秋晴れの良き日に、隣の席の袴田くんが亡くなった。
校則違反の金髪と黒の二連ピアスが目印で、他校の生徒と喧嘩が始まれば必ず最前線にいる、学校一の不良――袴田玲仁。
最強と謳われた彼は今朝がた、交差点に差し掛かった大型トラックの前に自ら飛び出したという。
決してトラックが信号を無視したわけではなく、歩行者用の信号機に不具合があった訳でもない。
現時点でなぜ彼が飛び出したのかはわかっておらず、彼の通う高校の生徒や教師、近所に住む住民に話を聞いても、自殺をほのめかす様子はなかったという。警察は事故と事件の両面から捜査を進めているが、今のところ進展はない。
学校側が生徒へ正式に通達したのは、事故が遭った翌日のことだった。
生前は喧嘩の耐えなかった彼に恨みを持つ人物が葬儀中に乱入してくることを懸念し、遺族からの要望でお通夜や告別式への参列を控えてほしいと言われ、校長と担任が頭を下げ、親交のあった生徒三名を選出し、告別式にのみ参列させてもらうことになった。
つまり、多くの生徒が彼の最期に立ち会うことなく、一方的に別れを告げられる形になってしまったのだ。
告別式があったその日から、いつも座っていた教室の一番後ろにある席には、花瓶に活けられた百合の花が置かれ、多くの人が彼の早すぎる死を惜しんだ。
「仲間思いの良い奴だった」
「不良に絡まれて助けてもらったことがある。まだお礼も言えてなかったのに……!」
多くの人が悲しむ姿を、私は一歩下がって冷めた目で見ていた。
同じクラスで隣の席だったとはいえ、所詮は赤の他人。身近にいながらも有名人だった彼の存在を、私はあまり気にしていなかったのかもしれない。
そんな私でも、彼の人柄に惹かれた人が大勢いるのだと知って、何とも惜しい人を亡くしたのだと知った。こんなにも悲しまれ、悔やまれた彼はきっと幸せ者だろう。どうか安らかに眠ってほしいと、心から願う。
……でもね、袴田くん。一つだけ教えてくれないかな。
あなたがしたその選択は、誰だったら止められたの?
夏から秋へと季節が移り変わり、まだ残暑が残る日の朝。じわりと汗ばんだシャツがくっつくのに違和感を覚えながら学校に登校すると、そこには楽しそうに談笑するクラスメイトの姿があり、いつもと変わらない光景が広がっていた。彼がいなくなってからしばらく沈んでいたクラスの空気は、から元気ながらも活気を取り戻そうとしている。
そんな彼らをかき分けて、教室の奥にある自分の席に向かった。窓側の席から一つ隣の、中途半端な席。妙なことに、進級した四月から何度か席替えが行われたにも関わらず、夏休み明けにまた戻ってきてしまった。――それも、彼の隣だった。
私の隣にある窓側の机の上には、白い百合が花瓶に活けられている。
この席に座っていた人物――「最強の不良」と謳われた男子生徒はもういない。なんとも理不尽で悲しい人生の最期を迎えた彼は、一週間ほど前に執り行われた告別式で、すでに小さな箱に入っていたと、参列した先生が言っていたっけ。
背負っていた鞄に手をかけたところで、誰もいないはずのその席の椅子が不自然に後ろに下がっているのが視界に入った。誰かが使ってそのままにしたのだろう、などと考えて顔を上げると、目を見張った。
こんなことがあるはずがない。あっていいはずがない。
そこにはもういないはずの男子生徒が、さも当然のように座っていた。
「…………」
……いやいやいやいや。
確かに見慣れた金髪だけど、横から見ても整った顔立ちしているけど!
