ダイアモンド・ダスト

私が部室棟に着いたとき、岡本君は一人で陸上部の部室に立っていた。

「……結木、荷物も置いて泣きながら学校飛び出していったって」

 急に現れた私に驚くこともせず岡本君は渇いた声で言った。

 岡本君が指した先には水やら、ペンキやらでひどく汚された琴乃の鞄があった。

 カバンの外側には黄色いペンキで大きく「死ね」と書かれていた。

 汚れるのも気にせずに私は手をカバンの中に突っ込んでジャージや筆箱を取り出した。

 ジャージはずたずたに切り裂かれているし、筆箱の中には「自作自演野郎www」と書かれたメモが入っていた。

「そんな……」

 私の目から後悔の色に染められた涙が溢れでる。

「こんなこと、誰が……」

 ずっと一緒に練習していた光咲や彩夏たちではありえない。ということは、あの三人以外にも琴乃に明確な敵意を向ける人がいたということだ。

「俺、さっき下駄箱見て来たんだ」

 そういって岡本君は私に何の指示もせずに歩き始める。おそらくついてこいという意味なのだろう。

 下駄箱のロッカーを開けて愕然とした。

 中から「キモイ」「勘違い野郎」「自称悲劇のヒロイン」という罵詈雑言の書かれた紙が雪崩のように落ちてくる。

 琴乃、こんなにひどい目に合ってたんだ。

 私のせいだ……。全部。

 私が自分を守るために嘘をついたから。

 私が嫉妬してたから。

 琴乃だって少しは痛い目を見ればいいって黙認してたから。

 ごめん、ごめん。

 私はその場にうずくまった。

 私にこうやって泣く資格も、後悔する資格もきっとないんだろう。

 でも、そうする他なかった。

 その横で岡本君は丁寧にそれらを拾い上げて一つ残らず近くのゴミ箱に捨てた。

「俺、後悔してる。もっと早くにこうなってるって気づいてやるべきだった。何がクラス委員だよ」

 拳を握りしめる岡本君の手首には血管が浮かび上がり、深いしわが刻まれた眉間の下の双眼には銀膜が張っていた。

「結木にずっと苦しい思いさせてた」

 岡本君が琴乃のロッカーに優しく触れる。

「恋すると何にも見えなくなるって本当なんだな」

「やっぱり好きなんだね」

 分かってはいたけど、ロッカーに伝える岡本君の愛情を目の当たりにすると、選ばれなかったことに少し落ち込む。

 でも、自分自身がした琴乃への仕打ちの重大さに改めて気づかされた今となっては、心よくその結果を受け入れられる。

「西宮の言う通りだったな。俺は女子をたぶらかす最低野郎だった。優等生の皮を被ったとんだ贔屓やろうだった」

「そんなことない、岡本君は誰も傷付けないように頑張って来たんだよ。悪いのは岡本君じゃない」

 悪いのは、私だ。

「もう化けの皮がはされちゃったから白状するけどさ、こんなことやる奴が許せないんだ。殴り飛ばして地獄送りにしてやりたいって思ってるくらい」

 熱を帯びた彼の声が私の鼓膜を焦がしていく。

「どんな奴でも裏表があるから、裏だけ見て嫌いにならないようにって、俺だけはそいつの全部を見てやろうって思ってたのに。もう、俺には結木を傷つけたやつが欠点の塊にしか見えないんだ。俺自身の醜さに辟易してる」

 自分自身というものを見失って目の焦点が定まらない岡本君。

 彼がどれほど琴乃のことを慕い、守ろうと必死になって来たのかが目に見えた。

 そして、優しさと責任を背負って戦ってきた彼をこのような姿にしてしまったのは、紛れもなく私だ。

「ううん。岡本君は優しい人だよ。それでいて好きって思いに人一倍純粋だったの。それは素敵なこと」

 私は岡本君の手を取った。握りしめる彼の手の温もりに最後の勇気をもらう。

 岡本君はこんな私にまで優しくしてくれた。

 ずっと、琴乃と私の板挟みという苦しい役割を背負ってくれた。

「ねぇ、岡本君。岡本君にとってお姫様はやっぱり琴乃なんでしょ?」

 私は彼の顔を見あげた。彼の瞳に写る私の目は澄み切っていた。

「正直に言っていいよ」

「……」

 優しい彼は正直に語り出してしまう瞳を私からそらす。

 クラス投票の時、岡本君が私に手をあげなかったことを私はしっかり記憶している。

 そして、あのオーデションが公正とはほぼ遠いものであることは、誰よりも岡本君が一番わかっているはずだ。

「岡本君はみんなに優しくしたいんでしょ?私にだけ噓をつかないで」

「俺は、あの役は結木がやるべきだと思ってた」

 握りしめた岡本君の手に力にひどく力が入っている。

「私も、そう思う。だから私、お姫様は今日までにする」

 私は岡本君の手を引いたまま教室へと続く階段を登った。

 あんなオーデションで勝ったということに抵抗があることはもちろんだけど、そんなことより岡本君の琴乃への思いが明確に私に敗北を告げていた。

「でも……」

「いいの。私がそうしたいから」

 私は岡本君に、ツーショットで映る琴乃とのスマホのホーム画面を見せて、何とかするよ、親友だもんと笑顔を見せた。

「だから、今日だけは私の王子様でいてよ」

 そう、一夜限りでもいい。私の心に永遠の宝物として残るから。

 岡本君は俯いてしばらく動かなかった。何かひどく思い詰めているようだ。

「……わかった。俺は、立川のこと信じてるから、立川に任せる。」

 白い空気が通り過ぎた後、彼は温かい声を返した。

「だから、今日はお前の王子様役を全うするよ」

 足の長い岡本君はその気になると一瞬で私を追い抜いてしまう。

「さ、姫様、お手をどうぞ」

 本当はもっとうまいはずなのに、わざとらしい演技をした彼の笑顔はどこか切なげだった。

「ちょっと、恥ずかしいかな」

「今日だけはお姫様でいたいって言ったのはお前だろ」

 私はいたずらっぽく言う彼の手に、自分の手を伸ばす。

 ああ、私がずっと追いかけていた岡本君だ。

 彼の手を取った私はそのまま引き上げられていく。

 手を繋いで階段を駆け上がっている私たちの頭の上で、鐘の音が遠く響いた。