「礼しないと、またあんたに会いに来ると思う」
それはそれで困る。
こうして病院の前で、また待ち伏せするということでしょ?
本当にお礼なんていらないのに。律儀な男は借りを返さないといけないようで。
「お礼って·····、思いつきません」
「じゃあまた明日、ここで待ってるから。そん時に教えて欲しい」
本気で言ってるの?
また明日会いに来る?
私にお礼が出来るまで·····。
「なんでもいいんですか?」
「なんでも」
「じゃあ、すぐそこのコンビニでお茶を買ってくれますか?」
「お茶?」
「はい、今すごく喉がかわいてて·····、いいですか?」
藤原和臣という男は、「あんたがそれでいいなら」と、少し笑って足を進めた。
ほとんど見ず知らずの人とコンビニへ行くなんて初めての事だった。
松葉杖を上手に使い、道を歩く男。
男の人だから、こうやって松葉杖を使う筋力もあるのかなって歩きながら思った。
冷たい爽健美茶を買ってもらい、私はそれを両手で受け取った。実は病院に走ってきて、病院を出るまで水一滴も飲んでなかったから本当に喉が乾いていて。
「ありがとうございます」
「いや·····」
傘の中に入れたお礼のお茶。
お礼を受け取った事は、これで最後。
「あの·····、帰りますね。足、お大事にしてください」
私は軽めに頭を下げた。
「あのさ」
近くから聞こえる男の声。
ゆっくり首を傾けながら、男の顔を見た。綺麗な髪。綺麗な漆黒の瞳。綺麗な鼻筋·····。
頭の良さそうな顔立ちをしているのに、耳には銀色の輪っかのピアス。
「また会いたい」
「え?」
「また会ってくんねぇかな」
お礼が終わったのに?
どうして?
「それはちょっと·····」
「5分だけでも、1分だけでもいい。会えねぇかな」
そう言われて、本気で戸惑う。
会いたいってどうして?
5分だけでも?
5分で何をするっていうんだろう?
「どうして·····?」
「別に毎日じゃなくて·····、あんたの都合のいい時間ならいつでもいい」
都合のいい時間?
そんな時間、侑李が大切な私には無くて。
「ごめんなさい·····、私もう帰らなくちゃ」
「密葉」
「お茶、ありがとうございました」
もう1度頭を下げ、早くこの場を去ろうと足を進める。
「待ってくれ」
けど、松葉杖を持っている方ではない手が、私の二の腕を軽く掴んできて。
男の漆黒の目に引き寄せられそうになった私は、戸惑って顔を下に向けた。
よく分からないこの状況。
男の顔がある位置から、落ち着くために出すようなため息が聞こえた。
「··········一目惚れなんだ」
え··········?
なに?
ゆっくりと、顔をあげる。
「あんたを好きだと思った」
突然の告白。
「だから、また会いたい」
嘘をついているとは思えないほど真剣な顔で言われ、ありえない程今の状況にパニックになる。
この前も告白された。
でも、今は状況が違いすぎる。
「あの·····」
「付き合ってくれとか、そう言ってるんじゃない。またこうやって会いてぇって思う」
「·····、こ、まります」
「毎日病院に通ってるのか?」
「··········」
「なら、毎日会いに行く。別に無視してくれていいから。顔合わせるだけでいい」
「やめて·····」
「あんたが嫌だって言っても、会いに行く。それぐらいあんたが好きなんだよ」
昨日あっただけなのに?
「ほんとに困ります·····」
困る。
ほんとこの一言につきる。
断っても、この人は毎日会いに来ると言う。
本当にそれは困る·····。
「藤原さん·····」
「呼び捨てでいい、フジ··········、和臣でいいから」
フジ·····から、下の名前を言い直した男は、「じゃあまた明日、今日んとこで待ってる」なんて、本当に困ることを簡単に言ってのける。
「私、誰とも付き合う気はありません·····」
「んなの分かんねぇだろ?」
「ほんとに困る·····」
「男いんの?」
「··········」
いないけど。
私には侑李がいるから、絶対に彼氏は作らない。
そう決めてるの。
「いねぇなら、いいだろ?」
強引すぎる。
「·····どうして私を?」
「俺にもよく分かんねえ、けど、密葉の事は好きだから」
「··········本当に·····、付き合えません·····。来ないでください」
「密葉」
「お茶、大切に飲みますね」
私は走った。
松葉杖を持つ男が、追いつけないほど。
男は当然だけど、私を追ってはいなかった。
ハアハアと、今日はよく走るな·····って、家の玄関でどうでもいい事を考えていて。
「密葉あ、これうめぇぞ。チョコのラスク」
リビングから、お母さん達のお土産を食べているらしい兄の声が聞こえた。
突然の告白。
昨日会ったばかりの人からの、告白は、すごく私を戸惑わせた。
一目惚れなんだ·····。
「密葉?なんだ、まだ体調わりぃのか?」
玄関で立ったままの私に、お兄ちゃんはリビングから顔を覗かせて言う。
「なんでもない·····汗かいたからお風呂入るね」
忘れよう。
今日のことは。
私は絶対に、この日常を変えないのだから。
変えてはいけないのだから。
私は絶対に、侑李から離れちゃいけない·····。
戻れなくなる前に、今日のことは忘れよう。
昨日、待っていると言った男は、病院の前にいなかった。
待っていない安心の他に、やっぱり冗談だったのかもという気持ちが、少しだけあった。
昨日発作が出て、呼吸器がつけられていた侑李。だけど今日は呼吸器が外されていて、何かの絵を書いていた。
笑顔で「お姉ちゃん」という侑李は、可愛い·····。
一緒に絵を書いたり、学校へ行けない侑李に少し勉強を教えたり、侑李の晩御飯を食べているのを見てるうちに、あっという間に面会時間が終わる。
今日の晩御飯は何を作ろうかと考えながら、病院を出る。
けど、私が足を止めたのは、昨日と同じところに松葉杖の男がいたから。
「待ってるっていっただろ」
驚いて、呆然としている私に藤原という男は言う。
待ってるって·····、また松葉杖で?立ったまま?
「·····足は大丈夫なんですか?」
「別に、もうほとんど治ってるし」
とは言っても、片足で長時間立ちっぱしというのは、逆に丈夫な足を痛めてしまうのでは·····。
「じゃあ、また」
「え?」
「顔見たかっただけだから」
そう言われて、また驚く。
待つだけ待って、あっさりと帰っていく男に。
でも、これはこれで私が引き止めるのはおかしい気がして。
「·····明日も待つ気ですか?」
ポツリと呟く私に、男は振り向く。
「そのつもり」
「あの、ほんとやめてください·····、足だって完治してるわけじゃないでしょう?」
「だからもうほとんど治ってるから」
「そうだとしても·····、困ります·····」
「··········」
「待たないでください」
「··········」
「お願いします·····」
「待たねぇから、俺と付き合ってくれる?」
唖然とする。
よく分からないことばっか言う男に。
こんなにも断っているのに、話が通じない。
「·····藤原さん·····」
「和臣な」
「·····」
「下で呼んでくれたら、明日は来ねぇって約束する」
明日は?
じゃあ明後日は?
来るつもりなの?
「·····やめてください·····」
「じゃあ明日も来るから」
「··········」
それをやめてって言ってるのに。
傘を、ささなきゃ良かった?
こうなることなら。
ううん、こうなるって分かってても私は傘をさしていた。助けない·····ってことはしなかった。
「8時·····過ぎに帰りますから·····」
「8時?」
「だからずっと待たないで。足を大事にしてください」
もう無駄だと思った。
やめてと何回言っても、この人は来る。
ならばせめて·····。
「大事にするから、そこのコンビニまで一緒に歩くってのは無理?帰り道だろ?」
無理と言っても、この人は強引に歩くだろうと思った。
「コンビニまでだから·····」
男は嬉しそうに、ちいさく笑った。
昨日お茶を買ってもらったコンビニで、藤原という男と別れた。「また明日」という男の言葉と共に。
ということは、また明日待っているということ。
次の日も、男は病院を出たすぐの所に松葉杖で立っていた。私を見つけると、松葉杖を持っていない方の手を上げ、こっちに近づいてくる。
「··········藤原さん·····」
「だから和臣な」
硬派な顔つきの男。
正直、これってストーカーの部類に入るんじゃないかって思った。だけどそう思わないのは、この男の雰囲気のせいなのかもしれない。
どちらかと言うと、かっこいい顔つきの藤原。
コンビニまでの道のりは、2分ほど。
その道のりで、男は何かと話しかけてくる。
彼は私より1つ上の学年らしく、お兄ちゃんと同い年だった。「敬語じゃなくていい」という藤原という男に、私は従わなかった。
その日の2分間は、ずっと敬語で返事をした。
この人との壁は、きちんと作らなきゃといけないと思ったから。
それから1週間、土日も彼は病院で待っていた。この前の熱と発作のせいで、侑李の外出許可は中止になり、いつも通りのお見舞いになった。
「密葉」
今日もいる。
本当に待つことをやめない。
私の事を好きで、強引すぎる男。
「·····ギプス」
「 ああ、今日とれた。けど、まだ松葉杖」
「リハビリしてるんですか?」
「うん、明日からな」
まずいと思った。こうして普通に喋ってることが。
まずいと思った。こうして待っていることが当たり前になってきているということが。
たった2分の距離なのに··········。
「明日·····」
「ん?」
「明日も来るんですか?」
「そのつもりだけど」
「明日はやめた方が·····」
「なんで?」
「雨だから·····」
本気でまずいと思った。
「ああ、考えてなかったな、雨か·····」
「もし転んで怪我でもすれば·····」
「心配してくれてんの?」
「そりゃ·····しない方が·····おかしいですから·····」
本当に、まずい·····。
このままじゃダメだ。
当たり前に、なってしまう··········。
次の日、やっぱり朝から大雨だった。
時々パラつく雨に変わるけど、止む気配は無くて。
「お姉ちゃん?」
もうすぐ8時。
まさか、待ってたりしないよね?
「お姉ちゃん?」
この雨の中?松葉杖で?
「おーい」
傘をさせば、転ぶかもしれないのに?
