月曜日の放課後。一人の作業に飽きた私は、刷毛を洗うついでに岡本君を探しに運動場に足を運んでしまっていた。
カンカン照りの下ひたすら走っている。
遠くからでも息が上がっているのがわかるし、彼の首筋から鎖骨の辺りを伝ってだくだくと汗が流れていくのも見て取れる。
露出の多いユニフォームを着ているから全身が真っ赤に焼けてしまっている。
コースの対岸に行くと陽の当たり方が変わる。太陽の下、逆光に浮かぶ彼のシルエットは堂々としていた。
ただ放課後の校庭を走る同級生を眺めているだけなのに、まるで映画のワンシーンをスローモーションで見ているように感じた。
なんだかドキドキする。
「あの、ちょっと」
運動場から走って来た女子に話しかけられた。
「はい?陸上部の方ですよね?」
彼女が来ているユニフォームと筋肉質の体つきから、彼女が陸上部であることは想像にたやすいものだった。
しかし、決して知り合いなどではない。どこかで話したことがあっただろうか。
例えば、琴乃の知り合いとか。
私は彼女についての記憶を探る。しかし、やっぱり記憶はなかった。
「はい。私は陸上部部長の山本です。あなたが立川さんですか?」
「そうですけど……」
何か彼女に冷たいものを感じる。私、何か悪いことをしただろうか。
「率直に言います。もう二度とここに来ないでください」
「え?」
驚きと同時に心に大きな穴が空いた気がした。
「あなたがここに来ると香月の集中が途切れるんですよ」
「私が、ここに、来ると……?」
悲しみも通り越して、目の前の世界が色あせていく。
「それに、あなた香月のストーカーしてるって噂になってますよ」
「ち、違います。別にストーカーしてたわけじゃ。その、暇つぶしでここに……」
私は慌てて言い訳をする。そんな、ストーカーだなんて。
「暇?この期間部活動のない子たちはみんなクラス展のために必死になって働いてますけど」
「それは……」
私だってみんなの輪の中に入れるなら一緒になって準備したい。進んでこんな風にひとりぼっちで運動場を眺めているわけじゃない。
「マジキモイんだけど」
「こんなところで油売ってるくらいならクラスのために仕事しろっての」
「顔も見たくない」
部長の後ろについて来ていた複数の陸上部の女子たちがひそひそと話していた。
私はそれ以上何も言い返さなかった。言い返せなかった。黙って立ちあがり、そのまま校門の方向へ歩いて行った。
ストーカーだなんて言いがかりだと思った。
でも、それを完全に否定できない自分がいた。
岡本君がいなかったら私はあのまま運動場を眺めていただろうか。私は岡本君以外を見ていただろうか。
どんな問を立ててみても答えは否だった。誤解を生む状況を生んでも仕方ない状況を作り出したのは私だ。
胸を張って自分の潔白を証明できないことが悔しかった。
とぼとぼと路を歩いていく私の影法師が伸びていく。校門をまたいだところで私に居場所があるわけではない。
行く当てもなく、とりあえず通りがかったカフェに入ってみた。
新しく出来たおしゃれな雰囲気のカフェがあると琴乃が誘ってくれたお店。まさかここに一人で来るとは思ってなかったな。私は自嘲した。
「ご注文を承ります」
店の雰囲気にお似合いの女子大学生と思われるお姉さんが歯切れよく聞いてきた。
「えっと、アイスティーってありますか?」
「はい。レモンとミルクどちらをおつけしますか?」
「えっと、……両方で」
お姉さんは一瞬びっくりしたような顔をした後、
「かしこまりました」
といって引き下がった。
両方頼むのは変なんだろうか。
注文したものはすぐに運ばれてきた。私は店内の一番隅の席に座って無心でアイスティーを飲み始める。
結局、ミルクとレモンはどちらも入れなかった。
何もやることがないので古典の課題のプリントを取り出した。源氏物語の「葵」の単語調べだ。
テストが終わったばかりなのにまた勉強だ。源氏物語なんて所詮遥か昔の恋愛小説。
平安時代とはいえ合法で堂々と不倫のような関係を築く主人公の物語を高校生に推薦していいのだろうか。文科省も物好きなものだ。
私は新出単語を赤ペンで、既出単語を青ペンで一語ずつ調べ、表の空欄を埋めていく。
単語量が多くて、次に顔をあげたころには、ガラス越しに外灯の輝く街が見えた。
「立川!」
聞き覚えのある声が響いたかと思うと、ものすごい勢いでお店のドアが開いた。店内の何人かのお客さんが、派手に登場した本人と激しく鳴るドアベルを睨みつける。
「やっと見つけた」
息を切らしながら声の主、岡本君は私の向かいの席に座った。
「よかった、お前が。間抜けな奴で」
「え?」
「この席そこから丸見えだから」
言われて見て気が付いたが、ここは斜め横がガラス張りになっていて外から丸見えだった。
カウンターの死角に入ることばかり考えていて、意識がそこまで回っていなかった。
「部長から聞いた。なんか余計なこと言われたんだって?」
「まあ、ちょっとね」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
岡本君にこれ以上心配かけたくない。
クラス委員として学校祭を成功させる責任、陸上部エースとして部を引っ張っていく責任、その他もろもろの係の責任。
普通の人ならもうとっくにストレスで潰れていてもおかしくないはずなのに。
「何かあったらしっかり言ってくれよ。心配で色んなことに身が入らなくなる」
岡本君は机にドンと両手をつきながら言った。それじゃあ、どっちにしても迷惑をかけてしまうんじゃないか。
「……ごめん」
「は?何謝ってんだよ」
岡本君は今まで私に向けたことのない、怖い顔をしていた。怒らせちゃった……?