困惑する私とは反対に、彼は微動だにせず黒板の方を見つめている。こんなにも堂々としているのに、どうして誰も彼の存在に気づかないのか。教室の雰囲気をみても、誰かが見て見ぬふりをしている様子はない。
「はいおはようー。ホームルームを始めるぞ。……井浦? さっさと座ってくれないか」
「えっ……あ、はい! すみません!」
担任の先生が教卓に出席簿を広げながら私を指摘する。クラスメイト全員が席に着いているなかで、私だけが鞄を背負ったまま、窓側の方を向いて固まっていた。
慌てて私が席に座ったのを見計らって授業前のホームルームが始まった。といっても先生が連絡事項を話すだけで、特にやることはない。
そっと横目で窓側の席の様子を伺えば、彼はしばらく真顔で黒板を見ている。しかし、先生の話が進むにつれて、次第に姿勢が机に雪崩れ込むように崩れていく。
隣の席だからこそ、この光景を何度か見たことがある。彼がよく授業中、先生の話ばかりで聞き飽きた時にする体勢だ。
もう二度と見られないと思っていたけれど、まさかまたこの姿を見られるなんて。
「井浦、隣が居なくて寂しいだろうが、先生の話くらいちゃんと聞いてくれるかなぁ」
思わず凝視してしまっていたのが教壇から良く見えたようで、話を中断した先生に注意される。やはり誰も彼が見えていないようだ。パッと顔を上げて姿勢を正すと、神妙な顔つきで尋ねられた。
「お前まさか……そこにいるってのか?」
います。
「……そ、そんなわけがないじゃないですか! 天気がいいから、窓の外に気を取られていました。気をつけます」
「ならいいが……。おっと、そろそろ一限目が始まるな、ホームルームはここまで!」
先生が号令をかけて終わると、クラスメイトが次々と談笑や授業の準備を始める。
賑やかになった教室で一人、私は小さく溜息を吐いた。
誰も見えていないのに、堂々と「隣にいます」なんて言えるわけがない。あわよくば、私が今まで見てきた彼の面影を映し出した幻影であってほしい。
そう願いながらもう一度隣を向くと、机に雪崩れ込んだ体勢から、いつの間にか顔だけをこちらに向けていた。
「…………」
『…………』
目が合った。
根元までしっかり染められた金髪が揺れて、何を考えているかわからない真顔がこちらを向いている。さっきまで黒板の方を向いていたくせに。
すぐさま目を逸らすと、隣から椅子を引く音が聞こえたと同時に、左肩にずしりと重みがかかった。氷のように冷たい指先が、羽織っているカーディガン越しからでも伝わってくる。
私は咄嗟に視線を机に落とした。
顔を上げたくない。この肩にかかった重みを、食い込んでくる指先を知りたくない。
今起こっていることが現実であることを、信じることが恐ろしい。
視界には机の木目と小さなひっかき痕しか入れていないのに、フッと小さく笑った声だけで、口元を緩めた彼の顔が想像できる。
『……井浦楓。お前、俺のこと見えてるよな?』
一週間前の事故で亡くなった彼――袴田玲仁は、脅しにかかった低い声とともに、私の肩に置いた指先にほんの少しだけ力を込めた。
市内に複数ある高校の中で特に喧嘩が多い高校の一つが、私が通っている北峰高校だ。常に厳しい教師の目を掻い潜っては市街地に繰り出し、売られた喧嘩を買うスタンスの不良生徒が多い。
その中で最前線に立ち、多くの人に慕われ畏れられた「最強の不良」の異名を持つ男がいた。目立つ金髪、隙間から覗かせる左耳の黒い二連ピアス。その特徴だけで、誰もが袴田玲仁だと関連づける。
その人物こそ、不慮の事故で亡くなった男子生徒であり、私の隣の席に座る彼である。
『井浦ぁ、ちょーっとくらいこっち向いたっていいじゃん? 聞こえてんだろ?』
「…………」
目が合ってからの数時間、私は頑なに彼を無視し続けていた。
死んだ人間と仲良くお喋り? そんなことがあってたまるものか。
悪い夢だと思い込むように休み時間中は机に突っ伏して寝たふりをし、授業中は黒板とノートだけを見続けていた。
しかし、それでも袴田くんは授業でも構わず話しかけてくる。いい加減、そろそろしつこい。
教室では先生が古文について説明している声以外、ノートに書き写す音だけが響く静かな空間が保たれていた。……にも関わらず、袴田くんはクラスメイトと談笑するくらいの声量でずっと話しかけてくる。周りのクラスメイトには聞こえていないのが本当に羨ましい。
『ん? 原センセーのズラ、またズレてんじゃん。そろそろ隠すのも限界じゃね?』
「…………」
『井浦、ちょっとくらい声出したって大丈夫だって。誰も聞こえてないんだし』
全然大丈夫じゃない。
仮に袴田くんが他の人に見えなかったとしても、傍から見れば私が誰もいない席に話しかけている構図になる。周りから完全に変人扱いされるのがわからないのか!