「お姉ちゃん!!!」
侑李の声でハッとした私は、雨が降る窓から侑李の顔へと視線を移した。
「あ·····ごめんね」
「ぼーっとしてたよ?大丈夫?」
「うん、雨ふりすぎーって思ってた」
「ほんとだね」
本気で、戸惑う。
ダメだ、このままじゃ、ダメだ。
当たり前になってしまえば、戻れなくなる。
目の前に侑李がいるっていうのに、もしかしたら雨の中傘をさして歩いて来てるんじゃないかって思ったら、心配している自分がいて。
もし、このままこの状態が続けば?
もっと関わりが深くなっていけば?
侑李は··········?
ダメだ。
ダメだ。
戻れなくなってしまう。
戻さなきゃ、前の私に。
侑李だけを思う私に。
やっぱり、いつものとこに彼はいる。
松葉杖では無い方で傘をさして、私を待っている。
きちんと傘をさせてないせいで、服は濡れている。
「どうして·····雨·····」
「毎日来るって言ったから」
「怪我したらどうするんですか·····」
私は鞄の中からハンカチを取り出し、濡れいる彼の服をポンポンとふいた。
松葉杖と傘を持っていれば、両手が塞がってハンカチを持っていたとしても拭けないから。
「あんたに会えるなら、怪我してもいいから」
嬉しそうに笑う。
ダメ·····、このままじゃダメ·····。
「もう、やめて··········」
濡れている服を拭くのを辞めて、私はぎゅっと傘を握りしめた。傘に雨が当たり、肌が少しずつ冷えてくるのが分かる。
「なに?」
「ほんとにやめて······、もう来ないで·····、お願いします」
「なんで?」
「ほんとに·····困るの」
「なんで困る?」
なんで?
だって、当たり前になっているから。
あなたに会うことが。
このままいけば、私は藤原和臣という男をもっと知りたくなってしまうだろう。
「私は貴方と付き合わない·····。絶対に付き合わない·····」
「なんでそう言いきれる?」
男の顔が見れなくて、自分自身の傘を持つ手を見ることしかできなかった。次第に強くなる雨·····。
ダメだと分かっているのに、彼はどうやってこの雨の中帰るんだろう?って考えてしまう自分がいて。
「弟がいるの··········」
「弟?」
「病気の弟がいる」
いつの間にか、敬語は無くなっていた。
私の小さい声は、この激しい雨の中、聞こえているのかさえ分からない。
「いつ··········どうなるか··········分からない·····」
声が震える。
「もし、彼氏ができれば·····私は会いたいって思う」
「··········」
「弟よりも、会いたいって思うかもしれない··········」
「··········」
「弟が大事なの·····、ほんとに·····」
「··········密葉」
「自分の命よりも、大事なの·····」
「··········」
「今、私が変わってしまったら、弟は··········、1人になる。それは絶対にしちゃいけないの·····」
「··········」
「私が他の「楽しい」っていう感情を覚えたら、戻れなくなる」
「··········密葉··········」
「だから、来ないで。もう来ないで」
「··········」
「お願い·····」
「俺の事、嫌いなわけじゃないんだよな·····?」
嫌い?
そんな感情、無かった。
戸惑い·····。
心配·····。
私は小さく頷いた。
「密葉·····」
「もう、会いにこないで」
「··········電話とかも?」
私はまた頷く。
もう、この人には関わってはいけない。
彼の··········、和臣の魅力に、私は引き寄せられる。
だからもう、今日で終わり。
雨が降っても、大丈夫かなって、怪我しないかなって思わないようにする。
「好きなんだ·····」
「うん·····」
「マジで、あんたに惚れてる」
「··········やめて」
「こんなの初めてなんだよ」
「やめてってば·····!」
「無かったことにしたくない」
ガシャンっと、大きな音がなる。
松葉杖を地面へと手放した音。
松葉杖を持っていたはずの手は、私の腕を掴み。
「·····和臣っ·····」
「やっと名前呼んでくれたな」
ああ、胸が鳴る。
涙が出そうになる。
目の奥が熱い··········。
「何してるのっ足·····!」
「なあ、嫌いじゃないんだろ?」
「松葉杖っ·····濡れて·····」
「俺の事、好きじゃないだろ?じゃあ楽しいとか、そんな気持ち無いだろ?会うだけなら大丈夫なんじゃないのか?」
「やめてってばっ!」
「密葉っ」
「もうやめてよ!!」
松葉杖が、雨で濡れていく。
私の顔も、濡れていく。
「·····密葉?」
涙が、止まらなくなる。
「これ以上、会えば、私は貴方を好きなる··········」
もしかしたら、今も·····。
だからこそ、後戻り出来ないうちに、和臣と別れないとって思ったのに。
これだけ好きだと言われて、気にならないはずがない。今までずっと我慢してた分、こんな気持ちになるのは、簡単な事だった。
私の理性が壊れていく。
「ごめんなさい·····。ごめんね」
和臣は何も言わず、ゆっくりと私の腕を離した。
私はしゃがみこみ、雨と水たまりのせいでずぶ濡れになった松葉杖を拾った。
こんなに濡れてしまっては、もう乾くまで使えなくて。
「諦めるしかねぇのか?」
足が痛いはずなのに、和臣は私と同じようにしゃがみ込んだ。
「うん」
「もし、万が一、密葉が俺の事を好きになっても、付き合えねぇんだよな」
「そうだね」
「多分、俺、諦めきれないと思う」
「うん」
「·····分かった、もう、ここで密葉を待つのはやめる」
「·····うん、そうして」
「弟、お大事にな」
和臣が、ずぶ濡れになった松葉杖を受け取った。
「和臣も、足大事にして·····」
「そうだな」
「立ち上がれる?足痛いなら·····ってか松葉杖、それ使えないよね。今から新しいの借りれるか聞いてみようか?」
「いいよ、自分で何とかする。また優しくされたら、明日も会いに来るって言いそうだから俺」
「··········そっか」
「··········」
「じゃあ、帰るね」
「ああ、ありがとな」
私は立ち上がり、和臣を背にゆっくりと歩き出した。
これで最後。
もう二度と会うことは無い。
ちゃんと立ち上がれてるか、どうやって雨の中帰るのか、その松葉杖で歩けるのか。本当はそれが気になって仕方がない。今からでも振り向いて、助けるべきなんだと思う。
ポツポツと、靴濡れ、浸透し靴下が濡れる。
もうすぐ家につく頃、私は立ち止まった。
本当にこれで良かったのか。
侑李··········、大事な弟。
私が死んでも、守りたいと思う。
だからこそ、私の未来を犠牲にしてでも、そばにいてあげたいと思う。
後悔したくないから。
後悔したくないから━━━━━━━━━━━━━━━·····
私がもう来ないでって言ったのに。
私がもう会わないって言ったのに。
最近、本当に走ることか多い気がする。
雨のせいで靴の中がぐちゃぐちゃで、走ってるせいで雨が体にあたる。傘の意味無いんじゃないかってぐらい、制服が濡れる。
ハアハアと、息切れが酷いのに、私は走ることをやめなかった。
自分自身で、自分の未来に和臣がいないことを選んだというのに、どうして私は後悔してるの?
どうして私は、怪我を負ってる人を置いてきてしまったの·····。
色んな思いが交差する中、病院の前まで来た。
涙を流す私の前には、和臣はもういなかった。
もう本当に、二度と会えない人になってしまったのだ。
「おまっ、なんつー·····、傘持ってなかったのか?」
ずぶ濡れの私を見て、お兄ちゃんは驚いた顔をした。そりゃそうだ、ほとんど全身濡れてるんだから。
けど、雨が降っててよかった。こうやって泣いていたのも誤魔化せるのだから。
「·····お風呂入る」
「おお、ちゃんと温めろよ?また風邪ひくぞ」
「··········」
ずぶ濡れになった制服のブラウスを洗濯機の中にいれた。それから靴下も下着も。スカートはクリーニングに出さなきゃ·····。
裸のまま、洗濯機を回す。
シャワーで体を温めながら、私は今更な事を考えていた。
私はあの人のことを、名前だけしか知らなかった。
あとは1つ上の学年とだけ。
どこに住んでいるのかも、いつも私服だったからどこの高校かも分からない。そう思えば、どうして骨折してるのかも知らなくて。
多分、彼は侑李と同じ病院で、診てもらって今もリハビリで通ってるのだろう。二度と会えない相手じゃない·····。探せば何とか会えるかもしれない。
探す?私が?
私にそんな資格ある?
私が和臣を置いてきてしまったのに?
私が、諦めるよう言ったのに?
出来るわけがない。
もう遅い。
ふふふと、乾いた笑いが漏れた。
「··········バカみたい··········」
もし会えたとして、私は何を言うつもりなの?
付き合えないけど、関わりを持ちたいって?