「俺は自分の意志でお前のことに首突っ込ん出るの。なのに、何勝手に俺のこと不憫みたいな目で見てんだよ」
「不憫なんて思ってないよ。私はただ岡本君のことが心配なだけで……」
「お前に心配される筋合いなんてねぇんだよ。もういい、帰る」
「え、ちょ……」
岡本君は乱雑に椅子を押しのけてドアまっしぐらに歩いて行った。
大きな音に驚いたお客さんたちが何事かというように私のことを凝視してくる。
荷物も置いたままカフェを出て行ってしまった岡本君を、私は目で追うだけだった。追いかけないと、と頭では思っていても咄嗟のことで体が動かなかった。
「お客様、お怪我はありませんか」
店員さんが倒された椅子を元の位置に戻しながら、私に声をかけてくれた。
「大丈夫です」
小さな声でそれだけ言うと、お会計だけ済ませて逃げるようにして店を出た。
どうして私はいつもこうなんだろう。
どんくさくて、かっこ悪い。肩にかけた荷物がいつもより遥かに重く感じる。
今日は岡本君の荷物も持っているのだから当然だけど。
カンカン照りの下ひたすら走っている。
遠くからでも息が上がっているのがわかるし、彼の首筋から鎖骨の辺りを伝ってだくだくと汗が流れていくのも見て取れる。
露出の多いユニフォームを着ているから全身が真っ赤に焼けてしまっている。
コースの対岸に行くと陽の当たり方が変わる。太陽の下、逆光に浮かぶ彼のシルエットは堂々としていた。
ただ放課後の校庭を走る同級生を眺めているだけなのに、まるで映画のワンシーンをスローモーションで見ているように感じた。
なんだかドキドキする。
「あの、ちょっと」
運動場から走って来た女子に話しかけられた。
「はい?陸上部の方ですよね?」
彼女が来ているユニフォームと筋肉質の体つきから、彼女が陸上部であることは想像にたやすいものだった。
しかし、決して知り合いなどではない。どこかで話したことがあっただろうか。
例えば、琴乃の知り合いとか。
私は彼女についての記憶を探る。しかし、やっぱり記憶はなかった。
「はい。私は陸上部部長の山本です。あなたが立川さんですか?」
「そうですけど……」
何か彼女に冷たいものを感じる。私、何か悪いことをしただろうか。
「率直に言います。もう二度とここに来ないでください」
「え?」
驚きと同時に心に大きな穴が空いた気がした。
「あなたがここに来ると香月の集中が途切れるんですよ」
「私が、ここに、来ると……?」
悲しみも通り越して、目の前の世界が色あせていく。
「それに、あなた香月のストーカーしてるって噂になってますよ」
「ち、違います。別にストーカーしてたわけじゃ。その、暇つぶしでここに……」
私は慌てて言い訳をする。そんな、ストーカーだなんて。
「暇?この期間部活動のない子たちはみんなクラス展のために必死になって働いてますけど」
「それは……」
私だってみんなの輪の中に入れるなら一緒になって準備したい。進んでこんな風にひとりぼっちで運動場を眺めているわけじゃない。
「マジキモイんだけど」
「こんなところで油売ってるくらいならクラスのために仕事しろっての」
「顔も見たくない」
部長の後ろについて来ていた複数の陸上部の女子たちがひそひそと話していた。
私はそれ以上何も言い返さなかった。言い返せなかった。黙って立ちあがり、そのまま校門の方向へ歩いて行った。
ストーカーだなんて言いがかりだと思った。
でも、それを完全に否定できない自分がいた。
岡本君がいなかったら私はあのまま運動場を眺めていただろうか。私は岡本君以外を見ていただろうか。
どんな問を立ててみても答えは否だった。誤解を生む状況を生んでも仕方ない状況を作り出したのは私だ。
胸を張って自分の潔白を証明できないことが悔しかった。
とぼとぼと路を歩いていく私の影法師が伸びていく。校門をまたいだところで私に居場所があるわけではない。
