「琴乃、今日は一緒に帰れる?」

「ごめん、今日は部活なんだ」

「分かった。私は大丈夫だよ。気にしないで。また、今度ね」

 そんな会話が日常の中で繰り返されるようになった。

 こうなることはわかっていたことだし、琴乃に悪気があるわけではない。

 でも、琴乃に部活の話を持ち出されると、あの時に見た運動場の光景が蘇ってくる。

 ああ、琴乃はあっちに行けるのか。

 そう思うと、あの景色が気になってどうしようもなくなる。思い出したくないはずなのに、ふとした瞬間、恐ろしく魅力的なものになって頭の中に立ち現れてくる。

 それが一人で過ごす放課後ならなおさらだった。

 ある放課後、気がつけば私は運動場の片隅にあるベンチに座っていた。こぢんまりとしていて、今まで存在さえ知らなかった小さなベンチに。

 その行為に意味があるわけじゃないけど、なぜかそうしていると落ち着く気がした。

 そういうわけで今日も私はベンチに座ってぼんやりと眺めている。運動部の子たちが大きな声をあげながら必死に体を動かしている。

 いいな、青春だな。琴乃も今頃……。

 また、琴乃だ。私は自分ってものがないのかな。でも、いつもそばにいてくれたのは琴乃だったから。
 
 小学生のときも、中学生のときも、高校生になってからだってそうだった。

 自然と気が合ってテレパシーみたいだねって周りから笑われることもあった。

 そんな琴乃が、恋も部活も眩しいものを全部手に入れて、一人で大人の階段を登って行ってしまうのが怖い。

 どんどん私から離れて、いつか本当に私の手に届かないところへ行ってしまうんじゃないかって。

 目の前を生き生きと走っていく生徒たちが直視できなくなって、思わず空を見あげた。雲一つない、見事なまでの青空が広がっていた。

 ガサッ

 音がして、ベンチに振動が伝わる。誰かが私の横に座ったのだ。

 真上を見あげていて気が付かなかったが、どうやら少し前から人が近づいて来ていたらしい。

「ごめん、ちょっと手かしてくんない?」

「え、あ、うん」

 その誰かに話しかけられて慌てて振り返った時、私は息を飲んだ。

「あっ」

「ん?」

 そこには、ずっと私の瞳に遠目にしか映らなかったはずの人がいた。岡本君だった。

 私を真っ直ぐに見る彼の顔はとても整っていた。鼻筋はきれいに通っていて、思わず吸い込まれてしまいそうなほど澄んだ切れ長の目をしている。

 近くで見るとより一層美人さが際立つ。


 どうして⁉

 頭の中が真っ白になった。意味もなく足をパタパタさせて、右手ではベンチの裏をひっかく。

 私と岡本君は正反対の人間。光と影。何の接点もないままに卒業するんだろうと思ってたのに。

 でも、現実に今、彼は私の目の前にいるわけで……。

「あのー、早くこれ、ここ貼ってもらえないかな?」

 固まったまま何もしない私を待ちかねたんだろう。岡本君は先ほどから指先にぶら下げていた絆創膏をさらに突き出してそう言った。

「うん、ごめん」

 私は慌てて彼の手から絆創膏を受取る。

 たぶん私が余計なことを考えている間に何度も同じことを頼まれていたんだろう。

 繰り返し無視してしまったことを申し訳ないと思いつつ、渡された絆創膏のテープを、糊の塗られた面同士がくっついてしまわないように慎重にはがす。

 膝の擦り傷には砂が食い込んでいた。

「これ、消毒した方がいいよ」

「まじかあ、絶対しみるよなぁ」

「私、保健室行って消毒薬借りてくる」

 私は一旦絆創膏を岡本君に返して保険室まで走った。保険室は運動場から近いので岡本君をそんなに待たせなくても済んだ。

「痛い!」

 私が消毒薬をしみこませたガーゼで傷口から砂を掻き出していると岡本君は顔をしかめた。

「ごめん。でも、ほっとくともっと痛くなりそうだったから……」

 消毒が終わったらすぐに絆創膏を貼った。緊張していたので、ちょっと不格好になってしまったけど。

「ありがと、お前、もしかして……」

 彼がそう言いださないうちに私は鞄を抱えてベンチを飛び出していた。

 これ以上近くにいたら真っ赤な顔だって見られちゃうし、高鳴っている心臓の音まで聞かれてしまいそうだ。

「おい、ちょっと。人の話くらい最後まで聞いてくれてもいいだろ」

 後ろの方から、岡本君があげた不満げ声が聞こえた。