もう·····忘れよう、彼のことは。
和臣を、思い出のひとつにすればいい事なのだから。
「━━━━━おはよう、山崎さん」
いつも通りの学校、教室の近くで私に笑顔で挨拶をしてくれたのは、この前私に告白してきた山本君だった。
「おはよう」
私も笑顔で返事をすると、山本君は爽やかに笑い、すんなりと自分自身の教室へと入っていく。
ふられたというのに、そんな事がなかった様に接する山本君が凄いと思った。
「いい感じじゃーん」
それを見ていた桃が、茶化すように言う。
「もう」
「付き合うぐらいなら·····いいと思うけどなあ、私は」
「··········うん」
「けど、付き合わないんでしょ」
「そうだね」
曖昧に笑うと、桃は困った顔をした。
「山本君のこと、好きにはならない?」
「恋愛感情でってこと?」
「そうよ」
「うん、ないと思う。そういう好きにはなれない」
「そう、なら仕方がないか」
自分の教室に入り、席に着く。目の前に座っている桃は、「いつかさ?」と口を開き。
「密葉のことを、全部分かって、好きになってくれる人が現れるといいね」
「··········全部って?」
「一生、一緒にいたいって思える相手よ」
「··········」
「侑李君のことも含めてね。彼氏とかじゃなくて、いつでも寄り添えるようなさ?密葉を見守ってくれる人」
「·····そんな人いないよ」
「分かんないよ、この世界には何億人もの人がいるんだから」
桃は笑って、大きく手を広げた。
一生、一緒にいたい相手。
私を見守ってくれて、寄り添ってくれる人。
「桃もそんな人が現れたらいいね」
「ほんと、いい男転がってないかしら。拾うのに」
桃の言葉に、くすくすと笑う。
太陽が強く照らす空は、まるで、昨日のことを夢だったのかな·····と思うほどだった。
正直、心のどこかでいるかもしれないって思ってた。少しの期待。毎日来るって言っていた和臣は、いつもの場所にはいなかった。
それもそうだ·····。
私が昨日、終わりにしたんだから。
まるで、本当に夢のような出来事みたいだった。
すぐに、いつもの生活に戻った。とは言っても、ほとんど変わっていなく、毎朝6時に起きる生活。
朝ごはんの準備、洗濯機を回して、軽くリビングの掃除。
お兄ちゃんから「昼飯よろしく〜」との連絡が来ていて、やっぱり前もって言わない·····と、ため息を作りながら簡単にお兄ちゃん用の昼食を作っておく。
いつの間にか梅雨があけて、7月に入った。
あと2週間で夏休みに入る。でもその前に期末テストがあったりする。
別に頭が悪いわけではない私は、いつも平均点。特に得意な教科もなく、ある程度の勉強をするだけ。
まるでぽっかり心の中に穴が開いたような感覚だった。
「お姉ちゃん、今日お兄ちゃんが来たんだよ」
「そうなの?良かったね」
「お兄ちゃん、また髪色変わってたね」
嬉しそうに話す侑李を見れば、私も嬉しくなる。
「それより侑李、体調は大丈夫なの?さっきお昼残してたって言ってたよ?」
「だって酢の物だったんだもん·····あれ嫌い·····」
「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」
「うーーー·····」
しょげてる侑李も可愛くて。
頭を撫でると、子犬のように笑う侑李が、本当に愛おしい。
「あ、雨だ。お姉ちゃん、雨降ってるよ。傘持ってきてるの?」
侑李が外をみて、私の事を心配してくれる。
「持ってきてるよ」
雨が降ると、どうしても思ってしまう。
彼は大丈夫なのかって·····。
もう、いつもの場所で待っていないのに。
心配する必要はないのに。
テスト期間が始まれば、帰る時間は早くなる。
いったん家に帰って、ご飯を食べて、面会時間までに病院に行こうと考えていた。
桃に「バイバイ」と言い、下足場向かう。
もう梅雨が明けたはずなのに、外はポツポツと雨が降っていた。
最近、雨が降るのが多い気がする。
洗濯物が乾かないから、雨は嫌い·····。
鞄の中を見て、ため息をついた。
いつも入れていたはずの折り畳み傘がなかった。そういえばこの前、折り畳み傘を使って侑李の病院から帰った後、庭に干していたのをぼんやりと思い出した。
それほど雨は強くはなく、家に帰ってシャワーを浴びれば·····。そう思った私は走って校門へと向かう。
私のクラスはテストが終わるのが遅かったのか、それほど人はいなく。
こうやって走ってる人はいなくて。
せめて鞄が濡れないようにと抱きしめながら走り·····。
「傘は?」
心臓が、止まるかと思った。
「傘、忘れたのか?」
どうして·····
どうしているの·····
驚きのせいで声が出ない私に、彼は私を濡れないように、自身の持っている傘を私の方に傾ける。
もう、松葉杖を持っていない彼は、「密葉?」と、顔を傾げて。
やっぱり、どうしても驚いて声が出ない。
だってもう二度と会えない相手だったのに。
「··········足は··········」
ようやく出たと思った声は、ちゃんと聞こえてるか分からないほど小さく。
「治った」
もう、あの別れから1ヶ月はたつ。
治ったのは当然のことで·····。
いや、じゃなくて··········。
「どうして·····ここに·····」
「密葉の学校ぐらい、知ってる」
そういえば、私はいつも制服姿だった。
学校ぐらい知ってるのは当たり前で。
「そうじゃなくて·····」
「うん」
「もう、会わないって·····」
「言ったな」
「じゃあ、どうして·····」
漆黒のような、髪と瞳は変わらない。
雨の中、キラリと光るピアス。
「やっぱ、あんたのこと、忘れられない。どうすればいい?」
そういう和臣の肩は、私を傘の中に入れているせいでどんどん濡れていき。
笑って、そう聞いてくるものだから、言葉が出ない。
「あん時みたいに、泣かせたいわけじゃないんだ」
ポツ·····ポツ·····と、雨がゆっくり降ってくる。
和臣は自分自身に言い聞かせるように、私にだけ聞こえるようなトーンで、口を開く。
「ただ、やっぱり諦めきれない。ずっと密葉のこと考えていた。すげぇ会いたくて·····ふられたっつーのに、マジで女々しいって·····」
「············」
「密葉が·····困るのは分かってる」
「··········」
「けど、俺の気持ちも知っててほしい。この先、ずっと変わらない」
それを言いに、来てくれたの?
ムカつく·····、イライラしてたまらない。
ほら、また·····涙がでる。
こんなにも、和臣に会えて嬉しいって思う自分がいる。
もう、決めたはずなのに。
「どうして私なの·····、そこまで思ってくれるの?」
私は涙を流しながら言った。
ゆっくりと、和臣の手が伸びてくる。
和臣の指先が、流れる涙を拾い。
「言っただろ、一目惚れなんだ」
「··········っ·····」
「あん時、傘·····、助けてくれた密葉が、俺にとってはすげぇ嬉しかった。自分でも、こんなに好きになるとか思わなかった」
「·····そんなの·····」
「好きだ、ずっと·····、密葉の事が好きだ」
涙を拭く指先が、徐々に頬を包んでいく。
雨のせいか、和臣の指先は少し冷たかった。でも、嫌だとか、気持ち悪さも感じなくて。逆に心地いいと思ったほどで。
私も会いたかった。
すごく会いたかった·····。
こんなにも心が喜びで溢れてる。
「これだけ会わないって言ってるのに?」
私はゆっくり顔を上げて、和臣を見上げた。
「こうみえて、結構一途だったりするからな」
「ストーカーじゃなくて?」
私はふふふと笑った。
と、その時、和臣の頬を包む手が止まった。
不思議に思って和臣を見つめていると、硬派の顔つきの男が、柔らかく嬉しそうに笑った。
「あんたが笑ってくれんなら、ストーカーでも何でもいいよ」
松葉杖の無い和臣に、少し違和感があった。ただ普通に歩いているだけなのに、何だか背も高くなったような気がして。
そう思えばそうかもしれない。松葉杖を使っていたら体が自然と斜めになったりして、いつもの高さじゃなくなるから。
背筋がきちんと伸びている姿を見るのは初めてだった。
「そっち濡れてねぇ?」
「うん·····大丈夫」
私が傘を持ってないせいで、和臣の傘に入れてもらっている。そのせいで和臣の左肩が少し濡れていた。
「ごめんね、和臣の肩濡れてる·····」
「いや、いいよ。ってかヤバいなこれ」
「え?」
「すげぇ緊張する」
私に向かって笑いかけてくる和臣。確かに1つの傘で2人の人間が入っているから、距離が近いのは仕方の無いことで。
校門の前でそのまま喋っている訳には行かず、私たちはゆっくり歩き出した。とりあえず、傘が買える近くのコンビニまで和臣が連れていってくれるようで。
「この前、弟が入院してるって言ったでしょう?」
雨の中、ゆっくり歩く。
ほんとにもう足が治ってるらしい和臣は、私の方を見た。
「昔から心臓が悪いの、ずっと入退院の繰り返しで、生まれてきて八割ぐらい、病院で過ごしてる」
「·····うん」
「両親は医療費を稼ぐために他府県で働いてて、あんまり家に帰ってこないの」
「じゃあ、ずっと1人で留守番?」
和臣が首を傾げる。
「ううん、兄がいる。っていっても、結構遊びに行ったりで、気まぐれで、あんまり侑李んとこには来ない」
「侑李?」
「弟の名前」
「そう·····」
「だから、侑李には私しかいないの。私に彼氏が出来て、遊びに行くようになって、お見舞いに行かなくなったら、侑李は一人ぼっちで過ごさなきゃなんなくて」
「うん」
「だから、侑李が良くなるまでは、絶対誰とも付き合わない。放課後は友達さえまともに遊んだことないの·····。放課後は侑李の時間にしたいの。土日の休みも·····。侑李が1番なの·····」
「うん」
「もし、遊びに行って、発作が起こって、万が一の事があったら、私はずっと後悔する。どうしてその時そばにいなかったんだろうって」
「·····そうだな」
「和臣だから、断ったんじゃないよ。和臣じゃなくても、断ってた」
私は立ち止まって、和臣を見つめた。和臣も立ち止まり、私を見つめ返す。
「だから、ごめんね·····」
貴方とは、付き合えない。
「·····うん、分かった」
「ほんとに·····、気持ちはすごく嬉しいの」
「分かってる」
「今日も、ほんとは会えて·····すごく嬉しかった」
「··········うん」
「ごめんね·····」
「謝る意味分かんねぇ」
そう言うと、和臣は傘を持つ反対の手で、また私の頬を包んた。先程よりもほんのり温かい和臣の手のひら。
それにドキドキとする私の心は、落ち着かない。
「なあ、これだけ教えてくれよ」
「·····なに?」
傘の中で、2人と距離が近くなる。
「俺の事、どう思ってる?」
どう、とは·····。
こんなにも会えて嬉しいって思ってるのに。
嫌いなわけがない。
雨がふれば、ずっと和臣の心配をしていた。
こんな感情、ひとつしかない。
「··········嫌いじゃない·····」
本当は好きだと言いたかった。
でも、言うわけにはいかず。
視界から、傘が消えた。
傘が、地面へと落ちる音が耳に入る。
傘を手放した和臣の手は、私の体を包んでいた。
両腕で、痛いぐらいに私を抱きしめる和臣。
ドキドキと、うるさいくらいの心臓。それは和臣からも聞こえて、和臣も同じ気持ちなんだと思えば、少しだけ落ち着いた。
力強い和臣の体は、私が雨に濡れないよう、覆いかぶさるように抱きしめる。
「ストーカーして良かった·····」
「なにそれ」
「ストーカーって言ったの、密葉だろ?」
「そうだったね」
和臣の腕の中で笑った。
「待つよ、ずっと待つ」
「·····え?」
「密葉の弟が良くなるまで、密葉が俺の女になってくれるまで、絶対待っとく」
「何言ってるの、だって·····」
何年先か分からない。
その間に、いい人が現れるかもしれない。
きっと、和臣を幸せにしてくれる人がいるはず。
「いつか·····分からないよ·····」
「それでも待つよ」
「和臣·····」
「密葉が止めても無駄、俺の諦めの悪さ知ってるだろ?」
確かに·····。
今まですごく強引だった。
「もし、他に好きな人ができたら·····」
「密葉に?」
「違うよ、和臣に。待ってる間、他に好きな人できるかもだよ」
私が言うと、和臣の笑う気配がした。
「俺の一途さ、舐めてるだろ?」
別に舐めているわけじゃなくて。
もし、1年、2年、3年と月日が流れ·····
その間、ずっと私を待っているということ。
それはつまり、これから起こる和臣の人生を私が潰してしまうってことじゃ·····。
ずっと私に囚われたままの和臣は、簡単にいえば、今の私の立場と一緒で。
「·····嫌なら、すぐに言って」
「ならない」
「和臣·····」
抱きしめる力を緩めない和臣は、もう雨でびしょ濡れになっていた。
少しずつ私の体も濡れていく。
「·····毎日、会いてぇ·····」
「ダメだよ····。付き合ってるのと変わらない······」
「·····電話は?」
「·····それも·····」
「5分だけ」
「和臣·····」
「1分でいい、声ぐらい聞かせろよ」
本当に、顔に似合わず言葉遣いが悪い。
「·····1分だけだよ」
「··········うん」
「和臣」
「··········うん」
「痛いよ」
抱きしめる力が、強すぎる。
「今だけだろ?離したら、もう会えねぇ·····」
「でも、痛すぎるよ」
「うん」
「うん、じゃなくて·····」
「好きだ、一生、密葉のことを思ってる」
その言葉に、私も痛いぐらいに和臣を抱きしめ返した。
「私も思ってるよ·····」
「密葉·····」
「和臣、凄いドキドキ言ってる」
和臣にも、私の心の音が聞こえてるだろう。
胸の鼓動がおさまらない。
「今日で·····、会うの最後なんだよな」
「多分·····」
「なあ、今だけ、この時間だけ俺にくれよ」
「今だけ?」
それ、どういう意味?