行く当てもなく、とりあえず通りがかったカフェに入ってみた。
新しく出来たおしゃれな雰囲気のカフェがあると琴乃が誘ってくれたお店。まさかここに一人で来るとは思ってなかったな。私は自嘲した。
「ご注文を承ります」
店の雰囲気にお似合いの女子大学生と思われるお姉さんが歯切れよく聞いてきた。
「えっと、アイスティーってありますか?」
「はい。レモンとミルクどちらをおつけしますか?」
「えっと、……両方で」
お姉さんは一瞬びっくりしたような顔をした後、
「かしこまりました」
といって引き下がった。
両方頼むのは変なんだろうか。
注文したものはすぐに運ばれてきた。私は店内の一番隅の席に座って無心でアイスティーを飲み始める。
結局、ミルクとレモンはどちらも入れなかった。
何もやることがないので古典の課題のプリントを取り出した。源氏物語の「葵」の単語調べだ。
テストが終わったばかりなのにまた勉強だ。源氏物語なんて所詮遥か昔の恋愛小説。
平安時代とはいえ合法で堂々と不倫のような関係を築く主人公の物語を高校生に推薦していいのだろうか。文科省も物好きなものだ。
私は新出単語を赤ペンで、既出単語を青ペンで一語ずつ調べ、表の空欄を埋めていく。
単語量が多くて、次に顔をあげたころには、ガラス越しに外灯の輝く街が見えた。
「立川!」
聞き覚えのある声が響いたかと思うと、ものすごい勢いでお店のドアが開いた。店内の何人かのお客さんが、派手に登場した本人と激しく鳴るドアベルを睨みつける。
「やっと見つけた」
息を切らしながら声の主、岡本君は私の向かいの席に座った。
「よかった、お前が。間抜けな奴で」
「え?」
「この席そこから丸見えだから」
言われて見て気が付いたが、ここは斜め横がガラス張りになっていて外から丸見えだった。
カウンターの死角に入ることばかり考えていて、意識がそこまで回っていなかった。
「部長から聞いた。なんか余計なこと言われたんだって?」
「まあ、ちょっとね」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
岡本君にこれ以上心配かけたくない。
クラス委員として学校祭を成功させる責任、陸上部エースとして部を引っ張っていく責任、その他もろもろの係の責任。
普通の人ならもうとっくにストレスで潰れていてもおかしくないはずなのに。
「何かあったらしっかり言ってくれよ。心配で色んなことに身が入らなくなる」
岡本君は机にドンと両手をつきながら言った。それじゃあ、どっちにしても迷惑をかけてしまうんじゃないか。
「……ごめん」
「は?何謝ってんだよ」
岡本君は今まで私に向けたことのない、怖い顔をしていた。怒らせちゃった……?
「俺は自分の意志でお前のことに首突っ込ん出るの。なのに、何勝手に俺のこと不憫みたいな目で見てんだよ」
「不憫なんて思ってないよ。私はただ岡本君のことが心配なだけで……」
「お前に心配される筋合いなんてねぇんだよ。もういい、帰る」
「え、ちょ……」
岡本君は乱雑に椅子を押しのけてドアまっしぐらに歩いて行った。
大きな音に驚いたお客さんたちが何事かというように私のことを凝視してくる。
荷物も置いたままカフェを出て行ってしまった岡本君を、私は目で追うだけだった。追いかけないと、と頭では思っていても咄嗟のことで体が動かなかった。
「お客様、お怪我はありませんか」
店員さんが倒された椅子を元の位置に戻しながら、私に声をかけてくれた。
「大丈夫です」
小さな声でそれだけ言うと、お会計だけ済ませて逃げるようにして店を出た。
どうして私はいつもこうなんだろう。
どんくさくて、かっこ悪い。肩にかけた荷物がいつもより遥かに重く感じる。
今日は岡本君の荷物も持っているのだから当然だけど。