していいからな、物は大切にしてくれないと……」
「はい、すみません……!」
『くははっ! 誤魔化し方が上手くなってきてんじゃねぇの!』
誰のせいだ、と睨みつけるも、隣の彼は笑い転げるだけ。周りのクラスメイトには白い目で見られ、先生には心配される。ああ、デジャヴ。嫌でも慣れたと思っていたのに!
ぎこちない空気の中で再開したホームルームの話は、いよいよ夏休みの話に入った。
補習授業の日程の他に、お盆に行われる夏祭りの関係でグラウンドが使えないこと、さらに最近絶えない不良同士の喧嘩について話が出た。
「先生たちが学校から駅近辺まで、ほぼ毎日見回りをしているが、未だ学生同士の喧嘩は減らない。それどころか、大学生や大人にまで手を出している生徒も少なくはない。北峰は今年に入って改善されてきたとはいえ、根本的な解決には程遠いのが現状だ。特に皆は三年生だし、進学や就職に向けて本格的に動いている人が巻き込まれないとは限らない。危ないことはしないでくれ。これは担任の教師として、そして……一人の人間としてお願いしたい」
先生が真剣な眼差しで訴える。一瞬だけ、後ろの窓側の席を見て悲しそうな顔をしたが、すぐ目線を戻して話を続けた。クラスメイトは重く受け止めているのか、誰も先生を茶化すようなことは口にしなかった。
今になって思えば、袴田くんの席を卒業まで残すと言い出したのは先生だった。
初めて担任を持ったクラスであり、全員を無事に卒業させたいという先生の思いに、クラスメイト全員が賛同した。
その思いは、この教室にいる誰よりも重く受け止めていたのは袴田くんだった。
幽霊(仮)として存在していても、彼がこのクラスで授業を受けている間は、本当に生きているのかと勘違いしてしまうくらい、とても楽しそうに見える。私が休み中に学校に来るか聞いて、途端に声を上げたのは、寂しかったからなのかもしれない。
ホームルームが終わると同時に賑やかな声が飛び交う教室で、しきりに『夏祭りも来んの? 何の屋台やんの!?』と聞いてくる彼が、尻尾を振っている大型犬に見えたのは、ここだけの話だ。
その日の放課後、夏祭りのボランティアに参加することになった生徒が視聴覚室に集められた。
思っていたより多くの人数が集まっており、席の半分が埋まっている。おそらく生徒会のノルマのおかげだろう。隣で佐野さんがむっと眉をひそめた。
「これ、生徒会が声かけるだけでよかったんじゃない……?」
「あはは……まぁ、人が多いことに越したことはないかと」
教卓の前で打ち合わせをしている生徒会の中には、風紀委員長である岸谷くんの姿も見受けられる。 確か毎年町内会と風紀委員会が、校内の見回りに出て清掃や駐輪所の整理を行っていると聞いたことがある。そのまま喧嘩に突入することも少なくはないとも言うが、先日の南雲第一高校との事もあるから、警備は例年より厳重になるはずだ。
全員が席に着いたのを確認すると、生徒会の役員が遠くの席まで届くようにマイクを使って説明を始めた。
≪えー……今回、夏祭りのボランティアについての説明ですが、今から配るプリントをそれぞれ確認していただいて、各ブースの責任者の指示に従ってください。中には町内会の皆さんと一緒に行う屋台もありますので――≫
長々と続く役員の話に耳を傾けながら、前の席からまわってきたプリントに目を通す。タイムスケジュールと細かい注意事項が書かれており、その裏にはグラウンドと屋台が書かれた配置図が載っている。
私は佐野さんと一緒にかき氷ブースでの販売担当だった。他にも一年生と町内会の人が一人ずつ加わることになっているらしい。
「町内会の人が入ってくれるから、他のブースよりかは気楽にできるよ。氷削ってシロップかけるだけだし。それに井浦ちゃんも、クラスの人以外となら話せるでしょ?」
「ボランティアってランダムで振り分けられるよね? もしかして佐野さんが決めてくれたの?」
「ううん。ただ『井浦ちゃんと一緒じゃないとやらないよ』って、キッシーに言ったら手をまわしてくれたの。持つべきは風紀委員ね!」
小声ながらも爽やかな笑顔で脅した彼女を見て、思わず岸谷くんに同情した。申し訳ないと思う反面、佐野さんが私の事を考えてくれた事が嬉しかった。
「でもキッシーも大変だよね。今年も町内会のボスの岩井っていうオジサンが仕切るんだって」
岩井さんの噂は聞いたことがある。町内会の最年長で、喧嘩ばかりする若者をあまり快く思っていない。なにかあれば「だから最近の若い奴らは……」と小言を延々と続けることで有名だ。特に生徒と町内会の間に挟まれる生徒会は、ストレスで胃痛を起こしている人もいるようで、まともに取り合っているのは岸谷くんだけだった。
そっと生徒会の役員と話している岸谷くんを見るも、特に変わった様子はない。今のところ問題はなさそうだ。