その時、少しずつ和臣の腕の力が緩んだ。
自然と私の腕の力が緩み、顔を上へ向ければ穏やかに笑う和臣と目が合い。
顔が近すぎて、私は恥ずかしくなり顔を下に向けた。けれどもそれは和臣が許さず、和臣の手のひらが私の頬を包む。
この時間だけ·····。
今の、この時間だけ·····。
何をするつもりなのか分かった私は、瞼を閉じていた。柔らかくて、心が落ち着く温もり。
けれども雨のせいで、冷たくて。
何回も何回も、和臣は角度を変えて唇を重ねてくる。
好きという感情が、溢れだしてくる。
この時間だけ·····。
キスをするのは初めてだった。もちろん、こうやって和臣のように、口内に舌が入ってくるのも。それなのに背中がゾワゾワして、気持ちよくて·····立っていられなくなった私はずぶ濡れになっている和臣の服を掴んだ。
ずっとしていたい·····。
そう思うほど。
けれども、いつだって終わりの時間はやってくる。
━━━━━━━━━近くで、雷が落ちた。
びっくりした私は、目を見開き、和臣から距離を取っていた。和臣も少しだけ驚いたみたいで、「大丈夫か?」と私に問いかける。
キスのせいで、顔が熱い私は、和臣の顔を上手く見れなかった。
「もう、私、行かないと·····」
家に帰って、シャワーとご飯を済ませれば、面会の14時を過ぎてしまう。和臣の胸元をおし、距離を取った。
意外にもすんなりと離れた和臣は、落ちたままの傘を拾った。それを私の手に持たせて。
「傘········」
「持ってけよ、風邪ひいたら俺が困るからな」
「ダメだよ、コンビニまで·····」
コンビニまで、傘を買いに行く予定だったはずでは?
「それより連絡先教えてくれよ」
「知らなかった?」
「知らねぇよ」
連絡先も知らないと言うのに、キスまでした私達。
雨の中、番号を交換し終え、ずぶ濡れのままの和臣は「そろそろ帰った方がいい」と私の背中を押す。
「傘·····」
「だからいい、雷鳴ってるし、気ぃつけてな」
「和臣·····でも·····」
それでは和臣が濡れてしまう。
いくら怪我が治ったとはいえ、風邪をひいてしまっては·····。
「これ以上いれば、またしたくなる」
呆れたように喋る和臣。
「帰ってくれよ、頼むから。すげぇ今も、抱きしめたいとか思ってんだから·····」
そんなの、私も思ってるよ。
和臣の胸に、もう一度飛び込みたい。
溺れるぐらいのキスをしたい。
でも、それは、さっきのでおしまい·····。
夢のような出来事は、終わり。
「またね·····帰るね」
「ああ」
「電話待ってるから·····」
「分かってる」
「バイバイ·····」
「··········またな·····」
いつ訪れるか分からない(また)という言葉。
これで終わりじゃないから。
始まったばっかりだから。
私達の複雑な関係は··········。
私は帰るまで、振り向かなかった。
和臣の傘が、私を落ち着かせてくれた。
またね、和臣·····。
私の心の声は、誰にも聞こえない。
家に帰れば、お兄ちゃんが変な顔をして立っていた。
ちょうどお兄ちゃんは出かけようとしていたらしく、金色の髪は無造作にワックスで整われていて。
「最近濡れすぎじゃね?」
傘を持っているのに、ずぶ濡れの私に、お兄ちゃんは怪訝な顔をする。お兄ちゃんは「ちょっと待ってろ」とタオルを持ってきてくれて。
「·····どこか行くの?」
「あー、ちょっとな。晩飯いらねー」
私にタオルを渡すと、お兄ちゃんは鞄を持ち、玄関へ戻ってきた。
「風邪ひくなよ?」
「うん」
お兄ちゃんが出ていくのを見ながら、タオルで足元や制服を拭き、シャワーを浴びるため脱衣場へ向かった。
熱いほどのシャワーを浴びながら、思い出すのはさっきの出来事。力強く抱きしめられ、熱いキスをされ。
抵抗もなく、あんなにも和臣に対して惹かれた私は、きっと和臣が好きなのだろう。
でも、もう、会うことはない存在。
時が来るまで。
ごめんね、侑李。
今日だけはお姉ちゃんを許して。
もうこんな事はないから·····。
侑李の病院へつく頃には、もう雨は上がっていた。
晴れとまではいかないけど、曇天の空は少し私の心を落ち着かせた。
今日も可愛く、私の大好きな侑李は、私の顔を見る度に「お姉ちゃん」と喜んでくれる。
「今日早いねっ」
「うん、テスト期間中だからね。面会時間から来れるよ」
笑って言うと、侑李は心配そうな顔をした。
「勉強しなくて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、これでも頭いいんだよ?」
だから侑李は心配しないで。
本を一緒に読んだり、侑李の勉強をしたり、オセロなどのちょっとしたゲームをした。
夜ご飯を食べ終えた侑李は、少しだけウトウトとしていて。すぐに眠いのだと笑った。
侑李を横にし、「侑李が寝るまでここに居るね」と言えば、侑李は嬉しそうに笑った。
侑李が早くに眠ったため、私も帰ろうかと思ったけど、侑李の寝顔を眺めていると、いつの間にか時間がたっていたらしく、いつもの病院を出る時間になっていた。
·····ずっと見ておきたい。
家に帰り、夕飯をすませ、洗濯物を畳んでいる時、スマホが振動しているのに気づいた。
お兄ちゃんかな?、と思い画面を見ると、そこには今日会ったばかりの人の名前が映し出されていて。
━━━━━━━━━声ぐらい聞かせろよ。
1分·····。
1分だけの電話。
「···············はい··········」
緊張して、ボタンを押す手が少しだけ震えた。何だか声も震えている気がして。
『··········俺だけど』
初めて聞く電話越しの声は、少し違和感があった。
いつもより落ち着いているような·····。
「はい、分かります·····」
『もう家?』
「はい」
『そっか·····、つーか今電話平気?』
あんなにも強引で、グイグイくるのに、「電話平気?」という和臣がおかしく思えた。
「平気ですよ、洗濯物畳んでました」
『洗濯物?』
「はい、最近ずっと雨で·····、やっと乾いたので」
『確かに今日も降ってたな』
やっぱり声に違和感·····。
電話越しの和臣の声は、いつもより大人っぽく感じる。
そういえばと思い、私は口を開いた。
「あの·····すみません、傘」
和臣の傘は、私が持っているから。
傘が無かった和臣は、絶対にあの後濡れたはずで。
『なあ、ずっと思ってたけど、何で敬語なんだよ?』
見事に質問をスルーされ、返事に困る。
どうして敬語?
そういえば和臣は私に対して普通に話すけど、今この電話では私は敬語で話してて·····。
考え出た答えは、「年上だから·····?」だった。
『いいよ、普通に喋って。つーかさっきは普通に話してただろ?そんな感じでいいから』
確かに、さっき普通に話してたけど。
こうして電話をする時は、どうしてか敬語で話してしまう。顔が見えてないからか·····。
「でも·····」
『でも何?』
「緊張する·····、敬語じゃなかったら上手く喋れないかも·····」
電話の向こうで、和臣の笑う気配がした。
『多分、俺の方が緊張してる。いつ電話かけようかすげぇソワソワしてたし』
和臣がソワソワしてるとこなんて、あまり想像できなくて。
『電話出てくれなかったらどうしようって思ってたぐらいだから』
「ちゃんと出るよ」
『うん、出てくれてすげぇ嬉しかった』
約束したから。
ちゃんと約束は守るから。
『密葉とは、そういうの無しにしたい』
「そういうの?」
そういうのって?