今の私には、正面にある黒板か机の上の教科書やノートにしか目を向けていないため、彼が今何をしているのかを把握できない。たまに視界の端で長い足がバタバタと床を叩いているが、クラスメイトは音さえも気付いていない。
授業が始まって三十分が経過する頃には、袴田くんの喋り声も収まって静かになった。そろそろ諦めただろうと少し横目で様子を伺うと、彼は机に頬杖を付いてこちらをじっと見ていた。
ああ、やらかした。
袴田くんと完全に目が合うと、嫌味なほど整った顔立ちでニヤリと笑みを浮かべた。
『やぁーっとこっち向いた。井浦楓、そんなに避けてると一生取り憑いてやるからな』
「…………き」
『ん? き?』
「――きゃああああ!」
大きな音を立てて椅子から立ち上がると、勢いで持っていたシャーペンを袴田くんに投げつけた。案の定シャーペンは彼をすり抜け、窓の下の壁に鈍い音を立ててぶつかり、床に落ちた。
バクバクと打ち付ける心臓を抑えながら、彼を見る。
ああ、本当に心臓に悪い! ただでさえ幽霊――亡霊か?――が自分にしか見えていないのに、あの袴田くんにフルネームで呼ばれただけでなく、一生取り憑かれるなんて考えただけでも恐ろしい!滅多に出さない叫び声も、思っていた以上に甲高くて自分が一番驚いているくらいだ。
勢いで投げてしまったシャーペンが足元まで転がってくる。本身体に亀裂が走っており、ペン先が曲がってしまっている。これはペンチで先端を直しても動かないだろう。一人で嘆いているうちに、今まで授業に集中していた先生とクラスメイトがこちらを見て酷く驚いた顔をした。
「えーっと……井浦さん、虫でもいたのかな?」
「………え、ははい! 百合の花に寄ってきたみたいで、コバエが少々!」
「コバエ……?」
「急に集団で顔に突っ込んできたので驚いて!」
「……そ、そっか。確かにそれは先生でも驚くね。でも文房具投げつけるのは止めような、いくら無視だからって、可哀想だから」
「はい、すみませんでした……」
腑に落ちない顔をしながらも納得してもらえたようで、先生とクラスメイトはまた板書の続きに戻り、授業が再開された。ひとまず回避できたらしいので、大きく胸を撫で下ろす。
『くははっ! 少々っておまっ、塩コショウみたいに言うなよ!』
黙っていてほしいと思いを込めて睨みつけたが、袴田くんは足をバタバタさせて笑い転げていた。
いったい誰のせいでこんなバレる誤魔化し方をしていると思っているのか。
彼の笑い声が響く中も、授業は進む。私は気を取り直して机に向かった。その後はしばらくちょっかいをかけてくることはなかったけど、ふと横目で様子を伺った時に、屈託のない笑みを浮かべた彼を見て思う。今までこんな大袈裟に笑い方をしたところを見たことがあっただろうか、と。
誰も気付かないこの状況の中、本当に彼は死んでしまったのだと、現実を叩きつけられた気がした。
袴田くんとは二年生に進級したクラス替えで初めて一緒になった。
入学する前から問題児として有名な彼だったが、クラスメイトには友好的に接していた。多くの生徒から「見た目は恐いけど良い奴」として見られていた気がする。ある意味、人気者と言ってもいいかもしれない。
人気者がいるその裏で、いつも教室の端にいて目立たないようにしている人がいる。――それに該当するが私だ。
特に取り柄もなく、人付き合いが悪くてクラスメイトとも必要な時以外ほとんど干渉しない。新しいクラスになってからも距離を取られるほど、話しかけにくい空気が漂っているように思われて一線を引かれていた。