生徒会の説明が終わって解散になり、視聴覚室からぞろぞろと出ていく。その人混みを逆らって、見覚えのある一年の男子生徒がこちらにやってきた。
「かき氷ブース担当になりました、野中です! よろしくお願いします」
「確か、船瀬くんと同じクラスの……」
「はい。この間は大変お世話になりました!」
あの日、心配して探しに来た野中くんは船瀬くんと一緒にいるようになった。元々趣味や好きなアーティストが同じだったようで、彼の方から話しかけたらしい。当の船瀬くんは、南雲の不良に暴行された右腕は骨折、医者から最低三ヵ月は絶対安静だと言い渡されていた。そんな彼がよくボランティアに参加すると知った時は思わず聞き返してしまった。
「俺もびっくりしたんですよ。その場に居たんですけど、岸谷先輩から声かけてくれたんです。気分転換にどうだって」
「へぇ……キッシー、後輩想いだね!」
もうすっかり定着してしまった佐野さん独特のニックネームに、野中くんが首を傾げる。
それにしても意外だった。怪我人とわかっていながら、外部と接触する機会が多い夏祭りに船瀬くんを参加させるなんて、岸谷くんがするとは思えなかったのだ。よほど人が足りなかったのだろうか。
『だろうな。半分は監視するとか?』
いつからいたのか、私のすぐ近くの壁に寄り掛かっていた袴田くんが言う。相変わらず金髪が照明に反射して眩しい。
「……誰の?」
『船瀬に決まってんじゃん。スパイとして送り込んでいた駒がバレたのに、南雲の奴らが何もしないわけがない』
「でも情報は何も持っていないって、船瀬くんは言ってたよ」
『本人はな。些細なことでも知られると困るモンだってあるだろ。……ま、岸谷はそれを見越して呼び込んだのかもな』
「……船瀬くんを囮に使うとか、そういう汚い話?」
『お前、いつになく物騒だな。ちげぇよ。近くに置いたほうが守れるって話』
どういう意味?
眉をひそめると、袴田くんは私の持っていたプリントの、校舎側に設置されたテントの枠を指さした。
〇夏祭り本部・巡回隊待機場所:岸谷、…………船瀬
「……どうしよう、袴田くんのせいで完全に監視にしか見えなくなっちゃった」
『くはは。だろ?』
「でも夏祭りに参加させるより、家にいた方が安全なのでは……?」
『んなことしたら「暇なんでバイト入れます」って言い出すに決まってんだろ』
「あー……確かに」
船瀬くんは入学当初からアルバイトと学業を両立していた。不良からお金を巻き取られていたこともあって、一時掛け持ちしてまで働き、右腕が折れていても病院に行かず、独学で腕を固定して生活していたのだ。
そんな彼が、夏休みという稼ぎ時にシフトを入れない訳がない。しかし彼は今、病院から言い渡された絶対安静期間の真っ只中だ。
「あんな目に遭ったんだから、さすがに大人しく家にいるって!」
『俺が知るかよ。本人に言え』
「本人……?」
「井浦先輩!」
後ろから呼ばれて振り向くと、爽やかな笑顔の船瀬くんがそこにいた。以前のぎこちない空気はどこにもなく、がっちり固定されていたギブスも外れて以前よりもすっきりしている。
「先輩も参加するんですね。僕、買いに行きますから!」
「あ、ありがとう……でも船瀬くんは大丈夫なの? その……怪我とか、いろいろ」
「迷子の相手や忘れ物を管理するだけですし。……それに岸谷先輩も一緒ですから」
船瀬くんは屈託のない笑みを浮かべながらも、周りを気にして小声で教えてくれた。私が思っていたよりも冷静なのかもしれない。
内心ホッとしていると、隣で『忘れるなよ、コイツは頭は悪くないが、信じる奴にはとことん付いていくからな』と不安を仰られる。
「……船瀬くんのことだから多分大丈夫だと思うんだけど、無茶はしないでね」
「はい。ありがとうございます。そうだ、あの時の金髪の人にお礼がしたいんですけど、どこのクラスの人か知りませんか?」
「え!? えっと……」
「あれ、淳太じゃーん!」
「うわっ!? ちょ、佐野先輩!」
佐野さんに絡まれた船瀬くんが顔を背けたのを見計らって、にやついた笑みを浮かべる袴田くんに小声で言う。
「……お礼がしたいってさ、金髪の人」
『阿呆か。俺がぶっ飛ばしたのは一部だ。南雲の奴らが襲ってくる可能性は充分ある。安心してたら足をすくわれるぞ』
袴田くんの言う通り、岸谷くんが彼に付きっきりでいたら夏祭りの巡回に支障が出てしまうかもしれない。何より、北峰にとってこの状況は守りに入った状況だ。根本的な解決になっていない。
……あ、そうだ。
「袴田くんも巡回隊に入ったら?」
『は?』
「だってやることないでしょ? 岸谷くんと連携を取って見回りすれば、喧嘩も未然に防げるかもしれないし」
『……くはは。お前、俺がとっくに死んでるって分かってて言ってんの?』