和臣からは見えていないというのに、私は無意識に首を傾げていた。
『歳とかの上下関係とか·····』
つまり、同い年のように接するってこと?
「うん·····」
『だから、敬語なしな』
「うん」
『なあ』
「なに?」
『····1分って短ぇな』
たまに口が悪い和臣は、静かな声で呟いた。
スマホの画面を見ると、もう40秒以上が経過していて。
「··········うん·····」
『明日もこの時間に電話してもいいか?』
「うん·····9時ぐらいなら、もう家に帰ってるから」
『分かった』
「じゃあ·····またね。明日ね」
『ああ、おやすみ』
終わる、1分と決めた時間が。
ゆっくり、耳元からスマホを遠のかせる。
未だ通話中になっており、もう1分が経過していて。
はあ··········と息と心臓を落ち着かせた後、私は通話を切るボタンを押した。
スマホを床に置き、私は何も考えないように洗濯物を畳む作業を再開させた。
また約24時間後に、和臣から電話が来る。
たった1分の電話だけど、こうしてる今もバクバクと心臓が動いているような気がして。
それを紛らわすために、タオルを畳んでいく。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせた。
「テストやばぃよー」
本日のテストが終わり、桃はゲンナリとした声を出した。苦手科目が連続で当たったため、「やばいやばい」と頭を抱えていた。
「密葉どうだった?いけた?」
「ううん、それほど。50点ぐらいかな」
「それはいけたに入るのよ。私なんか20点なさそう·····」
「明日でテスト終わりでしょ?」
「だね、早く夏休みなんないかなあ·····」
そうか·····、夏休みになるんだ。
夏休みは侑李のところで過ごそうと、考え込む。
去年もそうだった。
午前中は家事や、夏休みの宿題。
午後からは侑李の時間で。
変わらない日常。
変わらない私の生活。
だけど、今までとは少し違う。
24時間のうち、1分だけが和臣との世界になった。
『俺だけど』
昨日と同じぐらいの時間帯に電話をかけてきた和臣の声は、やっぱり大人っぽい気がした。
どこか落ち着いてるような。
おかしい·····、昨日会って、もう会わないと決めたばかりなのに、会いたい·····、会って顔を見たいと思ってしまった。
「うん」
『今なにしてた?』
「洗濯物畳んでたよ」
『あー、電話切った方がいいか?』
「ううん、大丈夫」
切るなんて出来ない·····。たった1分間なのに。
『なんか·····アレだな』
「あれ?」
あれって何?
『電話越しの密葉の声、ずっと聞いときてぇ』
「え?」
声?
どうして?
『昨日も思ったけど、すげぇ可愛い、落ち着く』
可愛いって·····。
淡々と言ってくるから、恥ずかしくて携帯を落としそうになった。
「な、何言ってるの·····」
恥ずかしい·····、でも、それよりも、和臣も私と同じことを考えてたのに驚いて·····。
「それは私じゃなくて和臣だよ·····」
『俺?』
驚いている声。やっぱり普段聞いている声とは違う。
「凄く穏やか·····、優しく聞こえる」
『そんなこと言ってきたの、密葉が初めてだよ』
「ふふ·····、たまに和臣、口悪いもんね」
『え?マジ?俺口悪い?』
本当に1分が短い。
この電話を切りたくない·····。
けど、約束だから。
「··········またね」
『ああ、明日な、おやすみ』
この電話の終わりは、いつ来るのだろうか·····。
━━━━━━夏休みに入った。
ここ数日、侑李の体調は良好だった。
日帰りだけど、外出許可もでた。
とはいっても、3時間と決められていて。
外出許可が出た侑李は、凄く嬉しそうだった。
侑李が髪を染めたいと言っていたから、それを担当の看護師に伝えると、難しい顔をされた。
侑李の場合は、あまり外に出ていなく、皮膚も他の人より敏感だからもしかしたら染める液体で頭皮を痛める可能性があるとの事だった。
それを聞いた侑李は、「しかたないね」と、少し寂しそうに笑った。
どうにか出来ないかなと、私は面会時間以外でずっと考えてた。
侑李の願いは、できるだけ叶えてあげたいから·····。
ネットで色々調べて、頭皮が敏感な人様の染め粉もあるとあったけど、敏感すぎる侑李にとっては、それさえも危ういんじゃないかって思ってりもして。
やっぱり諦めるしかないのかな·····。
決まった時間に電話をかけてくる和臣。
この数日の電話で、いろいろなことを知った。
足をギプスしていた理由は骨折で、なんでも友達にやられたとか。
もうすぐリハビリも終わるとか。
和臣の通っている高校は隣町の南高校だったとか。
南高校は、私が住んでいる学区ではなく、正直いってあまり知らない学校だった。
ってことは、和臣の家も遠くて。
「どうしてあそこの病院に?家遠いのに」と聞けば、『夜間で行ったから。あそこしかあいてなかった』と言っていた。
『俺だけど』
電話をしてくる時、『俺だけど』と言うのが癖なのかなって思うようになったのは、つい最近。
「うん」
『今日すげぇ暑かったけど、熱中症とか大丈夫か?』
「うん、大丈夫だよ」
『帰り道とかもな』
「うん」
『·····なんかあったか?』
「え?」
『や、なんかいつもと違うなーって』
いつもと違う?
私が?
いつも通り話をしているはずなのに。
「ちょっと考え事してたからかな」
『考え事?』
「うん、頭皮を傷めずに染める方法ってあるのかなって」
『密葉、髪染めんの?』
「私じゃなくて侑李が·····でも、肌が弱いから·····。普通に染めれなくて」
『なるほどな』
私も染めなことが無いし、和臣も綺麗な黒髪。染めるってことを知らないほど、綺麗な髪だったのを思い出す。
『メッシュは?』
「え?」
『メッシュならいいんじゃねぇの?』
メッシュ·····、
たしか1部分だけを染める方法·····。
『メッシュで染めるのがが無理なら、色のエクステとかな。男でもやってる奴いるし、それなら出来んじゃねぇの?』
私がずっと考えていたことの、すぐに解決策を出してくれた和臣。
メッシュやエクステ·····、全然私には思い浮かばないことだった。ただ、刺激が弱い染め粉を探すだけで·····。
『まあ、エクステの方がいいと思う。染めんのは時間かかるし、いったん抜くってなったら、倍の時間かかるから。エクステのメッシュは一瞬だし』
「抜くって?」
『髪な、ブリーチして、色を抜いて、その上から染めたい色をすんの。染める色によってやり方も違うから』
「和臣、染めたことあるの?」
『いや、ねぇけど』
どうしてそこまで詳しいんだろうと思った。
染めたことがないのに。あれかな?私が知らないことがおかしいのかな?
もしかしたら一般常識だったのかも·····。
「ありがとう··········、和臣のおかげ。本当にありがとう·····」
『俺でよければ、いつでも相談乗るから』
明日侑李に言えば、きっと喜ぶ。
和臣に言って、心から良かったと思えた。
「お姉ちゃん見てー!すごい!金だよ!!」
侑李の黒髪の中に、金色のエクステがつけられた。美容室の鏡をみて喜んでいる侑李は、本当に嬉しそうで。
私は「かっこいい!」と何枚も写真を撮った。
「そんなに騒いだらダメだよ」
「うんっ」
エクステもつけたうえ、髪を切ったため、スッキリした侑李。こうやって見ると普通の男の子なのに。
いつ爆発するか分からない爆弾を抱えている。
侑李を歩かせるワケにはいかず、タクシーへ家へと帰る。
家にはお兄ちゃんがいて、侑李の髪を見て「おおおお!!」と、「すげぇ似合ってんじゃん!!」と侑李をべた褒めしていた。
その光景を見ながら私はクスクスと笑い、ずっとこのまま·····、こうやって暮らせればいいのにと何度も思った。
そろそろ外出許可も終わりの時間が近づき、しょんぼりしている侑李を見て、お兄ちゃんは「俺も一緒に行ってやる」と侑李の頭を撫でていた。
病院までタクシーで行き、侑李と私は手を繋いでタクシーをおりた。
その時、「あ··········」と、先にタクシーから出たお兄ちゃんは口を開いた。
「ちょっと待っててくれ」
お兄ちゃんはそう言うと、病院の方へと走っていく。なんだろうと思いながら、侑李と一緒にタクシーを見送った。
財布をカバンの中へ入れてっと·····。
「お兄ちゃんの友達かな?」
「え?」
「お兄ちゃん、誰かと喋ってるよ」
侑李にそう言われて見てみると、入口付近でお兄ちゃんは誰かと喋ってる様子だった。
お兄ちゃんは金髪。
その喋ってる人も、負けないぐらい金髪で輝いていて·····。
どうやら本当に友達と会ったらしい。
時間も限られているから喋っているお兄ちゃんを待っているワケにはいかず、侑李と病院に入るため足を進めた。
「よぉフジ、お前もいたのかよ」
近くにいけば、お兄ちゃんの声も聞こえて·····。
病院の中から出てくる人に、喋りかけたお兄ちゃんは、「フジ」と呼ばれた人とも知り合いみたいで·····。
その光景を見て、私はどうして·····と、目を見開いていた。
「フジ」と呼ばれた人と、目が合う。
その人も私を見て、驚いた顔をした。
「辰巳(たつみ)と今会ったんだよ、すげぇ久しぶりじゃん」
ずっといた金髪の人は辰巳というらしいが·····。
いや、それよりも·····。
どうしてお兄ちゃんが、和臣と知り合いなの?