天と地の差があるほど、交友関係も容姿も正反対な彼と隣の席になった時はくじ引きを恨んだが、彼からは挨拶程度の会話以外、話しかけてこなかった。
だから少し安心していたのだ。こんな人と仲良くなった暁には、きっと私は高校生活を後悔すると。
――今思えば、その直感は正しかったのかもしれない。
『うっわ! 屋上とかチョー久々! 授業サボってるときにはうってつけの場所だよなー』
なんとか授業を終えることができたものの、これ以上無視し続けるのは限界だった。
次の授業が始まる前に袴田くんを屋上へ連れて行くと、解放されたかのように大きく伸びをした。外は秋晴れの青空が広がり、空気は冷たくも澄んでいた。
『連れ出してくれてありがとな。お前が気付いてくれなかったら、机を蹴ってやろうかと思ってたところだった』
「それはちょっと横暴じゃない?」
『んで、原センセーのズラをちょっとだけ動かす。蛍光灯でテカリが反射する位置くらいに』
「悪質すぎる! 先生の毛根だって頑張った結果で生えなかったんだから労わって!」
『お前が一番酷いこと言ってることに気づけよ』
くはは、と袴田くんが笑う。
特徴的な笑い方もまた、生きていた頃の彼と全く変わらない。しいて言うのであれば、こんなに嬉しそうに笑う人だっただろうか? 友人と話しているときも、どこか素っ気無くて満面の笑みを見たことがない。隣の席でも必要なこと以外、話したことがなかったから当たり前か。
「……ねぇ、なんで袴田くんは、ここにいるの?」
出入り口から少し離れた給水タンクに寄り掛かって問うと、彼はキョトンとする。
『ん? 決まってんじゃん。俺を殺した奴を、道連れするために戻ってきた』
何を今更、と言いたげな表情でさらっと口にした袴田くんに、私は思わず後ずさった。
殺された? 袴田くんが?
彼は学校だけでなく町全身体に顔が知られている。そんな彼が誰かに意図的に突き飛ばされ、事故に遭ったとでもいうのか。実際に本人がそう言っているのなら本当かもしれないが、幽霊(仮)である彼がどうやってそれを証明できるのか。仮にもしあるとするならば、彼が突き飛ばした張本人の顔を見たことだ。想像したくはない仮説が浮かんで、冷や汗が頬を伝う。
『――なんてな、冗談。そんな地球最後の日みたいな顔すんなよ。俺自身、わかってねぇから』
「……ビックリしたぁぁぁ!」
焦った。本当に呪い殺しにきたのかと思った。
ただでさえいろんなところに喧嘩をしてきた彼だ。恨まれるようなことの一つや二つ、あってもおかしくはない。
『そんなにビビんなよ。ほら、死んだ人間ができることなんて傍観するくらいなんだから』
「袴田くんだったら普通に殴り合いとかできそうだけど……」
現に掴まれた左肩は狙ったかのように指が関節に食い込んでおり、骨ごと引き千切られてしまうのではないかと思うほど痛かった。今も少し動かしただけで痛む。
『悪いな。この状態になってから力の加減がわからなくてさ』
「そもそも幽霊って物を掴めるの? さっき投げたシャーペンはすり抜けていたけど……」
『物によるんじゃねぇ? 幽霊は物身体掴めないけど』
幽霊だから物身体が掴めない? ……ということは、彼は幽霊じゃない?
しかし、投げたシャーペンはすり抜けていた。彼にはその調整ができるのか、あるいは――。
「実は生きてました、っていうドッキリの可能性は……」
『死者への冒涜だぞ。謝れ』
自分が死んでいる自覚はあるらしい。