ウケるんだけど、と呆れた顔をされる。もちろん彼がすでに亡くなっていて、基本私以外の人物に姿が見えないこともわかった上での話だ。一度船瀬くんを尾行したことがある彼ならできるだろう。
あの時私はいなかったのに、岸谷くんと共有できていたのだから、きっと大丈夫だ。
「でもせっかくの夏祭りなんだから、一緒にいることくらい、いいでしょう?」
お盆――つまり、ご先祖様が家に帰ってくる日でもあるのだから、幽霊(仮)が一人混ざっていても問題はない。もしかしたら彼も家に一度帰るかもしれないし。
私の突飛な提案に袴田くんは『……まぁ、それもいいか』とすぐニヤリと笑みを浮かべた。
『早く夏祭りになんねぇかなぁ。そしたら井浦も学校に来るんだろ?』
「そうだけど……袴田くん、学校が好きなんだね」
生前、全く会話をしたことがなかった頃、喧嘩をするわりにしっかり授業を受けている姿を見ていて、実は真面目なのではと疑ったことがある。もしかしたら、学校でクラスメイトや不良仲間と会うことで寂しさを埋めているのかもしれない。
『俺には、学校しかなかったからな』
そう呟いた彼の横顔は、どこか寂しそうに見えた。
夏休みに入って数日後、佐野さんから「暇なら集合!」と連絡が入った。
友達とプール、恋人とデート、家族旅行。そんなキラキラした言葉が、壁にかけられたカレンダーに書き込まれることが今までなかった私にとって、この呼び出しは夏祭りの買い物だろうと勝手に思い込んでいた。町内会で準備はしてくれているはずだが、急に足りないものがあったのだろうか。とはいえ、夏祭りは一週間後で、準備も前日に行われる予定だ。
いろいろ考えながら、指定された学校近くにあるなじみのカフェに向かうと、いつも座っているソファー席に佐野さんと美玖ちゃんがいた。制服姿の美玖ちゃんは部活帰りだったのか、彼女が座る隣にベースケースが置かれている。夏休み中でも軽音楽部は練習があるらしい。
「おっそーい! 井浦ちゃんこっち!」
「え? 買い出しじゃないの?」
「ん? 何の話?」
佐野さんが首を傾げて聞き返してくる。それを見て美玖ちゃんが失笑しながら言う。
「由香は相変わらず見切り発車だね……。ごめんね、ここ数日、由香が塾しか行ってないからお喋りがしたいーって言い出して、片っ端から連絡してたみたいでさ。家の用事とか大丈夫?」
「私は大丈夫だけど、み……美玖、ちゃんは? 部活帰り?」
「そうそう。学校出たところで由香に捕まっちゃった。ってか、名前で呼ぶのまだ慣れてないね?」
「だ、大丈夫、頑張るから!」
「ちょっと、私を放ったらかしてお喋り始めないでよー!」
呼び出した本人の佐野さんは塾の帰りだという。受験する大学のために夏休みの期間だけ通うことだけは聞いていた。
「井浦ちゃんは? 大学受験するんだよね?」
「まぁ……うん。やりたいことがまだ決まらないから、とりあえずって感じかな」
将来の夢とか、どんな仕事をしたいとか。十八にもなって思いつかなくて、今の自分の実力で行ける大学を目指すことにした。今のまま成績を落とさなければ問題はない……はず。
問題を起こさなければ、の話だけど。
「佐野さんは難しい大学だったよね。美玖ちゃんは……?」
「私は県外の大学。そこで軽音楽のサークルに入ってる先輩と仲良くてさ、大学入ったら一緒にバンドするって決めてんの!」
「それが初恋の人だから羨ましいよねぇー美玖チャン!」
「ちょっ! そ、そんなんじゃないし!?」
ここぞとばかり悪戯な笑みを浮かべて佐野さんが茶化すと、美玖ちゃんの頬が次第に赤く染まっていく。恋する乙女は可愛いのだ。
「それよりずっと気になってたんだけど、井浦さんって彼氏いるの?」
「……へ?」
「よく岸谷と話してるし、男友達の方が多いのかなって思って」
「確かに……でもキッシーと付き合ってるようには見えないよね」
美玖ちゃんの質問に、なぜか佐野さんが頷く。何に納得しているのかわからないけど。
「そういえば昨年くらいに噂になってなかった? ファンクラブの先輩達が騒いでた気がする」
「え? そうなの?」
とても懐かしい話を掘り返して聞いてくる二人に、私は苦い笑みを浮かべた。
例のファンクラブの先輩たちは謝罪の言葉一つもなく卒業していった。一度だけ校内で目が合ったことがあったけど、声をかけることもかけられることもせず、それ以降は会っていない。
「他校の人に絡まれたときに助けてもらったくらいだよ。先輩たちも言い返しちゃったけど、誤解は解いたし……」
「言い返したって……先輩相手に? 口答えしたらすぐ手を上げるって、下級生の中でも有名だったんだよ」
「そう……だったの?」
「知らなかった?」
「うん。岸谷くんのことも絡まれたときに初めて知ったくらいで……」
あの時は袴田くんのことしか考えてなかった――なんて口が避けても言えるわけがない!