藤原和臣·····。
ふじわら·····。
フジ·····。
もう、会うつもりは無かったのに。
「お兄ちゃん、お友達?」
侑李が佇んでいる私の手をひき、お兄ちゃんのそばに近寄っていく。
動揺している私は、和臣の方を見れず、顔を下に向けるしか出来なくて。
「そうだよ。あ、妹と弟。会うの初めだよな」
初めてじゃない·····。
私はその人と、毎日電話してる·····。
お兄ちゃんの友達だったんだ·····。
「確か妹はフジんとこと同い年」
なんで。
会えて嬉しいはずなのに、
動揺が止まらない。
「はじめまして!」
笑顔でいう侑李の顔を見て、少しだけ動揺が落ち着いた。
「初めまして。かわいいな。挨拶出来んの偉いじゃん」
和臣は侑李を見て笑いかけると、侑李の背丈に合わすように少しだけしゃがみ、私を抱きしめたことのある手のひらで侑李の頭をゆっくりと撫でた。
ニヒヒと笑う侑李。
「で?お前ら2人何してんの?」
「フジの病院付き合ってたんだよ」
「フジの?お前どっか悪いの?」
「いや、前骨折って、辰巳が暇そうだから送り迎え頼んだんだよ」
「マジ?災難だな辰巳」
「ある意味こいつのせいだからな」
辰巳って人と、お兄ちゃんと会話をする和臣は、何だか別人のような感じた。
「お兄ちゃん、時間過ぎちゃうから先に行くね」
「ああ、俺も行くわ。じゃあな、また走りに行こうぜ」
「おー」
走りに行く?
どこへ?
まだ動揺している私は、和臣の横を通りすぎる時、何も出来なかった。
和臣も何も私に言わず、ドキドキとうるさい鼓動を抑え、病棟へと向かう。
「お兄ちゃん、学校のお友達?」
私の知りたいことを、侑李が兄に聞く。
「いや、紹介っつーか、たまたま仲良くなったんだよ。家遠いけどな。マジ久々にあったわ」
「そうなんだ」
「あの2人すげえんだぞ?」
「すげぇ?」
「時期総長と特攻って言われてる」
「そーちょ?とっこーってなに?」
「暴走族のな、1番偉い人って意味だよ」
お兄ちゃんの言ってることが、いまいちよく分からなかった。
暴走族?
和臣が?
動揺がおさまらない。
必死に自分を保った。
そうでもしないと、病院の中を走って、和臣を追いかけそうだったから。
和臣は私だと気づいているはずなのに、話しかけてこなかった。もしかすると和臣も、私がお兄ちゃんの妹だと知って動揺していたのかもしれない·····。
『·····俺だけど』
昼間聞いた声よりも、やっぱり電話越しだと、穏やかなで落ち着いた声に感じる。
「うん·····」
『マジでびびった·····、大和の妹だったんだな』
「私もびっくりしたよ」
『だな』
電話越しで、和臣の笑った声が聞こえた。
『でも、あのタイミングで大和の妹って分かって良かったかも』
「どうして?」
『ずっと密葉に会いたかったから。マジで追いかけそうになった。マジでびっくりしたから』
私も追いかけそうになったよ?
その言葉を、喉の奥にしまい込んだ。
「お兄ちゃんに、内緒にしておいた方がいい?」
『どっちでもいい、俺が密葉を好きなのは変わんねぇし』
「そっか·····」
『でも、反対されるかもな』
反対?
兄に?
なぜ?
侑李のことを疎かにしてしまうから?
お兄ちゃんの友達だから?
気を使うようになるから?
それとも·····。
「暴走族だから?」
『そう、大和に聞いた?』
「うん。お兄ちゃんが凄い2人って言ってたよ。時期総長とか·····」
『凄くねぇよ·····、密葉、怖くねぇの?』
兄に反対される理由。
それは和臣が暴走族だから。
私も、暴走族っていうのは悪いことしかしてないイメージがあるし。
兄にはそういうのにはあんまり関わんなよ〜って、自分は不良のくせに言われたことがあって。
でも、兄や和臣から話を聞いて、それほど怖いと思わなくて。他の人はしらない。
でも·····もう和臣という人物を知ってるから。
「暴走族って何するの?」
『何って言われたら分かんね』
「大きい?」
『さあ?少なくはないと思うけど、大きいかって言われたらわかんね。今で大きいっていったら、これで終わるだろ?』
「え?」
『まだ、未来のことは分かんねぇからな。倍の人数になるかもしんねぇし。そうすれば今の人数は少ないってことになるだろ』
確かにそうだと思った。
『密葉?』
「どうしたの?」
『密葉だけは、俺が総長になっても変わらないでいてほしい』
「どういう意味?」
『そのまんま。俺が好きな密葉でいてほしい』
どういう意味か分からない。
和臣の好きな私·····?
『悪い·····1分すぎてんな』
「ううん·····」
『髪、似合ってた』
侑李の髪·····。
『好きだ、マジで·····。好きすぎておかしくなりそう·····』
「和臣·····」
『すげぇ会いてぇ·····』
私も会いたいよ。
ほんとに、本当に会いたいって·····。
侑李の頭を撫でる和臣の手を思い出した。本当はその手に触れたくて仕方無かった。
「私は変わらないよ·····。和臣がどんな人でも·····」
『うん』
強引で、ストーカーなのが、私の知っている和臣なんだから。暴走族とか、そんなの知らないわけで。
「また明日ね」
『今度さ』
「うん?」
『また、偶然会ったら、抱きしめてもいいか?つーか絶対我慢できねぇ·····』
もう、1分は過ぎてしまってる。
「お兄ちゃんがいても?」
『ああ、関係ねぇしな』
「うん」
『いいのかよ?』
「ダメって言っても、和臣はするでしょ?」
私が笑うと、和臣も笑った。
よく分かってんなって。
毎日侑李の元へ通い、面会時間以外は宿題や家事をし、あっという間に長い夏休みは終わりを迎えた。
和臣は毎日電話をくれた。
きちんと‘1分間’の決まりを守って。
「なんでお前制服なの?」
土曜日の朝、今まで寝ていたらしいお兄ちゃんは、ふぁあと欠伸をしながらリビングの中に入ってきた。
私の学校は土曜日は休みだから、制服である私に疑問を持ったようで。
「今日文化祭だって、この前言ったでしょ?」
「そうだっけ?密葉のとこ、9月?早くね?」
「っていっても、明日から10月だよ」
「そうだけど」
「朝は食パン焼いてね。お昼ご飯は冷凍庫に適当に入ってるから、勝手に使って。あ、でも冷凍うどんは使わないでね。今日の夜使うつもりだから」
カバンを持ち、家を出ようと玄関の方へと向かう。
「晩飯って、お前、打ち上げとかねぇの?」
文化祭の打ち上げ·····。
あるといえばあるけど。
私はもう行かないって、みんなに言っているから。
文化祭が終われば、侑李の所に行くから。
ずっとそうだった。放課後は侑李の時間。
友達とまともに遊んだことの無い私は、打ち上げなんて行ったことも無く。
「行かないよ、侑李のとこ行くから。帰りはいつもの時間だよ」
「行けばいいじゃん、俺、今日侑李のとこ行くつもりだったし。打ち上げっていっても晩飯ぐらいだろ?その後面会来たらいいじゃねぇか」
お兄ちゃんが侑李のところに?
いや、でも、それは·····。
「行けよ、打ち上げとか、ちゃんとそういう思い出残しといた方がいい」
眠そうに喋る兄は、「金あるだろ?」と、もう私が打ち上げに行くことを決めつけているみたいで。
「ううん、ありがとう。でも、侑李が大事だから。侑李の所に行くよ」
「密葉」
「何時ぐらいに病院来るの?」
靴をはきながら、兄の方を向くと、兄は難しそうな顔をしていた。
「なんでお前が我慢するんだよ、そんなの、侑李は喜ばねぇぞ」
簡単に言ってくる兄に、怒りが芽生えた。
私が我慢してる?
侑李が喜ばない?
どうしてそんな事、何もしてないお兄ちゃんが言うの?
両親はお金を稼ぐため、滅多に帰ってこなくて。お兄ちゃんは遊んで、学校さえまともに行ってるか分からない。
侑李に寂しい思いをさせないために私は·····。
可愛いくてたまらないのに·····。
「どうしてお兄ちゃんがそういうこと言うのよっ」
私は大きな声をだし、もう兄の顔を見たくなかったから、すぐに家を飛び出した。
我慢する?
私が我慢してるのは、お兄ちゃんたちのせいでしょう·····?
こんな事、考えたくもないのに。
こんなことを考えてるなんて、自分に腹が立ってくる·····。
なんで私はこんなにも性格が悪いんだろう。
こんなことっ、考えたくものに!
どうしてあたしばっかりって!
嫌でも街を歩けば、視界に入ってくる、男女のカップルたち。
仲良さそうに歩く光景を見れば、羨ましいって思ってしまう。
どうして和臣が、こんな私に好きだと言ってくれるのか分からない·····。一目惚れだと言っていた和臣。
こんなにも私は、性格が悪いというのに。
そう思って気づく。
欲が出てきてると。
和臣と電話をして、和臣に会いたいとか、もっと電話したいとか、和臣と付き合いたいって·····、思ってしまうようになって·····。
このままじゃダメだ·····。
こうなる前の日常に戻さないと····。
和臣と出会う前の私に。
そう思って、文化祭も終盤を迎えたころ、お兄ちゃんから連絡が入った。
━━━━━━━━侑李に発作が起こったと。
すぐに担任の先生に早退すると告げ、私は急いで病院へと向かった。
発作が起こるのは、侑李とっては当たり前のこと。けど、発作にも種類がある。
すぐにおさまったり、発作がおこったと思えば、次の日は元気だったりだとか。
けど、兄自身が、私に連絡するってことは·····。
「お兄ちゃん!!」
兄は侑李の病室の近くの、電話をしてもいい待合で誰かと電話をしていた。
「ああ、分かった、密葉来たわ。また連絡する」
走って駆け寄った私は、兄に「侑李は!?」と掴みかかった。
電話を切り終えた兄は、「ちょっと落ち着け」と携帯をポケットの中にしまい込む。
「結構酷い発作がおこった。さっき処置うけて、今眠ってる·····けど」
けど?
けどなに?
「目、覚ますか分からない。今母さん達がこっちに向かってる」
目の前が真っ暗になった。
集中治療室に入った侑李の体には、沢山の管が付けられていた。管のせいで、ガラス越しの侑李の体が見えないほどだった。
感染病予防のために、集中治療室には入れず。
目を覚ますか分からないってなに?
今までそんな事、無かったでしょ?
昨日だって侑李は、笑顔で「バイバイ」って私を見送ってくれたのに。
「密葉·····」
兄が泣きじゃくる私の背中を撫でる。
「向こう行くぞ、ちょっと座って落ち着け」
兄に支えられ、待合のソファに2人で腰掛けた。
「大丈夫だ、あいつは目を覚ますから」
目を覚まさなかったら?
