早朝、五時三十分。

 私は学校に向かっていた。かなりの早さだ。

 これだけ早ければ誰にも鉢合わせせずに済む。

 静かな朝はいい。何もかも忘れて自分だけの世界に浸れる。

 近頃私は、毎日いろいろな人から冷たい視線を向けられ、陰口を叩かれ……。

 人の悪意の中に溺れてしまいそうだ。それに……。

 私は左手で、右肩に揺れる鞄に触れる。どんな顔して返していいか分からない。だから、彼が登校してくる前にこっそりと机の上に置いておこうと思ったのだ。

 朝の校舎はひっそりとしていて気味が悪かった。靴箱も、廊下も、教室も、ガランとした空間の中にいるとあの日のことが鮮明に脳裏によぎる。

 オレンジ色の教室、閉められた窓。

 ビリビリと引き裂く音だけがそこにはあった。

 ガンガンと頭にその音が鳴り響く。

 ビリビリ、ビリビリ、ビリビリビリビリ、ビリビリビリビリビリビリ。

 くらくらする。頭の中が支配されていく。

 ビリ、ビリビリビリビリ、ビリビリ、ビリビリビリビリ……。


 
 ん?目の前が白い。白い光が、眩しい。

 ぼーっとした意識下で考える。

 私、何してたんだっけ……。

 「大丈夫か?」

 岡本君の声だ。
 
 なんだか久しぶりに彼の優しい声を聞いた気がする。

 昨日の怒った声が家に帰ってからも頭の中で反芻していたから、柔らかい声を聞くのがひどく久しいようだった。

「おか、も、と……くん?」

 まだ視界が判然としない中、返事のする方向を探る。

「おう、気がついたか」

 あれ、おかしい。いつも、私の頭の少し上から降ってくるはずの声が、今日は下の方から、しかも離れたところから聞こえる気がする。

「どうして、そんなに遠くにいるの……?そんなに、私のことが嫌いになったの?」

「遠くねぇよ。十分近いだろ。それとも、もっと近づいて欲しいってこと?」

 遠くない?そうだろうか。

 いつも頭一つ分くらいしか変わらないのに、なんかこう、今日は腕一つ分くらい違う気がする。

「じゃあ、これでいいか?」

 私にかかっていた布が押し上げられて、代わりに岡本君の冷たい手足が侵入してくる。

 近いなんてもんじゃない。

 彼の体は私に密着した。

「な、近いだろ」

 彼の声が顔に降りかかる。いつもあるはずの、頭一つ分の距離さえない。

 ここは……保健室?はっきりとしてきた視界が間近にある彼の顔を認識させた時、私はようやく自分のいる状況を理解した。

「ちょ、ちょっと。それはずるいよ!私が自分の状況を掴めてないのをいいことにベッドに侵入するなんて」

 そう言う私の顔は焼けるように熱かったし、きっと岡本君から見たら真っ赤なんだろう。

 照れているのが丸わかりだ。恥ずかしい。

「やっと状況を飲み込んだか。もうちょっと遊んでやろうと思ってたのになー」

 私の鼓動が早くなる。

「昨日の夜、カフェに荷物忘れてきたことにきがついてお店に電話したら、お前が持って帰ったって言われた。お前のことだから直接渡そうとせずに、朝早く来て俺の机に置くなりするんだろうなって思った」

 図星だ。何もかも。

「正解?」

 心を見透かされてるようで認めたくなかった。私は黙ったままでいた。

「ふーん、答えてくれないんだ。まあ、いいや。それで、俺は直接お前に礼をするために朝早く学校に来たわけ。そしたら教室のど真ん中でお前が倒れてた。まだ教室には誰も来てなかったから、急いでおんぶして保健室まで運んで来たんだ。たまたま早い時間でも開いててラッキーだったな」

