スリープディスオーダーにおかえり

 言われている意味がわからなくて、凪は呆けた。動揺している自分の顔はさぞかし間抜け面だろう。いつもそそくさと逃げ回っていたツケがここにて回ってきたのか。

 返す言葉が見つからず、凪はしばらく挙動不審に目を泳がせた。

「ずっと見てたんですよね? 客観的に見て、私のダンスに直した方がいいところ、ありますか」
「いや、俺、素人だし……」
「意見を聞きたいです」

 人の話を聞け、と思わず言い返しそうになるのをぐっとこらえ、凪は何とか適切な表現を探す。

「直すところっていうか、変わったなあっていうか」
「どこが変わったと思いましたか」
「ええと」

 落ち着け、下手なことを言ったら逆上されるぞ。特にこういうタイプはそれとなく言葉遣いを濁した方が後腐れなく終わるもんだ。

 長年アルバイトを渡り歩いてきた勘が、さわらぬ神に祟りなしと脳みそに警告していた。

 適当なこと言って早く逃げろ。

「何に対してそんなに怒ってんの?」

 沈黙が下りた。

 相手の時間が、完全に止まっていた。目を見開いたまま、そこから微動だにせず突っ立っている。
 凪がびくびくと反応をうかがっているうちに、彼女は顎に手を当て、眉間にしわを寄せ始めた。

「いや、こんな素人の意見気にしないで、芸術性のままに弾けて踊った方がいいっすよ」
「いえ、参考になりました」

 彼女はきりっとした顔で凪を見つめた。

「せっかくなので、これからもここに来て私のダンスを見てくれませんか」

 非常事態になった。
 どうしていいかわからず、余計に混乱する。

「……どれくらい?」
「できれば毎日」
(何でこうなるんだよ)

 凪は内心、舌打ちしたくなる心を懸命に抑えつけていた。

「毎日外に出なきゃなんねえの……?」
「はい」

 相手の瞳は爛々としていた。獲物を見つけて狩猟本能が刺激される肉食動物のようだ。

「私の観客になってください」

 数秒、沈黙せざるをえなかった。
 蛇に睨まれた蛙のようだ。自分って小動物だったのか。ずっとハンターだと思っていたが。

蝶野(ちょうの)まゆといいます」
「はあ」
「名前を教えてください」
「俺?」
「私も名乗ったので」

 教えろ、とばかりに蝶野まゆは強い視線で訴えた。

「……五月女凪です」
 しどろもどろになりながら、凪は内心、なんて面倒な事態になったんだと嘆いていた。まさかこんな巻き込まれ事故を食らうとは思わなかった。

 そう思っているうちに、蝶野まゆは勢いよく頭を下げる。

「お願いします。私のダンスに率直な意見をください」
「だから俺、素人なんだって」
「そういう人が必要なんです」

 引き下がらねえな、こいつ。

 凪はますます面倒なことになったと苦虫を噛む。それを了承と捉えたのか、蝶野まゆはスポーツ用のジャージのポケットからスマホを取り出した。

 今度は連絡先の交換か。

 真摯な姿勢なのは褒められるべきところだが、相手のあまりにも必死な態度に、凪は少々面食らっていた。しかしそれを伝えることもできず、凪はしかたなく自分もスマホを開いた。

   *

「ねえ、俺、告白されちゃった」
「告白じゃねえだろ。通報だろ」

 昼のピークを過ぎた店内に、客の数はまばらだ。在庫の補充を確認する凪に、ピンチヒッターのメンバーがイライラと答える。担当じゃない曜日に呼び出されて機嫌が悪いのだ。凪はかまわず話しかける。

「動画けっこう送られてくる。夢に向かってがんばってるんだってさ。プロポーションもいいし、才能あると思わない?」
「女子高生に手出すクソ野郎じゃん」
「ちがう、ちがう。女子大生。二十歳。ギリギリセーフ」
「お前と付き合って何が楽しいんだか」
「たとえば、さ。悩んでいる時に話をひたすら聞くっていう才能がある。俺は」
「ふーん。てか、就職どうすんの?」
「あと一年踏ん張るって」
「ふーん。みんな何かになりたいのかねえ」

 同僚はぽつりと言って、奥のカウンターに引っ込む。凪はレジ棚の釣り銭を確認する。空から金が降ってくればいいのになあと妄想しながら、この日の仕事を終えた。


「まゆの踊ってるジャンルって何?」

 恋人を自宅へ送る帰り道、凪は聞いた。まゆのしなやかな手足を毎日鑑賞しているわりに、自分は無知であるのをそれとなく気にし出した頃だった。

「うーん、凪はあまりダンスについて知り過ぎることないよ。私、博識家きらいなの。凪は頭でっかちにならないで」
 少しつり気味に上がった目もと、よく整えられて綺麗な体裁を保った眉、口調からにじみ出る溌剌とした声が、まゆの手垢のついていない若さを強調していた。

「俺はずっと素人でいいの?」
「そうそう。私のお客さんだから。私だけの」

 まゆは満足そうに、こちらに腕を絡めてくる。彼氏としての優越感を感じるとともに、ある種のしこりのようなものが凪の心に巣くう。

(いろいろと、憤ってるんだろうな。自分にも人にも)

 横断歩道を渡りながら、まゆがこちらをじっと見上げているのに気づいていた。

「凪こそ、いつも何飲んでんの?」
「ああ、あそこの自販機でしか売ってないマイナーな飲み物」
「レアもの?」
「そう、売れ筋じゃなくて一点もの。みんなの口には合わないんだよなー」
「私の口にも合わない?」
「まゆには難しいだろうなあ」

