ダイアモンド・ダスト

「俺、ダメなんだ。お前のことが好きで周りが見えなくなる。結木にもお前と平等に接しないといけないと思っても、気づいたらお前のことを目で追ってて。お前の気持ちしか考えられなくなるんだ」

 耳元から暖かい空気が流れ込む。

「本当は手紙破ったのは立川だって知っておきながら、結木にかかった疑いを晴らしてやらなかった。すぐに俺がお前と一緒に謝りに行ってやればお前だって結木だって、苦しまずに済んだのにな。ごめんな。でも、お前が独りぼっちになって寂しそうな顔をするのは見たくなかった。やっぱり、俺贔屓してばっかだ」

「そんな、何で、何でこんな私なんか……」

 そう、どれだけ岡本君が私を庇ってくれたとしても、私が親友の気持ちを踏みにじった最低な奴だということに変りない。

「お前さ……中学最後の夏の大会でビリだっただろ」

「そうだけど」

 突然そんなこと言う彼に私は戸惑った。きっと琴乃から聞いたのだろう。

「私ね、夏の大会の二〇〇メートル走優勝したんだ。すごいでしょ!ちょっとー、桜不機嫌にならないでよ。あ、そっか。桜、地区予選ビリだったもんね。でも、私桜がずっとサポートしてくれてたから優勝できたんだよ!」

 これが琴乃と初対面の人との紋切り型の会話だった。

 琴乃の知り合いで私が陸上地区予選のビリ落ちだって知らない人はいないだろう。

 思い出したくなかった記憶に触れられて私は顔をしかめた。

「岡本君にはわからないよ。私がどんな思いで陸上やってたか。陸上のことが大好きな岡本君には、きっと私がどれほど陸上も部活も憎んでいるか分からない。私は、岡本君が一番好きなものを嫌ってるんだよ」

 私たちはわかり合えない。そういう星の元に生まれて来たんだ。

「中学二年のころ初めてお前に会った。正確には、見た。秋の陸上新人戦の時だ」

 岡本くんは私に構わずに続ける。

「本気で優勝狙ってた俺は、朝練のために六時に会場入りした。一番乗りだと思ったよ。でも、違った。俺が会場に着いた時にはもうお前がいた」

 あの日のことは覚えてる。

 先輩が引退して初めて公式戦に出られることになった。

 人数が少ない私の中学校は全員出してもらえたけど、それでもなんだか選ばれた選手みたいで飛び上がるほど嬉しかった。

 だから、少しでもいい結果を残したくて朝練をしに行った。

「どんなすごい選手なんだろうって思ったよ。わざわざ女子コートまでお前の試合見に行ったんだからな」

 そうだったんだ。

 私は自分のことで精いっぱいで、朝練に来た他の生徒のことなんていちいち確認しなかった。

 あのとき、確かに会場には朝早くから何人かの生徒が来ていた。

「だけどそいつはぶっちぎりのビリで負けた。失望したよ。フォームもめちゃくちゃ。無意味なことに時間かけて馬鹿らしいと思った」

 なんだか恥ずかしかった。見られてたんだ、あの無様な私の走りを。

「その次の大会もそいつは朝早くから会場に現れた。そして、またビリだった。俺はそいつのこと嫌いだったよ。俺たちが生きてるのは頑張ってるやつが報われない残酷な世界なんだって突き付けられた気がして」

 いつまにか私の身体を開放していた彼は再び椅子に腰を下ろした。

「でもな、不思議だったんだ。あいつなんで陸上やめないんだろうって。走ってるときも楽しそうじゃなかったし。努力して賞をとることが現実的じゃないことくらい自覚在りそうだったし。気がついたら俺はそいつに夢中になってた。どうせ負けるってわかってるのに、奇跡が起きないかと期待までした。毎回そいつの試合を見に行ったからそいつの応援しに来る同級生の顔も覚えた。その同級生が結木琴乃だってことは、表情台で見た時に初めて知った。名前を知ったのはお前の方が先だったんだぜ」

 岡本君は最後のところだけニヤッと笑って見せた。

 話しているうちに私の知っているいつもの彼に戻りつつあった。

「結局最後の夏の大会までそいつはビリのままだった。自分が負けた後すぐに友達の応援に行ってどこか切なそうな表情で友達のこと眺めてたんだ。でも、たぶんそいつは心から友達のこと応援してた。大概の奴がそういう時、いい顔して表面上だけ応援するんだ。でも、お前は違った。結木のこと本気で応援してた」

「それは、琴乃が私の大切な人だから。僻んだこともあったよ。何で琴乃ばかり輝いているんだろうって」

「僻んじゃだめなのかよ。いいだろ。羨ましいだろ。当たり前だよ」

 始めてだった、そんなこと言う人。他の人を羨むことはいけないことだと思ってた。

「自分の持ってるもん全部に満足してる奴なんていないんだよ。でもな、俺はお前のことがかっこいいと思ったんだ」

「なんで、私はただの予選落ちだよ」

「そうだよ。そこで腐ってなにもかも放り出してたら。でも、お前はやめなかった。陸上も朝練も最後まで突き通してた。どんだけへたくそでも自分はここに居続けるぞって強い意志を感じたんだ。そう言うのが真の強さだと思うんだよな」

 相変わらず涙が止まらない泣き虫の私に向って彼は「強さ」という言葉を使った。

 人からそんな言葉をかけられたのは初めてだ。

「その時からお前のことが気になってた。俺にはない強さをもったお前が羨ましかったし、尊敬してた。挫折した時、何度も救われたんだ。俺も頑張ろうって思える」

 岡本君は遠い目をしていた。どこまでもきれいごとをきれいごとだと思わずに信じている彼らしい言葉だと思った。

「中学も違って全く接点がなかったから、きっとこのまま何もないままお前のこと忘れていくんだろうと思ってた。だから、高校で同じクラスになった時嬉しかった。照れくさくてすぐには声をかけにいけなかったけど。それに、もしかしたら名前が同じだけなんじゃないかって不安だったんだ。」

「平凡な名前だからね」

「でも、それはすぐに解決したよ。俺が怪我したとき、すっごくなれた手つきで消毒してくれたから」

 岡本君が自分の肘を撫でる。

「ああ、あれ確かめるためだったの?」

「まさか。そこまでは考えてなかったよ。ちょっとびっくりした」

 中学時代、琴乃のサポートをしていたこともあって本能的に頼まれたこと以上のことをしてしまった。

「でも、もう陸上もやめちゃったから」

 私は憧れの世界で戦うことをやめてしまった。だから、もう彼の憧れではないはずだ。

「それでも、俺はまたお前に救われた。お前がそばにいてくれたから俺は自分が陸上が好きなことに気がつけた。それに、お前は陸上をやめても芯のところは変わってない」

 岡本君は私に真っ直ぐな目を向けた。

「オーデションの時だってかっこいいなって思った。負けてもおかしくない勝負に胸張って実力で挑むってなかなかできることじゃない。俺はお前に自分があるってことちゃんっと知ってる。それを自分で分からずに、他人のために我慢して傷つく姿はもう見たく無いんだ。だから、俺がやったことにして丸く収められればいいかなって」

 岡本君は視線を下に落としてそう言った。

 裁かれるべき人を裁かない、それはクラス委員として平等にふるまおうとする彼にとって、許しがたい行為だったのかもしれない。