 そうだったのか。私は教室までの記憶しかなかったからずいぶんと岡本君に助けられたものだと、感謝した。

「ありがとう。岡本君が来てくれなかったら、私どうなってたか」

「大変なことになる前に発見出来てよかった。微熱はあったけど、それもさっき計ったら下がってたみたいだし」

 そう言われて私は自分の額に手をやる。うん、いつも通りだ。

「でも、急にどうしたんだ。疲れとか、ストレスとか、溜まってる?教室で急に倒れるなんてよっぽどのことだろ」

「ち、ちが……。私、私……」

 声が震える。言えない。

 確かに私が教室で倒れたのには理由がある。

 空っぽの教室を見た時、あの時の記憶が鮮明に呼び起こされた。途端に罪悪感が押し寄せてきて、私はその苦しみに耐えられなかった。

 でも、……言えない。やっぱ言えないよ。再び頭が混乱の波に飲み込まれる。

 それはもう、理性なんてものを吹き飛ばすくらい。

 だから、私はこんなに大胆な行動をとれたのかもしれない。

 私は岡本君の胸に飛び込んで大泣きした。

 今まではたとえ涙が溢れてしまっても、静かに、声を出さないようにしていた。

 しかし、今はそんな余裕なかった。そうでもしないと私の全細胞が息を止めてしまう。

 岡本君は私をそっと抱き寄せた。温かい。胸に熱いものがじんわりと広がる。最近温もりを感じていなかった。やっと心の底から泣ける。

 嘘は言葉だけにできるんだ。そう思うとなおさら涙が止まらなくなった。

 どれくらい泣いていただろうか。気持ちよりも先に体力的な限界が来たくらいだから、相当長い間泣いていたんだろう。

 目はカラカラに乾ききって、瞬きをすると痛かった。でも、心は軽くなった。

「岡本君、ありがとう。もう、大丈夫」

 私はそう言った。

「うん」

 彼はそれだけ言った。

「大丈夫だよ」

「うん」

 あれ、おかしい。私はもう大丈夫だといってるのに、彼は一向に手を放そうとしない。

「いつまでこうしてるの?」

「ああ、これ?そうだなー」

 岡本君がはぐらかしてくる。

「なんだかこうしてたら俺まで熱くなってきちゃった。だから、もうちょっとこうして寝ててもいいかなって……」

「!」

「ダメ?」

「うん」

 それは困る。これ以上一緒にいたら、危険だ。

「なんだ、ケチなの」

 ふてくされたようにそう言って、岡本君はベッドから抜け出た。長い脚がベットのすぐ横に置いてあった椅子にぶつかる。この椅子に座って私を見守ってくれていたんだろう。

「これだけは言わせてくれ。昨日はごめんな。俺が悪かった」

 勝手に怒っておいて勝手に反省して。ころころと変わる岡本君の心情についていけない。

「お前と会う前に部長ともめて。イライラを引きずっちまってた」

「私、岡本君の邪魔になりたくないの」

 私は叫んでいた。

「私は琴乃や岡本君みたいに誰かの憧れになれるわけじゃない。人を笑顔にしてあげられるような人間でもない。だから……せめて迷惑はかけたくないの」

「だから、俺はそう言うのをやめろって言ってんだ。俺はお前に迷惑かけられてない」

「だって、部長さんが……」

「俺より部長のこと信じるのか?」

「そういうわけじゃ……」

 そこまで言って私は黙り込む。

「あー、もう。何で黙るんだよ」

 岡本君が困ったように頭をぐしゃぐしゃとかきむしっていた。

「とにかく、部長には俺から文句言っといたから落ち込むなよ。堂々と運動場に来ればいい」

「私、やっぱ怖いな」

 岡本君の言葉はありがたい。岡本君のことを信じてないわけでもない。でも、やっぱり私を見るみんなの視線が怖い。

「ま、安心しろ。なんかあったら俺も一緒に嫌われ役になってやるよ」

「それ、全然安心できないんだけど」

 そう言いながらも、私の心は軽くなった。

 カーテンの向こうで保健室のドアが開く音がする。

「あ、立川さん。起きた?」

 先生のほっとしたような声が聞こえる。

「はい、もう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」

 私は先生に返事をすると、上靴を履いてベッドの横に立った。

「何かあったらすぐに保健室に来てね。くれぐれも無理しないように」

 先生は私に念押ししたあと、ドアを開けてくれた。

「ありがとうございました」

 私はお礼をしてから岡本君とともに保健室を出た。