「あっ、ごめん。岡本君の服びっしょりだ。どうしよう」

 保健室のドアを閉めた彼が振り返った姿を見て、自分のしてしまった失態に気がついた。

 私の大量の涙を吸った制服のワイシャツは、透けるぐらいに濡れてしまっていた。

「ああ、平気だ。水筒の水こぼしたって言って、部活の練習着に着替えさせてもらうよ」

「ごめんね」

「気にすんな。制服よりも動きやすくていいくらいだ」

 岡本君は、私に気を使わせないように明るい調子で答えている。

「それより、お前本当に大丈夫か?」

「うん、学校祭の準備にも参加できそう」

「無理はするなよ。先生に言いにくかったら俺に言ってくれていいから」

 いつもは私の前に立ってぐいぐい進む岡本君だが、今日は私のペースに合わせて歩いてくれた。

「おい、岡本」

 並んで歩いていると、後ろから来た男子が岡本君の肩に勢いよく腕を回してきた。

「なーに、イチャイチャしちゃってんのー?オレも混ぜてよ」

 明るいトーンではねるような口調。この調子できついことをいう男子は一人しか思い浮かばなかった。

「……西宮か」

 岡本君は盛大にため息をつき、

「悪い、先行っててくれ」

と私に言った。

 西宮君、何しに来たんだろう。

 私に緊張が走る。この間のショッピングモールのことでまた脅しを賭けに来たのか、それともクラス委員なのにも関わらず、仕事を放り出していた岡本君に文句を言いに来たのだろうか。

 怒られるのかな、岡本君。

 私のせいで岡本君が悪く思われるなんて嫌だ。

 私は教室に戻るふりをして廊下の柱の陰に隠れた。

 二人の会話が聞こえる。

「クラス委員様がこんなところでおデートですかー。気楽だねー」

 西宮君は弾んだ口調で、でも厭味ったらしく言った。

 ああ、やっぱり。私、岡本君に迷惑かけちゃってる。

「は?クラスメイトが体調崩してんだ。クラス委員として心配するのは当然だろ」

 岡本君も負けていない。

「いいねー、大勢のクラスメイトをほったらかしにして、一人の女子の看病をしてあげる。それってクラス委員の特権?今度俺もクラス委員やろっかな~」

 西宮君は楽しそうだ。

「何が言いたい?」

 岡本君の声がいら立っている。カフェで聞いた時よりも低い声だった。

「あんな風に保健室でイチャイチャしちゃって。岡本、桜ちゃんのこと好きなの?」

 私の心臓がドクンという。ピンと張り詰めていた空気の糸が西宮君の一言で切れてしまったのが、少し遠くからでもわかる。

「好きだよ」

 岡本君がはっきり響く声でそう言った。心臓が飛び跳ねる。

「それがどうかしたか?」

 岡本君はたんたんと続けた。

「へー、オレには人の気持ち踏みにじるような奴は嫌いって言ったのに?」

「その話と立川は関係ないだろ」

「桜ちゃんが本当にやってないって思う?手紙を破った人は間違いなく人の気持ちを踏みにじるような人だよ」

「俺は立川の言葉を信じるまでだ」

 岡本君の声は揺るがなかった。

「ずるいよねー。そうやって人のことを信じる真っ直ぐな好青年を気取りながらも、嘘だった時の責任はしっかり桜ちゃんに押し付けるんだから」

「そんなつもりで言ってるんじゃない!」

 勢いのある声で怒鳴り返す。

「うわー、こっわ。でも、裏では琴乃ちゃんとも仲良くやってるんだろ?はい、証拠写真」

「……それは劇の演者としていい関係を作っておかなきゃいけないから」

「今度は学校祭の役職を持ち出すかー。岡本は逃げ道がたくさんあっていいね~」

「……」

 何も言葉を発しない岡本君だが、私の頭には怒りで震える彼の姿が描きだされる。

「自分の立場を言い訳にして、対立してる二人の女の子の両方にいい顔するんだ。それって残酷じゃない?だって、最終的にはどっちかを飼い殺しにするんでしょ?あ、そっか、だから琴乃ちゃんとの縁を大切にするのか。もし桜ちゃんが嘘つきでも一匹残るもんね」

