「昨日教えてもらったところテストに出た!」

 テスト二日目を終えた私は今日も岡本君と共に図書室に来ていた。

「今回の出来はよさそう。岡本君のおかげだよ、ありがとう」

「俺じゃないよ。立川が真面目に勉強したからだ」

 お礼を言う私に岡本君は首を横に振った。

「でも、私一人じゃ分からなかったと思うから」

 岡本君は安心したような顔つきを見せるだけで、何も返してこなかった。

 テスト最終日の明日は古典と地学基礎と世界史だった。岡本君は理系だから、物理と現代社会と科学。

 それぞれ勉強するものが違うので、共通の話題が出にくい。昨日までに比べて口数は少なかった。

 黙々と単語を解いていく。
 
 苦手意識を持つほどの教科ではなかったので、特に行きづまることはなかった。

 日の光が細くなって、私が鞄から小型スタンドライトを取り出したころ、岡本君がシャーペンの手を止めた。

「もう四時か。いつもなら部活が始まるな」

 本棚の上のわずかな隙間から見える掛け時計を見てそう呟いた。

「なぁ、久しぶりに運動場見に行かねぇか?」

 岡本君が問題集にかじりついていた私にそう言った。

「いいね。そろそろ休憩したいところだった」

 私も手を止めた。

 夕日に赤く染めあげられた運動場は、どこか異国の砂漠を目の前にしているかのようだった。

「世界まで行かなくても絶景見れるじゃん」

 私が呟くと、隣の岡本君も

「そうだな」

と静かな声を落とした。

 誰もいない、広大な砂漠を前にして、たった二人で小さなベンチに身を寄せ合っている。

 今日の運動場を駆け抜けるのは、まだ少し肌寒い風だけ。耳に響くのも風の唸り声だけ。ただ、穏やかな時が流れている。

 運動場は見るたびに違う顔を見せてくれる。でも、どの運動場よりも今日の運動場は一番岡本君との距離が近い。

「岡本君」

「ん?」

「前にさ、陸上やめたいって言ってたよね」

「そんなこともあったな」

「私、ずっとここから岡本君のこと見てた」

「そうだったな」

「練習してる姿見て、岡本君が陸上のことものすごく好きだってわかった。ものすごく好きだから、苦しくなっちゃうんだね」

「……」

「好きなものでつまずくのは、嫌いなことがうまくいかないよりよっぽど辛いの」

 太陽の光が眩しい。

「でも、好きだから努力することはやめられない。でも、どれだけやってもうまくいかない。その繰り返しが苦しいって思っちゃうんだよね」

「……」

「本当はやめたくないって言うのが本音でしょ?」

 私の問いかけに岡本君が苦笑した。

「ああ、そうだな。俺は本当はやめるつもりなんてないんだ」

 彼の影法師がうなだれる。

「俺は陸上をやめたいんじゃない。今の俺の陸上から抜け出したいんだ」

 とても、穏やかな声だった。

「全く目標のタイムに届かなくて。でも、周りの人は俺のこと才能があるって期待してくれている。俺自身も期待している人も納得のいかない結果を出し続けることから逃げ出したいんだ。飯食ってても、勉強してても陸上のことが頭を締め付けてきて、息苦しい。俺、本当は陸上嫌いなんじゃないかって。陸上の神様に愛されてないんじゃないかって。不安になるんだ」

「それはね、それだけ陸上が好きだって証拠だよ」

 私は岡本君の手に、自分の手を重ねた。

「好きなことだから嫌いになれるんだよ。どうでもいいことだったら嫌になる前に投げ出してる。苦しいってことはそれだけ好きってことなんじゃないかな」

「俺、そんな風に考えたことがなかった」

 乾いた声で岡本君がそう言った。

「そうか、俺はここで走ることが好きなのか」

「うん、私が保証する。だから、いいんだよ。これからもここで走って。岡本君は十分陸上の神様に愛されてるんだから」

「立川」

「何?」

 私は全身を岡本君の方へ向けた。改まって呼びかけられたもんだから思わず体ごと反応してしまっていた。

「ありがとう」

 視線を向けた時にぶつかった岡本君の目が、夕日をうけて瑞々しく光っていた。

「そっか、俺、好きなんだ」

 岡本君はひとりでに呟いた。

「そっか、よかった」

 岡本君はおもむろに立ちあがって、右足を前に出す。

 足の裏で地面を抱きしめるように、愛おしそうに一歩一歩を踏みしめていた。その歩みは徐々に速度を増していき、風の中に消えた。

 私の網膜にいつもの運動場が蘇る。

 叫ぶ声。泥の音。打撃音。

 全ての音が私の中で再生される。

 叫んでいるサッカー部員がいないことも、泥をはねる音や金属で打つ音を響かせる野球部員がいないことも関係ない。

 私にとって運動場の主役は、青色のコースを颯爽と走るたった一人の陸上部員だから。

 彼がいれば、そこは紛れもなく私が大好きな風景だ。