もう、侑李の笑顔は見れなくて。
あの可愛い笑顔を?
もう見れないっていうの?
嘘でしょ?
冗談でしょう?
どうして私は·····もっと侑李に·····。
もっと侑李に会いに来れば良かった。
もっと侑李と会話をすれば良かった·····。
今日だって、文化祭を休めば良かった。
もう、後悔しても遅いっていうのに。
こうなることは、予想出来ていた。
いつどうなるか分からない侑李·····。
予想できていたのに、想像以上キツくて。
天罰がくだったんだ。
私が、どうして私ばっかりって思ったから·····。
侑李が発作で苦しんでる中、私は文化祭で·····。
次に発作がおこれば危ないと、医者が駆けつけた両親に説明していた。
両親は泣いていた。
それを見て、どうして両親はもっとお見舞いに来なかったんだろうと、くだらないことを考えていた。
もっともっともっと·····、考えればキリがないっていうのに。
夜の九時。カバンの中から、マナーが鳴る。
いつも通りの時間。
私達家族がいる待合は、電話しても大丈夫なところだったから。
『俺だけど』
いつも通りのの、落ち着いた和臣の声。
その声を聞いて、涙が出そうになった。
目の奥が熱くなり、一瞬でも気を抜けば零れてしまいそうだった。
『昨日の話の続きだけど』
「··········」
『密葉?』
「··········」
『聞こえる?』
「··········」
『····みつ』
「··········もう、電話してこないで·····」
無理矢理電話を切り、それをぎゅっと握りしめた。手の中では、また電話をかけてきてるらしく、ブーブーと携帯が震える。
「今の誰だ?」
と、兄が震え続ける携帯を見つめる。
だけど私は何も言わなかった。
もう、口を開くのも嫌だった。
1分間の電話。
終止符を打ったのは、やっぱり私だった。
神様、私はもう何も望まないから。
もう羨ましいとか思わないから·····。
侑李を助けてください·····。
たった一人の、大切な弟だから。
真夜中、侑李の目が開いたという言葉が耳に入った時、私は泣き崩れた。
でもまだ油断が出来ない状況は続くと。
危険なのは変わりないと。
翌朝、まだまだ油断は禁物だが、意識は戻ってきているため、医者からは一命は取り留めたと言っていいでしょうと言われた。
泣き崩れる私を見て、母が「大和、いったん密葉を家に連れて行ってあげて」と言った。
私は残ると言ったけど、「少し休みなさい」
と無理矢理兄に連れられ帰らされた。
電話で順調に回復していると聞いても、私は泣くだけしか出来なかった。
どうして侑李ばっかりこんな目に合うの·····。
それから数日、私は学校を休み続け、ずっと侑李のそばにいた。
侑李が「お姉ちゃん」と声を出した時、本当に嬉しくて、侑李の前だっていうのに泣きそうになった。
あまり食欲がない侑李は、食べ物を喉に通さなかった。その代わり栄養は点滴で取っていた。
1ヶ月前よりも、小柄になった。
学校もいけない、食べ物も食べれない。
運動もできず、ずっと怖い想いをしながら、毎日我慢して生きている毎日。
侑李の方が辛いはずなのに。
私はなんてことを思ってしまったんだろう。
なんで私ばっかりって·····。
運動もできる、学校にも通ってる、侑李に出来ない事は私にはできる。
なのに、私は侑李に対してなんて事を·····。
毎日かかってくる電話には、出なかった。
「密葉、お前痩せたんじゃねえか?」
兄に言われ、私は「そんな事ない」と返事をした。
「学校は?行ってんのかよ」
「今日は行かないから」
「今日はじゃなくて、今日もだろ。侑李のとこ行くのか?」
「うん」
「もう大丈夫だって言われてるだろ」
そんなの、分からない。
いつどうなるか分からない。
病院の中で待機してなくちゃ·····。
いつでも侑李の所へ駆けつけられるように。
侑李があんなにも苦しんでるのに·····。
私ばかり楽しんでいられないから。
「密葉、せめて飯だけでも食え。あれからまともに食ってねぇだろ」
確かに、私は自分でも思うぐらい痩せた。
だけどそれは侑李も同じ。
「大丈夫だから」
「また倒れたらどーすんだよ」
「大丈夫」
「密葉」
侑李が食べられないなら、私も食べない。
点滴しか出来ないなら、私も栄養ドリンクしか飲まないことにした。
侑李だけ苦しむ必要は無いから。
侑李の苦しみは、分かっていたいから。
「いい加減にしろ、密葉、自分のやってること分かってんのか」
何故か怒っている顔をしている兄。
私からすれば、どうして兄がこうも平然としているのかが分からない·····。
あんなにも苦しんでいる侑李を見たはずなのに、どうして一緒に分かろうとしないのか。
どうしてお兄ちゃんは、こんな時にでも遊びに行けるの?
どうして両親は、もう仕事へ戻ったの?
本当に理解できない。お兄ちゃんたちは、侑李のことが大切じゃないの?
やっぱり私が1番侑李のことを思っているから·····。私が侑李の気持ちを分かってないといけなくて。
「お姉ちゃん、ぼく、朝お粥少しだけ食べること出来たんだよ」
面会時間まで、病院の中の待合で時間を潰し、面会時間になればすぐに侑李の病室に行った。
「そうなの、すごいね。頑張ったね」
私がそう言うと、侑李は笑った。
昼食も夕食も侑李はお粥しか喉を通さなかった。栄養が足りない部分は点滴で補うことしか出来なくて。
私の今日の夜ご飯は、侑李が食べた量のお粥と、栄養ドリンクだけ。
全く空腹感がない。
もうこの事に、胃がなれてきているのかもしれない。
「おい、密葉」
珍しくお兄ちゃんが朝からリビングにいる·····。
それも昨日よりも怒っている顔つきだから、私は少しだけ驚いた。
「お前、まだ朝飯食ってねぇだろ」
いったい何?
食べてないけど。
っていうか今起きたばっかりで·····。
「お兄ちゃんのは用意すればあるよ、パンかご飯どっちがいい?」
「別にどっちでもいい、一緒に食べるぞ」
一緒に食べる?
私は今、夜だけしか食べていなくて。
侑李が何を食べたのか聞いて、それを夜に家で食べているから。
「·····私はもう食べたから」
でもそれを言ったら、兄に面倒臭いことを言われるのには目に見えているから。
「嘘つけや」
「も、やめてよっ、朝からなんなのっ。放っておいてよ!」
意味が分からない兄に怒鳴り、私はまだ時間があったため自室へこもった。
なんで····
私が悪いの?
少しでも侑李の事を分かろうとしている私が悪いの?侑李があれだけ苦しんで我慢しているのに、私は呑気にご飯を食べていいの?
そんなの、ダメに決まってる·····。
侑李がどれだけ辛い思いをしてるか·····。
私も同じように辛い思いをしなきゃいけない·····。
兄に対してのイラついた感情を抑えながら、ベットへ腰掛けた。ふとスマホの方を見ると、チカチカと画面が光っていた。
どうやら電話が来ていたらしい。
私はハッとして、スマホを手に取った。
そこにあるのは着信履歴。
相手が侑李の病院じゃない事に胸をおろした後、私は画面を見つめた。
『電話をしないで』と言ったあの日から、もう1週間以上はたっている。それから和臣の着信は止まらなかった。
朝に来る時もあれば、お昼、夜の9時にも電話がかかってくる。
でも、私は出なかった。
出れば、オワリだと思ったから。
でも、和臣の事をだから、このまま電話に出なければ会いにくると思った。
強引で、ストーカーなのが、私の知っている和臣なのだから。
その日のお見舞いが終わり、病院から出ようとした時、傘をさしながらこっちを見ている和臣を見つけた。私はそこまで驚かなかった。というよりは、もっと早く来るかもって思ってたぐらいで。
どうしてこういう時だけ、雨が降るんだろう。
本当に嫌になる。
私は何も考えなように、自身の傘を開いた。
「密葉」
会えてすごく嬉しいのに、嬉しくてたまらないのに、私は顔を下に向けることしか出来なかった。
私を見つけた和臣は、傘をさしながら小走りで近寄ってきた。
「·····密葉」
心を落ち着かせなきゃ。ちきんと言わないと。もう会えないって。電話もできないって。もう和臣と関わることはできないって。
私はスっと息を吸い、和臣を見つめた。
「もう·····、会わないって言ったよね」
「密葉」
「電話もしてこないでって、言ったよね」
「··········」
「も、私に関わんないで·····、お願い·····」
「·····意味分かんねぇ」
「それだけだから、もう来ないで。ほんとに迷惑なの」
「密葉っ」
「さようなら」
できるだけ冷めた声で言った。
和臣を通り過ぎ、早くこの場を離れようとして。
「待てよっ、なんで·····。俺なんかしたか?」
強引で、ストーカーなのが和臣·····。
私の手首を掴み、私の歩くことを阻止する。
「別に·····」
「別にって何だよ、言ってくれよ」
和臣は何もしてないから。
言うことなんてない。ただそれだけの事。
和臣に引き寄せられてるせいで、ポツポツと傘に当たっていない部分が濡れていく。
「離して」
「言うまで離さねぇ」
「やめてよっ」
「なんでだよ?」
「もう和臣と関わらないって決めたの!」
「だから何でだよ、理由言えよ」
「やめてっ」
「族だから?」
「和臣!」
「関わらないって意味分かんねぇよ、·····言ってくれよ」
「やめて」
「電話鬱陶しかった?」
「やめてって」
「つか、なんで·····、何があったんだよ?俺に言えねえのかよ·····」
もう、本当にやめて·····。
「なんでそんなに痩せてんだよ、それも言えねぇのかよっ」
やめて·····っ。
「誰かに何かされたとかか?」
ほんとにもう·····。
「言ってくれよ、このまま終わりとか絶対嫌だから」
「やめてっ·····」
「みつ」
「な、に、やってんだよ!」
と、その時、和臣に掴まれていた手が、何者かの乱入で離れた。
肩を息をしながら、傘をさしている人物が、私と和臣の間に入ったからで。
「大和·····」
「お兄ちゃん·····?」
「え、あれ、フジ····?」
3人同時に出た言葉。
乱入して来た人物は、紛れもなく兄だった。
どうしてお兄ちゃんがここにいるの·····?