「いい加減にしろ!」

 ガサゴソと布が擦れる音が聞こえる。岡本君が西宮君の胸倉を掴んだのだろう。

「お……さ…が…どん………い……も……………よ」

 西宮君が岡本君に何か耳打ちしているようだったが、聞き取ることは出来なかった。

「ふざけんな」

 最後に岡本君は落ち着いて、だが、地響きのような暗い声で言い捨てて去っていった。

 私は荒ぶる呼吸を必死に抑えていた。岡本君が私の真横を通り過ぎていったのを見て肩の力を抜く。

「やっぱ、桜ちゃん悪い子だよ」

 耳元で声がして、ひっと体をこわばらせる。

「……西宮君。気づいてたの?」

「ばればれだったよ。なーんで岡本が気が付かなかったのか、不思議だったくらい」

 岡本君に気づかれなかったことがせめてもの救いだ。

「岡本に最後なんて言ったか、聞こえなかったでしょ。知りたい?」

 ギラギラとした目で西宮君が聞いててくる。

「オレは、桜ちゃんがどんなに最低な奴でも、飼い殺しになんてしないよって言ったの」

「いい加減なこと言わないで」

 私は冷たく言い放った。

「オレ、見ちゃったんだよね。桜ちゃんが手紙破ってるところ」

 私は息を飲んだ。

「お、動揺してる」

「私で遊ばないでよ」

「遊んでないよ。はい、証拠写真」

 西宮君―いや、西宮はそう言ってスマホの画面を差し出した。

 そこには制服を着崩した、決してスタイルがいいとは言えないおさげ頭の女の子の後ろ姿が映っていた。間違いなく私だ。

「脅してるの?」

「いいや、言ったでしょ。オレは桜ちゃんが悪い子でもいいって」

「その呼び方やめて」

「オレはこの写真消すよ、ほら」

 西宮はスマホの画面を見せたままもう片方の指で捜査して、写真をゴミ箱に捨てた。

「……」

 彼が何をしたいのか分からない。

「オレは、桜ちゃんが好き」

「は?」

「人の手紙破るような奴でも好き。ねぇ、オレと付き合いなよ」

「なんでよ?私はあんたみたいな最低な男……」

「オレはずっとそばにいてあげるよ。でも、岡本はどうかな?あいつは手紙のこと知ったらきっと失望して、桜ちゃんのこと見限るよ」

「……そんなこと、わかってる」

「あいつ、ほんとに昔から人一倍正義感強いの。幼馴染だからわかるんだよね。桜ちゃんにもこの感覚わかるでしょ?」

 頭に琴乃が浮かぶ。

「誰にだって等しく優しさを分け与える、人を傷つけるような行為は絶対に許さない。あいつはそういう奴。だから、オレは毛嫌いされてる」

 確かに、岡本君は基本誰にでも優しく接するが、西宮には少し冷たかったかもしれない。

「わかるでしょ?岡本と琴乃ちゃんは似てる。お似合いって言われるには理由がある」

「……」

「オレと桜ちゃんも悪もの同士。お似合いだと思わない?」

「ふざけないで」

 私はぴしゃりといって足早に階段を駆け上がった。

 すごい剣幕だったのだろう。私の足音に振り返った何人かの下級生が、怯えた表情を浮かべた。

 私より琴乃の方が岡本君とお似合いだなんてこと百も承知だ。

 でも、それでも簡単にあきらめきれないから苦しんでるのに。

 軽率にオレと付き合いなよ、って言葉をかけるなんて馬鹿にしてる。人の気持ちを踏みにじるにもほどがある。

 どうしてそんな最低なこと平気で出来るの?私は確かに琴乃のこと裏切っちゃったよ。

 でも、ずっと、ずっと苦しかった。今だって苦しいの。

 本当はちゃんと謝りたいって、悪いことしたって思ってるの。西宮にはそんな気持ちさえないんでしょ。

 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。