 ふうんと言ったきり、まゆは会話をやめた。

 信号機が点滅する。小走りで歩道を渡り終え、何となく話を続けるのも気だるい感じがした。

 まゆの手が腕から指先に絡み始めていた。

 何となくそれっぽい行為をする空気になったのを察知した凪は、恋人の頭を自分の方に引き寄せた。
 鼻筋にそっと唇をのせた後、ゆっくりと下って、口にたどり着いた。
 数秒、柔らかな時間を楽しんだ。

 幸せな瞬間が自分にはあった。

 甘えられる異性に思いきり甘えて、最後にとんでもない奈落の底まで突き落とされたいという劣情。立ち上がれなくなるくらい倒れ込んで、溺れてすがりつきたいという、消し炭のような欲望が。

 常に自分の内に眠る動機のままに生きてきたつもりだ。これからもずっと遊ばれて、受け入れられて、そして五月女凪という形を溶かして分解され続けるだろう。理念も概念もいらなくなるほど、這いつくばりたかった。

 口を離すと、まゆの瞳にいつにも増して暗い陰が差していた。

「……まゆ?」
「私はおかしい?」

 まゆの瞳は何かに揺らめいていた。

 熱いものを感じた。火。自分が付き合う恋人はいつも何かに燃えていた。火だと思った。自分自身へ向けるものもいれば、社会に向かっているものもあった。それは形容しがたい感情だった。まゆの中から身体を超えて噴き出しているその様が、凪にはわかっていた。

「もう一度言うけど、まゆは何に怒ってるの?」

 恋人は再び口をつぐんでしまった。
「現状? まゆは踊ることで何を伝えたいの」

 ひりっとした感覚にふれた。

 ああ、苦手だな。

 相手の核心をつく時にあふれ出る殺伐とした緊張感が、凪は苦手だった。そのくせそこを無自覚につくのは誰よりもうまい。

「多分ね」

 壊そうかな、と思った。

「合ってないんだと思うよ」

 冷静に出した声は低い響きを伴っていた。

「まゆのやりたいことと、目指すべき方向性が」

 相手が目を見開く。

「私にダンスは向いてないってこと?」
「違う。方向性って言っただろ。ポップなことやってるじゃん、今。でも周りがお前に求めているのは、それじゃない。お前の笑顔は怖い。笑いながら、美しい顔で踊るお前がすごく怖いよ」

 きっと自覚があるのだろう。まゆの瞳が揺らいでいた。不安そうに交差する互いの視線。彼女の目に自分の無表情な顔が映り込んでいる。

「まゆは知ってるはずだよ」

 掴まれている腕が痛い。きつく指を食い込まれている。

「今のままじゃ飛べないってこと」

 まゆは押し黙った。
 この子は、本当は気づいているのではないか。自分が彼氏に求めているものと、凪が自分のどこを見ているのかという視点に。
「まゆは俺にどうしてほしいの」
「……私は」
「まゆの理想の通りに生きてあげたいよ。ああしてって言われたら、いくらでも叶えるし、何も知らないファンでいてほしいのなら、ずっとそうしててあげる」
「私は」

 言葉が途切れた。
 重苦しい空気が流れる。
 時間だけが無常に過ぎていく。

「何がしたいの」

 凪は尋ねた。

 まゆは言葉を失っていた。
 この子の中に何が眠っているのか、何にわだかまり、何に心動かされ、何を手放せるのか、凪は指し示すことをずっとためらっていた。

 凪の方もわかっていたのだ。
 まゆは凪を心のよりどころにしている。まゆが満たされれば、自分たちの関係も終わることを。

 まゆは夢が叶えば旅立てばいい。けれど凪は空っぽだ。凪が何かで満たされることは、凪自身を慰めるものは、ないのだ。凪に自分を説明できるものは備わってないのだ。

 強いて言うなら、それは女か。

 凪は女に――異性に、すべてを求めていた。

 ずっと誰にも伝えていないことがあった。

 凪は、子どもの頃から、真夜中に外出していた。
 保育園から家に帰る時。小学校から家に帰る時。
 凪は一人だった。
 両親はいる。凪を送り迎えし、食事を作り、寝床を提供していた。

 けれど凪は、一人だった。

 凪は、二十五年間生きて、自我が芽生え始めた時期からずっと、泣いたことが一度もなかった。

 泣いても誰も自分のもとには来ないことを、知っていたからだ。

 凪の両親は、赤子の凪を――凪自身にその記憶はすでにないけれど――ベビーベッドに置いておいた。ぐずる凪を、あやそうとしなかった。凪が泣き止むまで、どんなに大声で訴えても、両親は凪に近づこうとしなかった。凪がやがて、涙を流すのは無駄なことだと悟るまで、黙り続けた。

 家には静寂が流れていた。他愛ない話や、世間で流行っているもの、それらを共有する秘密の「五月女家」としての意識のつながりが、なかった。不気味な静けさだけが凪の育った家庭を示唆していた。

 その奇妙な冷たさは、ある日突然、終わった。

 凪が小学校を卒業し、地元の中学に進学する頃だった。

 両親が、凪の誕生日にケーキを用意した。
「家族らしいことをしよう」と、二人は、それまでの互いの張りつめた空気感が嘘のように、仲良くなり出した。