「お兄ちゃん·····なんで·····」
兄はわけの分からない顔つきで、私と和臣を交互に見た。
「え、いや、お前が変な男に絡まれてると思って。つーか、フジ、何してんだよ」
変な男に?
私が?
兄からすれば、私が和臣に絡まれてるように見えたってこと?
「話してたんだよ」
電話の時とは違う、少し声の低い和臣は、兄に返事をし。
「手つないで?」
不審がる兄は、私と和臣の間を動かなかった。
「大和·····、俺は」
「フジ、妹にちょっかいかけんの辞めてくれよ。さっきのどう見てもこいつ嫌がってただろ?」
「大和」
「もし、妹がぶつかったとかでフジに迷惑かけて、フジを怒らせたなら、俺からも謝る」
「·····お兄ちゃん·····」
まさか、兄がそんな事を言うとは思わなかった。
いつもは遊んでばかりいるのに。
友達なのに、私を庇うようなことをしている。
ポツポツと雨が降る。
地面に、雨の叩く音が響く。
「·····分かった」
和臣の、小さな声が私の耳に入った。
「ちょっと話させてくれ」
和臣が私に近づく気配がした。
兄は少しだけ考えていたようだけど、和臣の真剣すぎる声に、ゆっくりと体を動かした。
「密葉」
電話の時よりも、穏やかで、優しい声。
私は和臣の声が何よりも好きだった。
ずっと電話をしていたいほど、好きで·····。
大好きで。
今日が雨で良かった。
「もう、電話もしない、会いにこないから」
「··········っ」
泣いても、雨でバレない。
「好きだった。すげぇ好きで·····、困らせてごめんな」
私も好きだった·····。
ううん、今でも好き·····。
「あの日、助けてくれてありがとな」
最近の私は泣いてばかりな気がする。
和臣との別れ、兄に支えられながら、私は泣きじゃくりながら家へと戻った。
もう終わり、これで終わり。
本当に、和臣との関係は終わりを告げた。
兄はさっきのはどういう事か聞きたいはずなのに、何も聞かず、家に帰れば「風呂入ってこい」と言うだけだった。
私はそれを素直に従い、シャワーを浴びに行った。
泣いて泣いて、いつもの倍以上かかってしまったお風呂。
リビングに行けば兄はスマホをいじりながらソファの上で寝転がっていた。
もう涙も出ず、落ち着いた私はいつものように夜ご飯を作るため、キッチンの方へと向かう。
今日も侑李はお粥しか食べられなかったと言ってたな·····。
「お兄ちゃん、昨日のカレー少し残ってるからそれ食べて貰っていい?」
スマホから私に目を向けた兄は、「お前は?」とまた私の食事のことに対して質問してくる。
「·····あんまり食欲ないから·····」
「··········」
「ちゃんと食べるから·····」
「なあ、それってフジか?侑李のためか?」
険しい顔を私に向ける兄。私はその顔を見たくなくて、目線をそらし、冷蔵庫に入れていたカレーを手に取った。
「密葉」
無視する私に怒っているのか、兄は低い声を出した。そのままこっちに近づいてきた兄は、炊飯器からご飯をよそう私を見下ろす。
「フジとどういう関係か言え」
「·····もう終わったから」
「言え。言わねぇとマジで怒るぞ」
「··········」
「密葉、あいつが族なのは分かってるな?」
「··········」
「いつから知り合いだよ?」
「··········」
「あん時はもう知ってたのか」
あの時·····。
和臣が兄と友人だと知った時·····。
「黙ってねぇで何とか言えやコラ!!」
ガンッ━━━━━━━と、そばに置いていたゴミ箱を蹴り、大きな音がキッチンに広がった。
「··········お兄ちゃん·····」
「どういう関係だ」
「もういいでしょ、言いたくないの·····」
私はゆっくりと兄を見上げた。
「なんで言いたくねぇ?」
「··········」
「フジに何かされたか?」
何か·····、何かって。
「どうしてそんな事聞くの·····、もう終わったんだよ、お兄ちゃんには関係ないでしょ」
「勝手に解決すんな、関係ねぇかは俺が決める。つーか、どう見てもアレ、フジがお前のこと好きでつきまとってるようにしか見えなかったんだけど」
それは·····否定出来ないけど。
でも私も和臣が好きで。
でも、侑李が苦しんでいる中、私が和臣と関わりあって·····、私は欲を覚えてしまった。
街にいた恋人のようになりたいと。
侑李は、病院の外さえ、まともに出られないというのに。
「そうなのか?」
「··········」
「フジが付きまとってたのか?」
「··········」
「お前は嫌だったのか?」
嫌だった?
初めは嫌だった·····。
でも、今は·····。
「·····和臣を悪く言わないで」
鼻の奥がツンとした。
ツーーー·····っと、また涙が溢れてくる。
和臣をそんな風に言わないで欲しかった。
兄の顔が、少し変わった。
「··········付き合ってたのか?」
静かに問いかけてくる。
私はそれに対して、顔を横にふった。
「密葉も好きだったのか?」
その問いに、顔を横にふるのをやめた。
でも、顔を縦に動かすことが出来ず。
兄はそれを見て、小さなため息をついた。
「フジのこと、下の名前で呼ぶぐらいだもんな」
「え·····?」
「·····あいつ、みんなからフジって呼ばれてんだよ。知ってるか?」
兄もフジ·····。
和臣と一緒にいた辰巳って人も、フジって呼んでて。
みんなからって言われても、2人しか知らなくて。
和臣の名字は藤原だから·····。
フジっていうのはあだ名みたいなものじゃないの?
意味が分からなくて、何も言えず、指の腹で涙をふいた。
「あいつ、昔っからフジって言われてて、下の名前で呼んでんの、お前ぐらいだよ」
それは·····、和臣が和臣でいいって言ったから。
「フジからすれば、お前はそれ程の女ってことだろ?なんで付き合わねぇ?お前も好きなら·····」
「やめて·····」
「族か?まさか、族だっつーこと、知らなかったわけじゃねぇよな?」
知らなかった。
兄が言うまで。でもそれは、関係ない。
だって和臣は和臣なんだから·····。
私が好きなのは、暴走族の和臣じゃないから。
「·····お兄ちゃん·····」
「·····まさか、侑李のために?」
「·····違うから」
「侑李のためなんだな」
「違うってば!」
「お前なんで········侑李が大事なのは分かる、でもな、密葉、お前だって·····」
「違うって言ってるでしょ!!」
私はドンっと、兄の胸元をおした。
「密葉っ」
「私が和臣と付き合えば侑李はどうなるのっ。1人になっちゃう!侑李が苦しんでるのに私がこうやって、遊んでっ·····」
「違うだろ、そうじゃねぇだろっ」
そうじゃない?
そうじゃないってなに·····。
ずっとずっと悩んで出した答えなのに·····。
「お兄ちゃんには私の気持ちなんて分かんないよ!お兄ちゃんはずっと遊んで·····、全然侑李のとこにも来ない·····、私がっ、侑李には私しかいないのに!!」
「なにいってだお前·····」
「うるさい!もう、黙っててよ!和臣とはもう終わったの!!それ以上喋んないで!!」
「密葉っ」
「お母さんもそうだよ!お父さんも!全部私に任せっきり·····。全然、帰ってこないじゃない·····」
「落ち着けよ!」
「落ち着け?落ち着いてるよ!でも落ち着けなくしたのはお兄ちゃんだよ!!お兄ちゃんが変なことばっか言うから!!」
「変じゃねぇだろ!」
「うるさい!!私から侑李を取らないで!!」
隣の家に聞こえる程の声で叫び、兄を押し退け、私は自室へとこもった。
どうして兄があんなにも言ってくるのが分からない·····。私は侑李の事を思っているだけなのに。私が間違っているっていうの?
‘おねぇちゃん、いかないで’
昔の侑李の声を思い出す。
私は·····間違ってない。
そうだよね、侑李·····。
「密葉、もうフジの事は喋んねぇから。ちゃんと飯だけは食え」
部屋の扉の向こうから兄の声がしたけど、私はそれを無視した。だって、私のしている事は間違っていないのだから。
··········間違って、ないから·····。
6時に起きる生活は変わらない。
ただここ数週間で変わったのは、私が学校へ行かなくなったこと。だって侑李も行ってないから。侑李が行けないのに、私だけが行くわけにはいかなくて。
病院は8時半に開くから、そのタイミングで病院つき、待合で持ってきた本を読みながら時間を潰す。面会時間になれば侑李の元へ向かい、面会時間が終われば病院にいることは出来ないため、家へと帰る。
もう肌寒くなってきて、侑李には「暖かくして寝るんだよ」と何度も言った。
もちろん和臣からの電話は来なくなった。
だから、私も和臣の番号をアドレス帳から消した。和臣は過去の人になったから。もう、連絡することは無いから。
「飯食ったのか」と聞く兄に苛立って、「侑李が食べれないのに、私だけ食べるわけにはいかないの!!」と何度も何度も言ったような気がする。
気がするのは、もう兄と会話をするのも面倒だったから。同じことしか言っていないような気がして。
それが何日も続いた。
「学校行くぞ」と兄に無理矢理連れていかれそうになったけど、「侑李が行けないのにっ」と叫んだりもして。
兄は何度も言う。
「しっかりしろよ」って。
どうして?
私はしっかりしてるでしょ。
侑李のためなら、何だってするのに。
侑李の姉として、しっかりしてるのに。
兄は私のすることを否定する。
なんで?どうして?
分からない。
私が侑李の喜ぶことを、1番に分かってる。
「密葉!!!」
ああ、もう·····、またお兄ちゃん·····。
「お前、何やってんだよ!!」
イライラする。
「死ぬ気か馬鹿!!!!」
兄が、私の体を引っ張りあげようとしてくる。「やめて」と声を出したいのに、浴槽に浸かっている私は、体を動かすことが出来なかった。